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「モーツァルトのように死にたくない」楽聖・ベートーヴェンが"安定収入"に執着したワケ

プレジデントオンライン / 2021年7月17日 11時15分

ザルツブルク国際モーツァルテウム財団所蔵の「モーツァルトの家族」より(部分)。(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

クラシックの天才作曲家には、華やかな印象があるかもしれない。しかし、モーツァルトやベートーヴェンは存命中、“お金”に悩み続けていた。『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)を刊行した大阪大学名誉教授の猪木武徳さんは「ベートーヴェンはパトロンのひとりを『年金不払い』で訴えたこともあった」という――。

※本稿は、猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

■貧困の中で亡くなったモーツァルト

芸術活動には資金が必要だ。ではその資金を誰から、どのような形で獲得していくのか。これは容易な問題ではない。歴史的に見るとバッハもモーツァルトも、ベートーヴェンも、パトロン(後援者)をどこに求めるかという問題に悩まされ続けている。

モーツァルトがザルツブルク大司教と袂を分かち、ウィーンでフリーランスの作曲家として活動を開始してからの経済生活の惨めさはよく知られている。1787年にヨーゼフ2世が私的な宮廷楽師という低所得のポストをあたえたものの、彼の活動の多くは、個人的な得意先からの不定期の注文で支えられていた。

ただこの1787年という年は、芸術家モーツァルトの生涯にとってひとつの転機となった年でもあった。1月にはプラハへ旅立ち、『フィガロの結婚』(K492)を上演し好評を博した。そのため、国立劇場の支配人から次の新しいオペラ作曲を依頼され、同年秋に傑作『ドン・ジョヴァンニ』(K527)を初演している。

しかし芸術活動においては豊穣であったものの、経済状況は逆境のさなかにあったと言ってもよい。1787年年5月、病気がちであった父レオポルトが急逝する。妻のコンスタンツェの健康も芳しくない。家族の状況も経済状況も思わしくない中、モーツァルトは、教会からも宮廷からも疎んじられ、無視され続けた。

モーツァルトは、パトロンのいないまま、ウィーンでわれわれ音楽愛好家の宝となるような幾多の傑作を生み出している。そしてヨーゼフ2世の後を継いだレオポルト2世の戴冠式の翌年、1791年12月5日にこの世を去り、ウィーン市門外の聖マルクス墓地に墓標もないまま埋葬された。

■パトロンを求めたベートーヴェン

一方、ベートーヴェンは当時ケルン大司教領であったボンに生まれ、カトリック社会の文化的風土の中で育っている。ボン時代のパトロンには、司教・選帝侯以外に、『ピアノ・ソナタ第21番(ハ長調)』(「ワルトシュタイン」、Op53)を献呈したフェルディナント・エルンスト・フォン・ワルトシュタイン伯爵もいた。

ハイドンの教えを受けたいと考えたベートーヴェンは、1792年秋にウィーンに居を移した。ウィーンに移る前の年に、モーツァルトが貧困のうちに亡くなったことが自分の将来の経済状態への不安を高め、安定した収入を保障してくれるパトロンを求める気持ちにつながったに違いない。

ウィーンでの本格的な作曲活動に入った時点で、最初に彼の熱心なパトロンとなったのはプロイセン領シュレージエンの大土地貴族(元はチェコ系)でモーツァルトを援助したこともあるリヒノフスキー侯爵であった。1806年に仲違いするまで、彼はベートーヴェンを援助し続けている。

この大作曲家の初期と中期の傑作の多くは彼に献呈されている。『ピアノ三重奏曲第1番』(Op1-1)、『第2番』(Op1-2)、『第3番』(Op1-3)、『ピアノ・ソナタ第8番』(「悲愴」、Op13)、『第12番』(「葬送」、Op26)、『交響曲第2番』(Op36)などが挙げられる。

■「3貴族から5000万円調達」生活苦から逃れるために……

しかしベートーヴェンのウィーンでの経済生活は不安定で、苦しい状態が長く続いた。

ベートーヴェン・ハウス所蔵の『ミサ・ソレムニス』の原稿を手にしたベートーヴェンの肖像より(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
ベートーヴェン・ハウス所蔵の『ミサ・ソレムニス』の原稿を手にしたベートーヴェンの肖像より(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

