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「借金600万円でゼロから農業」カンボジアで"世界一の胡椒"を作る日本人のあり得ない半生

プレジデントオンライン / 2021年5月2日 11時15分

胡椒農園のスタッフと倉田さん。 - 写真提供=クラタペッパー

カンボジアに「世界一おいしい」と称される胡椒を作る日本人がいる。倉田浩伸さんは内戦で絶滅寸前だった“赤いダイヤ”と呼ばれる胡椒を復活させ、29年にわたってカンボジアの農業を支えてきた。フリーライターの川内イオさんが取材した――。

■秋篠宮殿下の言葉

その日、倉田浩伸(ひろのぶ)さんは、胸の高鳴りが抑えきれなかった。

2001年6月21日、秋篠宮夫妻が皇族として初めてカンボジアを訪問。首都プノンペンにある日本大使館で、御接見会が催された。

カンボジアには、かつて「世界一おいしい」と評価された特産品の胡椒(こしょう)があった。倉田さんは、内戦で生産が途絶えたこの胡椒に目を付け、胡椒を復活させるために奔走してきた。その活動が認められて、パーティーへ招かれたのだ。

胡椒
写真提供=クラタペッパー
胡椒は完熟すると赤みを帯び、“赤いダイヤ”として高値で取引される。 - 写真提供=クラタペッパー

当日の会場には70人ほどいて、パーティーが始まる前、秋篠宮夫妻の侍従長が参加者ひとり、ひとりから、カンボジアでなにをしているのかを聞き取った。その際、カンボジアの胡椒の話をしたら、侍従長から「殿下は農業に関心があります。ぜひ紹介させてください」と言われた。秋篠宮夫妻と言葉を交わせるのは、侍従長が指定した数人のみ。図らずも、そのひとりに選ばれて、緊張していたのである。

パーティーが始まり、自分の番になると、倉田さんは秋篠宮夫妻に「カンボジアの世界一の胡椒を復活させたいんです」と伝えた。秋篠宮殿下は、「そんなにいい胡椒があるなら、ぜひお土産で買って帰りたいですね」とほほ笑んだ。

そのことを領事に相談すると、「殿下のお土産はいろいろな人が検討して、検品したものしか渡せない」と言われた。ところが翌朝、寝ている時に携帯が鳴った。領事からだった。

「殿下が、胡椒が届かないと仰ってる!」

倉田さんは、慌てた。それまでは胡椒をまとめて日本に輸出していたので、お土産として渡すようなパッケージがなかったのだ。手元にあった胡椒をスーパーの袋に入れてそれらしくラッピングし、殿下が宿泊していたホテルに駆け込んだ。

それから数カ月後、大使館からFAXが届いた。そこには、「とてもおいしかったです、またいただきたいです」という言葉とともに、秋篠宮殿下の署名があった。そのFAXを目にした瞬間、倉田さんの脳裏に電撃が走った。

「そうか、お土産か! 胡椒を輸出するんじゃなくて、お土産として売ってみよう!」

■兄の死、いじめ……生きる意味を探した少年時代

1969年、三重県津市で生まれた倉田さんには、絶対に忘れられない日がある。

倉田浩伸さん
筆者撮影
愛知県岩倉市のオフィスで倉田さんに話を聞いた。 - 筆者撮影

1984年10月26日。

その2日前の24日が、15歳の誕生日だった。しかし、両親も、4つ離れた兄もそれをすっかり忘れて、なんのお祝いもされないまま誕生日が過ぎた。翌日も家族の様子は変わらず、怒った倉田さんは、夕食の時間に尋ねた。

「昨日、なんの日だったと思う?」

両親は慌てたが、兄は茶化した。兄の19歳の誕生日はちょうど1カ月前で、両親からバイクをもらい、みんなでお祝いをしていた。

「兄貴はみんなに祝ってもらったのに、俺の誕生日は忘れんのかよ!」

倉田少年と兄は取っ組み合いのケンカをした。そのまま仲直りもせず、迎えた10月26日の朝。その日、郵便局員をしていた父親は名古屋に出張、看護師の母親は慰安旅行でともに早く家を出ていて、兄も既にいなかった。その日は中間試験の初日で学校が早く終わり、帰宅すると家の電話が鳴っていた。出ると、警察だった。

