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「曹操は無双しません」ゲームから三国志に興味をもった人が勘違いしがちなこと

プレジデントオンライン / 2021年5月3日 8時45分

早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩さん(左)、中国ルポライターの安田峰俊さん(右) - 撮影=中央公論新社写真部

中国の歴史はふたつの世界にわかれている。ひとつは「儒教」を踏まえた知識人の世界、もうひとつは「侠(きょう)」(男気、義侠心)に生きる庶民の世界だ。三国志研究の大家(たいか)で、今年2月に『『論語』 孔子の言葉はいかにつくられたか』(講談社選書メチエ)を刊行した中国古代史研究者の渡邉義浩氏は「三国志の魅力は、ふたつの世界が交わる希有な時代だった点にある」という。今年に入り『現代中国の秘密結社』(中公新書ラクレ)、『「低度」外国人材』(KADOKAWA)を立て続けに刊行した中国ルポライターの安田峰俊氏との対談をお届けする――。

■曹操・孫権・劉備はそれぞれ社会階層が異なっている

【安田】「侠」の意識は、いちど仲間と見込んだならば落ち目になってもお互いを見捨てず、ときに社会の法や国家権力の強制力よりも優先される濃厚な仲間意識。『現代中国の秘密結社』でも書きましたが、主に自分たちの仲間(「幇」)に対して向けられるマッチョな相互扶助の意識です。そのため、ときには秘密結社の結合原理になったり、さらには黒社会や反乱組織などの行為を肯定する論理として使われたりすることもあります。

安田峰俊『現代中国の秘密結社』(中公新書ラクレ)
安田峰俊『現代中国の秘密結社』(中公新書ラクレ)

【渡邉】タテの関係に組み込まれない、ヨコにしか繋がれない人たちの紐帯のよりどころが「侠」ですね。『史記』や『三国志』の時代から、現代中国の人間関係まで、「侠」のネットワークのありかたは本質的な部分では変わらないように思えます。

【安田】私は最近、在日ベトナム人不法滞在者や中国人の技能実習生の実態を取材した『「低度」外国人材』という本を書いたのですが、「侠」的な人間関係は、こうした移住民や貧民、アウトローたちとの親和性が高い。身分の高い人たちの意識ではなく、庶民の感情なのでしょう。

【渡邉】その通りです。たとえば(史実の)三国志でいえば、曹操・孫権・劉備の三者はそれぞれ社会階層が異なっているので、「侠」的な人間関係との関わりもまったく異なるんです。

■ドライな曹操、ウェットすぎる劉備

【渡邉】曹操の場合、やはり漢の太尉(防衛大臣に相当)の子ですから、臣下との人間関係のなかに「侠」的な気質はほとんど見られません。そもそも彼が個人的に信頼していた人物も、せいぜい郭嘉くらい。荀彧などについてはまったく信頼を置いていませんでした。

対談
撮影=中央公論新社写真部

【安田】確かに曹操には、部下と同じ目線で助け合うような仲間意識はなさそうですね。夏侯惇や曹仁のような武官との心情的な結びつきはありそうですが、彼らは義兄弟ではなく親戚そのものです。

【渡邉】ええ。いっぽうで孫権の場合、孫家はもともと弱小豪族ですから、黄蓋や甘寧・凌統などの土着の武将との間には「侠」に近い関係が生まれる余地がありました。ただ、周瑜や魯粛のように、ある程度の社会階層の人間、学問ある知識人とは「侠」ではつながれません。

【安田】そうした曹操や孫権に対して、劉備と関羽・張飛の関係は「侠」の人間関係の典型として広く知られています。三人が義兄弟の契りを結んだ「桃園の誓い」は、小説『三国志演義』などの創作ですが、史実でもそれに近い親しさがありました。劉備の周囲には他にも「侠」的な人間関係があふれています。

【渡邉】劉備は庶民的なのです。関羽や張飛に加えて、初期からの付き合いである趙雲や糜竺も「侠」的な濃い関係。また部下ではありませんが、劉備と公孫瓚の関係もこれに近いですね。公孫瓚は豪族の出身ではあるものの、正妻の子ではないため社会的地位は高くなく、アウトロー的な人間関係が生まれる余地があった。

■コーエー『三國志』と史実の違い

【安田】ただ、たとえ劉備陣営でも泥臭い人間関係を結んでいない場合もあるようです。蜀の武将である関羽・張飛・趙雲・黄忠・馬超は、通俗的には「五虎大将軍」と呼ばれますが、先の三人と、あとの二人は大きく異なります。たとえば劉備政権下の馬超は、ただの客将です。

