「なぜ日本は中国との泥沼の戦争を選んだか」84年前の日本政府が間違った根本原因
プレジデントオンライン / 2021年7月9日 18時15分
■太平洋戦争を感情的に論じても意味がない
昨年、筆者はプレジデントオンラインに、「『なぜ日本は真珠湾攻撃を避けられなかったのか』そこにある不都合な真実」という記事で、日本の太平洋戦争の原因を進化政治学(evolutionary political science)の視点から論じた。
この論考では、多くの日本人が、太平洋戦争や日中戦争、あるいはそれに至る戦前の日本外交が「道徳的に間違っていた」と教えられてきたことを指摘した。歴史を道徳で論じるのは思考停止に他ならない。そうではなく、われわれはなぜ、いかにして任意の歴史的事象が起きたのかを客観的、理性的、科学的に考察する必要がある。
そこで本稿では「進化政治学」に依拠して、日中戦争がなぜエスカレーションしたのか、という歴史のパズルを解きほぐしてみたい。
1937年7月7日、北平近郊の盧溝橋付近で日中両軍が衝突した(盧溝橋事件)。7月9日、近衛内閣は現地解決を促し、軍交渉を通じた停戦協定により事態は収束するかに思われたが、陸軍中央では対中制裁の機運が高まり、事態はエスカレーションの様相を呈し始める。
7月11日、近衛内閣は不拡大方針を撤回して、「今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし」と、中国側の悪意を誇張する華北派兵声明を発表した。またその裏で近衛は首相官邸に政・財・言論界の代表を招待し、華北派兵への「国論の統一」を要請して、拡張的政策への支持を得ることに成功した。
同時期の状況をより良く理解する上で、この時各界代表の会合に出席していた、石射猪太郎東亜局長の回想が有益であろう。
上記の石射の回顧録を検討した上である歴史家の筒井清忠は、「風見は、近衛の先手論の先手を取ったのか、危険な戦争型ポピュリズムの道に日本を導いた」、「現地の和平の努力を『新聞記者出身で』『ジャーナリズムの利用が上手な』『風見書記官長』を軸とする内閣が潰して戦争を拡大させていった面は、やはり否定できない」と論じている。
■日中戦争が泥沼化したのは偶然ではない
日中戦争がエスカレーションし始めたことは偶然の産物ではない。
日中戦争がその典型的な事例であるように、国家の安危に関わる和戦の決定をめぐり、権謀術数に長けた指導者が操作するナショナリズムは戦争の重大な原因とされている。
このことはジョン・J・ミアシャイマー(John J. Mearsheimer)、スティーヴン・ヴァン・エヴェラ(Stephen Van Evera)、ジャック・スナイダー(Jack Snyder)、バリー・R・ポーゼン(Barry R. Posen)、ジェフリー・W・タリアフェロ(Jeffrey W. Taliaferro)をはじめとする有力なリアリストらに指摘されてきた。
とりわけ、ナショナリズムと戦争の問題をめぐり、これまでリアリストは一つの普遍的な現象に言及してきた。それは、指導者がしばしば国民のナショナリズムを喚起して、拡張的政策への支持を調達しようとするというものである。
理論的に言えば、この時に用いられるのがナショナリスト的神話づくり(nationalist mythmaking)という、自己賛美(self-glorifying)・自己欺瞞(self-whitewashing)・他者悪意(other-maligning)からなる、排外主義的なレトリック(政治的プロパガンダ、メディア操作など)である。
近衛内閣のナショナリスト的神話づくりという意図的な政治的説得・動員戦略の結果、一時は軍交渉により停戦も見込まれた日中戦争は、再び熱を帯びてエスカレーションしていった。政府のナショナリスト的神話づくりは成功して、国民は近衛内閣に日中戦争拡大という拡張的政策の支持を与えたのである。
■愛国主義的な報道で国民は加熱
7月28日、日本軍が北平・天津で攻撃を開始すると、新聞は「皇軍・破竹の猛進撃」との号外を発した。近衛らの狙い通り、政府の拡張的政策を支持するような愛国主義的報道は過熱し、「検閲を経た報道によって、国民の戦意は急速に高まっていった」。
8月15日、日中間の衝突が不可避となると近衛内閣は、「帝国としてもはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲(ようちょう)し、もって南京政府の反省を促すため、今や断固たる措置をとるのやむなきにいたれり」と、「暴支膺懲」声明を発表する。
ここでは日本の戦争目的が「日満支三国間の提携融和」にあることが明らかにされた。こうした自己賛美や他者悪意を特徴とするナショナリスト的神話づくりが続き、8月17日、ついに不拡大方針放棄の正式決定に至る。
9月11日、近衛は日比谷公会堂で行われた国民精神総動員大演説会で、ナショナリスト的神話づくりの一つとして、満員の聴衆に向け国民一丸となり戦うことを求めた。
