「女の子が行く場所じゃない」それでもイチエフの給食センターを職場に選んだ理由
プレジデントオンライン / 2021年6月23日 11時15分
■食堂ができて、ようやく「普通の現場」になった
12時00分──。
福島第一原発の一日の中で大型休憩所が最も賑わうのは、誰もが想像する通り昼食の時間帯だ。
とりわけこの現場で長く働いている作業員や東電の社員にとって、休憩所内に食堂が完成した日の喜びは忘れ難いものだと言えるだろう。
Jヴィレッジに戻るまで食事はおろか、水分さえまともに補給できなかった事故の初動時。通勤時にいわきの市街地や国道沿いのコンビニで弁当やおにぎりを買い、それを冷えたまま食べることの多かった日々──。例えば、私が知り合った廃炉現場で働く人の中には、「現場が大きく変化した瞬間を一つ挙げるとすれば、大型休憩所でまともな食事がとれるようになったとき」と、4号機の使用済燃料取り出しなどよりも大きなインパクトがあったと語る者もいた。
2018年2月まで東電廃炉推進カンパニーのトップだった増田尚宏は、「イチエフを普通の現場にする」を合言葉にしていた。その意味で食堂の設置は、労働環境が「普通」になってきた、とようやく多くの作業者が感じた象徴的な出来事だったのである。
■肉、魚、麺、丼、カレーの5種類はすべて380円
現在、イチエフには大型休憩所の他、東電社員の働く新事務本館など3カ所に食堂があるそれらを運営している「福島復興給食センター」は、トヨタ自動車の社員食堂も運営する名古屋のケータリング大手・日本ゼネラルフードと、地元企業の鳥藤本店の合弁という形をとっている。
原発構内の食堂で提供される食事は帰還困難区域である大熊町の調理施設で作られ、およそ2000食分の料理が1日4回に分けてトラックで運ばれる。メニューは「5定食」と呼ばれる形式で、昼は「A定食」(肉)、B定食(魚)、麺定食、丼定食、カレーの5種類。値段は全て380円だ。とりわけカレーの種類の多さには定評があり、様々なトッピングや「グリーンカレー」などのバラエティを駆使して、約30種類のメニューが日替わりで用意されているというから驚く。
「あのココイチにだって負けていませんよ」
栄養士として給食センターに勤務し、食堂のメニュー作りを担当してきた竹口暁子はそう言って笑った。
■「社食」なのに、作業員からのクレームがほとんどない
「この食堂を作るとき、『1カ月、カレーのメニューを被らせないようにしてほしい』と社長から指示されたんです。考えるのが本当に大変だったんですから」
また、廃炉の現場の過酷な“歴史”を窺えたのは、給食センターの社長を務める渋谷昌俊の「この新しい食堂には作業員からのクレームがほとんどないんです」という言葉だった。
「基本的に社食というのは、肉が固い、冷たいといったものから、異物が入っていたというものまで、利用者からの意見が多く寄せられるものなんです。でも、イチエフの食堂ではその種の声がほとんど上がらないんですよ」
ローソンの店長・黒澤が「食べ物の恨みは怖いですから」と話したのは冗談ではなく、食堂ができて彼らは初めて温かい白米や汁物、生野菜や果物を食べられるようになった。「それだけでも有り難い」という現場の雰囲気が、クレームの少なさに反映されているのだろう。
だが、そのような苦情の少なさの背景には、イチエフの社員食堂にかける同社の熱意の大きさもある。何しろこの食堂は、なかなかの充実ぶりなのである。
■「イチエフだからこういうものしか出ない」というのは絶対にダメ
竹口によれば人気メニューは揚げものや肉系で、トンカツや唐揚げなど「お子様ランチに入っているようなメニューが大人気」とのこと。そこで2月のバレンタインデーには、「大人のお子様LUNCH」という特別メニューを出した。ハンバーグ、から揚げ、エビフライ、チキンライス、スパゲティの合わせ技、小さなチョコレート付きでカロリーは1200弱。
食堂では月毎にこうした「フェア」と呼ばれる期間を設定し、特別なメニューを用意している。栗やサンマなど秋の味覚を打ち出した「秋まつり」、ナシゴレンやタイカレーを組み入れたアジアンフェア、「なごやうまいもんフェア」ではA定食に味噌串カツ、麺定食にあんかけスパゲティ、丼定食としてどて飯を提供し、クリスマスにはフライドチキンを入れ込んだ。
「私たちはここで食堂を始めた時から、『普通の食堂』と同じことがしたいという目標を持っているんです。『イチエフだからこういうものしか出ない』というのは絶対にダメだ、と思ってきました」
