「日本を故郷とは言えない」作詩家・なかにし礼をつくった"魂の音楽"とは
プレジデントオンライン / 2021年5月25日 15時15分
※本稿は、なかにし礼『愛は魂の奇蹟的行為である』(毎日新聞出版)の一部を再編集したものです。
■ソウル・ミュージックをたどる
人には誰でもソウル・ミュージック(魂の音楽)というものがあるだろう。むろん私にもある。そんな話をしたい。
昭和十三(一九三八)年九月に私は旧満洲(現・中国東北部)の牡丹江(ぼたんこう)市に生まれたのだが、その時の状況はもちろんのこと、その後の二、三年についてはなんの記憶もない。生後百日目に撮られた自分の写真を見て、ははん、こんな顔をしていたのかと思うのが精一杯であり、二歳の頃、写真館で撮った写真を見て、なんとなく今の自分につながる雰囲気はあるなと素直に思うだけだ。その写真から漂ってくる雰囲気から類推するに、その頃のわが家は事業に成功したいわゆる金持ちだったらしい。
十九世紀フランスの政治家で『美味礼讃』を著した食通でも知られるブリア・サヴァランの説をかいつまんで言うと、「瀕死(ひんし)者は、記憶を失い、言葉を失い、うわ言を言い、やがて感覚が失われていく。しかし感覚は順序よく正しく消えていく。嗅覚がなくなり、味わわなくなり、見えなくなる。だが、耳はまだ音を感じる。それゆえに古代の人々はほんとうに死んでしまったかどうかを確かめるために、死者の耳もとで大きな声で叫ぶのを習慣としたのであろう。聞こえなくなったあとでも触覚は残る」(岩波文庫)。
ということは、失われていく感覚を逆にたどっていけば、人間が感覚を手に入れていく順番になるということだろう。科学的根拠はないが……つまり、最初に「触覚」が覚醒するということだ。
■韓国人乳母の肌の感触
最初に覚醒した私の触覚は何に触れていたのであろう。
韓国人の乳母、乳母といっても母乳を飲ませるのではなく、瓶入りの牛乳を私に飲ませ、寝かし付ける人、添い寝係と言えばいいか。その若い娘の歌う朝鮮の子守歌もかすかに記憶の底にあるが思い出せない。だが、私の指の先は若い乳母の肌の感触をはっきりと覚えている。やわらかくて、なめらかで、あたたかくて、ふわふわしていて、泣きたくなるような甘い匂いのする心地好(よ)いものだった。
生まれて初めて、私の脳に意識の灯(あかり)がともり、触覚が覚醒した時、私は若い娘のむきだしの肌に抱かれていたということだ。この娘が、私が初めて触れた人間であった。この経験は、その後の私の人間観や女性観に大きく影響したに違いない。
この娘の添い寝は私が生まれてすぐに始められ、昭和二十年八月ソ連軍が侵攻して来る日まで、つまり六歳いっぱいまでつづいた。その乳母は日本名で愛子(よしこ)と呼ばれていたが、四歳頃から私は愛子の若さと美しさを十分に意識し、夜になるのを心ひそかに待ちわび、寝室のある二階に連れていかれる時は、顔が赤くなるほど胸躍らせたものだ。
私は努力していつまでも目覚めていて、愛子の肌の感触と匂いに酔いしれていた。愛子は私のなすがままだった。優しい娘だった。
■歌舞伎のファンだった父母
そのうち、私の耳に大人たちの歌う歌が聞こえてくるようになった。私の部屋は二階にあり、階下の歌声はざわめきとともにややくぐもった感じで言葉は不明瞭であったが、なんども聞いているうちに聞き取れるようになった。
日本から来ている酒造りの杜氏(とうじ)たちが社長である私の父親からのふるまい酒に酔って歌っているのだ。『国境の町』『誰(たれ)か故郷を想わざる』『人生の並木路』、この三曲が定番で、杜氏たちは酔うたびに歌った。そして最後には、歌声はすすり泣きに変わった。
「ああ、日本に帰りたいな。日本はどうしてるかな」、これがまた彼らの口癖だった。
この言葉を聞いて初めて、私たちは、日本という国から遠く離れた満洲の地で暮らしているのだという事実を知った。
私には十四歳年の離れた兄と七歳年上の姉がいる。兄は東京で大学生活をしていて、夏や春の休みの時期にはかならず帰ってきた。帰ってくれば得意のアコーディオンでタンゴを弾いた。その音楽の響きは幼い私の耳にも華やかに聞こえ、私はまだ見たことも聞いたこともない異郷に想いをはせた。また姉は日舞を習っていて名取でもあった。父はそれが自慢で、娘を連れて関東軍の駐屯地に再三慰問に赴いた。