■排外的なナショナリズムを抑えられなかった日本政府
12月13日午後、南京陥落を受け日本中は歓喜の渦に包まれた。
12月22日、広田外相はディルクセン駐日ドイツ大使(Herbert von Dirksen)に新たな和平四条件を提示したが、それには満州国の正式承認と対日賠償という中国にとって容認し難い条件が含まれていた。
蔣介石が敗戦国のような扱いを受け入れるとは思われないので、相手のメンツを保ちつつ和平交渉を進めるべきだったが、日本は飛躍的に条件をつり上げたのである。
つり上げられた和平条件は12月26日ごろ、中国側に伝わり大きなショックを与えた。ところが蔣介石はそれに速やかに回答しなかったので、日本側は回答期限を1938年1月15日に定めた。期限前日の1月14日、新たな和平条件の詳細を説明してほしいとの中国側の回答が、ディルクセンを通して日本側に伝わった。
だがそれを近衛や広田は、中国側が講和に誠意を持たず遷延に出ているものと判断した。結局、期限内に回答は得られず交渉は打ち切られた。1938年1月16日、近衛は「対手とせず」声明を発し国民政府と断絶して、傀儡政権の中華民国臨時政府に肩入れすることを説くに至る。
しかしなぜ日本政府は「対手とせず」声明という、国民政府の悪意を誇張するナショナリスト的神話を掲げ、交渉条件つり上げや交渉打ち切りといった失敗を犯したのだろうか。
その一つの説明は、この時日本政府は湧き上がる国民の排外的ナショナリズムを既にコントロールできなくなっていたというものである。
ナショナリズムは諸刃の剣である。当初、排外的ナショナリズムを煽って好戦的世論を焚きつけたのは近衛だったが、この期になるとそれが跳ね返ってきて、政府の対外政策の自律性が脅かされるに至っていたのである。
■政治的な党派性の根底にある「部族主義的メカニズム」
なぜ、近衛内閣は国民の排外主義的ナショナリズムをコントロールできなくなってしまったのだろうか。
この問いを答えるうえで重要な役割を果たすのが、部族主義の心理メカニズム(部族主義的メカニズム)という進化論的な知見である。
人間の脳は直感的にわれわれ(we)と彼ら(they)をわけ、彼らよりわれわれをひいきするように設計されている。こうしたシステムが部族主義的メカニズムであり、それは国家レベルではナショナリズム、民族レベルでは自民族中心主義(ethnocentrism)といった政治学的現象を生みだす。
一部の自然科学的知見は、ナショナリズムやエスノセントリズムが人間に備わった普遍的特性であることを明らかにしている。たとえば、幼児は言語の手掛かりを頼りに内集団のメンバーを特定し、彼らに対して好意をいだく。
また、潜在的連合テスト(implicit association test)は大人、子供、そして人間と同じ霊長類のサルにおいて、外集団のメンバーに対する広範なネガティブな連合があることを明らかにしている。
あるいは政治的イデオロギーについていっても、心理学者ジョナサン・ハイトらが論じているように、そもそもリベラルや保守といった党派性はそれ自体、部族主義に由来するものである。
すなわち、リベラルはリベラル陣営という部族主義的な感情に従って動いており、保守もまたしかりということになる。ここからわかることは、部族主義は時としてイデオロギーを凌駕して、内集団を結束させるということである。
■独裁者は部族主義を直観的に理解していた
そしてその結果、以下のナショナリスト的神話モデルにかかる三つの仮説が導きだされる。第一に、指導者はしばしばナショナリスト的神話づくりで国民の排外的ナショナリズムを駆りたて、拡張的政策への支持を調達しようとする(仮説①)。
第二に逆にしばしば国民は、指導者のナショナリスト的神話づくりで排外的ナショナリズムを駆りたてられ、指導者に拡張的政策への支持を与える(仮説②)。
第三に指導者はしばしば、自らが引き起こした排外的ナショナリズムに対外政策の自律性を拘束される(仮説③)。
上記の仮説①と仮説②を導きだす上で重要なのは、人間には生来、部族主義の心理メカニズムが備わっているので、指導者はそれに乗じて排外的ナショナリズムを喚起するような好戦的政策をとり、国民から政治的支持を得ようとするということである。
旗の下での結集効果(rally-round-the-flag)の論理が、部族主義をめぐる進化政治学的知見で裏付けられているのはこうした理由による。
政治的指導者は国民やエリートが部族主義的であることを直感的に理解しているので、このことに乗じてナショナリスト的神話づくりに勤しむ。こうした意味において、国民の心に潜んでいる部族主義に乗じていたヒトラーや松岡洋右といった扇動的指導者は、直感的な進化政治学者だったのである。
こうした点について、リアリストのミアシャイマーは実に鋭い指摘をしている。
■ナショナリズムを適度にコントロールするのは困難
