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介護、ワンオペ育児、子宮摘出…"壁に穴だらけ"の家で3児育てる40代女性が耐えた「罵詈雑言の夜」

プレジデントオンライン / 2021年5月15日 8時45分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kumikomini

近畿地方に住む40代の女性は20代で結婚・出産して以降、苦労の連続だった。精神的に弱い夫は壁に穴を開け、妻に罵詈雑言を浴びせる。一時同居した義父は目が不自由で介護が必要だ。両親も肺炎や認知症を罹患した。ワンオペで3児を育てる女性はパニック障害になり、その後、子宮摘出することに――(前編/全2回)。
この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。取材事例を通じて、ダブルケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。

■「こんな人生があるのか」20代で結婚以降、苦難続き壮絶

近畿地方在住の松野貴美さん(40代・既婚)は、中学・高校と陸上部に所属した。高3の頃、市の大会に出場した際、応援に来ていた2歳先輩の夫と知り合い、1995年に20代で結婚。翌年には長男、1998年には長女を出産した。

メーカーに勤める夫は、若い頃から精神的に弱いところがあった。松野さんは結婚前からそのことを知っていたが、「まさかここまでとは思わなかった」と苦笑する。

夫は数年に一度くらいの頻度で気が大きくなったり、手がつけられないほど落ち込んだりする。気が大きくなるときは、高額な買い物をしたり、突然「仕事を辞めて大学に通う!」と言い出して資料を取り寄せたり、マシンガンのように喋り続けたりし、ひどく落ち込むときは、仕事ができなくなるだけでなく、食事を摂らなくなったり、入浴しなくなったり、松野さんはじめ、身近にいる人を2〜3時間誹謗(ひぼう)中傷し続けたりした。

義父は網膜色素変性症のため、幼い頃から目が見えづらかったが、2000年(当時55歳)以降、年を重ねるにつれて悪化。介助してきた2歳下の義母も50代のため、「2人暮らしでは不安だから」と、義両親から同居することを懇願される。

松野さん夫婦は同居することを承諾したが、当時は長男が4歳。長女が2歳。手がかかる時期に夫は子育てに全く協力しないばかりか、調子が悪くなると松野さんを精神的に振り回し、義両親には気を使う生活に、松野さんの限界が来た。

義両親との同居から3年で別居を切り出した松野さんを、義両親と夫は聞き入れ、松野さん夫婦は、実家と義両親の家の中間ほどのところに新居を購入し、移り住んだ。

「今振り返ると、私の若気の至りとしか言いようがありません。私が一方的に義両親に対して拒絶反応が出てしまうようになっていて、いつも家の中が険悪な空気になっていました……」

松野さんは自嘲気味にこう話すが、まだおむつが取れるか取れないかの幼い子どもを2人も抱え、目の見えない義父をサポートしながら、精神的に危うい夫や高齢の義母に気を使いながらの生活は、想像を絶する苦労があったはずだ。

■「お前はダメだ!」罵詈雑言を3時間浴びせる夫が抱えていたもの

2002年に3人目の子供となる次男が生まれたが、夫は精神が安定しているときでも、一切子育てに協力しない。調子が悪くなると、幼い子どもたちを一人で世話する松野さんに対して見下した態度を取り、「お前はダメだ!」「頭がおかしい!」などと、罵詈(ばり)雑言を2〜3時間浴びせ続けた。

この頃すでに夫は精神科へ通院していたが、時には薬を大量に飲んで大暴れして救急車で運ばれたり、物を投げたり壁に穴を開けたりするため、新居は数年で傷や穴だらけになった。

「子どもに被害が及ぶこともあるので、小さいうちは子どもたちを守るのに必死でした。誹謗中傷に対して言い返したり、やり返したりすると数十倍になって返ってくるので、黙って嵐が過ぎ去るのを待つしかありませんでした」

■夫は躁うつ症状が出ると休職で無給、自分は“ワンオペ”でパニック障害

結婚前は看護師をしていた松野さんは、産後は資格を活かし、ヘルパーの仕事を始めた。育児と家事、仕事に追われ、夫の症状が出ると動悸や不眠の症状が出るようになったため、心療内科を受診すると、パニック障害と診断。精神安定剤や睡眠薬を服用し始める。

夫の不調時の対応に悩んだ松野さんは、心療内科医に相談すると、「旦那さんはおそらく双極性障害でしょう」と言われた。

「夫に躁うつの症状が出るのときは、おそらく仕事上のストレスが原因だと思います。長年勤めていますし、理解がある会社で、症状が悪化するとちょこちょこ休職させてもらっています。しかし休職中は無給なので収入はなくなりますし、夫がずっと家にいるので気がめいります。次男が小学校に上がるまでは本当にしんどかったです」

子どもの頃から走るのが好きだった松野さんは、中学の頃から市の陸上部に所属していたが、結婚や出産を機に活動を休止。次男が小学校に上がってから再開したところ、市役所に勤める陸上部仲間から、「介護認定調査員が不足しているんだけど、挑戦してみない?」と声をかけられ、試験を受けることに。無事合格した松野さんは、ヘルパーを辞め、2008年から認定調査員として働き始めた。

