「自分を疑うような人の前に出たくない」大坂なおみが背負わされた重すぎる期待と悪意
プレジデントオンライン / 2021年6月10日 13時15分
■多くのものを背負わされすぎた
いつか溢れるのがわかっていながら、器に雨水がポタポタと溜まっていくのを見ている。やがて雨足が強くなり、表面張力で堪えるかのように思われたそれが一気にふちから流れ落ちていく。
大坂なおみがうつ病を理由として全仏オープン棄権を表明したとき、その心理が理解できたのだろう、日本のメディアはほとんどが「色々あったから、ゆっくり休んでほしいですね」と彼女に対して同情的な姿勢をとった。「私はシャイなんです」。2018年のUSオープンで優勝後、さまざまな媒体でインタビューされるたびにそう繰り返していた大坂なおみは、以来ほんの数年であまりにも多くのものを背負い、背負わされすぎてしまった。
そこへ至った要因はいくつかある。
■アメリカのメディアでキャッチーな存在
日本とハイチ、アジア系とアフリカ系双方の流れを持つ彼女の“カラフルな”人種的バックグラウンドが、今この2020年代、特にアメリカのメディアにおいて非常にキャッチーで歓迎されるものであること。女性であり、男性ではないこと。何よりも、昨年コロナ禍の最中で起きたブラック・ライブズ・マター(BLM)運動に対して強い当事者意識を持ち、抗議の意味を込めて試合をボイコットしたり、亡くなった黒人被害者の名を書いた黒いマスクを身につけて試合に臨んだりするなど、自らの言動を通して意見を発信してきたこと。それらが彼女をヴォーグ誌の表紙に載せ、ナイキの広告に登場させ、やがて「世界規模の代理戦争の戦士」に祭り上げた(祭り上げてしまった)のだということを認めなかったら、私たちは誠実ではないだろう。
ラケット一本を持って対戦相手と一対一の熱戦を繰り広げる大坂なおみは、純粋なテニスプレイヤーであること以上に政治的、文化的アイコンとしての意味を纏わされ、彼女の闘う姿はさながらある種の剣闘士(グラディエーター)だったのである。
■世界一「稼いでいる」女性アスリート
古代ローマの社会がそうであったように、剣闘士が闘う姿に民衆は釘付けになり、熱狂し、日々の鬱憤を発散させる。見世物、興業として金を生み、政治的なプロパガンダの場となる。スポーツマンシップなるものは「純粋」だ、だからスポーツに政治を持ち込むなという不思議なものいいがあるようだが、それは歴史というもの、あるいは人間そのものの理解がちょっと不足している。スポーツそのものは政治的ではないが、勝敗がありランキングを決めるスポーツの大会とは勝者がいて敗者がいる限りいつも実に政治的なものであり、時に誰かの何かの代理戦争の場である。
2018年のUSオープン決勝で審判への激昂を隠さないセリーナ・ウィリアムズに勝利したとき、大坂なおみは「攻撃的でなく、抑制的でおとなしく、テニスという競技の品位を守れる、新たなチャンピオン」と認識された。2020年、コロナ禍で世界中が外出を控えメディアに釘付けになる中、多くの人にとっては“画面の中のアメリカ”で起こったBLM運動に「黒人女性として」共感を寄せ、世界中の視聴者が関心を寄せるテニス四大大会で個人としての意見、姿勢を表明した。
今年23歳の大坂なおみは、さまざまな価値観や利害が複雑に絡み合う多様性社会のオピニオンリーダーに選ばれ、日清食品やナイキやルイ・ヴィトン、スィートグリーン(サラダレストランチェーン)など、若者に訴求するアパレルやライフスタイルブランドのイメージを代表するようになったのだ。いま、大坂なおみは世界で最も「稼いでいる」女性アスリートである。
![テニスラケットとボール](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/a/1/670/img_a1e0c6ed889631582ff9afa1f57705ae1035097.jpg)
■誰もが喜んで会見に臨めるわけではない
人前でちゃんと言葉にして発言してナンボ、の文化では、記者会見の拒否やうつ病理由の大会棄権は敵前逃亡くらいに受け取る人々もいる。言語コミュニケーション社会であるアメリカのニュース番組では「試合後の記者会見までを含めてテニスプレイヤーなのだ」と忠告する、本人も元テニスプレイヤーのコメンテーターもいた。