「お兄さんがバイクの事故で亡くなった。事故現場の青山高原に行けますか?」

へ? 青山高原は倉田さんの自宅から車で2時間ほどかかる。気が動転したまま「両親は不在で、自転車しかありません」と言うと、「誰か親せきの人で車を出せる人いない?」と聞かれて、「当たってみます」と答えた。

それから親せきの車で事故現場へ急行。そこには、兄の遺体が横たわっていた。そこでどういうやり取りがあったのかわからない。なぜか、その場で遺体を引き取ることになり、後部座席に兄を横たえ、倉田さんが寄り添って帰宅した。

倉田さんは小学生の頃、激しいいじめにあっていた時期がある。あまりに理不尽な暴力に、「命がもたんかも」と思ったこともあるという。さらにあり得ない形で兄の死に直面したことで、「人はなんのために生きるのか」という疑問が頭から離れなくなった。

なぜ、こういう事態が起きたのか、後になって両親が警察や消防署に問い合わせたが、曖昧な返答しかもらえず、うやむやのままだった。

■内戦から間もないカンボジアへ

生と死の意味について深く思いを馳せるようになった倉田少年の人生を変えたのは、1本の映画だった。高校1年生の夏休みに観た『キリング・フィールド』。カンボジア内戦下、ポル・ポト率いるクメール・ルージュが行ったとされる暴挙、虐殺を描いた、実話に基づいた映画である。

カンボジア
写真提供=クラタペッパー
倉田さんが撮影したカンボジアの遺跡。 - 写真提供=クラタペッパー

どうしてこんな悲惨なことが起きるのかという疑問から、カンボジアの歴史や文化を研究し始めた。高校時代の自分を、倉田さんは「カンボジアおたく」と評する。

1浪して1989年、亜細亜大学の経済学部経済学科に入学した倉田さんは、大学2年生の時、アメリカで5カ月間、語学留学した。その最中の1991年1月、湾岸戦争が勃発。その時、アメリカ人の学生にこう言われた。

「日本は金だけ出してていいよな」

この一言で、頭に血が上った。

「君らは(戦地に)行かなくても、おれは絶対人的貢献しに行ってやる!」

翌月、留学を終えて帰国。奇遇にもその年の10月、フランスのパリで和平協定が結ばれたことで、およそ20年続いていたカンボジア内戦が終わり、復興に向けて世界が一気に動き始めた。倉田さんは非政府組織(NGO)のボランティアになり、1992年8月、終戦間もないカンボジアに向かった。

■「彼らの力になりたい」

カンボジアでは、避難民を故郷に帰還させるプロジェクトで働いた。そこで、つらい目に遭ってきたはずの子どもや若者たちの笑顔やたくましく前向きな姿勢に感嘆。「これから自分たちで国を作っていく彼らの力になりたい」と思い、志願して現地滞在を1カ月延長した。さらに、いったん帰国した後、12月に自費で再訪。翌年の2月まで難民の支援を手伝った。

カンボジア
カンボジアの市場の様子。(写真提供=クラタペッパー)

その間、縁あって、カンボジアと日本の貿易代行業を手掛ける企業から内定を得た。ところが、社長が「現地でなにか起きても会社に責任を問わない」と一筆書くよう倉田さんの両親に求めると、両親はそれを拒否。就職も破談になった。

「両親は、僕がカンボジアに行くことに最初からずっと反対していたんです。つい最近まで内戦していたような国ではなにが起こるかわからないと。兄が亡くなり、子どもが私ひとりになったので、心配だったんでしょう」

両親の不安は、的外れではなかった。同年4月、ボランティアとして国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に派遣され、選挙監視員を務めていた中田厚仁さんが射殺されている。この事件は現地にいる日本人に衝撃と恐怖を与えたが、倉田さんの熱が冷めることはなかった。

■無償で学校に行ける環境を作るために

就職先を失った倉田さんに手を差し伸べたのは、最初にカンボジアに行く機会を与えてくれたNGOだった。大学卒業後はそこの事務局員となり、カンボジアでの学校建設プロジェクトに携わることになった。しかし、1年で退職した。カンボジアの現実を思い知ったからだ。

