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「才能はモーツァルト以上」16歳で亡くなった天才作曲家・加藤旭の本当の実力

プレジデントオンライン / 2021年5月21日 11時15分

チェロの練習をする加藤旭さん - 写真=家族提供

「モーツァルトの生まれ変わり」と呼ばれた天才作曲家がいる。加藤旭さんだ。脳腫瘍で亡くなった彼は生前に約500曲を作り、その才能はプロから「モーツァルト以上」と評された。加藤さんは16年の人生で何を残したのか、毎日新聞論説委員の小倉孝保氏が迫る――。

※本稿は、小倉孝保『十六歳のモーツァルト 天才作曲家・加藤旭が遺したもの』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■プロも涙した16歳の音色

加藤旭は脳腫瘍との闘病の末、16年5月に帰らぬ人となった。16歳だった。3歳で音符を並べはじめ、生涯にピアノ曲や交響曲など約500曲を残した。

Jポップの人気デュオ「moumoon」(ムームーン)のボーカル、YUKAが涙した音楽会は、彼が生きていれば20歳になるのに合わせて開かれた追悼公演だった。プロの音楽家や同級生が彼の曲を演奏し、会場には作曲家の池辺晋一郎や指揮者、小澤征爾の弟でエッセイストの幹雄ら生前、彼と交流のあった人々が姿を見せた。

音楽会の後、YUKAは彼の曲を集めたCDを繰り返し聴いた。特に気に入ったのが、「にじ」と題した短い曲だった。

「音楽会で演奏されたメロディでした。CDを聴きながら、この曲がすっごく好きだと気付かされたんです」

メンバーのMASAKI(マサキ)にもCDを聴いてもらい、2人は「にじ」を基に、自分たちの曲を作りたいと思った。旭の母、希(のぞみ)にその気持ちを伝え、許可をもらっている。

MASAKIによると、曲を作るのに苦労はなかった。何かに導かれるようにできたと言う。詞を書いたのはYUKAである。

「旭君の『にじ』はミ、ソ、ド、レ、ミという5つの音がメインになっています。その音を耳にしているうちに、空に色が広がっている様子が見えたんです。ゆっくりと虹が描かれていく。みんなでその虹を眺めているような歌にできたらいいなと思いました」

■「突然のことで死を消化できなかった」

小児がんの子を元気づけるチャリティーイベントで、2人が新作「にじ」を披露したのは20年2月。その直後、新型コロナウイルス感染が急拡大し、大規模イベントが相次いで中止になる。

「にじ」が初披露されたとき、栄光学園(神奈川県鎌倉市)で旭と一緒に学んだ同級生3人が楽器の伴奏をしている。リコーダーを担当したのは山田剛資だった。

旭と一緒に何度も鉄道旅行をした山田は、友人が若くして突然旅立ったことに戸惑い、どう理解していいか言葉にならない時間を過ごしてきた。リコーダー練習で「にじ」と向き合いながら、自分の精神に変化を感じたと山田は言う。

「彼との関係性が、よくわかっていないところがあって……。まだ若いし、あまりに突然だったでしょう。だからその死を消化できていなかった。彼の曲(を基にした曲)を繰り返し練習するうちに、自分の気持ちを固定化できた。曲を通して彼を思いだし、2人の関係性を曲に閉じ込めたような感覚でした」

『レ・ミゼラブル』で知られる19世紀の仏作家、ヴィクトル・ユーゴーは音楽について、こう語っている。

「音楽は言葉で言えず、しかも黙ってはいられない事柄を表現する」

YUKAに涙を流させ、山田の精神を変化させたのは、言葉を離れた旭のメッセージだった。

■才能はモーツァルト以上だった

境界を越え、モノとモノ、場所と場所、気持ちと気持ちを結ぶ。旭は虹について、そんなイメージを抱いていた。気付かぬうちに、それを共有したのだろうか。YUKAは自作の詞のイメージをこう説明している。

「森の中に美しい光がぱっと差します。そして、旭君が雨のしずくのカーテンをくぐって歩いていき、みんなに出会う。虹の下でいろんな人が出会い、音楽を奏でている。そんな世界が描けたらいいなと思いました」

歌の最後はこんな詞になった。

〈一人では見えない景色を 君と見てみたいんだ〉

作曲家としての旭の才能を高く評価していたのはピアニストの三谷温である。旭は中学に入ってから、三谷にピアノを習った。旭の曲を収めたCDを作成した際、ピアノ演奏したのも三谷だった。

ピアノ
写真=iStock.com/tommaso79
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tommaso79

旭の曲について聞こうと、私は三谷が学生を指導している昭和音楽大学を訪ねた。

「モーツァルトやメンデルスゾーンなど、幼いころから才能を開花させ神童と呼ばれた作曲家がいます。私はそうした作曲家が5、6歳の時に書いた曲を色々と見てきました。そうした大作曲家と比べても、旭君の4、5歳の曲っていうのは素晴らしい。小さいころの曲を比べるとモーツァルトの方が旭君の曲よりもむしろシンプルだ。見たものを音に置き換える旭君の力は特別です。彼の作った曲は大作曲家をしのぐほど素晴らしいものです」

