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「100回超のオリコン1位」37歳の天才・岡嶋かな多が"黒子"に徹しているワケ

プレジデントオンライン / 2021年7月27日 9時15分

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん - 筆者撮影

37歳の音楽プロデューサー・岡嶋かな多さんは、これまで提供した楽曲が100回以上の「オリコン1位」を獲得している。安室奈美恵、嵐、BTS、TWICEなどの楽曲を手掛けているが、当初は自身もステージで歌うシンガーソングライターだった。なぜ音楽プロデューサーという「黒子」に徹するようになったのか。フリーライターの川内イオさんが取材した――。

■1万人の熱狂のなかで流した涙

2015年12月15日。この日、東京の国立代々木競技場第一体育館で、安室奈美恵のライブが開催された。全国15カ所で44公演が行われた全国ツアー「namie amuro LIVEGENIC 2015-2016」の一夜だった。

延べ約40万人を動員したこのツアーのなかでも、ファンにとって代々木は特別なものになった。同年9月に安室奈美恵とコラボしたシングル『REVOLUTION』をリリースし、大きな話題を呼んだCrystal Kayがサプライズで登場したのだ。

照明が落ち、闇に包まれた会場。ざわめきのなか、一瞬、Crystal Kayの映像が映し出される。再び暗転するとアップテンポな曲のイントロが流れ始め、次の瞬間、安室奈美恵とCrystal Kayが舞台に姿を現した。ふたりにスポットライトが当たった瞬間、悲鳴にも近い「キャーッ」という声援があがり、およそ1万人のファンで埋まった会場のボルテージが最高潮に達した。

会場の観客席からふたりを見つめていた岡嶋かな多さんは、Crystal Kayが「We got wings」と歌い始める前から、泣いていた。涙が溢れて、溢れて、止まらなかった。童顔で小柄な彼女は完全にファンに溶け込んでいたが、『REVOLUTION』の作詞を手掛けた音楽プロデューサーである。

16歳から音楽一筋に生きてきた彼女は、バンドのボーカルとして全国を巡り、世界を夢見たこともあった。自分が表舞台に立つのか、黒子になるのか、思い悩んだ時期もある。しかしこの日、自分が書いた歌詞を想像以上の完成度で歌い上げ、会場を熱狂させたふたりを前にして、彼女は吹っ切れた。

「私が小さな机で書いてる一文字、一文字を、こんなに素敵な表現者が何万人、何百万人に届けてくれる。これ以上の仕事ってないよね。私が作る曲や歌詞を聞いて、今日も頑張ろう、今日も生きようって思ってくれたら嬉しいし、最高の表現者を通してそれが実現できるなら、私にとってそれ以上の幸せはない」

■「オリコン1位100回超え」のヒットメーカー

この日に流した涙は雨のように、彼女の才能に降り注ぎ、次々と大きな花を咲かせた。

2017年、作詞作曲を務めた三浦大知の『EXCITE』でレコード大賞・優秀作品賞を受賞。同年、同じく作詞・作曲を担当したBTSの『Crystal Snow』が世界17カ国で売上ランキング1位に。翌年には、全45曲中15曲のボーカルディレクションを担った安室奈美恵のベストアルバム『Finally』の売り上げが、200万枚を超えた。

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
写真=岡嶋かな多さん提供
『EXCITE』でレコード大賞・優秀作品賞を受賞した三浦大知と岡嶋さん

「CDが売れない時代」と言われるなか、昨年には、作詞を手がけたSnowmanの『KISSIN' MY LIPS』がミリオンセラーを記録している。

オリコン1位の獲得が100回(※)を超えるヒットメーカー、岡嶋かな多。

これは、何度も泣いて、それでも全力で突っ走り、100メートルハードル走のように次々と現れる壁を飛び越えず、体当たりで突破してきた彼女の、知られざる物語。

※編集部註:オリコンのウィークリーシングルランキング、ウィークリーアルバムランキング、DVDランキングで1位を記録したタイトルに収録された合計楽曲数(2008年9月~2021年6月)。初出時の表記に一部誤りがありました。(7月28日20時10分追記)

