「私を愛してくれる唯一無二の存在」そんな母親と完全に連絡を絶つようになった理由
プレジデントオンライン / 2021年7月15日 11時15分
■優しい母…けれども「恐怖」そのものだった
子供時代まで記憶をさかのぼると、母親はもともと優しく笑顔がかわいらしい人で、私と、ひとつ年上の兄がまだ幼いときには食事に出た魚の骨をできるだけ抜いてくれたり、ぶどうの皮をむいてくれたり、お弁当を作ってくれるような母親だった。
母親が不在のときに腹をすかせてはかわいそうだからと、小学校1年生くらいの頃にはすでに料理を教えてくれ、ごはんの炊き方、みそ汁と卵焼き、カレーやチャーハンくらいは一通り作れるようになった。これは母親が子供の頃、共働きの両親が夜遅くに帰ってくるまで食べるものが何もなく、いつも飢えていた経験を自分の子供にはさせたくなかったからだそうで、そのおかげで私(と、私に無理やり食事を作らせていた兄)は子供時代、飢えに苦しむことはなかった。
しかし、特に幼少期の私にとって、母親の存在は「恐怖」そのものだった。母親は精神的に不安定で、感情的で、いつも余裕がなかった。父親が家庭にまったく関心のない人で、いわゆるネグレクトであったため、母親は父親の分も親の務めを果たさねばならないと自分に言い聞かせている節があり、子供への関わり方は過保護で、恐怖政治的な傾向にあった。
■泣きわめくわが子を窒息死させかけた
母親は、私と兄がまだ0歳と1歳の頃、泣きわめく私たちの顔に毛布をかけ、窒息死させかけたことがある。
「一人で子育てしてると、おかしくなってくるわけ。泣き声がうるさくて、早く泣きやませないと、って思って。あ、毛布で顔を覆えばいいんだ、って。そしたら静かになって、ホッとしたんだけど。そこで冷静になって、自分のことが怖くなってさぁ。だからお父さんが帰ってくるまで、あんたたち別の部屋に隔離して、耳ふさいでずーっと泣いてたの」。
母親はこの話を度々私に聞かせたが、毎回特に深刻に話すわけではなく、悪びれる様子を感じさせるわけでもなく、まるで子供が友だちの話をするかのような無邪気ささえ感じさせた。
しかし、それほどまでに追い詰められていた母親は、私たち兄妹が言葉を覚え、自分の足で歩き、母親の思い通りにならない年頃になると、よく私たちのことを殴るようになった。
まだ4歳くらいのときだったか、コップに入った飲み物をこぼしてしまい、思い切りビンタを食らったことがある。そのときの恐怖を覚えていたせいで、5歳か6歳のときにカップ麺を汁ごと太ももにひっくり返してしまったとき、隣にいる母親に「こぼした」とバレるのが怖くて声を押し殺して体を震わせるしかできず、水ぶくれができるほどのやけどを負った。
母親の恐怖政治は、それほどまでに効果が絶大だった。しかし、私たち兄妹は成長とともにゆっくりと、確実に狂っていってしまった。
■過酷な環境下の「運命共同体」
私と母親は、いわゆる共依存という関係性だった。
兄は中学生になるころから非行に走り、私と母親に対する家庭内暴力が激化した。父親は私たちの体がアザだらけになろうと血を流していようとお構い無しで、仕事を頻繁にやめては朝から晩まで酒を飲み、テレビをぼうっと見つめるだけの生活を送っていた。兄が暴れているとき、一度だけ、父親に泣きながら「助けて」と言ったことがある。しかし結局、父親は兄を「刑務所にぶちこめ」と言うだけで、直接何かしてくれることは金輪際なかった。
そんな劣悪な環境であったから、母親は私を「唯一のよりどころ」として依存し、私にとっても母親は運命共同体であり、「この世で自分を愛してくれる唯一無二の存在」となっていったのだと思う。
私はできるだけ母親を癒やしてあげたかったし、楽にしてあげたかった。過酷な環境から一緒に逃げて、なんとか救い出してあげたいとも思っていた。母親の気が済むまで愚痴を聞いて、同調して、時折私の前で「もう死にたい」と泣きじゃくる母に、寄り添ってあげたいと思っていた。
■母の呪いに実家から逃げて7年以上たっても縛られている
アルバイトができる年齢になった頃、私はすでにうつ病と複雑性PTSD(家庭内殴打や児童虐待など、長期反復的なトラウマ体験の後にしばしば見られる、感情などの調整困難を伴う心的外傷後ストレス障害)を発症していて、だんだん希死念慮が強くなっていた。私も母親も、もうどうしようもないほど追い込まれてしまって、兄を殺すことまで考えていた。
このままでは、誰かが死ぬ。そう思って母親に「一緒に逃げよう」と提案しても、母親は「あんな子でも私の子だから、私が責任取らないといけないから。最後は私が責任持ってあの子のこと、道連れにするから」と言うだけで、かたくなに逃げようとはしなかった。
毎日、いつ殴られるかわからない生活に限界を迎えていた私が「もう無理、生活費は自分でなんとかするから、逃げさせてほしい」といくら頼み込んでも、母親は私をどこにも逃す気はなかった。
「あたしの方があんたよりしんどいんだから」「あんたはいいよね、一人で逃げられるんだから」「あんたが働いてお金入れてくれなかったら、生きていけないよ」と執拗に言い、出て行こうとする私をそのたび責め立てた。その呪いは絶大な効果を発揮し、就職と同時に逃げるように家を飛び出しても、それから7年以上たった今も、私を縛り付けたままでいる。
■娘が「女」になっていくのを嫌った母