20年以上続いた内戦からの再建が始まったばかりの国では、国民が税を納める仕組みも、国が税を配分する仕組みも整備されていない。それでは、教師に給料が払えない。学校は、教師の給料を支払うために有料化されていた。

「無償で学校に行ける環境を作るためには、大人の所得が上がって、税金が納められるようになって、経済的自立をしないといけない」

そう思った倉田さんは1994年、プノンペンに事務所を設立。カンボジアでビジネスをするなら農業だと考えて、ひとり動き始めた。

「ポル・ポトがソルボンヌ大学時代に書いた論文には、水も土地も豊かで食べるに困らない国だと書かれています。それに、産業は時の流れで変化しますが、農業は人間が生きていく限り絶対になくならないので」

農業
写真提供=クラタペッパー
農園のスタッフ。みずみずしい葉を茂らせているのが胡椒。 - 写真提供=クラタペッパー

■ドリアンとココナッツ

農業の素人だった倉田さんは、なにがビジネスになるのかを調べようとした。ところが、カンボジアの農産物の資料は戦禍で焼けて残っていなかった。次に日本の検疫情報を見たら、カンボジアの多くの作物の輸入が禁止されていた。そのなかで、検疫に引っかからないもののひとつが、独特の匂い知られるドリアンだった。

産地を訪ねて、その日の朝に採れたドリアンを食べた瞬間、目を見開いた。フレッシュなものは特有の匂いがしないうえに、その果肉は爽やかな甘みのカスタードクリームのよう。これは商売になる! と鼻息荒く築地の仲卸で働いている友人に連絡すると、30個を送ってほしいと言う。

倉田さんは採れたばかりの新鮮なドリアンを仕入れ、日本に空輸した。すると、すぐに完売。友人からは100個の追加注文が届いた。よし! 前のめりになった倉田さんは急いで100個のドリアンをかき集め、プノンペン空港に持っていった。その窓口で、ガックリとうなだれた。

実は、ドリアンの発酵するスピードが想像以上に速く、最初の輸出の際、プノンペンの空港に着いた時点でかなりの臭いを放っていた。とはいえ、「臭いから輸出できない」という規定もないので、特に問題なく手続きできた。それが機内で強烈な匂いを放ったらしく、この時は窓口で「なんの対処もしてないドリアンの積載は禁止」と通達されたのだ。100個のドリアンは輸出されることなく、倉田さんの財布からなけなしの資金が飛んでいった。

■大伯父から託された古い資料

次に目をつけたのは、ココナッツ。これも日本の検疫上は問題なかった。ドリアンの時は荷物を預けて失敗したので、今度は手荷物にして自分で運ぶことにした。日本について、倉田さんは脱力した。気圧の変化に耐え切れず、ココナッツがスーツケースの中で破裂。リゾート地でよくジュースとして売られている甘い液体が、スーツケースからじわーっと滲みだしていた。

早くも行き詰まった倉田さんに希望の光をもたらしたのは、母方の大伯父だった。日本とカンボジアは1959年、「日本・カンボジア経済技術協力協定」を締結。翌年から、無償援助の一環として農業技術などが伝えられた。内戦が始まる前の1960年代、大叔父は農業指導などの計画に携わり、現地に赴任していたのだ。

息子がカンボジアに滞在することを望んでいなかった母親は、そのことを倉田さんに教えていなかったが、体調を崩し、三重県の自宅で療養していた大叔父から「(倉田さんに)どうしても会いたい」と言われて、断れなかったのだろう。ココナッツで失敗したばかりの倉田さんに、「あなたに会いたいという親せきがいる」と伝えた。

倉田さんは、すぐに大伯父を見舞った。その時、古い資料を託された。それは、表紙にフランス語で「国立統計局・経済研究所」と書かれた内戦前の資料だった。大伯父は、「かつて、カンボジアには世界一と評されたクオリティの高い胡椒があった」という話をしてくれた。カンボジアで胡椒? 初耳だった倉田さんは、「そんな話は聞いたことがないけど、調べてみます」と約束した。