■人生を変えたカラオケ

1984年、青森で生まれた岡嶋さんは、3歳から8歳までアメリカで過ごした。その後は日本で育ち、「歌」に目覚めたのは中学1年生の7月、期末試験が終わった日に友人たちと出向いたカラオケボックスだった。

子ども同士でカラオケに行くのは初めてで、テンションが上がった女の子たちは、ミスチル、安室奈美恵、SPEEDといった当時のスターミュージシャンの歌を、5時間、ひたすら歌い続けた。この時、友人たちは岡嶋さんの素人離れした歌唱力に気づき、驚いたのだろう。

利用時間が終わる5分前を知らせる電話が鳴り、ラスト1曲のタイミングで、締めを任された。岡嶋さんが友人たちと相談して入力したのは、ミスチルの『Tomorrow never knows』。情感たっぷりに歌い上げると、友人たちが泣いていた。

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
筆者撮影
過去の出来事については「この箇所があることによって救われる方もいると思うので」と岡嶋さん - 筆者撮影

それからは、ことあるごとにカラオケに行くようになり、岡嶋さんが『Tomorrow never knows』で締めて、みんなで泣いて終わるのが定番になった。SPEEDの『My Graduation』を歌った時も、それぞれの恋や友情、学校生活に思いを馳せて涙、涙。友人たちから「もっと歌って!」とリクエストされたり、歌った後に喜ばれると、岡嶋さんは嬉しくなると同時に、ホッとした。

「それまで自分にぜんぜん自信がなくて、なんのために生きているのかわからなかったし、むしろ自分がいることが世の中や世界に迷惑じゃないかと思っていたんです。でも、歌うことでみんなから求められていると感じることができたし、みんなが楽しんでくれる、喜んでくれるなら、もっと歌いたいと思うようになりました」

■過去の記憶……「自分が汚物とか異物のように思えた」

そう、人前で歌うようになるまで、岡嶋さんは危険なほどに自己肯定感が低かった。インタビューの時、それはなぜですか? と尋ねると、一瞬で表情に影が差した。数秒間の沈黙の後に打ち明けられた話に、僕は言葉を失った。

アメリカに住んでいた時、まだ幼く、なにもわからない彼女に卑劣な行為をした大人がいた。一度ならず、何度も。その時は知識がなくて自分になにが起きたのかわからなかったが、日本に戻ってしばらくしてから、自分が犯罪の被害者になっていたのだと理解した。しかし、それを誰にも打ち明けることができなかった。その男は、両親とも顔見知りだったから。

「私が話したら、うちもその人の家族も破滅するって、幼いなりにわかっていたので……。自分がいることで家族が壊れるとか和を乱してしまうという感覚を小さい頃に持ってしまって、それがずっと解消されないままでした。自分のことが汚物とか異物のように思えて、この世界にいない方がいいのではと感じていたんです」

コンデンサーマイク
筆者撮影
歌うことで救われた中学生時代 - 筆者撮影

子どもなりの気遣いで、ひとりで耐えるべきではない怒りと悲しみを抱え込んでしまった。誰にもぶつけたり、吐き出すことができず、心の内には鋭い刃が突き刺さったままだった。

その孤独と痛みを和らげてくれるのが友人たちで、友人たちを歌で喜ばせることで、岡嶋さんは初めて自分の存在を肯定することができた。

■ピアノに突っ伏して泣いた日々

自分を救ってくれた「歌」への想いは強烈で、中学3年生の時は「この道に進むしかない」と決意。進路を考える段階で、当時茨城に住んでいたにもかかわらず、プロも輩出している東京・表参道の音楽スクールに目を付けた。両親に「一般の高校に進学して、夜間にそこで学びたい」と訴えたところ、予想外の答えが返ってきた。

「自分が生きたい道を生きろ。でも、自由を与える代わりにサポートはしない」

想像もしなかった父親の言葉に混乱したものの、よく考えたら一理あるなと納得した。歌に人生を懸けようと決めたのに、なぜ高校で関係のない勉強をしなければならないのか。それにSPEEDは14歳でデビューしたんだから、私も早く動き出さなきゃ、17歳で武道館デビューだ! と中学生ならではの勢いで、自宅から片道2時間かけて、表参道に通うことに決めた。2000年の春だった。