私の家は芸能が大好きだった。父も母も歌舞伎のファンであり、父は七世松本幸四郎、母は十五世市村羽左衛門に熱を上げていた。昭和十八年頃、二人は新京(現・長春)まで汽車で出て、そこから飛行機をチャーターして東京へ。この二人の名優が演ずる『勧進帳』を歌舞伎座まで観にいったものだ。
■芽がで、枝がのび、花が咲く…
母は若い時分から三味線を習っていたものらしく、私の記憶が明瞭になった頃には相当な腕前であった。というわけで、広間の電気蓄音機から『勧進帳』はもとより長唄や清元、常磐津が聞こえてこない日はなかった。
兄が帰ってくると話は一層盛り上がる。兄も姉も歌舞伎のファンであるから、二人で『勧進帳』の弁慶と富樫の問答を丁々発止とやりだす。
「そもそも、九字の真言とはいかなる義にや、事のついでに問い申さん。ささ、なんと、なんとー」と姉の富樫が問い詰めると、「九字の大事は神秘にして、語りがたきことなれど……」と兄の弁慶は幸四郎の声色を使ってやる。
それは見ていてうっとりとする光景であった。
私が五歳くらいになると、「禮三、お前、判官(ほうがん)(義経)やってみろ」と兄に言われ、私もいつしか覚えた台詞(せりふ)「いかに弁慶、道々も申すごとく……」とそれらしく言ってみると、「ようよう、上出来、上出来」と褒められ。それ以来すっかり『勧進帳』にはまりこんだ。それはいまだにつづいている。
私のソウル・ミュージックは長唄『勧進帳』にとどめを刺す。つまりこの魂の音楽が私の精神生活の最初の種子ということになる。そこから芽がで、枝がのび、花が咲く。思えば神秘なことだ。
今では十二世市川團十郎の弁慶、片岡孝夫の富樫のCD『勧進帳』が夜毎の子守唄だ。
■大地の子の音楽的めざめ
私たち満洲育ちの子供たちはなにを歌っていたか。今思い返してみると、かなり貧弱な音楽的環境に置かれていたことは確かであり、愛着のある歌は一つとして思い出せない。
第一に、満洲国は五族協和、王道楽土の理想国家である。平和が暗黙の約束事項であったから、町中を関東軍の兵士たちが闊歩(かっぽ)したり、戦車や武器弾薬が移動する場面を見ることはほとんどなかった。
こうして静謐(せいひつ)を保つという態度は国境を隣り合わせているソ連にたいするいわば牽制(けんせい)であり、われら満洲はかくも平穏な生活を営んでいて、国境を侵そうなどという意志は毛頭ないという示威行為の一つであったと思われる。
だから、円明小学校に上がっても軍事教練めいたものは一切なかったし、軍歌を歌うこともなかった。まず校歌を習った。一番だけなら今でも歌える。
光あまねく天に地に
笑(え)まいを望みを満たす日の
円(まど)けき明るさわが誇り
名もよき学舎 円明の
教えに励む我らかな
赤誠尽忠誓いては
結局、天皇陛下に忠誠を誓う内容であったが、教育勅語はなかった。
満洲は大満洲帝国であって、その皇帝は愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)である。日本の天皇ではない。しかし私たちは日本人であって満洲国民ではなかった。学校の講堂には皇帝溥儀の写真の隣に、より大きな天皇皇后両陛下の御真影をかかげているといった按配(あんばい)である。
■「ふるさと」に共感できなかった
満洲国は奇妙な国家で、国家という名目と枠組みはあっても、国民が一人もいなかった。満洲国に住む者はそれぞれ日本人であり、中国人、朝鮮人であった。満洲国の国旗と紙幣はあったが、憲法も国歌も国勢調査もなかった。つまりは法律らしきものもなかった。
満洲国は日本の関東都督府の発展した関東軍司令部(新京)の思惑ですべてが流れていた。つまり満洲に住む日本人居留民は満洲と日本という二重思考のもとに生活していたのである。
普通なら、小学校に入るとすぐに小学唱歌というものを教わる。私たちも教わった。ところがこの唱歌たるものが、満洲の子供たちにはほとんど意味不明なのである。