仮説③の論理を理解するためには、必要かつ適切な量のナショナリズムを生みだすという巧妙な策を講じるのは通常困難だということを踏まえる必要がある。
つまるところ、しばしばナショナリスト的神話づくりは横滑りして、国民は指導者が志向するレアルポリティーク(理想ではなく、利害によって行使される政治権力の在り方)を阻害するほどの過度な排外的ナショナリズムに熱狂するに至るのである。
たとえば中国政府は普段、学校教育やメディア操作を通じて反日・反米感情や領土をめぐる愛国主義的感情を煽っているが、国民の排外的ナショナリズムが政府のレアルポリティークを阻害するようになると、それをコントロールして国民の怒りを鎮めようと熱心になるのである。
■「世論の圧力」を受けて対外政策を誤ってしまった
メディア操作やプロパガンダといったナショナリスト的神話づくりを通じて、国民に日中戦争が大きな優勢の下で進んでいるとの認識を与えていたため、交渉を成立させるならばその条件は圧倒的に有利なものでなければ、国民からの支持が得られないと近衛内閣は認識していた。
実際、広田外相は交渉条件のつり上げが「世論の圧力」によるものだったことを認めている。すなわち12月14日の大本営政府連絡会議での「和平条件」は、「国民の期待」「国内の要求」「かかる条件にて国民はこれを納得すべきか」を考慮せざるを得ないものになっていたのである。
史実は、近衛内閣が排外的ナショナリズムに熱狂する国民に拘束され、対外政策の自律性を拘束されていたことを示唆している。
近衛内閣による一連のナショナリスト的神話づくりが最高潮に達したのが、1938年11月に提唱された自己賛美と自己欺瞞に満ちた東亜新秩序声明である。そこで近衛内閣は、「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」を戦争目的に規定するに至る。
この時点で戦争目的は、「対支一撃論」により華北問題の全面解決を目指す軍事的目標から、東亜新秩序創設を目指す政治的・道徳的目標に置き換えられる。
■ナショナリズムが戦争拡大に影響した“科学的根拠”
以上、近衛内閣のナショナリスト的神話づくりという視角から、日中戦争をめぐる日本外交を検討してきた。これらをまとめると、ここでナショナリスト的神話モデルを例示するために行った事例研究で重要だったのは、以下の点にあるといえよう。
第一に日中戦争拡大の過程で、近衛内閣はしばしばナショナリスト的神話――この際、華北派兵声明、「暴支膺懲」声明、東亜新秩序声明など――に訴えて国民の排外的ナショナリズムを喚起し、日中戦争拡大への支持を調達しようとしていた(仮説①)。
第二に国民はしばしばこうした政府のナショナリスト的神話づくりに呼応して、近衛内閣に日中戦争拡大への支持を与えていた(仮説②)、第三に近衛内閣はしばしば自らが喚起した国民の排外的ナショナリズムに拘束されて、日中交渉における政策の自律性を拘束されていた(仮説③)。
仮に人間に部族主義の心理メカニズムが備わっていなければ、近衛内閣がナショナリスト的神話づくりで排外的ナショナリズムを駆りたてても、国民はそれに応じなかっただろう。
また、そもそも風見や近衛は国民が排外的ナショナリズムに熱狂して、日中戦争を支持するとは考えなかったため、ナショナリスト的な扇動策をとることはなかっただろう。
一見すると、日中戦争の拡大にはナショナリズムが大きくかかわっている。しかし、なぜ、いかにしてナショナリズムが戦争拡大に寄与したのかを科学的根拠が備わった形で説明するためには、理論家は部族主義という人間本性をめぐる科学的知見を理解する必要がある。
こうした進化政治学の知見を踏まえることではじめて、社会科学者は、ナショナリズムが戦争を起こる論理について、実在論的な意味での科学的妥当性を備えた因果メカニズムを与えられるようになるのである。
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広島大学大学院人間社会科学研究科助教
コンシリエンス学会学会長。博士(法学)。2009年に慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学大学院法学研究科前期および後期博士課程修了。同大学大学院研究員および助教、日本国際問題研究所研究員を経て今に至る。政治学、国際関係論、進化学、歴史学、政治思想、哲学、社会科学方法論など学際的な研究に従事。主な著作は、『進化政治学と国際政治理論 人間の心と戦争をめぐる新たな分析アプローチ』(芙蓉書房出版、2020年)。
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(広島大学大学院人間社会科学研究科助教 伊藤 隆太)
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