それからしばらく後、岡嶋さんは学校のピアノに突っ伏して、毎日泣いていた。

自分の才能に限界を感じて……という訳ではなく、寂しくて、高校に進学しなかったことを後悔していたのだ。

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
筆者撮影
スタジオにあるピアノを弾きながら発声練習 - 筆者撮影

■17歳で中卒のフリーターに

「入学してから気づいたんですけど、授業が週に4回、1日2時間とか4時間しかないんですよ。だから早めに行って自主練をして、空いた時間にアルバイトをしていたけど、中学の同級生たちは高校生活を楽しんでいたから、私なにやってるんだろうって死ぬほど後悔して。クラスメートもほとんど20代で、同世代の友達が欲しいなって寂しかった」

それでも、やる気は失っていなかった。

作詞や作曲など音楽の基礎を学ぶ授業には真剣に取り組んだし、歌唱力も高く評価された。学校内のコンテストで特別賞を受賞し、グランプリ受賞者とともに中国との交流大使に選ばれて、中国の桂林で歌った。学校の卒業生で、プロとして活躍していたポップスデュオ「カズン」のライブの前座やバックコーラスの仕事ももらった。

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
筆者撮影
スクール時代を振り返る岡嶋さん - 筆者撮影

しかし、「シンガーソングライターとしてグランプリを総なめして即デビュー」という野望が実現する気配はなく、焦りが募る。どうしたらいいんだろうと悩んでいるうちに2年が経ち、卒業の時を迎えた。17歳で武道館どころか、17歳で中卒のフリーターになってしまった。

■漫画みたいな貧乏生活

そこで、方向転換。学校で出会った先生のもとで個人的に音楽の勉強を続けつつ、バンドのメンバー募集の張り紙を見て連絡し、3人組バンドのボーカルについた。今度の目標は「世界中のフェスに呼ばれる存在になる」。それからは、練習とライブとアルバイトに明け暮れる、典型的なバンドマン、いや、バンドガールの生活になった。

バンドを続けるのは、お金がかかる。練習するにはスタジオを借りなければいけないし、ライブは集客のノルマがあって、チケットを買い取り、売りさばく必要がある。ノルマに達しなければ、もちろん自腹だ。いくらアルバイトをしても、お金が足りない。

この頃は、漫画のような貧乏生活を送っていた。先輩が当時60円のマクドナルドのハンバーガーを10個買ってくれた時には、「これで2週間は食っていける」と冷凍保存。日常食になっていたコンビニのお握りの味にも飽きて、渋谷にある中華料理屋のダクトの前にさりげなく立ち、そこから吐き出される中華の匂いをおかずにして、お握りを頬張ったこともある。もし僕の友人が同じことをしていると聞いたら、やはり60円のハンバーガーを10個プレゼントしただろう。

そこまでしてもバンドの人気が出てくれば報われるが、3年で空中分解。「ごめんなさい!」と頭を下げて、脱退した。

■NHK前の激戦区で路上ライブに挑む

20歳で原点に回帰し、ソロ活動をスタート。

代々木公園の路上で弾き語りをするようになった。当時は路上からデビューしてブレイクしたシンガーソングライター、川嶋あいの影響もあり、路上ライブの全盛期。なかでも代々木公園のNHK前は激戦区で、10メートルに1人は歌っている人がいたという。

ストリートライブ
路上で歌っていた頃の岡嶋さん(写真:岡嶋かな多さん提供)

そこに乗り込んだ岡嶋さん。歌い始めると、多い時には40人前後の人が集まった。それは路上の観客の数としては多い方だったが、人気爆発とまではいかず、先の見えないモヤモヤが募っていた。

とはいえ、ただがむしゃらに歌っていたわけではない。渋谷の駅前交差点に面したツタヤで18歳の頃から6年間、アルバイトをしていた岡嶋さんは、スタッフ割引でCDを借りられるという特典をフル活用し、邦楽、洋楽問わず片っ端からCDを借りて聴いた。その数、千枚以上。耳の千本ノックのように、この時存分に浴びた歌詞とメロディーが、やがて彼女の血となり、肉となる。