うさぎおいしかの山 小鮒(こぶな)釣りしかの川、の『ふるさと』も、春の小川はさらさらいくよ、の『春の小川』も、菜の花畠に入り日薄れ、の『おぼろ月夜』も、しずかなしずかな里の秋、の『里の秋』もなんのことを言っているのかさっぱり分からない。そういう風景を見たことがないから共感できないし、また想像することもできない。
満洲は平野であり、山々は低く遠くにあった。そこには狼や山猫がいると教えられていた。川は大河であり、鯉よりも大きな魚が釣れた。冬には凍って道になった。生徒たちがあまりに気のない歌い方をするので、先生のほうから教えることを諦めてしまう。その頃、満洲唱歌と称して百曲ほど作られたらしいが、『ペチカ』(北原白秋作詞、山田耕筰作曲)くらいが印象に残っているかな。あとは記憶にない。
■ベートーヴェンの交響曲第六番『田園』との出会い
学校が懸命になって教えようとして毎日歌わされたのは『わたしたち』(園山民平作曲、作詞者不詳)という面白くもない歌だった。
寒い北風吹いたとて
おじけるような
子供じゃないよ
満洲育ちのわたしたち
あとは大人たちの歌う流行歌を口ずさむ程度で子供が胸はずませ歌うような歌は一曲もなかったと言っていいだろう。
ハルビンで避難民生活をしていたから、敗戦直後の日本の風景については知らない。
戦後、引き揚げ船の中で『リンゴの唄』を聴いて悲しい衝撃を受けて以来、日本は私にとって遠い国になっていた。が、青森に住むようになってからは、いつかは東京に行くという希望を抱いていたから、東京がテーマの歌はみな輝いて見えた。
『夢淡き東京』『浅草の唄』『東京の屋根の下』などは好んで歌っていた。特に美空ひばりの歌は別格で、ひばりの歌は子供たちにとっての一種の応援歌であり聖歌であった。
そんな私にとって大事件に近いことが起きた。
小学校五年生の時だった。バッハやヘンデルの写真の飾られた音楽室でのことだった。音楽の先生は、ベートーヴェンの交響曲第六番『田園』の各楽章の内容について説明してくれたあと、教壇に据えた蓄音機のターンテーブルに黒いレコードを載せ、それを回し、針を置いた。
■「私の知る満洲の風景を描写していた」
スピーカーから流れ出てきた音楽の美しいこと! こんな素晴らしい世界があるのか。第一楽章、田園に着いた時の楽しい気持ち。第二楽章、小川のほとり。第三楽章、収穫と人々の集い。第四楽章、雷と嵐。第五楽章、牧歌、嵐のあとの喜びと感謝。
全曲聴き終わった時、私は机にうっぷしたまま顔を上げられないでいた。私はぼろぼろに泣いていたからだ。教室の仲間たちには笑われたが、私は得も言われぬ幸福感にひたっていた。
なにが私をして泣かせるほどに感動させたのか。それはベートーヴェンの『田園』がまったく私の知る満洲の風景を描写していたからだ。第一楽章も第二楽章もあの通りだ。特に第三楽章では、夏の終わりごろの満洲の田園風景が目に浮かぶ。農民たちは大麦や小麦、トウモロコシやコーリャンを収穫して大いに喜ぶ。そこへ雷が鳴り稲妻が光る。満洲の雷は日本のそれのように穏やかなものではない。稲妻だって地平線全体を貫くように幾条も走り落雷する。まさにこの音楽のようにだ。
そして嵐のあとの静けさと平和。満洲国を作って暴れ回った日本人が引き揚げていったあとの満洲いや中国東北部の人々は今やその幸せを満喫しているだろう。そう思うと、泣けて泣けて仕方なかったのだ。小学五年生でそんなこと思うかと人は疑う。その人は子供の意識に無頓着すぎる。加害者意識というものは子供にも歴然としてあるのだ。
これが私のクラシック音楽へのめざめだった。
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作家・作詩家
1938年、旧満州牡丹江市生まれ。立教大学文学部卒業。2000年、『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞。著書に『兄弟』『赤い月』『天皇と日本国憲法』『がんに生きる』『夜の歌』『わが人生に悔いなし』などがある。
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(作家・作詩家 なかにし 礼)
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