■一流でさえ誰かの影響を受けるが…

モーツァルト以上というのは大げさにも思えるが、三谷は真剣にそう考えている。旭の曲を演奏するうちにそうした感覚を強くしたという。

「(弾いているうちに)どんどん引き込まれる。弾いていると魂が宿って、夢中になる。大げさではなくモーツァルト以上の才能だと思いました。モーツァルトの場合、お父さんが理論家で一流の音楽家、教育者です。幼いころから、父にヨーロッパ中を連れ回され一流の音楽を聴いている。それで大天才が出来上がったんです」

確かに幼少期のモーツァルトは父の影響を受けている。一方、旭は他者の影響を受ける以前に曲を書きはじめた。

「モーツァルトのメヌエットが高く評価されていますが、あれはお父さんに言われて書いている。旭君は見よう見まね、作曲の仕方も習わずに、お絵かきをするように音符を書いて曲にして、10歳までにあれだけの曲を書いた。だからモーツァルト以上と言えるんです」

メヌエットとはモーツァルトが5歳の初めごろに書いたとされる曲である。父レオポルトが息子の作品を楽譜帳の余白に書き留めた。

■プロを裏切った旭の「不器用さ」

日本でも就学前から曲を書く子がいる。ただ、ほとんどの場合、大手音楽教室でトレーニングを受けている。三谷はそうした子の曲を数多く見てきた。

「そうしたところでは先生が細部まで指導します。もっと言うと先生が書いてしまう。子どものコンサートでは、『誰々先生が教えていた』ということも話題になります。教える側にすると、コンサートに教え子の曲を一つも出せないのは恥ずかしい。だから結局、先生が書いてしまう。私たちは楽譜を見ただけで、音楽教室で習った子の曲だとわかります」

旭が幼いころから作曲をしていると聞いたとき、三谷はそうしたケース、つまり音楽教室で習った通りに曲を作っているのだろうと考えていた。しかし、楽譜を見たとき、良い意味で裏切られたように思った。

「幼いころから曲を作る子はいくらでもいる。かなりよくできたとしても、それらしいなと思う程度でしかない。秋の風と言えば、それらしいな。夏の太陽と言われれば、確かによくできているなという感じです。旭君の場合、それとは違いました。不器用と言えば不器用。じっくりと読み込んでも、よくわからない曲がある。しかし、弾いているうちに面白くなるんです」

■左から右に…ではなく縦に音符を置く

彼の曲の特徴は、その数の多さもさることながら、独創性にあった。音楽教室で曲作りを学んでいる子にありがちな、ある種のクセのようなものがなかった。常識外れの音の並べ方をすることが多かった。真っ白なカンバスに、好きなように筆を動かしているようなおおらかさがあった。

作り方も独特で、合奏曲も作るようになると、五線譜の上にパートごとに左から右へ旋律を書き入れるのではなく、縦に音符を置いていく。つまり上から、管楽器、弦楽器、その下に打楽器と楽器ごとに第一小節の音をまず書き入れ、それを終えると第二小節に移るという作り方をしていた。

そうした書き方をするということは、彼の頭の中で、音楽が楽器ごとに、はっきりと立体的に聞き分けられていた証だった。誰からも専門的な作曲法を学んでいないのに、合奏曲をも自然に作曲してしまうところに、彼の類いまれな才能が示されている。

私が旭の存在を知ったのは、その死から1年になろうとするころだった。当時、乳がんについて取材していた私は、ある医療者たちの会合で偶然、希と会った。この会合に出席した理由を互いに説明する中、私は旭が脳腫瘍で亡くなったことを知り、その後、医療者から、旭が多くの曲を作っていたと聞かされた。

彼の曲を集めたCDが2枚、市販されていた。私はそれを繰り返し聴いた。空や緑、水しぶきなど自然を描写した曲が多く、素直でのびのびとした感覚が伝わってきた。

■視力を失いながら書き上げた一曲

旭に興味を持った私は、希から資料を預かり、読み込んだ。彼は多くの日記や作文を残している。直筆の楽譜、闘病記録もあった。

最晩年、彼は自分の命が長くはないと気付いたのかもしれない。すでに視力を失いながら、細る腕をキーボードに伸ばして曲を作った。そうして出来上がった曲が「A ray of light(一筋の希望)」だった。重く、暗い音で始まりながらも途中、深い雲の間から鋭い日が差し込むがごとく、明るいイメージに転ずる曲である。

一筋の光
写真=iStock.com/taka4332
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/taka4332

完成したとき、旭はこう語っている。

「苦しんでいる人たちにとって最初は聴きづらいかもしれません。ただ、途中から希望が差し込みます。そうした人々にとって、この曲が一筋の光になればうれしいです」

自分が苦悶しながらも、彼は最後まで他者を思い遣る気持ちを忘れなかった。自分が遺せるものは何かと考えたとき、そこに音楽があった。彼が命の最終楽章を仕上げようとする姿は、同級生やその親、音楽関係者の心を揺さぶり続ける。

