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「真夏に毛糸のセーター」200%毒親の母は"私の裏切り"で完全におかしくなった

プレジデントオンライン / 2021年5月29日 8時45分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nadezhda1906

幼少期からひとり娘に過干渉な母親。その生い立ちや境遇には同情すべきものもあったが、娘はいつも窮屈な思いをさせられてきた母から一刻も早く逃れるべく、実家を出て結婚した。だが、77歳になった母親は真夏に毛糸のセーターやダウンを着て歩くなど、言動がおかしくなった。それ以来、娘は「1人ぼっちにした私のせい」という罪悪感に苛まれてきた――(前編/全2回)。
この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。取材事例を通じて、ダブルケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。

■養父母に育てられた母親の複雑な生い立ちと境遇

現在東北在住の小林都子さん(50代・既婚)は、大学時代、サークルで出会った夫と20代後半で結婚。3年後に長男を出産し、その後、3歳違いで長女が生まれ、家族4人で幸せに暮らしていた。だが、その後は山あり谷あり。聞けば、幼少期から親に悩まされ続けてきた波乱の人生だったという。

関東地方のある県で生まれ育った小林さんは、1歳のときに父親を交通事故で亡くしているため、父親の記憶はまったくない。

自分を女手ひとつで育ててくれた母親に小林さんは感謝しているが、その一方で複雑な感情を抱いている。小林さんの母親は数奇な人生を歩んできた。母親の実母は産後すぐに亡くなり、実父は乳飲み子を1人で育てられないと判断。やむなく養女に出したため、小林さんの母親は、育ての両親のもとで育った。

小林さんの母親は、子どもの頃から養父母に我慢を強いられて育った。その極めつけは、小林さんの母親が34歳の頃、勝手に4歳年上の男性を婿養子に迎え結婚させたことだった。そのまま養父母の家で結婚生活を始めた小林さんの母親だが、その生活は長くは続かなかった。

なぜなら、婿養子にきた夫がほどなくして交通事故で亡くなってしまったからだ。母親は、たった1人で小林さんを育てることになった。

ところがその4カ月後、79歳だった養母(小林さんにとって母方の祖母)も病気で亡くなってしまい、実家には当時72歳の養父(小林さんにとって母方の祖父)、37歳の母親、2歳の小林さんの3人だけになる。

「母にとって、実家は自分の居場所ではありましたが、育児や祖父母の世話など、しんどいことも多かったと思います」と、小林さんは推測する。

小林さんの父親が交通事故で亡くなった後、父親の兄弟が「形見分け」と言って養父母の家にやってきて、父親が大切にしていた物をほとんど持ち帰ってしまった。それ以降、母親は父方の親族を信用できなくなり、付き合いは途絶えた。そのため、小林さんは父方の祖父母の顔を知らない。

「79歳で亡くなった祖母は、とにかく身体が弱く、母は物心ついた頃から祖母の身の周りの世話をしていたようです。祖父は寡黙で頑固な人だったため、母は子どもの頃からなかなか自分の意見を言えずに育ったと聞きました」

■母親と自分とで90代の血のつながらない祖父の介護をして看取った

母親は、小林さんが中学生になった頃から、講師として家庭科の教師を始めた。小林さんが大学を卒業し、就職が決まる頃、92歳になった祖父の足腰が弱り、介護が必要になってきたため、母親は58歳で教師の仕事を辞めて介護に専念する。

小林さん自身も事務の仕事が休みの日や平日の夜、家にいる間は極力、家事や介護を手伝った。幸い、祖父は認知症ではなかったため、在宅で介護をしていた約2年間は、連れて行けばトイレはできていたし、話すこともしっかりしていた。ただ、小柄な女性である母親と小林さんには、支えがないと歩けない祖父を、入浴させたり通院させたりする際の介助は、体力的に厳しかった。

祖父が体調を崩したのをきっかけに入院してからは、母親と小林さんは交代で病院に泊まり込み、最期は2人で看取った。96歳だった。

■過干渉な母は毒親「私への執着がひどく、いつも窮屈だった」

協力して祖父の介護をする母娘関係だったが、小林さんは、「母親と自分との関係は、実は子どもの頃からあまり良くなかった」と話す。

「母は、いわゆる毒親タイプです。四六時中、私の行動が気になるようで、離れると頻繁に電話があり、私への執着がひどく、いつも窮屈に感じていました」

小林さんが高校生になった頃、好きになった人や付き合い始めた相手のことを母親に話すと、相手のことよりもその両親のことが気になるらしく、根掘り葉掘り聞き出してきては、「父親の職業が気に入らない」「母親の性格がきつそうだ」などと難癖をつけて却下する。