中国ルポライターの安田峰俊さん
撮影=中央公論新社写真部
中国ルポライターの安田峰俊さん - 撮影=中央公論新社写真部

【渡邉】漢王朝における位は、劉備が左将軍で、馬超は自称とはいえもっと偉い征西将軍です。すくなくとも馬超の主観では、本来は劉備と同格以上の存在だと思っていたでしょう。

【安田】経営不振で他社に買収された企業の元社長みたいな位置づけですね。

【渡邉】いっぽう、黄忠の場合は逆。本来は関羽・張飛と比べて格下の存在ですが、彼には定軍山の戦いで漢中を得た軍功があるんです。漢中は漢の国名のもとになった土地なので、劉備にとって政治的に重要。しかも、劉備軍が曹操軍に勝ったのは、史実では定軍山の一回だけですから。

【安田】馬超も黄忠も、主君である劉備と「侠」的な人間関係はなかった。というより、本来ならそれが当たり前で、国家の主である劉備と関羽・張飛たちとの関係のほうが異色です。コーエーのゲーム『三國志13』ですと、ゲームの仕様上、他のキャラクターとの親近感を上げていけば「莫逆の友」「義兄弟」になる、絆が強調される仕様ですが(笑)。

【渡邉】私、ゲームの分野にはあまり関わらないのです。歴史に興味を持ってくれる若い人の間口を広げる効果の大きさは理解しているのですが、研究者としてはタッチしづらい。ともかく、曹操や荀彧、周瑜、諸葛亮(孔明)あたりの知識人(名士)たちは、「侠」の世界には生きていませんから、義兄弟の契りを結んだりは、あまりしません。

■「暴れん坊将軍」を嫌う中国

【安田】史実とゲームの違いといえば、三国志の人物は、たとえば曹操や周瑜は戦場の前線には出ませんね。日本でいう「暴れん坊将軍」のような人はあまりいない。

渡邉義浩『『論語』 孔子の言葉はいかにつくられたか』(講談社選書メチエ)
渡邉義浩『『論語』 孔子の言葉はいかにつくられたか』(講談社選書メチエ)

【渡邉】文明の周縁たる日本の場合、刀を持つ武士が社会的な階層の上に立つ。武力と土地が権力の基盤ですね。ヨーロッパでも似たところがあります。ただ、中国は「文」化の国ですから、君主は武の頂点ではなく文の頂点でなくてはならない。たとえば曹操の「武」とは、個人的に刀を振るうことではなく、『孫子』に注をつけることです。

【安田】中国共産党の総書記も、中央軍事委員会主席を兼任する「武」のトップでもありますが、演説で古典を引用したり揮毫をやったり「文」の顔を強く前面に出しています。国民党の蔣介石も、軍人でしたが文化的な顔を表に出していました。通じる面がありそうです。

【渡邉】詩を賦し、政策を論じ、志を語る。それが中国の君主に求められる振る舞いである点は、蔣介石であれ毛沢東や習近平であれ変わらないと思います。

■曹操は「無双」しない

【安田】本来は「侠」の人である劉備も、君主になると「文」が求められたのでしょうか。

書籍
撮影=中央公論新社写真部

【渡邉】劉備はがんばったと思います。たとえば彼にとって義弟同然の関羽の字(あざな)は「雲長」ですが、もとは「長生」でした。名前と字は本来、諸葛「亮」(あきらか)と「孔明」(たいへん明らか)のように似た意味である必要がある。関羽の場合、「雲長」は羽と雲だから合いますが、「長生」では名前と字に何の関係もない。つまり、そのくらいの文化資本しかない社会階層の出身だったとみられます。後年、関羽が『春秋左氏伝』を読み、知識人層にライバル心をむき出しにするのは、コンプレックスゆえのことです。

【安田】なるほど。もとの字の「長生」ではただの「長生き希望」で、「関羽」という本名と何の関わりもありません。庶民層の出身だったというのは納得がいきます。

【渡邉】劉備は若いころ、あまり熱心ではないのですが学者の盧植のもとで学んだことがあり、盧植の兄弟弟子には鄭玄という大学者がいた。そこで劉備は諸葛亮に「鄭玄先生はこう言っていたよ」みたいなことを話して、一定の尊敬を得ています。劉備は劉禅への遺言で『漢書』と『韓非子』を読めとも伝えている。上に立つ者としての「文」を示す努力はしているわけです。孫権も息子に『漢書』を学ばせていますしね。

