大卒の新人をたった1週間で退職に追い込んだお局職員の"ある口癖"
プレジデントオンライン / 2021年5月19日 11時15分
※本稿は、真山剛『非正規介護職員ヨボヨボ日記』(三五館シンシャ)の一部を再編集したものです。
■「もし地震があったら、ガス爆発よ」
朝、「おはようございます」と、挨拶しながら幸助君は入居者の個室に入った。
彼から聞いたありのままの話を時系列に記す。「カーテン開けましょうね」と彼は部屋の主、永吉やす子さんに話しかけながら窓際へ近寄り、カーテンに手をかけた。そのとき、ベッドに横になった状態の彼女が「外の様子はどう?」と彼に尋ねた。
彼はカーテンの隙間から外を見て「雨のようですね」と答えた。「雨ならカーテン開けないで。最近、雨を見ていると気分が滅入るから」とやす子さんが幸助君に注文をつけた。
彼は入居者の希望が最優先だと考え、カーテンを閉め直し、室内灯をつけた。やす子さんは「ありがとう」と彼に向かって微笑んだ。
それから1時間後、幸助君は再びやす子さんの部屋にいた。彼の傍らには職場の施設管理者・北村照美の姿があった。57歳のバツイチ女性、めったに笑わないが、笑った顔は元横綱・朝青龍に似ている。
私が入社し、1週間ほど経った夜勤のとき、炊事場の3つあるガスの元栓の一つをうっかり閉め忘れたことがあった。同じ管のうちの大もとの一つを閉め忘れたのだった。朝、それに気づいた北村が激怒した。
「真山さん、もし地震があったら、ガス爆発よ。これ常識」
2つはしっかり閉めてあるので、それはないと思ったが、言い訳しても火に油を注ぐことになる。ミスをしたのは事実なのだ。私はひたすら「すみません。以後気をつけます」と頭を下げた。ここは耐えなければならない。
■極端な事例を持ち出して職員を問い詰める
また別のとき、車イスへの移乗にもたついた女性職員に「もし、戦争が起きたら、どうするのよ。みんな死ぬよ」とか、風呂場の水道の蛇口をしっかり締めなかった職員に「水害が起きたら、あんたが最初に溺れるよ。しっかりしてよ」などといつも極端な事例を持ち出し、こめかみに青筋を立てて怒鳴る。
そんなアホなと思いつつもちろん黙っている。この仕事には忍耐力が求められるのだ。
たしかに、彼女がいなければ施設が回らない。それは事実であり、今まで施設内で重大事故が起きていないのも、信じられないほど細かいところにまで気がつく彼女の実績だと言えなくもない。
北村の持つ経験や資格が必要なのだ。さて、北村がいつもの調子で幸助君を責め立てる。
「窓を開けて換気してカーテンを開ける。これ常識だと思いますけど、あんた何を聞いていたの? 2日前に説明したでしょ。メモらなかったの?」。彼女が幸助君に詰め寄る。
「いや、やす子さんから、外が雨だから開けないでと言われたものですから」
彼は消え入りそうな声で言い訳した。「何、寝ぼけたことを言っているの。カーテン開けてごらんよ」。指示に従い、彼がカーテンを開けると、外は溢れんばかりの日光が射していた。1時間前まで降っていた雨は、いつの間にか上がっていたのだ。
■新人への執拗ないじめが始まる
「でも、そのときはまだ雨が降っていて……」
「変な言い訳しないでくれる。こんなに明るいのに、電気代がもったいないでしょ」
言いながらわざとらしく北村が室内灯をパチンと消す。「もういいから、さっさとリビングの清掃に行って」。北村がヒステリックな声をあげる。
「あの、やす子さんに訊いてもらえば、わかると思うのですけど」
幸助君のこの一言が火に油を注いだ。彼女は、彼を血走った目でにらみ、「あんた、自分のミスをやす子さんのせいにするの?」と怒鳴る。
2人の間で、やす子さんは明らかに動揺している。というか北村を怖がっている。「ねえ、やす子さん、僕にそう言いましたよね」幸助君が尋ねる。「えっ、何を」やす子さんには認知症の症状があり、1時間前の彼とのやりとりなどまったく覚えていなかった。
それとも北村を恐れたか。彼が、素直に北村の叱責を受け入れなかったことがすべての災いのもとである。この場合、北村の言うとおりに従うことが「正解」だと、ほかの職員なら経験則から知っているのだが、入りたての幸助君にそれを理解せよというのも無理な話かもしれない。
そのときから北村の執拗(しつよう)ないじめが始まった。
本来なら、別の職員から彼へ、その日の仕事の指示がされることになっていたが、北村が直接、仕事の段取りを指示するようになった。彼がほかの職員へ尋ねても、みな当たり障りのない助言をした。みなとてもいい人たちなのだが、北村が怖いのだ。
■「あんた大学出ているんでしょ」
私は、その週は夜勤が主だったので、幸助君の作業スケジュールをまったく知らされていなかった。北村は作業の具体的な内容をわざと彼へ伝えなかったようだ。
「2階のトイレを清掃しといて」
それだけ指示して去ってしまう。入社してまだ数日の慣れない職員には無理な相談だ。トイレ洗浄剤、消毒剤、消臭剤、替えのトイレットペーパー、雑巾、モップ、鏡用の布巾など用具の置き場所がまちまちなのだ。