資料
筆者撮影
大伯父から託された貴重な資料。今は倉田さんの手元にある。 - 筆者撮影

■内戦を生き抜いた老人と「世界一の胡椒」

カンボジアに戻ると、資料に記された最大の生産地、南部のカンポット州に足を運んだ。そこには確かに胡椒を作っている農家が3、4軒あったものの、胡椒の木がいかにも貧弱で、頼りない。声をかけると、「以前は胡椒の産地だったけど、内戦中にほぼ壊滅したから、苗は隣りのコッコン州の農家から買っている」と言われた。

それならと、舗装されていない凸凹の道を車で走りながら、コッコン州へ。カンポット州の農家から聞いた場所に着くと、家庭菜園ほどの広さの農園があり、立派でみずみずしい胡椒の木が立ち並んでいた。そこにいた高齢のおじいさんが、内戦下で胡椒を守ってきた人だった。

農園
写真提供=クラタペッパー
胡椒栽培の様子。 - 写真提供=クラタペッパー

「昔からここで胡椒の栽培をしていたけど、ポル・ポト時代に3年半、収容所に入れられた。その間、誰も手入れすることが許されなかった。収容所から出てきたら、放置された畑で3本だけ生き残っていたんだ。それを少しずつ挿し木して、300本まで増やした。昔はこのあたり一帯で胡椒を作っていたけど、今はここしかない」

老人に案内されて薄暗い倉庫に入ると、窓から光が差し込み、梅干しを漬けるようなガラス瓶に入った胡椒がピカピカと光り輝いて見えた。あれはなに? と聞いたら、「あれは特別な胡椒で、自分たちで食べるから売らない」と言う。「少しだけ見せて」と頼み、ガラス瓶を開けると、なんとも甘酸っぱい匂いが鼻孔に広がった。

「え、なんで胡椒の匂いが甘いの!?」

「これは真っ赤に熟した赤い実だけを一粒ずつ手で収穫した特別な胡椒で、うまいんだ」

胡椒
赤く熟した胡椒は一粒一粒スタッフが選別する。(写真提供=クラタペッパー)

老人は自慢げにほほ笑んだ。数粒、食べさせてもらうと、辛味のなかにも甘味があり、最初に浮かんだ言葉は「おいしい!」。

ガラス瓶のなかの胡椒が光って見えた理由もわかった。完熟させた胡椒は、果肉にある糖分が表に滲み出る。それが光に反射するのだ。

宝物を探し当てたような気がした倉田さんは、興奮状態で老人にオファーをした。

「一緒にこれを作ろう!」

1995年6月のことだった。

胡椒
写真提供=クラタペッパー
たわわに実った胡椒の実。 - 写真提供=クラタペッパー

■「お前は悪の商人だ」

それから2年間、倉田さんの苦悩は絶えなかった。老人と、ほかに少量の栽培をしていた近隣の農家に話をして、完熟の胡椒と普通の胡椒を仕入れることにしたのだが、胡椒を入れた布袋のなかに石ころ、貝殻、木の枝が紛れ込んでいることは、日常茶飯事。1キロいくらで買い付けるという契約のため、農家の人たちがあの手この手で袋を重くしようとしていた。

倉田浩伸さん
胡椒の木をバックに写る倉田さん。(写真提供=クラタペッパー)

これでは信頼関係が築けない。1997年、倉田さんは老人の息子に「自分も収穫にかかわる」と話をつけ、胡椒の木を買い付けて、1ヘクタールの自社農園を手に入れた。この時、日本で起業した際に国民金融公庫から借りた600万円を「ドーン」と投じ、有機無農薬栽培を始めた。

農園のオーナーになって新たな一歩を踏み出したが、資金的には一気に余裕がなくなった。実は、それまでに仕入れた胡椒も、日本で売れ残っていた。素人が高級胡椒を売ろうとしても、販路をうまく開拓できなかったのである。

このままだと食っていけないと思い始めたのは、日本の中古医療機器の輸入販売。こちらは、最初にコンテナ1台で仕入れた分がすぐに売れた。手ごたえを感じ、2回目の仕入れをした頃、日本からカンボジアに遊びに来ていた医者の友人に、「医療機器がよく売れるんだ」と自慢げに話したら、「お前は悪の商人だ」と罵られた。

「カンボジアには保険がない。医者は投資を回収するために、患者に高く請求する。お前が高く売った分、医療費が上がるんだ。子どもを学校に行かせられない親の収入を上げると言っているのに、真逆のことをやってるじゃないか」