【安田】三国志の君主は本質的に「文」である。つまり、曹操や孫権や劉備が戦場で無双したりはしないのですね。

【渡邉】はい。無双しません。諸葛亮の扇子からビームが出たりもしません。

■「意識高い系」の諸葛亮はドライに働く

【安田】諸葛亮をはじめ、荀彧や周瑜らの名士層の人たちは、現代社会に置き換えれば、いわば意識の高いホワイトカラー層です。キャリアアップのため比較的簡単に他社に移りますし、ときには同じ社内の現業労働者よりも、ライバル社のホワイトカラーのほうが話が合うので仲良くできるという。

安田峰俊『「低度」外国人材』(KADOKAWA)
安田峰俊『「低度」外国人材』(KADOKAWA)

【渡邉】そうですね。後漢末~三国時代の名士層とは、自分はいかに生きるか、なぜこの政権に仕えるか、といった自分の行動や判断の正統性を、儒教の経典を的確に引用しつつ、言語で表現できる人たちです。知識人たちは共通言語としての経典があり、孔子が作った儒教が示す理想の社会を共同幻想として持っている。

【安田】「侠」は庶民の共通言語で、儒教はエリートの共通言語ですね。劉備の政権はコアの部分に、庶民的な「侠」の人間関係がありましたが、エリートの諸葛亮はこれとどう付き合っていたのでしょうか。

【渡邉】諸葛亮は、劉備陣営の「侠」の人間関係に入れてもらえていません。彼は後から入ってきた大番頭で、劉備との関係もかなり打算的な関係ではなかったかと思います。諸葛亮が好きな人からは怒られそうですが、史料を読む限りはそう見える。

【安田】横山光輝の『三国志』では、諸葛亮はすぐ「わが君!」とさめざめと泣きますが、実際はそんなに湿っぽくなかった。有名な『出師表(すいしのひょう)』も、後世に他の知識人に読んでもらって褒められるための自己演出の匂いを感じなくもありません。

【渡邉】関羽・張飛が死んだあと、怒りに燃えた劉備が政治判断としては誤っている仇討ちのため呉に侵攻するのを、諸葛亮は止められないんです。『三国志演義』や、それをベースにした横山『三国志』では聞く耳くらいは持ってもらっていますが、実際は「侠」の仲間ではないので、聞く耳も持たれなかったとみられる。当時、劉備の行動に苦言を呈することができたのは、「侠」の人間関係の内部にいる趙雲だけでした。

■諸葛亮の権力基盤はどこにあったのか

【安田】しかし、諸葛亮は劉備の死後に軍権まで握って、蜀を切り回します。一人の中国の政治家として諸葛亮を見た場合、彼の権力基盤はどこにあったのでしょうか。

早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩さん
撮影=中央公論新社写真部
早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩さん - 撮影=中央公論新社写真部

【渡邉】名士層です。当初、諸葛亮がスカウトしてきたのは、馬謖をはじめとした荊州(現在の湖北省・湖南省)出身者ばかりで、劉備からは嫌がられるわけですが。

【安田】知識人で、さらに地縁や学閥が近い人を連れてくるわけですね。

【渡邉】いや、それだけでは人が足りません。諸葛亮のえらいところは、劉備政権の征服地である益州(現在の四川省)の学者も、政府にどんどん呼んで高い地位につけて、味方を増やしたことです。荊州閥と益州閥を組み合わせた名士社会こそ、諸葛亮の支持基盤でした。

【安田】当時の荊州と益州では言語も違うでしょうし、学閥も異なったでしょう。しかし、諸葛亮からすると、それでもインテリのほうが仲良くできると。

【渡邉】そういうことです。事実、諸葛亮が学んだ荊州学は、神秘主義を排した合理的な儒教。いっぽうで蜀に伝わって発展していた漢の儒教は、予言や神話を信じる古臭い学派(蜀学)。たとえば劉備の皇帝即位を言祝ぐ文章などは、蜀学の学者たちが一生懸命作っているとみられます。

■諸葛亮がいなければ邪馬台国はなかった?

【安田】正史の『三国志』「先主伝」を読むと、劉備の即位前に「漢水で皇帝の玉璽が見つかった」といった妙にオカルトな記述があるのですが、このあたりの神秘主義的な表現も蜀学の影響なのでしょう。

【渡邉】諸葛亮は、内心ではそういうものは「アホか」と思っていただろうと思うのですが、うやうやしく認めてみせる腹芸ができた。こういうことで、地縁と学閥が異なる知識人をまとめたんですよ。正史『三国志』の作者・陳寿の師匠である譙周も、諸葛亮による益州閥からの抜擢組です。陳寿ももちろん蜀学の影響のなかにある人ですから、漢水の玉璽のような話を書く。

【安田】仮に諸葛亮が益州の名士層を受け入れていなければ、陳寿は蜀の体制に好意的な感情を持たなかったと思いますから、現在のような形では『三国志』が書かれていないか、そもそも執筆されていない可能性があります。とすると、たとえば魏書の「東夷伝」(いわゆる「魏志倭人伝」)は存在せず、邪馬台国の描写も違っていたかもしれず……。意外な理由で日本の古代史にすら影響が出ていたことでしょう。

【渡邉】そうですね。そもそも、陳寿は『三国志』を歴史書として書いていないと思います。

【安田】どういうことでしょうか?