20歳でソロ活動を始める前後から、音楽学校時代に出会った作曲家を通して「仮歌(かりうた)」の仕事をするようになった。作曲家が自分の曲をプレゼンする時、音だけだと伝わりにくいため、メロディー部分をシンガーが歌う。まだ正式な歌詞がついていない曲なので、仮の歌。

シンガーが歌いやすいように、仮の歌には仮の詞をつける。それが「仮詞(かりし)」。仮歌と仮詞はセットで、作曲家が仮詞を書くこともあるが、シンガーが考えることも多い。岡嶋さんは作曲家から曲が届くと、いつもスタジオまで約1時間の移動時間で仮詞を考えて録音に臨んだ。

■「音楽の仕事ならなんでもやりたい」

駆け出しの頃、この仕事は交通費別で1曲2000円。移動時間も含めたら時給数百円レベルになる。それでも岡嶋さんは「音楽の仕事ならなんでもやりたい」と、依頼があればふたつ返事で引き受けた。そこから、追い風が吹き始める。

岡嶋さんの仮歌を聴いた音楽事務所が、「この子いいね」と別の仮歌の仕事やバックボーカルの仕事をまわしてくれるようになった。さらに「この仮詞がいい」と、歌詞として正式に採用されることもあった。そのうちに仕事の単価が5000円に上がり、やがて1万円になった。

音楽業界でもうワンステップ上の仕事として、コンペがある。今回の取材で初めて知ったことだが、音楽業界、特にポップスに関しては曲も歌詞もコンペで決まるのが主流。ごくごく一部の有名作曲家、作詞家、あるいは音楽プロデューサーの場合は指名で仕事が入るが、それはかなりの知名度を得て、初めて得られるものなのだ。

岡嶋さんから聞いた、よくある仕事の流れを紹介しよう。まず、アーティストを抱えるレコード会社から依頼が来る。「この冬の代表曲になるようなクリスマスソングを」というふわっとしたものから、「新しく出る口紅のタイアップソングで、今までのアーティストの世界観を裏切るような大人っぽい内容で」というある程度具体的なものまで、その内容はさまざまだ。

ギター
筆者撮影
岡嶋さんがよく利用している恵比寿のスタジオに置かれていたギター - 筆者撮影

レコード会社が作詞家、作曲家それぞれひとりに依頼をしたら指名の仕事になり(例えば小室哲哉など作詞作曲をひとりで担う人も多い)、複数に声をかけた時はコンペになる。

■「全敗すれば収入ゼロ」音楽業界の厳しさ

コンペは、レコード会社が選んだ数名で行われることもあれば、広く参加者を募ることもある。先に曲が決まる場合はその後に歌詞を、先に歌詞が決まる時は後から曲を募集する。多い時には、「夏っぽいテンポの早い曲を」という依頼に対して200以上の曲が集まり、そのなかからレコード会社がベストだと思うものを選ぶ。

ちなみに、コンペの時点でギャラは一切発生しない。100回のコンペに参加しても、全敗なら収入ゼロ。正式に採用されてから音楽出版社と印税契約を結ぶので、アーティストの作品として世に出された時に、はじめて収入を得る。

印税契約とは、簡単にいうと1曲売れるたびに一定の割合の金額が作詞家、作曲家にシェアされること。どれぐらいの割合になるのかはケースバイケースだが、調べてみたところ、CDで楽曲をリリースする場合、平均的には販売価格の1.5%程度が作詞家と作詞家、それぞれの収入になる。

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
筆者撮影
音楽ビジネスについてもイチから教えてくれた - 筆者撮影

1000円のCDなら1枚売れたら15円、100万枚なら1500万円。作詞作曲をひとりで担えば、これが3000万円になる計算だ。これに二次使用料も加わる。最近の楽曲は配信もされるので、ストリーミング再生数、ダウンロード数なども加算される。