働いて収入を得るには、健康が大前提だろう。しかしこの時、倉田さんは「それもそうだよな」と納得して、医療機器の輸入販売をあっさりと止めてしまう。

■給料を払えず社員が蒸発……

それから、日本企業や旅行者を相手にするコーディネーターの仕事に切り替えた。収入が激減し、借金の返済だけで精いっぱい。胡椒を仕入れて輸出する余力も資金もなかった。1999年から2000年にかけての時期だ。

カンボジア
カンボジアの市街地の様子。(写真提供=クラタペッパー)

倉田さんによると、胡椒は十数年に1度、価格が急騰する。ちょうどこの時期がそれに当たり、農家の人たちは上機嫌だった。

「お前に売ってもらわなくても大丈夫、畑は任せろと言われて。本当はその売れたお金で借金を返したいんだけどなって思いました」

一方、医療機器の販売をするために雇った3人の社員は、給料の支払いが遅れると、間もなく、車やパソコン、自転車とともに姿を消した。

「しゃあないなって思っていました。給料が払えない自分が悪いんです」

2000年、3人の社員が蒸発して、ある意味、身軽になった倉田さんは、胡椒の事業を諦め、どこかに就職しようかと考えた。ここで逃げ出さなかったのは、「悪の商人」と倉田さんを罵った医者の友人から叱咤されたからだ。

「高校の時からカンボジアばっかり勉強してたカンボジアバカから、カンボジアをとったらただのバカだろ。30も超えたバカが日本に帰ってきても仕事なんかねえよ。どうせバカになるなら、大バカになればいいじゃん。カンボジアに住んでる日本人のなかで、カンボジアのことを一番よく知ってる日本人になったらいいじゃん」

そう言われて、倉田さんはハッとした。

「日本に帰って単なるバカになるか、カンボジアに残って大バカになるか。大バカのほうが面白そうだな。先が見えてるわけじゃないけど、面白いと思ったほうに進んでいこう」

■幸運の女神、現る

カンボジアに残る決断をしてから数カ月後の2001年6月、運命の日が訪れる。冒頭に記したように、秋篠宮夫妻がカンボジアを訪問。歓迎パーティーで言葉を交わした秋篠宮殿下にお土産として胡椒を届け、礼状をもらったことで、「胡椒をお土産として売ってみよう!」と閃いた。

倉田浩伸さん
倉田さん(右)と妻の由紀さん。(写真提供=クラタペッパー)

手始めに、倉田さんは日本人旅行者のガイドをしながら「お土産に胡椒はいかがですか?」と営業を始めた。ところが、まったく売れない。みな、「え、なんでカンボジアで胡椒?」とピンとこない様子だった。

お土産もダメか……と絶望しかけた2002年に出会ったのが、由紀さん。日本のボランティア団体のツアーガイドをした時の、参加者のひとりだった。由紀さんは、幸運の女神だった。

ふたりは意気投合し、翌年に結婚。カンボジアに移住した由紀さんは、プノンペンにあるJICA(国際協力機構)の事務所でアルバイトを始めた。由紀さんの給料で生活が安定したこともあり、ふたりは思い切ってプノンペンに胡椒専門店を開いた。

■「KURATA PEPPER(クラタペッパー)」の誕生

この時、それまで特に名前のなかった胡椒に、由紀さんが「KURATA PEPPER(クラタペッパー)」と命名。同じタイミングで、胡椒のパッケージ、お店の看板やロゴ、すべてを由紀さんが描いたものに統一した。由紀さんは専門の勉強をしたことはないというが、その絵やデザインはかわいらしく、インパクトがある。

胡椒
筆者撮影
由紀さんが描いた胡椒の実をロゴに。 - 筆者撮影

さらに、売り方も変えた。由紀さんのアイデアで、現地の人が買い物をする時に使っている、植物で編まれたかごに胡椒のパッケージを入れることにした。普通の編みかごでは大きいので、小さなサイズのものをわざわざオーダーした。

すると突然、お土産として胡椒が飛ぶように売れ始めた。これには倉田さんも仰天した。

「お店にこの編みかごがぶら下がっていると、カンボジアっぽくてかわいい!ってまったく反応が違う。当時はひとつ4ドルで売ってたんだけど、10個くださいとか。その編みかごのなかに、おまけみたいな感じで胡椒が入ってるんです」