爽やかで、すがすがしい生き方だと思った。彼がそうした思想を持つに至った背景に、何があるのだろう。それを知るため私は、彼を指導した音楽家や教師、彼とともに学び、遊んだ栄光学園の同級生、そして家族から話を聴いてきた。

■死の直前まで「何が遺せるか」を考え続け…

同級生たちは脳腫瘍になった旭を、病院や自宅に、何度も見舞っている。同学年全員で千羽鶴を折り、大合唱で励ました。自分でピアノ曲を作って旭に聴かせた者や、ウクレレを好む旭のためにこの楽器を習いはじめた同級生がいた。「男の友情」という手垢にまみれ、口にすることさえ気恥ずかしい言葉も、彼らの中では死語ではなかった。

旭は晩年、光を失い、立つこともできなくなる。それでも彼は、同級生のピアノやウクレレに応えようと、震える腕で1人、拍手の練習を繰り返した。彼は最後の最後まで生き抜き、自分は周りの支援にどう応えられるか、仲間や社会に何が遺せるかを考え続けた。

社会が余裕をなくしてしまったのだろうか。「自分第一」が恥ずかしげもなく語られる時代である。他者を優先するのは、お人好しのバカがする行為と捉とらえる風潮さえある。しかし、私たちは本来、他者について考えることで幸福を感じられる。それが人間性を高め、文明を育む原動力となってきた。旭と関係した人々の話を聴きながら、私は人間が本来持っている能力を確認できた。

インターネットが普及し、SNS(会員制交流サイト)全盛の時代である。新型コロナウイルスの感染拡大もあり、人と人との接触が減り、デジタル情報のやり取りが急増した。そんな時代だからこそ、旭と彼を取り巻く人々とのリアルな付き合い方は示唆に富む。

■「曲を通して彼とやりとりしている気がする」

旭が逝って5年になる。その存在は今も同級生たちの中に大きな位置を占めている。私が取材の中で拾った彼らの言葉である。

小倉孝保『十六歳のモーツァルト 天才作曲家・加藤旭が遺したもの』(KADOKAWA)
小倉孝保『十六歳のモーツァルト 天才作曲家・加藤旭が遺したもの』(KADOKAWA)

「自分が医師を目指すようになった動機に、間違いなく旭が作用をしています。彼のような病気の子を一人でも多く救えたらと思っています」(吉田幸央)

「医学部を志望したのは旭の闘病を知ったときです。彼が寝たきりになりながら作曲していたことを知り、立派だと思いました。自分のことで一杯一杯のときに彼は、他人のことを考えて曲を作っていた。僕が医学を志したのは彼の影響です」(今井大地)

「彼の曲は強く主張することはありません。何回も聴いていると、また聴きたくなるんです。すっかり自分の一部になった感じはあります。逗子の桜並木を歩いているとき、彼の作った『しずかな春の夜』がふと浮かんできました。曲を通して彼とやりとりしている気がします」(重城守)

「旭の生き方を通し、日々を大切にしないといけないと思いました。やりたいことがあるのに、やれない人がいることを知ったんです。やりたいことができる環境というのは貴重です。旭からそれを学びました」(武優樹)

■「5分の1」の人生で彼が遺したもの

旭の生きた時間は16年7カ月と10日である。日本人の平均寿命は男性でも80歳を超えている。平均的日本人男性の5分の1。これが旭の与えられた時間だった。

一方、彼が与えてくれたものはどうだろう。およそ500の曲を残し、その中には、今なお歌い、奏でられている曲も少なくない。これからも彼の曲は、時代を超えて人々の心を動かすだろう。

弱っていく体力に抗しながら、旭は渾身の力を絞りに絞り、最後に3曲を書き上げた。そのエネルギーの源泉は、「苦しんでいる人たちに勇気を与える曲を遺したい」という思いだった。宮沢賢治の影響もあり、旭は「死んでからでも人の役に立つ」ことを意識している。

限られた時間の波を泳ぎながら、旭は才能の原石を磨き、開花させ、最後にそれを他者に捧げることに精力を傾けた。音楽、友情、教育、闘病、障害、生命、家族。彼の生き方を通して考えさせられることは少なくない。

「生」の長さは時間では測れない。旭の16年は永遠なのだ。

旭は音楽にどんな思いを載せたのだろう。言葉にならなかったメッセージ。それを知るため、「永遠の16年」をたどる旅に出ようと思う。(つづく)

(敬称略)

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小倉 孝保(おぐら・たかやす)
毎日新聞論説委員
1964年滋賀県長浜市生まれ88年、毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長を経て編集編成局次長。2014年、日本人として初めて英外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人』で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。近著に『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)がある。

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(毎日新聞論説委員 小倉 孝保)

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