と、竹口は言う。
「だから、何でも『美味しい』と言って食べてもらえることに甘えず、自分たちもどんどんレベルを上げていかないと。現場の人たちの舌が肥えてきて、食堂があるのが当たり前になってくれば、いろんな意見が出てくるはず。その声が上がってくる前に、新メニューを開発して飽きさせないよう努力をするのが、私たちの仕事です」
ただ、今でこそ彼女は当たり前のようにそう胸を張るが、2015年に給食センターが稼働するまでには、様々な紆余(うよ)曲折と彼らの努力があった。
■社長も調理師も、愛知県内の職場から転勤してきた
社長の渋谷も調理師の竹口も、以前は愛知県内の職場で働いてきた。浜通りに来るのは初めてで、最初は様々な戸惑いの中でこのセンターを一から作ってきたのである。
もともと子会社の弁当工場の責任者を務めていた渋谷は、2014年の初頭に日本ゼネラルフードの社長から福島への赴任を打診された。同社は震災後に売りに出た東電の子会社・東京リビングサービスを買収しており、その縁でイチエフの食堂事業についての提案があったという。
だが、給食センターの建設予定地を訪れた渋谷は最初、「こんな誰もいないところに、どうやってスタッフを集めればいいのだろう」と途方に暮れたと振り返る。
いまでこそ大熊町の大川原地区には、町役場と復興公営住宅、東電社員寮や協力企業のプレハブ、広大なモータープールなどが建設されているが、当時はまだ周囲に雑木林や寒々とした空地が広がっているだけだった。
■初回の説明会に集まったのはわずか8名だった
名古屋で働いてきた彼にとって、それまで原発事故は遠い出来事でしかなかった。まるで無人の映画のセットのような街を車で走りながら、「とんでもないところに来た」と思うだけではなく、彼は「こういうことだったんだ」と妙に納得する気持ちを同時に抱いた。
「高速のインターチェンジを降りても、除染をしている人たちが少しいたくらいで、あとは全く何もない。従来の食堂では女性が多く働いているわけですが、ハローワークや役場で相談しても、『あの辺りで働く女性はいないですよ』と言われ、かなり不安になりました」
構内の食堂に必要な人員は約100名を見積もっていた。しかし、いわき市内で募集広告を出してみたものの、初回の説明会に集まったのはわずか8名だったという。さらにいわき市の飲み屋で地元客と話しても、大熊町に給食センターを作ると言うと驚かれた、と彼は続ける。
「当時は地元の人からも『大熊って防護服を着ているんでしょ』とよく言われたものです。名古屋から来た僕らにとっては意外でした。地元の人でもそういう認識なのか、と。そのときは『30人しか集まらなかったら、どうやってオペレーションしようか』と、大熊に連れて来る予定のスタッフと真剣に話し合いました。こうなったら全員で作って、全員でマイクロバスに乗って発電所に行き、また帰って来て仕込みをやるしかないか、なんていう話が全く冗談には感じられませんでした」
幸いだったのは、不調に終わった1回目の説明会は応募者こそ集まらなかったものの、テレビや新聞社などのマスメディアの関心を引くニュースだったことだ。その後、渋谷は福島県内で10回ほどの説明会を開いたのだが、その度に知名度が上がり、参加者の人数も増えていった。結果として100名の定員に対して186名の応募者が集まり、彼はほっと胸をなでおろしたのである。
■「働く場所」ができると、小さな「日常」が再び生まれる
福島復興給食センターの運用が始まったのは2015年6月1日。同センターは9828平方メートルの敷地に建つ二階建ての建物で、仕込みから調理、搬送までが完全分業で行なわれる。約600人分の味噌汁を一度に作れる巨大電気釜、フライヤーや魚焼き機、炊飯器など、オール電化の全自動調理機を備えた最新の設備となっている。
この建物の2階の渡り廊下には、今も復興給食センターの試験運用が始まった日の記念写真が飾られている。日本ゼネラルフード本社の社長と鳥藤本店の重役を含め、約100名のスタッフが一堂に会したものだ。センターの従業員は真っ白な制服、食堂のスタッフはスカーフを巻いた姿で写っている。みな笑顔だ。6割が女性でいわき市の在住者が最も多いが、避難生活を送る双葉町や大熊町の出身者も10人以上いる。
給食センターの設立から責任者を務め続けてきた渋谷はこの写真を見る度、そのときの喜びが胸に甦ってくる。