カバン
筆者撮影
胡椒を販売するためにオーダーした編みかご。 - 筆者撮影

由紀さんは、朗らかに笑う。

「最初の頃、なかなかいい編みかごができなくて、何度も作り直してもらったんです。倉田から『俺はカバンを売ってるんじゃない!』と言われたこともありました。でも、この編みかご、すごくかわいいですよね?」

■胡椒の復興プロジェクトが始動

生まれ変わった「クラタペッパー」は、日本人だけでなく、外国人旅行者も惹きつけた。

農園
写真提供=クラタペッパー
お土産用の胡椒が売れるにつれて、農園の社員も少しずつ増えていった。 - 写真提供=クラタペッパー

やがて、「おまけ」扱いだった胡椒にも注目が集まり始めた。たまたまカンボジアにスパイスを探しに来ていたドイツ国際協力公社(GIZ)の職員がクラタペッパーに目を留め、「いいプロジェクトだから、ヨーロッパの食品物産展にポスターを1年間掲示してあげよう」と言われた。

すると、欧州の展示会でそのポスターを見たBBC(イギリスの公共放送)から取材のオファー。超有名シェフ、ジェイミー・オリヴァーがクラタペッパーの胡椒農園を訪ねて料理をする番組が放送された。店の近所に住むデンマーク人は「この胡椒はおいしい!」と絶賛。「デンマークのスパイスメーカーを紹介してあげるよ」と言われ、実際に取引が始まった。フランスやドイツの物産展にも招聘された。

「妻のパッケージに変えてから、どんどんいいオファーが来るようになりました。いいモノさえ作っていたらいつか売れると思っていたけど、売り方ってやっぱり大事だなと痛感しましたね」

こうして上り調子になった時に、想定外のことが起きた。ある時、大勢のフランス人が倉田さんを訪ねてきて、「自分たちも胡椒を作りたい、方法を教えてほしい」と頼み込んできた。

1880年代から1940年までカンボジアを植民地化し、「カンポット・ペッパー」というブランド名で最高級の胡椒としてヨーロッパに広めたのがフランスである。倉田さんが大伯父からもらった資料にあったように「カンポット」はかつて最大の胡椒産地だった州で、「松坂牛」「夕張メロン」のように、地名がブランド名になっていた。

「カンボジアのためになるなら」と倉田さんが同意すると、フランス政府の組織、フランス開発庁も出てきて、大掛かりな胡椒復興プロジェクトがスタート。倉田さんはノウハウを惜しみなく提供し、有機・無農薬栽培などカンポット・ペッパー認定のガイドラインの作成にも携わった。

このガイドラインを遵守した農園だけが、カンポット・ペッパーのブランドを名乗ることが許される。それが付加価値となり、その他の胡椒よりも数倍の価格で販売できるようになるわけだ。

■理不尽な仕打ち

カンポット・ペッパーは2010年、世界貿易機関(WTO)から、産地名を地域ブランドとして独占的に利用できる地理的表示(GI)の認定を受けた。かつて欧州を席巻した最高級の胡椒ブランドが、復活を遂げた瞬間だった。

その裏側で、倉田さんは呆然としていた。カンポット・ペッパーは、隣接するケップ州でも作られている。「カンポット州だけではない」というのが重要なポイントだ。

倉田さんは、クラタペッパーが拠点を置くコッコン州の胡椒も、認証を受けられると考えていた。ケップ州もコッコン州もカンポット州の隣りにあるし、なにより、倉田さんの尽力なくして復活はあり得なかったから。

ところが、カンポット・ペッパーの関係者は、WTOに申請する際、書類に一言加えていた。

「except Koh Kong Province(コッコン州を除く)」

この文言によって、コッコン州産の胡椒はガイドラインに従ったとしてもカンポット・ペッパーというブランドを使用できなくなった。もちろん、倉田さんはそのことを知らず、寝耳に水だった。なぜ、こんな仕打ちを受けるのか。前述のように、クラタペッパーは2003年頃から急速に市場を拡大し、欧州にも進出していた。その市場を奪うためと予想される。