大学卒業後、就職した企業の宿泊研修の最中には、母親は研修施設にまで電話をかけてきた。電話を受けた人事担当者が「急用かもしれないから折り返したほうがいいのでは?」と言うのでかけ直すと、「どうしているか気になっただけ」との返事。小林さんは呆れてものが言えなかった。

就職して4年目。親孝行のつもりで、友人とお互いの母親を連れて海外旅行に出かけたが、翌日から母親たちと別行動を提案すると、「危ないから行っちゃダメ!」とカバンを取り上げられ、せっかくの海外旅行先で外出できずにホテルで缶詰め状態に。友人には平謝りしながら、小林さんは心の底から、「二度と母親と一緒に旅行するものか」と思った。

旅行のためのスーツケースのパッキング
写真=iStock.com/martin-dm
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/martin-dm

そして、就職してから5年目。小林さんが「結婚したい」と言い出したときも、母親はいい顔をしなかった。

小林さんの夫となる男性は、東北地方で生まれ育った。大学進学を機に上京し、下宿暮らしをしていた頃は故郷へ戻るつもりはなかった。だが就職活動が始まると、夫の両親が、長男である夫に戻って来てほしいため、地元の企業への就職を勧めたのだ。悩んだ末に、夫は地元の企業に就職を決める。

■77歳の母親は、真夏にセーターやダウンを着て歩きはじめた

2人は学生時代から交際していたが、母親は結婚に大反対。母親は小林さんの知らない間に、水面下で自分の条件に合う結婚相手を探し、娘の釣書(身上書)を渡すなどしていた。母親の周囲には、小林さんにはすでに結婚を決めた人がいるとは知らずに、親身に相手を探してくれていた人もおり、母親とトラブルになっていたようだ。

「母の希望は、できれば自分と同様に娘が婿養子をもらうことでした。もし、それが叶わず、娘を嫁がせるなら、自分の面倒もみてくれそうなお金持ちの男性を望んでいました。最終的に、現在の夫と結婚することが決まったのですが、両家の顔合わせのとき、母は夫の両親に『娘が嫁いでしまったら、私は今後どうなるんでしょうか?』と言い出し、このことがきっかけで、両家で少し揉めたのを覚えています」

結局、小林さんは結婚して、母親を振り切る形で家を出て、夫とともに東北に移り住んだ。

「過干渉な母親から逃れたい」と常々思っていた小林さんは、せいせいした反面、「母親を1人ぼっちにしてしまった」という罪悪感に苛まれ、結婚後も「実家に頻繁に帰省しないといけない」という強迫観念にも似た気持ちに責め立てられていた。

結婚してから小林さんは、2~3カ月に1度は実家に顔を出すように努めた。子どもができてからは、子どもを連れて帰省。母親は孫たちをかわいがった。

ところが、それから10年ほど経った2005年の夏、母親が77歳、小林さんが30代の頃、実家の近くに住む母親の友人から、おかしな話を聞くようになる。「お母さんが真夏の暑い中、毛糸のセーターやダウンを着て歩いていた」とか、「期日を伝えておいたのに、町内会費を払ってくれない」などだ。

黄色の背景にジャケット
写真=iStock.com/Freer Law
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Freer Law

その頃の母親は、外出をほとんどしなくなり、毎日誰にも会わず、家の中にこもるようになっていた。また、老人性難聴のため、耳が聞こえづらくなり、それに伴って認知の低下が見られ始めていた。

「当時母は、鬱のような症状もありました。私は、養女として育てられた子どもの頃からの積み重なるストレスや、父が亡くなってからも、養父母のもとで2人の世話と子育てをたった1人でしてきた心労に加え、老後あてにしていた私が遠方に嫁ぎ、1人ぼっちになった不安感や虚無感、孤独感などが、母のうつ症状や認知症を進ませる原因になったのではないかと思います」

■「一人ぼっちにさせた私がいけなかったのか…」母に振り回され続ける

小林さんは母親のことが心配になり、「私の家の近くに引っ越してこない?」と提案。すると初めは「住み慣れた土地を離れたくない」と言って嫌がった母親だが、やはり1人で暮らすのが不安になってきていたようで、「あなたの家の向かいになら住んでもいい」「向かい以外は絶対に嫌」と条件付きで承諾。ちょうど小林さんの家の向かいは、土地が売りに出されたところだった。

2005年11月、母親は小林さんの家の真向かいの土地を購入。そして約3カ月後に家が完成すると、母親が引っ越してきた。

当時は、長男は小学校高学年、長女は低学年。実家は母親の思い入れが強く、二言目には「ここで上手くいかなかったら帰るところが必要だから、私の目の黒いうちは処分しない」と言ってそのままの状態だ。

この後、毎日のように母親に振り回され、小林さん自身が体調を崩すほど辛い日々が待っていようとは、このときは想像もしていなかった(以下、後編に続く)。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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