初めて大熊町を訪れたとき、「こんな誰もいない場所で給食センターなどできないのではないか」と不安だった。だが、こうして一つの「働く場所」ができると、そこには人々が出勤する風景が現れ、彼ら・彼女たちの乗る自動車が道を走り、小さな「日常」が再び生み出された。その一連の過程を彼は確かに見て、自らも体験したのだった。
■ここでは数えきれないほど「ありがとう」と言われてきた
「社員食堂が新聞に載ったり、ニュースに出たりすることはまずありません。だけど、ここでは多くの取材を受けてきました。日本一注目されている食堂を任されているんだ、という意識でやっています」
それに──と彼は言う。
「この前、親会社の社長に言われたんです。『おまえの様子を見ていると、ここに来るためにゼネラルフードで修業をしてきたんだな、って思うよ』と。私もそう感じています。この会社に入ってもう37年が経ちますが、管理者として頭を下げに行くことはあっても、お客さんから『ありがとう』と言われることはほとんどありませんでした。でも、ここでは数えきれないほど『ありがとう』と言われてきました。だから、ここは私にとって誰かが食べるものを美味しく作る努力をし、実際に美味しいと言ってもらえる場所。それって私たちの仕事の原点だなと思うんです」
あと数年で60歳を迎える渋谷は最近、「定年までここにいますよ」と社長に告げた。すると、「なに言ってんだ。延長して65までいればいいよ」と返されたのだと、嬉しそうに話すのだった。
■「子供を産む前の女の子が行く場所じゃないよ」と心配された
2018年4月に異動で愛知県へ戻った竹口にとっても、この給食センターでの経験は生涯忘れられないものとなった。
「もしあの職場に行かなかったら、私は地震のことなんてほとんど忘れたまま生きていたと思うんです」
栄養士として大熊町に行くことになったとき、彼女は職場の同僚から「大丈夫なの?」と心配されたものだった。「子供を産む前の女の子が行く場所じゃないよ」と心配され、不安になって両親にも相談した。そのとき「そこで子供を育てている人もいるのに、そんなことを言うのは失礼よ」という母親の言葉に背中を押された、と彼女は振り返る。
そうして給食センターで働き始めた彼女は、そこで初めて原発事故の「被災地」で生きる人々にも会った。
最初の頃、双葉町や大熊町に暮らしていた従業員に、「近いんだから、仕事帰りに家の様子を見てきたら?」と彼女は聞いていた時期がある。しかし、そう聞くと誰もが口ごもり、何とも言えない愛想笑いを浮かべたことを、今でも胸に留めたままでいる。
■「まだタイベック(防護服)を着ていると思っている人も多い」
「あるとき『自分の建てた家を見ると、寂しくなっちゃうから行けないの』と言われ、はっとする思いがしたんです。彼女たちが抱えている複雑な思いを垣間見た気がして」
地元採用の女性たちの中には、条件の良い職場を探していたというだけではなく、福島の「復興」に少しでも携われる仕事をしたい、という気持ちを持つ人も多かった。そんな彼女たちと3年間という時間をともに過ごすうち、竹口もまた福島のために何かをしたいと考えるようになった。
「大熊町で働き始めてから、私は名古屋に帰る度にこの場所のことを話すようになりました。地元に帰ると、まだタイベック(防護服)を着ていると思っている人も多いし、『そんなところでご飯を食べて大丈夫なの?』と言う人もいます。私自身、それまで福島の復興なんて考えたこともなかった。いまは、もっとみんなが知らないといけない、と思うようになったんです」
2017年12月、イチエフ内の食堂では合計100万食を達成し、同月14日にフェアが開催された。これまでの人気メニューと県産品メニューとして竹口たちが用意したのは、A・ミックスグリル、B・ミックスフライ、麺・なみえ焼きそば、丼・豚肉うなダレ丼、カレー・ロースカツカレーであった。
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ノンフィクション作家
1979年生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『こんな家に住んできた 17人の越境者たち』(文藝春秋)、『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)などがある。
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(ノンフィクション作家 稲泉 連)
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