もちろん、倉田さんは抗議したが、「コッコン州は遠いから」という説明しかされなかったという。当時は納得できず、憤りを覚えたが、現在はこの理不尽な事件も受け入れている。

「それまで私が輸出していたフランスの取引先は、ぜんぶ彼らにとって代わられました。でも、カンボジア全体としてみれば胡椒の生産量が増えたし、悪いことではありません。みんなで競争しないと産業にはなりませんから。それに、胡椒のクオリティでは負けません。例えば、手摘みの完熟胡椒を扱っているのはクラタペッパーだけです。だから、GIではなく、胡椒自体のクオリティでうちの商品を選んでくれる方も多いです」

■四半世紀に及ぶ奮闘

この言葉は、胡椒への自信の表れでもある。由紀さんとの間にふたりの子どもが生まれ、子育てのために由紀さんは2012年に帰国した。

日本で営業と販売を担うようになった由紀さんは、持ち前のバイタリティで次々と販路を開拓。2013年にオンラインショップを始めて個人でも買えるようにした結果、売り上げの割合は現地で販売するお土産の胡椒と日本で五分五分になった。今では、ミシュラン掲載のフレンチレストランなどでもクラタペッパーが使用されている。

胡椒
写真提供=クラタペッパー
クラタペッパーでは、完熟した赤い実だけをスタッフが選別して「完熟胡椒」として販売している。 - 写真提供=クラタペッパー

1997年に1ヘクタールから始めた自社農園は、4ヘクタールに。近隣の農家も胡椒の栽培を始め、自社分と合わせて年間6トン仕入れられるようになった。売り上げが伸びるとともに社員も増え、多い時には26名の社員を抱えた。

農業の「の」の字も知らなかった男の四半世紀に及ぶ奮闘が、ようやく報われた……と思った時に、新型コロナウイルスのパンデミックが起きた。カンボジアの観光客が絶え、日本の飲食店は営業自粛、時短要請。これは、クラタペッパーにとっても大打撃だった。

■カンボジアで見つけた生きる意味

しかし、カンボジアの荒波に揉まれてきた倉田さんは、タフなボクサー並みに打たれ強い。「今年は本気で厳しいですね」と言いながらも、苦笑を浮かべた。

「今までの道のりを振り返れば、たいしたことありません。何回も心が折れてるからね。ほんと、ぽきぽきと。それでも、なんだかんだで乗り越えてきてるし、笑い話みたいなもんだから」

倉田浩伸さん
筆者撮影
カンボジアでの稀有な人生を振り返る倉田さん。インタビューは5時間に及んだ。 - 筆者撮影

振り返ってみれば、大学4年生の時にカンボジアに足を踏み入れてから、狙い通りにうまくいったことなど、なにもなかった。どんなに追い詰められても「産業を作り、所得を上げることが本当の復興だ」と信じて、現地に踏みとどまってきた。その目標は、まだ道半ばだ。

「人はなんのために生きるのか、という問いに対する答えは見えてきましたか?」と尋ねると、倉田さんは、遠いコッコン州の胡椒畑を思い浮かべるように、遠くを見ながらこう言った。

「そうですね。僕なりのやるべきことは見えました。クラタペッパーが僕ひとりで終わってしまっては意味がないから、次の世代を育成することがとても大事だと思います。世代を超えてつながって、はじめて産業になるから。次世代がちゃんと育って、その次の世代にも引き継げると思えたら、それで自分の使命は終わったと思えるかな。あと20~30年すれば結果が出てくるでしょう」

僕は思わず、あと20~30年!? と聞き直してしまった。初めてカンボジアに足を踏み入れた時から数えたら、もう29年経っているのだ。

カンボジアは今、国家戦略として胡椒の輸出に力を入れている。それはカンポットペッパーの存在も大きい。カンボジアで発行されている新聞『プノンペン・ポスト』によると、2020年には中国、アメリカ、フランスなど20カ国超に約70トンを輸出するまでに急成長しているのだ。

これも倉田さんなくしてあり得なかったことである。いずれ、その復興の歴史に倉田浩伸の名前が刻まれるだろう。

胡椒
筆者撮影
胡椒なのに甘味を持つ稀少な“赤いダイヤ”。 - 筆者撮影

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川内 イオ(かわうち・いお)
フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。

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(フリーライター 川内 イオ)

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