トイレ掃除一つとっても煩雑な決まりごとがある。そして彼の作業が停滞すると、北村はこれ見よがしに大声で怒鳴った。中間報告の際、ほかの職員の前でも自らの威厳を示すように怒鳴った。
「なぜ、時間がかかった上に最後までできなかったの。結局、前田さんが全部やり直したのよ。前田さんのやるところをちゃんと見ていたの?」
「いいえ、指示がなかったので」と幸助君。「これ常識だと思いますけど。あんた大学出ているんでしょ。それくらい自分で考えなさいよ」
この「常識だと思いますけど」は、彼女の口癖だった。こんな調子で彼は執拗にいたぶられたのだ。
これは彼のための愛のムチなどではないことを誰もが知っている。ただ、誰一人彼女に意見する職員はいなかった。自分に火の粉がふりかかることを恐れたからだ。情けないが私もその一人だ。
この施設を去るときは、北村に言いたかったことをぶちまけてやるぞ、と心の中で叫ぶ。
■「僕、無理な気がします」
私は経営していた会社を畳み、この仕事に就いた。
会社を清算する際に社屋やそのほかの不動産を処分し、借金の返済に充てたが完済できず、今も分割で払い続けている。年金受給までまだ数年あり、体が続く限り働かなくてはならない。今はまだここを辞めるわけにはいかない。
「真山さん、どうしたら北村さんとうまくやれますかね」
入社4日目に彼から初めて事情を聴いてそのことを知った。彼は県外のスーパーを辞めて帰ってきたUターン組だった。介護業界もここが初めてだったらしい。
「今までも彼女から目をつけられて辞めた人間、ごまんといるからね」
言いながら自分でも答えになっていないと思った。1日で辞めたパートもいた。
「僕、無理な気がします」
私も、もう彼は無理だろうと思った。いい奴なのだが、北村のいじめに耐え抜くには、線が細すぎると思った。
「まだ若いんだから、もっといい施設を当たってみたら? 君なら大丈夫だよ」
「でも介護業界、北村さんみたいな人がどこの施設にもいるそうですね。最近ネットで調べてわかりました」
「僕もここしか知らないから、はっきりとしたことは言えないけど、多かれ少なかれ、妙な上司はいるみたいだよ。友人に介護福祉士の男がいるけど、彼の場合、5回職場を変わっているからね」
「どんな理由で、ですか」
「やはり北村みたいな上司とぶつかったり、その施設があまりにもいい加減な体質だったりで」
■入居者の要求を無視する介護施設
実際、介護福祉士の友人は気まじめな男で、私が介護の世界に入る前から職場の不満をよく口にしていた。彼から、問題のある上司とか、よくない施設の話をよく聞いた。
彼が今までいた施設で一番腹が立ったのは、頻繁にナースコールを押す入居者の電源を切るように上司から指示されたことだという。つまり入居者の要求を無視するのだ。ベッドから降りる際に鳴る、足もとのセンサーマットの電源をオフにしていた施設もあったという。
それ以外にも深夜に徘徊(はいかい)する人に、規定以上の睡眠薬を服用させたり、尿取りパッドを4時間おきに替えないといけないところを、夜勤者が睡眠をとりたいがために、2枚重ねにして手間を省いたりすることもあるらしい。
朝、利用者にラジオ体操をさせなければいけないのに、「みなさん、最近お疲れみたいで、血圧も高めですから今日は休みましょう」と、無理やり理由をつけて、何日もその作業を怠る施設もあったという。
ただ親族が面会に来ると、そのような老人ホームに限って職員が信じられないくらいの愛嬌をふりまく。中にはろくに食事を温めないで出す老人ホームがあったり、テレビを観ながらオムツを替える職員もいたという。人を人として扱わないのだ。
■いじめを受けた新人は1週間で辞めてしまった
友人はそのときのことを施設長や上司に訴えたが、彼らは見て見ぬふりでやりすごし、まったく改善されない職場も多かったという。結局、人手不足がその原因の根底にあるようだった。
その点、私の勤務する施設では職員の入れ替わりは激しいが、職員が手を抜いたり、横着な作業をするようなことは一切ない。皮肉にも北村による厳しい監視のおかげでそんなことはできないのだ。結局、幸助君は、わずか1週間でここを去っていった。私は幸助君になんの力にもなれなかった。
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介護職員
1960年生まれ。鹿児島県出身。大学卒業後、デザイン事務所勤務、建設コンサルタント役員、居酒屋経営などを経て、56歳のときに「介護職員初任者研修」を取得し、介護の世界へ。以来4年のキャリアを積む、九州の介護施設に勤務する現役介護職員。
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(介護職員 真山 剛)
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