もちろん、新曲が発売されたもののまったく売れないというケースもあり、その時は「2週間かけて制作しても著作印税の収入が8000円ということもあります」(岡嶋さん)。これが労力に見合うと思うかどうかはその人次第で、嫌なら辞めて違う仕事を探すという世界だ。

■1年間に500曲の作詞

岡嶋さんはシンガーソングライターとして路上で歌っていた20歳からの2、3年で仮歌&仮詞の仕事が高く評価されるようになり、作詞コンペ参加の依頼が届くようになった。「音楽の仕事は断らない」と決めていたから、すべてに応じているうちに若手の作詞家として少しずつ注目されるようになり、コンペの誘いが増えていった。

当時の生活は、とてもハードで目まぐるしい。昼間は渋谷のツタヤでアルバイト、夕方から夜にかけては仮歌&仮詞の仕事をして、帰宅してからは歌詞コンペの作詞。週末の昼間は、路上ライブをしていた。毎日寝不足だったが、そのうちに作詞のコツをつかみ、ペースが上がった。

「1曲につきだいたい2時間ぐらいで書けるようになりました。深夜2時ごろに帰宅して、それから朝まで3曲分の詞を書いたりしていましたね。当時は年間500曲ぐらいコンペの作詞をしていました。そのうちの1曲が採用されるか、されないかというレベルでしたけど」

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
筆者撮影
自らマイクを持って歌いながら、曲を仕上げていく - 筆者撮影

それだけの作詞をしたら言葉が枯渇しそうなものだが、思い出してほしい。この頃の岡嶋さんは、職場でCDを借りてあらゆるジャンルの音楽を聴きまくっていた。恐らく、圧倒的な量のインプットがアウトプットを支えていたのだろう。

2007年、23歳を過ぎた頃には、仮歌&仮詞の仕事と作詞、さらに歌を教える仕事も始めてある程度稼げるようになり、6年間勤めたツタヤを辞めて、音楽だけで食べていくことにした。

そのタイミングでもう一度、勝負に出た。自らミュージシャンに声をかけて4人組のバンドを結成し、もう一度、世界のフェスを巡る生活を夢見て、その活動にのめり込んだ。メンバーが持っていたクーラーの効かないハイエースに乗って移動し、遠方のライブは夜行バスで向かった。

■安室奈美恵『Steal My Night』から始まる快進撃

「ポップスとブルースとR&Bを掛け合わせた感じの濃いめのバンド」はしかし、思い描いたようには売れなかった。コアなファンはいたものの、ライブのチケットが完売して、会場がパンパンになったのは、解散ライブが最初で最後だった。

その一方、作詞コンペでは採用されることが増えて、自信を深めていた。作詞家として一躍脚光を浴びるきっかけになったのも、安室奈美恵だった。著名な音楽プロデューサー、ジェフ・ミヤハラと組んで書いた歌詞が採用され、『Steal My Night』として2009年にリリースされると、驚くほどに仕事の依頼が増えたという。

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
筆者撮影
作曲家、レコーディングエンジニアのMEGさんと意見を交わしながら、さまざまな調整する - 筆者撮影

「それまでは地道なコンペ生活でしたが、あの安室さんに書いた岡嶋という感じで、仕事の内容が濃くなりました。指名で依頼をもらうことも増えましたし、コンペもあらかじめ人数を絞ったハイレベルなものに声をかけてもらえるようになって」

『Steal My Night』が発売された時、岡嶋さんはまだ25歳。当時も今も、20代半ばで国民的歌手と仕事をする作詞家は珍しい。新進気鋭の作詞家とバンドのボーカルという二足のワラジ生活で、日々はあっという間に過ぎていった。

■「世界で売れる作家になります!」

転機が訪れたのは、2012年3月。知り合いの音楽作家事務所の社長に声をかけられて、8日間、スウェーデンに行った。そこで、現地のトップクラスの作曲家と組んで毎日ゼロから1曲作り、歌詞を乗せてレコーディングまでするという「コライト」(Co-Write)に臨んだ。

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
人気アーティストの作曲を手掛けるMeaganとコライトした時のスナッフ゜(写真=岡嶋かな多さん提供)