生活苦から逃れようとして、ついに彼は誘いのあったカッセル宮廷への異動を考え始める。ウェストファリア王ジェローム・ボナパルト(あのナポレオンの弟)が彼に「宮廷楽長」として高額(600ドゥカート)の年金の支給をオファーしてきたからだ。

ベートーヴェンのカッセル宮廷への転職計画に驚き、それを思い止まらせたウィーン貴族が3人いた。ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、そしてキンスキー公である。取りまとめ役はルドルフ大公であった。彼らが拠出した年金総額は、残された契約書には3者合計で4000フローリンとある。現代日本の通貨価値にすると5000万円を下らないであろう。

ルドルフ大公はベートーヴェンの終生の友であり、パトロンであった。ベートーヴェンより18歳若いルドルフ大公に献呈された曲はいずれも大作だ。『ピアノ・ソナタ第二六番(変ホ長調)』(「告別」、Op81a)、『ピアノ三重奏曲第七番(変ロ長調)』(「大公」、Op97)、『ミサ・ソレムニス(ニ長調)』(Op123)など後期の傑作が多い。

■パトロンの支えで生まれた名曲の数々

ベートーヴェン最晩年の大曲『ミサ・ソレムニス』は、ルドルフ大公がモラヴィアのオロモウツの大司教に就任したお祝いとして作曲されたが、あまりに熱を入れすぎて、就任式には間に合わず、結局その完成にさらに3年を費やすことになる。ルドルフ大公から受け取っていた年金は、先に触れた契約書では1500フローリンとある。

ロプコヴィッツ侯爵もベートーヴェンにとって重要なパトロンであった。彼が契約書にサインしている額はルドルフ大公の約半額、700フローリン。ロプコヴィッツ侯爵に献呈された曲にも傑作が多い。

楽譜の上にバイオリン
写真=iStock.com/Digoarpi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Digoarpi

ベートーヴェン初期の6つの弦楽四重奏曲(Op18-1~6)、交響曲では、『第三番』(「英雄」、Op55)、『第五番』(「運命」、Op67)、『第六番』(「田園」、Op68)、中期の『弦楽四重奏曲第10番(変ホ長調)』(「ハープ」、Op74)、そして『ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲(ハ長調)』(Op56)などである。

ボヘミア出身の名門貴族フェルディナント・キンスキーは、ベートーヴェンへ最も多額の年金(1800フローリン)を支給していたパトロンであった。エステルハージ公からの委嘱で作曲された『ミサ曲(ハ長調)』(Op86)は、エステルハージ公の気に入るものとはならず、出版譜はこのキンスキー公に献呈されている。

ベートーヴェンの『第九』楽譜の一部
ベートーヴェンの『第九』楽譜の一部(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■破産したパトロンを訴えたベートーヴェン

ただ、ナポレオンのプロイセン・オーストリア侵攻で、激しいインフレが起こり、ウィーンの貴族たちの中には破産する者も現れ始める。ロプコヴィッツ侯爵もその1人で1812年にべートーヴェンへの年金支払いが不能となった。

キンスキーがプラハ郊外で落馬事故で死亡したこともあって、ベートーヴェンの収入は激減する。そうした不運が重なり、ベートーヴェンはロプコヴィッツ侯爵を「年金不払い」の廉で訴え、有利な判決を得ている。

猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)
猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)

これら3者と交わした契約書には、年金給付に対してベートーヴェンに課せられた義務として、3人の貴族たちの住むウィーン、あるいはオーストリア皇帝の支配地の市に居住すること、そして仕事あるいは芸術振興の目的で一定期間当該地を離れる場合、これら3者に出発の予定を伝え、許可を得ることが必要、と明記されていた。

ベートーヴェンのパトロンたちは、大司教の座に就いた者もいたとはいえ、基本的に教会音楽への貢献を求めることのない、自身が音楽を趣味とし、音楽の振興に強い関心を持つウィーンやボヘミアの土地貴族であった。

そしてピアノや作曲をベートーヴェンを師として学んでいた生徒でもあった。したがって、経済的・社会的上下関係としてはパトロンであったが、芸術分野での教育に関しては師弟関係にあった人物ということになる。

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猪木 武徳(いのき・たけのり)
経済学者、大阪大学名誉教授
1945年、滋賀県生まれ。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』(サントリー学芸賞)、『自由と秩序』(読売・吉野作造賞)、『戦後世界経済史』、『経済学に何ができるか』、『自由の思想史』、『デモクラシーの宿命』など。

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(経済学者、大阪大学名誉教授 猪木 武徳)

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