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「いつかパパに会いたい」70代男性のゴミ部屋にあった"娘の成長アルバム"の切なさ

プレジデントオンライン / 2021年7月24日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kohei_hara

介護支援を専門とするケアマネジャーは2000年に生まれた新しい職業だ。ケアマネジャーの岸山真理子さんは「知識と情報を利用者と家族のために使う、自分が誰かの役に立てる、“夢の職業”だと思っていたが、現実は甘くなかった」という――。(第2回/全2回)

※本稿は、岸山真理子『ケアマネジャーはらはら日記』(三五館シンシャ)の一部を再編集したものです。

■47歳で念願のケアマネジャーになったが…

社会福祉協議会で登録ヘルパーをしながら、通信教育で介護福祉士の勉強に取り組んだ。介護福祉士の試験に合格すると、社会福祉士の資格も欲しくなった。1年間だけ休職し、清瀬の社会福祉士養成学校に通った。

娘が小学校に入学した年だった。「死ぬほど勉強が嫌いだったのに、40歳すぎて、やっと好きになったんだね」と母は喜んでいた。母は毎日、娘を学童保育まで迎えに行ってくれた。

社会福祉士の資格を取って、介護福祉士との合わせ技で介護業界に根を張りたいという一心だった。学生時代はあんなに苦手だった勉強も、誰かの役に立てる、実践に使えると思えば楽しかった。

家事と子育て、学習を組み合わせた日課は朝5時から夜10時まで、細部にわたってびっしりとルーティン化したものにしたため、ADHDへの対策にもかなり効果を発揮した。社会福祉士の資格取得後、老人保健施設で相談員として働いているときだ。

2000年4月、介護保険制度がスタートした。同時に「介護支援専門員(ケアマネジャー)」という新しい職業が日本に生まれた。

ケアマネジャーは、ショートステイや訪問介護、訪問看護、訪問入浴、デイケア、デイサービス、ベッドなどの福祉用具、住宅改修などのサービスを、要望と予算、要介護度、必要性に照らし合わせてコーディネートするのだという。

バラバラだったサービスをひとつのパッケージにして利用者に贈り届けるケアマネジャーのイメージに、私は夢を感じた。

二十数年間、いろいろなアルバイトや介護の仕事を転々とする中で、私はたくさんの人たちに助けられてきた。他人が頼りだった。これからはケアマネになって、知識と情報を利用者と家族のために使う、自分が誰かの役に立てる、そう想像するとゾクゾクするような快感を覚えた。

2000年11月、第2回のケアマネジャー試験に合格した。在宅介護を支えるケアマネが働く場所を、居宅介護支援事業所(略して居宅)という。私は老人保健施設を辞めて、介護業界大手の株式会社が経営する事業所に就職した。しかし、“夢の職業”は甘くはなかった。

■「首をくくって死ぬと言っています」

ケアマネジャーとなった私は、介護業界大手の株式会社を振り出しに、3カ所の居宅介護支援事業所で修業を積んだ。3カ所目の事業所は、「医療法人・タンポポ会」というリハビリを専門とする病院が母体になっていた。

3年間、「居宅介護支援事業所・タンポポ」で働いた。このころになると、ようやく一丁前のケアマネらしくなっていた。2009年4月、「タンポポ会」がM市役所から地域包括支援センター事業を委託されると、私は責任者に任命された。

私は事務所から近い距離にある県営とURの団地に毎日のように足を運んだ。団地からの相談は多かった。本人から直接、電話がかかってくることもあったが、地域包括支援センターの存在を知らない人はまず市役所に電話をかけ、相談する。すると市役所はこちらに連絡を寄越し、「ちょっと行って、見てきてください」と指示するのだ。

私たちは「センターは市役所の使いっ走り」と自嘲(じちょう)していた。1月の終わり、午後4時をすぎていた。M市役所の介護保険課の係長からセンターに電話がきた。

「団地でひとり暮らしをしている73歳の木村隆介さんから市役所に電話がきました。首をくくって死ぬと言っています。家庭訪問して訴えを聞いてあげてください」

■「死体を焼いて骨にして、姉に宅急便で送ってくれ」

市役所は「相談業務」を地域包括支援センターに委ね、委託費を支払う。私たちの給料は全部、この委託費から出ている。こうして市役所の下請けをしている限り、私たちは食いっぱぐれがない。持ちつ持たれつなのだ。

私は木村さんが住む棟に自転車を走らせた。インターホンを押すと、しばらく経って扉が開いた。「誰だ?」木村さんは陰鬱な目をして私を見据えた。ギスギスに痩せた身体に醤油で煮しめたような綿入れ半纏(はんてん)をはおり、ゆるんだラクダの股もも引ひきをはいていた。

「市役所の委託を受けている地域包括支援センターの職員です。岸山と申します」
「市役所に電話したら、さっそく来てくれたってわけか」

木村さんは私を部屋に招き入れた。廊下には新聞紙や雑誌、チラシの束、靴や雪駄、傘が積み重なっていた。ゴミの間を縫って歩く木村さんの足はふらついていた。2DKの部屋は足の踏み場もない。

足の踏み場もない部屋
写真=iStock.com/Yusuke Ide
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke Ide

「俺は風呂場で首をくくる。俺の死体を焼いて骨にして、北海道の姉に宅配便で送ってくれねぇかい」
「それは市役所ではできません。私にできることをご提案してもよろしいですか」

綿埃でザラザラになっている畳に正座して、木村さんと向かい合った。

■酒と競馬に溺れ10年間ひきこもりに

「死んだほうがマシ」と嘆く相談者は多い。しかし、木村さんのように荼毘(だび)に付して、遺骨を肉親に送ってほしいと言った人は初めてだ。私はむしろその言葉に救いを感じた。