午前中にスタートして、スタジオを出るのは夜中。観光する余裕などまったくないスケジュールだし、会話がすべて英語で苦労もあったものの、音楽を愛する者同士、なんの制約もなく自由に音楽を作るという時間は刺激的なうえに心の底から楽しいと思えるもので、岡嶋さんは「雷に撃たれるような体験で、とにかく最高の日々でした」と振り返る。

ちなみにコライトは遊びではなく、作った楽曲を現地の音楽事務所に提案したり、コンペに提出したりして、ビジネスにつなげる取り組みで、みな真剣勝負。忘れがたき8日間をもう一度味わおうと、その年、岡嶋さんは3回も渡欧し、コライトにのめり込んだ。そのうちに、とても大切なことに気が付いた。

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
写真=岡嶋かな多さん提供
現地のミュージシャンたちとコライトする様子 - 写真=岡嶋かな多さん提供

「私、中学校1年生の時のカラオケがあってから、人前でパフォーマンスするのが好きだし、それが使命だと思っていたんです。だから自分はステージの上に立っていなきゃいけないと思ってたんですけど、コライトをしていたら、みんなでああでもない、こうでもないと言いながらアイデアを出し合う時間が一番好きなんだってことに気づいたんです。バンドをやっていたのも、みんなで曲を作るのが楽しかったからだって」

スウェーデンにて(写真=岡嶋かな多さん提供)

初めて参加したスウェーデンでのコライト。この時、雷に打たれた(写真=岡嶋かな多さん提供)

かつてない充実感を得た1年が終わる頃、最初にコライトをしたスウェーデンの音楽事務所から、「スウェーデンに移住して、私たちと一緒に活動しませんか?」というオファーが届く。

日本ではバンド活動を続けていたが、「6年間、やりきった」という想いもあり、解散。それからすぐに部屋を引き払い、余分な荷物はほとんど捨て、「自分の後ろの橋を燃やして」、2013年9月、29歳でスウェーデンに渡った。友人たちが開いてくれた送別会では毎回、こう宣言した。

「世界で売れる作家になります!」

■作詞作曲の養分になった“コライト”

それから数週間後、岡嶋さんは誰もいないスタジオで突っ伏して泣いていた。

自分の力不足を思い知らされたから……ではなく、寂しかったから。自分でも「音楽の学校に入った16歳の時からなにも変わってない」とあきれながら、半年ほどは不安定な時期を過ごした。

「日本から行った時は、お客さんだからみんな優しいんですよね。でも、現地に行ったら同じ立場で、ある意味ライバルなんです。それに思った以上にひとりの時間が多くて、ルームメートも意地悪だったりしたから、想像していた生活とぜんぜん違うっていう気持ちもありました」

コライトキャンプ
写真=岡嶋かな多さん提供
海外でコライトするうちに作曲にも目覚めた - 写真=岡嶋かな多さん提供

それでもコライトをしている時だけは時間を忘れて没頭し、毎日、毎日、新しい曲を作り続けた。事務所の手違いで労働ビザの取得が遅れ、ビザが下りるまで10カ月間、EU圏外に出なくてはいけなくなるというトラブルが起きた時は、イギリスやアメリカに飛んで、現地でコライトをした。

事務所が相手を紹介してくれることもあったが、コライトをした相手が「岡嶋かな多っていう面白い日本人が来てるから、コライトしてみなよ」と友人につないでくれることも多かった。

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
写真=岡嶋かな多さん提供
英国の有名アーティストCharie XCXとCo-Writeした時の一枚 - 写真=岡嶋かな多さん提供

音楽業界は狭い。「OK、ウェルカム!」と迎えてくれたミュージシャンのなかには、今や世界的に有名なDJになったSigalaや、ロンドン出身の人気ガールズバンドLittle Mixの曲をほとんど作曲しているMaegan Cottoneもいたという。

■今や、音楽業界で知らぬ人のいない存在に

無事にビザを取得してスウェーデンに戻ってからも、ひたすらコライトの日々。1年で500曲の作詞をしていた頃に聞いていたのはCDだったが、今度は欧州の第一線で活躍する作曲家と一対一の時間を過ごす。それがとてつもない養分になったのだろう。

日本の仕事を遠隔で続けていた岡嶋さんが携わった歌が、話題になる機会が増えた。

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
『Revolution』を歌うCrystal Kayと、楽曲を共作したチームとの一枚(写真=岡嶋かな多さん提供)

2014年、ドラマ「ディア・シスター」の主題歌で、オーストラリア出身の歌手シェネルが歌った『Happiness』がヒット。韓国の人気アイドル、少女時代のアルバム『LOVE&PEACE』では作曲家として名を連ね、同年の日本ゴールドディスク大賞でアジアのベスト5アルバムに選ばれた。

そして、冒頭のシーン。父親の体調が悪化したのを機に帰国した岡嶋さんは、2015年12月に開催された安室奈美恵のライブに足を運んだ。

そこで、自分が作詞した「REVOLUTION」を歌う安室奈美恵とCrystal Kayのパフォーマンスに圧倒され、心を揺さぶられながら、自分の進むべき道を確信。その覚悟が、岡嶋さんを飛躍させる最後のロケット燃料になったのだろう。

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さんが掲載された誌面
写真=岡嶋かな多さん提供
海外の雑誌にも大きく取り上げられた - 写真=岡嶋かな多さん提供

以来、次々と話題作の作詞や作曲を手掛け、今や、音楽業界で知らぬ人のいない存在になった――と書くと大御所感があるが、彼女はまだ37歳。「歌の世界で生きていく」と心に決めて、16歳から無我夢中で駆け抜けてきたから、今がある。

■「母になったからこそ、もっと尖りたい」

昨年には、長男が生まれた。詞や曲に変化はありますか? と尋ねると、いつも笑顔の岡嶋さんの目に、キュッと力がこもった。

「子ども向けの曲を書く依頼もありますし、そういう仕事もどんどんしていきたいです。でも、自分としては母になったからこそ、もっと尖りたいし、メッセージ性の強い曲、エッジの効いた曲をより多く届けていきたいですね」

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
写真=岡嶋かな多さん提供
長男と遊ぶ岡嶋さん - 写真=岡嶋かな多さん提供

取材の日、あるアニメのエンディングテーマ曲の仮収録を見学させてもらった。

音楽プロデューサー・岡嶋かな多さん
時には長男を胸に抱きながら仕事をすることも(写真=岡嶋かな多さん提供)

そこには作詞作曲を務めた岡嶋さん、現在、作曲家、レコーディングエンジニアとして引っ張りだこのMEGさん、この歌を歌う声優さん、プロデューサーの4人が集い、まさにコライトしている姿があった。

この日のために用意してあったメタル調の曲が、その場のアイデアや意見で、どんどん姿を変えていく。そのなかでボーカルディレクションも担う岡嶋さんは、自らマイクを握り、声優さんに新しい歌い方を提案していく。

岡嶋かな多さん
長男を抱えた夫の澤田知之さんと岡嶋さん。いつも笑いが絶えない家族だ(写真=岡嶋かな多さん提供)

終盤になり、全員が「これだ!」と一致した形でレコーディングが始まって、声優さんが歌い終えた瞬間、自然と拍手が起きた。スタジオの片隅で息をひそめてやり取りを眺めていただけの僕も、鳥肌が立った。

子育てしながらも年間50~100曲の作詞、作曲に携わっている岡嶋さんは今、まさに尖り切ったことを計画している。フリーランスでPRの仕事をしている夫と息子、家族3人でキャンピングカーに乗り、東京を拠点に日本全国を巡りながら、作詞、作曲をするのだ。

出発予定は、8月。緑の絨毯が拡がる北海道の草原やどこまでも青く澄んだ沖縄の海岸で、どんな歌が生まれるのだろう。海外ドラマのように、彼女の新しいシーズンが幕を開ける。

写真=岡嶋かな多さん提供
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写真=岡嶋かな多さん提供
最近手に入れたキャンピングカーで間もなく旅に出る - 写真=岡嶋かな多さん提供

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川内 イオ(かわうち・いお)
フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。

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(フリーライター 川内 イオ)

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