1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「お寺が葬式や戒名で稼ぐのはおかしい」と怒る人たちが見逃していること

プレジデントオンライン / 2021年5月13日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

「お寺が葬式や戒名で稼ぐのはおかしい」と怒る人たちがいる。最近も「形骸化した仏教を復興させる」として京都大学の研究組織が「仏教対話AI」を開発した。だが宗教社会学者の岡本亮輔さんは「日本人にとって葬儀には、信仰とは異なる機能がある。『葬式仏教』という批判は的外れだ」という――。

■仏教対話AI「ブッダボット」の狙い

3月末、京都大学の研究組織「こころの未来研究センター」が仏教対話AI「ブッダボット」の開発を公表した。グーグルの提供するアルゴリズムを応用して仏典を機械学習させ、ユーザーからの質問に対して文章で回答できるようになったという。経典の教えに基づいて現代人の悩みに応えてくれるというわけだ。

最先端のAIと最古の経典という組み合わせは新鮮である。精度などにまだ課題があり、一般公開は先になるとのことだが、AIを経由することで仏教への新たなインターフェイスが開かれることで、今後どのような展開になるのか大変興味深い。

他方、このAIの誕生は、現代宗教論の観点から見れば、日本人と宗教の関係に問いを投げかけるものだといえる。

■70年代から「葬式仏教」批判は繰り返されている

開発チームが発表した「ブッダで悩みを解決、仏教対話AI『ブッダボット』の開発」によれば、ブッダボット開発の背景には、「日本における仏教離れ」があるそうだ(以下、ブッダボットについては同文章を参照)。「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されるような形で仏教が形骸化し、「人々の悩みや社会課題に回答できなくなったため」に、日本の仏教は衰退している。したがって、「仏教復興のためには、幸せになるための教え」(苦悩の除去)という仏教本来の役割を取り戻す必要がある――と開発チームは語っている。

ブッダボット参考図表
京都大学HPより

しかし、日本人は仏教に「教え」を求めているのだろうか。ブッダボットとは、つきつめれば、特定の経典をマスターした機械だ。将棋であれば、定跡を完璧に記憶し、終盤になっても集中力を欠かないAIの力は無視できない。だが、苦悩の除去や幸福といった人間の実存に関わるような問題も定跡通りに解くことができるのだろうか。

拙著『宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで』(中公新書)では、日本人と宗教の関わりを「信仰なき宗教」として分析した。そもそも日本人と宗教の関わりを信仰からとらえることに問題があるのではないか。以下、同書第2章「仏教の現代的役割――葬式仏教に何が求められているのか」も参照しながら考えてみたい。

まずは、仏教離れは本当に進んでいるのか、である。「葬式仏教」は日本仏教を批判する時に必ずと言ってよいほど使われる表現で、古くから用いられてきた。1975年には、インド人の仏教研究者ナレシ・マントリ(1929〜2009)による次のような日本仏教批判が新聞に掲載されている。

私のいう一般的な坊さんとは、修行も勉強もしないで、檀家や信者にすべて頼りっ放しの“職業僧”です。日本のお寺が、よくお葬式仏教だと指摘されるのは、生きている人たちの精神生活に坊さんが、お寺が、実はなんの役割も果たしていないからではないか。現に悩みながら生きている人たちをすっぽかしておいて、死んだ人だけに奉仕する宗教、お葬式仏教。これでは、若い世代の支持は得られないでしょう。(朝日新聞1975年12月15日東京朝刊)

■実は「仏教離れ」が進んでいるとは言えない

日本の僧侶は、生きている人の悩みや問題に応えずに儀式だけを行っている。仕事として葬式を実践してはいるが、それが僧侶自身や信徒の信仰と結びついていない。典型的な葬式仏教批判であり、ブッダボットも同様の問題意識から開発されている。

それでは、葬式仏教が衰退の道をたどっているかといえば、そうでもない。一般社団法人・全日本冠婚葬祭互助協会の2016年の調査では、1970年代から2010年代にいたるまで、仏式葬儀が9割近くを占めている(「全互協 冠婚葬祭1万人アンケート」)。一方、神式やキリスト教式の葬儀は2〜4%台を推移している。近年では、遺骨を砕いて海や野山にまく散骨や樹木葬といった葬法や無宗教式の葬法も注目されているが、それらも1〜2%程度にすぎない。

マントリは、前述のインタビューで、このままでは葬式仏教は若い世代の支持を失うと述べているが、実際には、半世紀以上にわたって仏式葬儀の一強状態が続いている。少なくとも、葬儀に関しては、仏教離れは全く生じていないのである。

■現代の日本人は仏教に信仰を求めているのか

次に注目したいのが、現代の日本人にとっての信仰の位置づけだ。ブッダボットは、最古の経典『スッタニパータ』から抽出したQ&Aリストを機械学習し、それに基づいてユーザーからの質問に助言を行う。試作状態だが、ブッダボットが出す答えには、「現代の日常生活においても有用な内容のもの」が多数含まれているという。

仏教経典に書かれた信仰を現代社会に活かすのがブッダボットの試みである。現代人がより良く生きるための手がかりが2500年前の信仰に隠されている、その信仰を改めて普及することで日本仏教も復興するというのが開発者の見立てであるが、そもそも日本人は仏教に信仰を求めているのだろうか。