だが、罰金を払えるほどに「稼いでいる」選手の中には、罰金を払えば記者会見に出なくていいとばかりに振る舞う選手もいるのだから、記者会見がストレスのかかる場であることは一般人の私たちにだってわかる。勝っても負けても記者会見、誰もが喜んであの場に出る精神状態にあるわけではない。
■取材姿勢を反省するメディアも
大坂なおみの全仏棄権のニュースは、欧米の大手メディアでもたくさん取り上げられた。良心的なメディアに掲載された記事の中には、記者会見の場でアグレッシブになる自分たちの取材姿勢に対して反省を見せるものもあった。
多くのメディアが1箇所に集められ、1社あたり限られた時間で確実にいい記事タイトルになるような決めフレーズを引き出すには、テクニックが必要になる。特に、テニスは野球やバスケットボールなど年間の試合数が多いチームスポーツとは異なり、選手が記者会見に応じてくれるチャンスが少ないため、メディアは欲張りになるのだそうだ。他社がどんどん攻めていく中で、自分たちはぼんやりのどかな質問をしているようなら、他社に笑われる。質問はどんどん具体的に、攻撃的になり、時にあえて取材対象の感情を煽るなどしてその瞬間の表情を撮る。
■スポーツジャーナリズムの言い分
視聴者や読者にその選手の素晴らしさ、競技の楽しさや躍動を伝えたい、その試合から選手の物語を、人生を紐解きたい。そう考えるスポーツジャーナリズムの普及によって、新聞雑誌などの印刷媒体やテレビチャンネル、ウェブサイトなど、世界中にさまざまなスポーツメディアが生まれた。
そんな中にも、定義の広い“ジャーナリスト精神”の言葉のもと、センセーショナリズムに傾倒したり、数字至上主義に走ったりして、意地の悪い質問をぶつけるメディアがあるのは、私たちも知っているはずだ。「アスリートの心の健康状態が無視されていると感じていた。自分を疑うような人の前には出たくない」。大坂なおみのこの言葉は、そんなマスコミに対して発されたものだ。
■情報消費に麻痺したメディアと視聴者の心理
コロナ感染拡大初期で世界中がステイホームの渦中にあった昨年5月ごろ、人々は情報を求め、世界中のメディアが好成績を上げ、特にウェブでは過去最高のアクセス数を経験しているメディアも多かった。それは今も続く傾向で、ライフスタイルがオンラインシフトする一方で時間もたっぷりある状況下では、人々の可処分時間と可処分所得は情報を提供するメディアへ押し寄せ、マスコミは総じて賑わっている。
すると、よりわかりやすく、よりセンセーショナルな話題を次々と投下して視聴者や読者を巻き込み、飽きさせないことを意識して、マスコミは“引き”があり、かつ“なるべく長持ちする”話題を探す。それがスキャンダルであり、何かと何かを対立させて戦わせる代理戦争だ。しかも、各社間で他社との差別化を図るから、政治的な左右や上下のポジションがマッピングしやすいタイプの代理戦争ならなお良い。
■代理戦争を仕掛けては消費するマスコミビジネス
だから「人種問題」や「ジェンダー」や「格差拡大」には、視聴者や読者だけでなくマスコミの関心も高いのである。賛否両論、意見沸騰。みんなが一斉に「賛成」したり「反対」できる話題は価値が低い。たとえばみんなが「綺麗ね」と口を揃えるお行儀の良い美人女優は話題としてそこまでだが、ある層が熱狂的な支持に沸くのに別の層は罵るようなスキャンダラスなアイドルは、話題が長続きするから、より価値があるのだ。
依存症的とすら呼べる情報消費に麻痺するのは視聴者だけではない。大坂なおみの全仏OP棄権は、そんな代理戦争を仕掛けては消費する、現代のマスコミビジネスへのNOなのである。
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コラムニスト
1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。
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(コラムニスト 河崎 環)
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