【渡邉】陳寿が書きたかったのは、蜀に伝わるふたつの予言が成就する過程。すなわち、劉備の即位を示す「益州に天子の気あり」と、魏による蜀(蜀漢)の征服を示す「漢を滅ぼす者は當塗高」という予言です。『三国志』の執筆の動機は、歴史を記すことで蜀学の正しさを明らかにすることだったと思われるのです。

■ホンハイとアリババは「蜀」だった

【安田】劉備と関羽・張飛らの部下たちが濃厚な情で結びついていた蜀漢政権の姿は、現代の中華圏の企業を考えるうえでも参考になります。たとえば、台湾に鴻海精密工業(ホンハイ)という巨大なメーカーがあり、中国にも多数の工場を展開しているのですが、あそこの中心は「侠」の世界に近いようです。

早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩さん、中国ルポライターの安田峰俊さん
撮影=中央公論新社写真部
早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩さん(左)、中国ルポライターの安田峰俊さん(右) - 撮影=中央公論新社写真部

【渡邉】シャープの親会社ですね。

【安田】はい。創業者のテリー・ゴウ(郭台銘)は、もともと大学も出ていない町工場のおじさんで、関帝(関羽が神格化された神。軍人や商人、秘密結社などで信仰されることが多い)を非常に熱心に信仰している。会社が成長してからも、創業当時から経理をやっているおばちゃんの夫婦のような、そうした人たちがホンハイのコアを占めています。対して、現代版の「名士層」といいますか、シリコンバレーでバリバリやってきたようなエリートは、三顧の礼を受けて幹部待遇で迎えられても、ホンハイでは長続きしないんです。

【渡邉】劉備と関羽・張飛の人間関係の世界には、諸葛亮では入り込めない。実に蜀っぽいですね。

【安田】中国のIT最大手であるアリババの中枢部も「侠」的です。アリババは1999年2月にアパートの一室で誕生したのですが、創業者のジャック・マー(馬雲)を含む当時の創業メンバー18人には「十八羅漢」という『水滸伝』さながらのあだ名がついています。この十八羅漢の多くは、アリババの時価総額が世界トップ10に入った現在でも、アリババと関連会社の幹部陣として残り続けている。絶対に裏切らない関係ということでしょう。

【渡邉】「十八羅漢」とはね(笑)。

【安田】ジャック・マーは大卒の元英語教師なので、テリー・ゴウよりも知識人の感覚を理解していると思いますが、三国志演義や水滸伝に影響を受けたことをみずから語り、本人の主演で武侠映画を作ったりしています。「侠」的な世界へのあこがれがあるのは間違いないでしょう。

【渡邉】さすが、中華の人々は変わらないですね。私たち日本人みたいな、大文明の傍らに生まれた文化圏は常に変わらなくてはいけない……。アメリカを賛美したり、中国にくっついたり、忙しくて大変ですよね。しかし、中国やインドは根っこの部分でなにも変わらない。うらやましい限りですよ(笑)。

(後編に続く)

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渡邉 義浩(わたなべ・よしひろ)
早稲田大学文学学術院教授、三国志学会事務局長
1962年生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科修了、文学博士。専門は中国古代史。著書に『後漢国家の支配と儒教』『諸葛亮孔明 その虚像と実像』『図解雑学 三国志』『三国志 演義から正史、そして史実へ』『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』などがある。新潮文庫版の吉川英治『三国志』において、全巻の監修を担当した。

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安田 峰俊(やすだ・みねとし)
ルポライター
1982年滋賀県生まれ。中国ルポライター。立命館大学人文科学研究所客員協力研究員。著書『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』が第50回大宅壮一ノンフィクション賞、第5回城山三郎賞を受賞。2021年は『現代中国の秘密結社 マフィア、政党、カルトの興亡史』(中公新書ラクレ)、『「低度」外国人材 移民焼き畑国家、日本』(KADOKAWA)、『八九六四 完全版 「天安門事件」から香港デモへ』(角川新書)、『中国vs-世界 呑まれる国、抗う国』(PHP新書)を続々と刊行。

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(早稲田大学文学学術院教授、三国志学会事務局長 渡邉 義浩、ルポライター 安田 峰俊)

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