この点で興味深いのが、各仏教宗派による実態調査である。浄土宗では、全国の寺院と檀信徒を対象にしたアンケート調査が行われ、その研究成果報告書が『現代葬祭仏教の総合的研究』(2012)として公刊されている。

浄土宗の教えでは、葬儀は死者を極楽往生させるための儀式であり、そのために仏教徒の証しである戒名の授与、阿弥陀仏の来迎引接(らいこういんじょう)を願う通夜などが行われる。

芳名帳の上に置かれた数珠
写真=iStock.com/Yuuji
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yuuji

しかし、同報告書によれば、家族の葬式を行った人を対象に葬式の意味を聞いた質問では、「故人(霊)を極楽浄土(あの世)へ送る」と答えたのは3割程度で、約6割は「故人との別れ」「故人の冥福を祈る」「残された遺族の心を慰める」等と答えた。つまり、多くの人は葬式を宗教儀礼ではなく、「人間関係での儀礼」として捉えているのだ。

■浄土真宗門徒の40%が根幹をなす思想を知らない

「自分のお葬式の意味」についての質問でも、「家族や友人などとの別れ」が43%と最多で、葬式が浄土宗の教義とは離れた「告別(お別れ)の式」として理解されている。そして、「故人の霊は、あなたにとってどのような存在であると思いますか」という質問には、85%が「見守ってくれている」と回答した。ほかの選択肢、「困った時には助けてくれる」(1%)、「供養をしないと良くないことが起こる」(2%)等を選んだ人は極めて少ないのである。

同様の傾向は、他宗派にもみられる。浄土真宗は日本仏教の中でも特に信心を重視する宗派だが、実態調査からは、門徒と呼ばれる真宗信者に必ずしも信仰が根づいていない様子が見えてくる(「浄土真宗に関する実態把握調査(2018年度)」)。

この調査では、浄土真宗の信仰基盤となる概念の認知度が調べられているが、言葉の意味内容まで知っている割合は、「他力(他力本願)」約28%、「往生」約30%、「悪人正機(あくにんしょうき)」約19%と極めて低い。とりわけ「悪人正機」は真宗の根幹をなす宗教思想であるが、門徒の40%以上がそもそもこの言葉を知らなかったのである。

■日本仏教はそもそもが「信仰」ではない

前掲の『現代葬祭仏教の総合的研究』には、宗教学者の池上良正による葬式仏教論が収められている。池上によれば、従来、葬儀のような儀礼は信仰の副産物として軽視されてきた。「儀礼よりも信心」というわけである。だが、日本仏教はそもそもが「死者供養仏教」であり、信仰ではなく、次のような通念に支えられていると池上はいう。

(1) 死者を安らかな状態に導くために、生者、つまり、生きている人は、一定の主体的な実践によって積極的な関与ができるかもしれない。
(2) 安らかな状態に導かれた死者は、自分を助けてくれた(つまり、供養をしてくれた)生きている遺族に対して、多少とも超越的な力をもって守護・援助し、利益を与えてくれるかもしれない。

どちらも「かもしれない」で終わっている点が重要だ。池上は、(2)の「利益」を特に具体的なものではなく、「見守ってくれる」といったニュアンスだとしている。現代日本人は、確固たる信仰があるわけでもないし、葬儀に具体的なリターンを期待しているのでもない。死者への思いという漠然とした情緒に基づいて葬式は行われているというのだ。

また宗教社会学者の櫻井義秀は、自身の体験も踏まえながら、葬式がもたらす感情に関わる効能を論じている。枕経から告別式までの一連の儀礼は、それに集中することで悲嘆の感情を和らげる。次々と訪れる親族や知人との感情交流は、人間関係の強化・再確認の機会になる(『これからの仏教 葬儀レス社会 人生百年の生老病死』興山舎)。「信仰」という言葉には回収しきれないこうした機能を葬式は有しており、だからこそ、葬式仏教は圧倒的な支持を得ているのだろう。

■キリスト教やイスラム教なら「ボット」の有用性はある

キリスト教やイスラムについて言えば、それぞれの聖典に書かれた教えを価値観や行動原理として受け入れるという意味での信仰に注目することは重要だ。これらの宗教では、まずは聖典の読解が信者にとって最も重要な務めであり、ブッダボットのような試みは、こうしたタイプの宗教については成功するかもしれない。

他方、日本の宗教風土では、そうした理知的な意味での信仰はそれほど主題化しない。初詣やパワースポット・ブームで、多くの参拝客が神社仏閣を訪れているが、彼ら全てが、訪問先に祀られる神仏の実在を確信し、救済を求めているかと言えば、そうでもないはずだ。日本人と宗教の関係性を考える際には、厳密に言語化・体系化された信仰よりも、実践や儀礼という行為そのものがもたらす感情や感覚が鍵になるのである。

----------

岡本 亮輔(おかもと・りょうすけ)
北海道大学大学院 准教授
1979年、東京生まれ。筑波大学大学院修了。博士(文学)。著書に『聖地と祈りの宗教社会学』(春風社)、『聖地巡礼―世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)など。近刊に『宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで』(中公新書)ほか。

----------

(北海道大学大学院 准教授 岡本 亮輔)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください