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メンタルの弱っている人を救い出すためにカリスマ精神科医が使う"ある質問"

プレジデントオンライン / 2021年7月25日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

メンタルの弱っている人を救い出すためにはどうすればいいのか。韓国で投薬に頼らない心理療法に取り組む精神科医のチョン・ヘシンさんは「心臓の止まった人の胸を圧迫するように、『私』の核に当たる場所を強く圧迫する必要がある。そのために有効な問いかけがある」という――。

※本稿は、チョン・ヘシン『あなたは正しい』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。

■自殺から女性を救った「心理的CPR」

質問①:突如意識を失って倒れ、心臓が止まった人を見かけたら?
答え①:心臓に拍動が戻ってくるまで、胸の中央に両手を置き規則的に強く圧迫する。
質問②:「私」という存在が擦り減って、今にも消えそうな人を見かけたら?
答え②:「私」という存在が蘇生するよう、その核に当たる場所を強く圧迫する。

私は、これを、「“私”の蘇生術」あるいは「心理的CPR」と名づけた。わかりやすく言えば、その人にとっての「私」という存在を刺激し、「自分」の話ができるよう、その人の心を適切に刺激してあげるのである。

ある会合で30代前半の女性と向かい合って座る機会があった。よく笑ううえに物腰も洗練されていた。笑い方にやや形式的なところはあるにせよ、彼女はとても華やかで、魅力的な人物だった。

話の途中、彼女に「最近、心の調子はいかがですか」と尋ねた。その時点で彼女は、私の職業を知らなかったのだが、姿勢を正し、少し間を置くと、「実は……」とためらいながらも、3日前に自殺しようとしたことを打ち明けた。まさかと思ったが、どうやら事実のようだった。

そこで私は、そのまま彼女から視線をそらさず話を聞いた。自分の意見を差し挟むことなく、「ああ、そんなことがあったの」とうなずきながら彼女を見つめ、時々は、彼女がその時どのようなことを思っていたのか尋ね、それに彼女が答えると、さらに耳を傾けた。その間、彼女は私に頼りきっている様子だった。

特別な助言や慰めの言葉は要らなかった。私はその後も彼女と2、3度会い、話をした。今では、彼女の問題のすべてが解決したわけではないけれど、彼女の自殺願望だけは少なくとも消えて、過去の自分を受け入れ、新たな一歩を踏み出そうとしている。

■上辺ではない「本当の自分」を救い出せ

CPR(心肺蘇生法)は、心臓以外の他の臓器は後まわしにして、ひたすら心臓と呼吸にのみ集中する応急措置である。心理的CPRも、同じだ。心理的CPRにとっての心臓に相当するのは、「“私”という存在自体」である。衣服やアクセサリーに相当する、対外的に何らかの形を装った、「上辺だけの自分」を脱がせて、「本当の自分」に相当する部分を強く刺激してやらねばならない。

ただし、人は時に「本当の自分」を見誤る。

たとえば、自分は周りの誰もが羨む人だったとする。にもかかわらず、自分の心は寂しく、不安でいっぱいだ。いったい、どちらが本当の自分なのだろう?

周りの人たちが評価してくれるから、自分は大丈夫だというのは「私が考えたこと」であり、寂しくて不安というのは「私の感情」である。私の考えが正しいのか、それとも私の感情が正しいのか。私の答えは明確である。常に正しいのは感情なのだ。「私の感情」は、「私」という存在の核に相当する部分である。したがって、「私」が大丈夫かどうかの判断は、「私の感情」をもって行うのが正しい。

■核心の問いかけ「心の調子はどうですか?」

先ほどの女性の事例で、私が彼女に投げかけた「最近、心の調子はどうですか」という質問は、まさに彼女の存在の核を正確に射抜いた言葉である。「誰もが羨む女性」の近況を聞く言葉としてはまったく相応しくないが、彼女の美貌や経歴、学歴やキャリアといった、彼女という存在が身につけている装飾品をはぎ取り、「彼女の存在の核」である感情に注意を払い、その安否を真っすぐに問う言葉だったのだ。

女性
写真=iStock.com/microgen
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/microgen

「感情」あるいは「心」、それが、心理的CPRを施すべき正確な位置である。私が矢を射抜くように正確に彼女の存在の核、すなわち心の安否を尋ねた瞬間、彼女の中の「私」「本当の自分」はすぐに反応した。

その時から彼女は、自分の中にある「本当の自分」について、滔々(とうとう)と語り始めたのである。コンパやお見合いの席で、お目当ての相手に学歴や職歴、家族について話す時の「自分」は、「本当の自分」なのだろうか。もちろん、ちがう。出身校や、職場、趣味や嗜好、あるいは自身の価値観や信念ですら、その多くは「私」にとってアクセサリーのようなものである。誰かの価値観の受け売りだったり、影響を受けたりして、作られた部分が大きいからだ。一見「私」のように見えながら、どれも「本当の私」ではない。

■どのように感じているかが「本当の自分」

それでは、傷ついた私の経験談は、「私」という存在自体を見せてくれる話だろうか。時にはそうであるが、そうでない時のほうが多い。私が会う人の多くは、「私は幼い時、母から愛してもらえなかった」とか「私には、典型的な次男次女コンプレックスがある」のように、自分が心に負った傷の話をするが、大抵それは、以前かかったカウンセラーから聞いたり、心理分析の本から得たりした知識をそのまま再生しているだけだったりする。私という存在についての話は、そのように固定化されたものではなく、もっと柔軟に形を変えていくものだ。

たとえば、幼い時から親に殴られて生きてきた人が、誰にも言えなかった過去を打ち明けるのは、まだ存在自体についての話といえない。親に叩かれて、その時感じた無力感や羞恥心についての話が、その人の存在自体により近い話である。家庭内暴力に苦しめられた子どもが覚える感情は、成長しながら怒りや無感覚などへと、いくらでも変わりうる類いのものだ。

少女
写真=iStock.com/spukkato
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/spukkato

そのような感情を交えて話すことができるなら、それは存在自体について語っていると言えるだろう。私の傷の内容よりも、私の傷に対して私がどのように感じているかが重要なのだ。私の傷が「私」なのではなく、傷を負った私の気持ちと、そこに現れた態度が、「本当の自分」により近いのである。

私の感情や気持ちは、「私」という存在の核であると同時に、そこへ至る入り口でもある。感情を通して人は、率直な自分という存在に出会うことができる。感情を通して人は、自分の存在にぴったりと寄り添うことができる。自分がどんな感情を抱いているのかに敏感であれば、根源的な「私」としっかり向き合える。「本当の私」が鮮明に浮かび上がることで、初めて人は、自分の人生を堂々と生きられるようになるのだ。

■苦しみには忠告や助言はいらない

自分以外の誰かが語る苦しい胸のうちや心の傷、葛藤などに対して、「忠告、助言、評価、判断(忠・助・評・判)」をしてはいけない。それらは、話の内容を表面的に捉え、相手の立場をたいして考えずに勝手なコメントをしているにすぎないからだ。状況の奥にある核心に思いが至らないただのコメントは、相手の心をさらに深く傷つけることになるだろう。

ところが残念なことに、私たちの日常の言葉の大部分が、「忠助評判」なのである。

「そのような考えは捨てろ。あなたにとっていいことはひとつもない」(忠告と助言)
「そうなれるよう、あなたはもっと熱心に学ぶ姿勢を見せるべきだ」(忠告と助言)
「そのことを、もっと肯定的に捉えるべきだ」(忠告と助言)
「それは、あなたのことを愛するがゆえの発言だと思う」(評価と判断)
「あなたがあんまり敏感すぎるから、そういうふうに考えてしまうのではないか」(評価と判断)
「男なんてみんな似たようなものよ、特別な人なんてどこにもいない」(忠助評判)

悩みの大小にかぎらず、また、相談相手が誰であれ、たとえそれが専門のカウンセラーであっても、ほとんどの人のやっていることが、こうした「忠助評判」である。すがるような思いで友だちに悩みを打ち明けても、評判の本に目を通しても、出てくるのは「忠助評判」ばかり。それが役立つと思っているわけではない。他に言えることがないから、そうしているだけである。

誰かの苦痛と向き合った時、人は言葉を失う。そこで何もしないよりはましという理由から、「忠助評判」の言葉でも投げてみようかとなるのだ。これでは心の傷が、かえって悪化するだけだろう。

■気にかけてくれる人がいることが「癒し」

解決の糸口が見つからない時は、言葉を失った地点に立ち戻ってみよう。解決の手がかりは、かならず現場に落ちているはずだから。崖っぷちに立たされた人に、どのような言葉をかけてあげるべきだろうか。結論からいうと、本当にかけるべき言葉はそれほど多くない。

大切なのは、こちらからの言葉ではなく、傷つき悩んでいる本人が、自分から語る言葉である。そこでこちらがすべきは、その人自身が話しやすい雰囲気をつくり、その人の言葉に深く耳を傾けることだ。急かしたり苛立ったりせず、その人の心が今どんな調子なのか、ゆっくり尋ねるだけで十分である。実際、その人の心の状態がよくわかっていないのだから、そうするのが当然であろう。わからなければ、素直にそういえばいいのだ。

「今、あなたの心はどういう状態?」
「どれくらい苦しいの?」

それらの質問に対し、答えが返ってこなくても、答えを避けているように見えても、心配はいらない。答える内容が重要なのではないからだ。自分の存在に注意を払い、そのような質問をしてくれる人がいることを、その人が認識することこそが、重要だ。自分の苦しさを気にかけてくれる人が存在するという事実を認識すること、それが心を癒す決定的な要因である。言葉ではなく、私の苦しみに共感する存在が大事なのである。

■寄り添ってくれる人が一人いれば生きていける

自殺未遂の話を切り出した彼女の話を、改めて振り返ってみよう。私からのどのような反応が、彼女の救いにつながったのだろうか。彼女が言葉を切り出すのをためらい、そこに生まれたほんのわずかな沈黙、グラスを握る彼女の手が震えた刹那、流暢に話していた彼女が突然どもり出した瞬間、そのいずれにおいても、私は言葉を挟んだり、話題を逸らしたりしなかった。そして、彼女から片時も目を離さなかった。

チョン・ヘシン『あなたは正しい』(飛鳥新社)
チョン・ヘシン『あなたは正しい』(飛鳥新社)

彼女が気まずそうにしたり、どもったりする様子は、滑らかな機械音ばかり流れ出て来るスピーカーから、ようやく漏れ出た彼女の肉声だった。それは私にとっても、嬉しく貴重な経験だった。私の沈黙が意味する、「本当の彼女」に意識を集中させてそれを尊重しようとする気持ちに、彼女も気づいていた。生き続けたいという本能は、自分の存在がありのまま受け容れられた瞬間を決して見逃さないのだ。

ときおり質問を投げかける以外、私から何かを話そうとはしなかった。もし話しかけていたら、彼女の沈黙や、手の震え、吃音などの大切な信号を見落としていたことだろう。それらは時に、どんな具体的な言葉よりも強いメッセージとなる。

一方、私も、視線や息遣いといった言葉以外の反応を示すことで、彼女の心と寄り添った。それは、重すぎて相手に負担を感じさせたり、相手を押しつぶしたりするようなものではないが、安定感を覚えるくらいには、ほどよい重さだ。私の非言語的なメッセージが、彼女を包み込む温かな布団の役割を果たしたわけである。もちろんこれらは、専門家でなくとも実践できる方法だ。

「私」の苦しみと向き合い、その声に静かに耳を傾けてくれる人であれば、誰でも構わないはずである。その人が何者であるかは、重要ではない。苦しみに心から寄り添ってくれる人であれば、誰でも重要な存在である。そういう人がたったひとりいるだけで、人は救われ、生きられるのだ。

ひとりの力がそれほど強力なのは、人は誰でも、それぞれがひとつの宇宙のごとき存在だからだと私は考えている。うまく言葉では説明できないが、心の世界とは、そういうものなのだ。人間は、一人ひとりが、絶対的な存在である。その人にとって、自分自身が世界のすべてなのだ。ひとりの人間であり、ひとつの世界でもある私たちは、それゆえに、誰もが互いに「唯一かけがえのない人」になれる、大切な存在なのである。

「私」という存在についての物語、自分という存在自体についての物語に火をくべれば、薄れていた生命から、どんどんどんどんと拍動する音が蘇ってくる。「私」という存在の胸の真ん中に両手を当ててあげられる人は、たとえ本人が意図しなくても、心理的CPRに長じた救命士、すなわち「唯一かけがえのない人」なのだ。

心理的CPRとは、「私」という存在が位置するまさにそこを正確に探り当て、渇いた心に「共感」の雨を降り注ぐことである。人を救う力の根源は、「正確な共感」なのである。

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チョン・ヘシン(ちょん・へしん)
精神科医
30年以上にわたり1万2000人の心の声を聴き続ける。近年は政治家や企業のCEOなど社会的成功を収めた人々の胸の内をわかち合う活動に従事する一方で、韓国社会の片隅で起きているトラウマの現場で被害者たちとともに過ごす。個別の事情に目を向けず、画一的な投薬治療ですまされがちな現代のうつ治療のあり方に疑問を投げかけ、専門医に頼らず対話と共感の力で自分や身近な人の心の癒すことができる心理療法の普及を目指し活動している。

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(精神科医 チョン・ヘシン)

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