■夫と義父のケアに仕事…多忙な中、次男と自分にがんの疑い

2014年。中学生になった次男が熱を出した。風邪だと思って様子を見ていたが、微熱が1週間以上続き、鼻の奥がみるみる腫れてきた。

心配した松野さんが病院へ連れて行くと、「がんの可能性があるので、念のため入院してください」と言われる。入院中は毎日のようにさまざまな検査を受けたが、次第に熱が下がり、鼻の奥の腫れも治まってきたため、10日ほどで退院。その後に検査結果が出たが、がんではなくウイルスによる「単核球症」と診断される。

病院のベッドで点滴を受ける子供
写真=iStock.com/kckate16
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kckate16

単核球症とは、発熱やリンパ節の腫れなどの症状を起こす急性感染症だ。数週間で症状が治まっても、肝臓や脾臓が肥大化している場合があり、腹部に衝撃や圧力がかかると破裂することがある。脾臓が破裂すると、出血性ショックで重篤化する危険性が高いため、肥大した状態が治まる2カ月ほどは、転倒や打撲、外傷に気をつけ、力仕事や人と接触するスポーツは避けたほうがいい。

松野さんと同じように陸上部で活動していた次男は、「2カ月くらい、激しい運動は避けてください」と医師から告げられ、残念そうな顔でうなずいた。

その翌年、市の健康診断を受けた松野さんは、子宮で再検査となり、婦人科を受診。超音波検査などの結果、「高度異形成」と診断される。

高度異形成とは、子宮頸がんの一歩手前の状態だ。すぐに細胞診を行い、異常が認められれば、組織診を行い、確定診断となる。

松野さんは入院し、病変部分だけを取り除くか、子宮全部を摘出する手術を受けるか選択を迫られる。松野さんは「子どもは3人産んで、もう産むことはないだろうから、子宮を摘出してもいいかな」と判断し、子宮の全摘出手術を受け、1週間ほどで退院。その間子どもたちは実家の両親に世話になり、夫は義実家へ行っていた。

■おまけに近隣に住む両親にも異変が「父は肺炎、母は認知症」

松野さんは、結婚後も週に1〜2回は実家へ顔を出していたが、2016年に入ると、当時62歳の母親におかしな言動が見られ始める。松野さんが来ると、必ず母親は、何も言わなくても松野さんが好きな、砂糖と牛乳を入れたカフェオレを作ってくれたが、ある日突然、「砂糖何杯入れる?」「牛乳どれくらいだった?」と訊ねるように。

また、きれい好きで、部屋はいつも整理整頓し、食卓の上には何も置かない主義だった母親だが、次第に実家が散らかり始めた。洗面所には洗濯洗剤が何十個と積み上げられ、キッチンの戸棚には封を切られた醤油が何本も並び、食卓の上にはモノが溢れ、食事ができないほどになってきていた。

「ヘルパーをしていましたし、介護認定調査員という仕事柄、『もしかして認知症かも……』とは思っていましたが、しっかり者だった母が認知症になった現実を受け入れられず、私は気づかないフリをして、だんだん実家から足が遠のいていきました」

ところがその年の8月。当時15歳の次男が、夏休みなので、松野さんの実家へ遊びに行って戻ってくると、「じいちゃん、ものすごく調子が悪そうだったよ」と言う。それを聞いた松野さんは、すぐに実家へ父親の様子を見に行った。すると父親は、足がむくんでパンパンに腫れ、熱もあり、「夏バテ気味で息が苦しい」と言ってフラフラな状態。松野さんが急いで病院へ連れて行くと、医師は父親の肺が真っ白に写ったレントゲン写真を見せながら、「肺炎」と診断。すぐに入院することに。

当時64歳だった父親は、42歳の頃に胃がんを経験している。胃を全摘出して以来食が細くなり、がんの再発こそなかったが、ずっと体力が戻りきらずにいた。

一方母親は、父親が肺炎で入院したと聞くとひどく動揺し、松野さんが父親の病院に面会につれていくと、トイレに行ったきり迷子になることが頻繁にあった。

母親は徐々に認知症が進み、ご飯は炊くことができたが、炊きすぎて悪くしてしまったり、できていた料理もやり方が分からなくなったりしていた。父親が入院し、松野さんは実家に1人きりになる母親が心配だったが、この頃、高3の長女は通っていた看護学校の実習先で患者の死に直面し、看護師になることを躊躇。アトピー体質だった長女は、全身にアレルギー症状が出てしまうほど悩み、結局、看護学校を退学。さらに、夫が数年に一度の不調で休職して家におり、松野さんは母親をサポートしたくてもできない状況に陥っていた。

幸い、当時80代の島暮らしの父方の祖父母が、入院した息子(松野さんの父親)を見舞うため、実家に滞在して母親をサポートしてくれることになり、松野さんはほっと胸をなでおろした。(以下、後編へ続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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