母親が最も恐れていたのは、私が異性と付き合って、自分の元からいなくなることだったのだと思う。そのため、私が年頃になって異性と仲良くなると、母親はこれまで以上に私への支配を強めた。私が少し遅めの時間帯に帰ると、どこで誰と何をやっていたのか、事細かに聞いた。そして帰ってきた私を汚らわしいものを見るような目で、罵倒したり突き放すような態度を取ったりするようになった。
私が「女」になっていくのを嫌った母親は私に対して、しばしば性嫌悪ともとれる発言をしていた。「胸と尻ばかり大きくなって、気持ち悪い体形」とか「男を誘うような格好なんかして」と嫌悪感をむきだしにする母親は、いつまでも私に子供のままでいてほしくて、自分の言うことをなんでも聞く素直さと、無垢さを持ち、無条件に、絶対的に自分を求め、肯定してくれる存在でいてほしかったのだと思う。
■「虐待されていた」と気付くまで
私が母親の支配に気が付いたのはおよそ1年前、投薬治療に加えてカウンセリング治療を開始してからだった。担当の心理士から「あなたがされていたことは虐待です」と言われたとき、私は20年以上自分を苦しめてきたものの正体がわかったような気がして、ようやく母親とは別の人生を歩むことを許されたように思えて、涙が止まらなかった。
母親を置いて家から逃げたことを、母親のそばにいてやれないことを、泣きながら「帰ってきてほしい」と電話をしてくる母親の期待に応えられないことを、ずっと後ろめたく思い、罪悪感に苛まれながらこの7年間を過ごしてきた。私は母親をふびんだと思っていたし、私たちのことを殴るのも、精神的に不安定だから仕方がなかったのだと思い続けて、誰に何を言われようと「お母さんだって頑張ってるから」「虐待なんて大げさだ、お母さんはそんなつもりない」とかたくなに認められなかったのだ。
おそらく私は「この世で自分を愛してくれる唯一無二の存在」であるはずの母親からひどいことをされていた、と認めるのが恐ろしくて仕方がなかったのだと思う。それを認めてしまえば、自分が誰からも愛されていない、必要とされていない人間であるように思え、そうなれば、自分の存在意義を根底から大きく覆されてしまうから。
■たった一人の母親からの拒絶
心理士から「家族と連絡を取らないで」と指示されたのは、私が自分の意思とは関係なく、衝動的に死のうとすることが増えたからだった。
母親は私を実家に連れ戻そうとするとき、必ず私のことを強く否定した。実家で殴られ続けたことがトラウマとなっていることを伝えると「あんたの傷なんて大したことない」と言い、私がうつ病と複雑性PTSDを患って闘病していることを打ち明けると「あんたにとって、なにがストレスになることがあるの? あんたが病気になんてなるはずない、あんたは私の唯一の支えなんだから。その医者はヤブだ、信じるな」と、半狂乱になって私の傷をすべて否定した。
母親を含んだ家族との連絡を一切絶つようになって、私は今、ゆるやかに人間らしい生活を取り戻しつつある。母親からの連絡でパニック状態になり、とっさに橋から飛び降りようとすることも、駅のホームで電車に飛び込もうとすることもなくなった。
自分が置かれていた状況を受け止め、自分が感じていたつらさを認め、自分をまるごと肯定してあげること。カウンセリング治療を通して何度も何度も、誰にも助けてもらえなかった過去の自分に会いに行き、まるで成仏させてやるかのように、ただただ当時の自分を抱きしめる作業をくりかえしている。
■自分の人生を生きる、ということ
カウンセリングにかかる費用は、私の場合は1回あたり2000円。知人や友人が通っている病院では、だいたい3000~4000円が相場だった。自立支援医療制度を使えば、医療費や薬代の負担は一割になる。通院治療を続ける場合は医療費がネックになるケースが多いため、病院の窓口で聞けば、詳しく教えてくれたり、申請を代行してくれたりするはずだ。
共依存から解放されるには、第三者による介入が不可欠だと思う。しかしながら、「親子」という極度に閉鎖的な関係に他人が割って入ることは、決して簡単なことではない。たとえ行政が介入しようとしても、親から子へかけられた呪いは強力で、引き離すことが難しい。
それでも、子供が「逃げたい」と思っている場合は、まだチャンスが残されていると思っている。もしもその小さな声が外部に漏れ聞こえさえすれば、第三者側からアプローチをかけて親子の病的な関係性を治療するか、保護等の手段を使って物理的に引き離すことも不可能ではない。
だからこそ、私はこうして文章にして、それが当事者に届けばいいと思っている。共依存は、私自身がそうであったように、子供が成人したあともずっと続いていく。どこかで関係を断ち切らねば、死ぬまで世界でたった2人だけになってしまう。
「ここで生きていくしかない」と思っている人たちに、それ以外の生き方があることを、具体的に助かる道があることを知ってほしいと、心から思っている。
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ノンフィクション作家
1991年生まれ。作家、エッセイスト、コラムニストとして活動。貧困や機能不全家族などの社会問題を中心に取材・論考を執筆。文春オンライン、東洋経済オンライン、日刊SPA!他で連載中。著書に『年収100万円で生きる 格差都市・東京の肉声』(扶桑社新書)。
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(ノンフィクション作家 吉川 ばんび)
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