安い料金で昼の弁当を宅配してもらうサービスを受けることを勧めると、木村さんは「首をくくる」と息巻いていたのがウソのようにあっさり承諾した。宅配弁当の申請用紙を書きながら、木村さんにいくつか質問をした。

木村さんは高校を卒業すると故郷の北海道から上京、タクシー運転手として44年働いたことを話してくれた。結婚をし、ひとり娘に恵まれたものの、酒の飲みすぎが原因で喧嘩が絶えなかった。妻は赤ん坊を抱えて家を出た。それきり、妻子とは一度も会っていない。

もっと働きたかったが、酒と競馬に溺れ、心身が衰え、63歳で引退した。そんな話まで打ち明けてくれた。もう10年もこうした引きこもり生活が続いていることになる。

薄暗い部屋でアルコールを注ぐ手元
写真=iStock.com/art159
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/art159

1週間後、宅配弁当の感想を聞くために訪ねた。配食サービスはあくまでも、木村さんへの訪問を続けるための手段だった。開かずの扉の住人にさせないよう、頻繁に訪問して関係を築いていこうと考えていた。

汚れた台所の流しに新品の包丁が置かれていた。上階から水漏れがあり、包丁を持って怒鳴り込んだのだという。酒の飲みすぎで被害妄想が強くなり、狂気に駆り立てられたのかもしれない。住民に通報され、警官から説教を食らったあげく、団地の管理事務所の管理主任からは退去勧告を突きつけられたという。

■引っ越しが決まるも部屋のゴミは全部で6トン

木村さんはアルコール依存症で、一日一食の弁当を食べるのがやっとだ。栄養失調で肝機能も悪い。このままでは本当に死んでしまう。木村さんの暮らしを立て直すための施設を探してあげたいと私は考えた。

要介護認定の申請をし、認定調査員の訪問時にも同席した。主治医意見書を書いてもらうために、木村さんを団地のクリニックに連れていった。「要介護2」に認定されたものの、施設探しは難航した。身元保証人がいないことがネックになった。

私はほうぼうの施設に電話をかけては断られ続けた。私が訪れるたび泥酔した木村さんは食ってかかってきた。誰とも接することもなく一日中家の中に引きこもっている。私とのやりとりだけが他者とのコミュニケーションなのだ。早くなんとかしなければと焦った。

冬がすぎ、春がきた。にっちもさっちもいかないと絶望的な気持ちになっていたとき、一筋の光明が射しこんできた。

ある介護サービス会社が市内にサービス付き高齢者住宅をオープンさせた。藁をもつかむ気持ちで連絡を取ると、木村さんの年金14万円を考慮し、月額10万円で入居できるように対応してくれた。身元保証人がいなくてもいいという。残るはゴミ屋敷の片付けだった。

知り合いの遺品回収業者に頼み込み、引き受けてもらった。業者が部屋を確認すると、ゴミはおよそ6トンあるという。

■ゴミに埋もれていた「オレンジ色のアルバムと手紙」

引っ越しの日がきた。サービス付き高齢者住宅の若い介護職員たちが本棚や整理ダンス、机などをせっせと運び出してくれる横で、私は木村さんの身の回りの物をカバンに詰め、貴重品をまとめた。木村さんは椅子にぐったりと座っていた。

岸山真理子『ケアマネジャーはらはら日記』(三五館シンシャ)
岸山真理子『ケアマネジャーはらはら日記』(三五館シンシャ)

6トンのゴミの片付けは午前2時に開始され、その日のうちに終了した。翌日、確認のために玄関の扉を開けた私は目をみはった。これまでゴミに覆われて見えなかった畳や板の間、テラスが本来の姿を現している。

汚れと埃がすっかり落とされ、拭き清められた部屋には、窓ガラス越しに陽光が射していた。玄関にオレンジ色のアルバムと手紙が置かれてあった。

遺品回収業者からの手紙は私宛で「木村さんにアルバムをお渡しください」と書いてある。アルバムを開いた。木村さんの娘と思われる女の子の写真が、1歳から1年ごとに26枚貼ってあった。その一枚一枚にボールペン書きで説明がついていた。

■「パパ、元気でね。いつか会いたい」

《1歳 パパと別れて鳥取に来ました。2歳 チャボのピー子が妹でした。3歳 このころになると、『お友だちにはパパがいていいな。なぜ、梨紗にはパパがいないの?』と、お友だちの家から泣いて帰って来ました。4歳 さみしそうな目をしていました。》

木村さんの面差しを宿した梨紗さんは、育っていくにつれ、こぼれるばかりの笑みが美しさを増すようになっていった。

《21歳 短大を卒業して東京で就職しました。》

社会人になると、髪をばっさり切り、キャリアウーマンふうの女性に成長していた。「パパ、元気でね。いつか会いたい」との言葉でしめくくられている。

日付は1997年6月21日。アルバムの最後の日付から、この時点ですでに18年がすぎている。そしてこのアルバムもまたゴミの中に埋もれていた。一度も会うことなく、写真だけで娘の成長を見守ってきた木村さんにとってこの18年の歳月とはどんなものだったのだろう。

私はアルバムを持ったまま、しばらくその場に佇んでいた。

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岸山 真理子(きしやま・まりこ)
ケアマネジャー
1953年生まれ。静岡県出身。大学卒業後、30代まで単純労働の現場を渡り歩く。38歳での出産を機に正規職員の仕事を求め、介護職員に。その後、47歳でケアマネジャーになり、以来21年にわたって介護現場の最前線で奮闘する。毎朝のストレッチを欠かさず、真剣に「88歳現役」を見据える。

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(ケアマネジャー 岸山 真理子)

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