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「だから巨匠になれた」ショボい罪で投獄と脱獄を繰り返したカラヴァッジョのこじらせ人生

プレジデントオンライン / 2021年8月11日 15時15分

カラヴァッジョ『果物籠を持つ少年』(1594年、ボルゲーゼ美術館蔵)(写真=Caravaggio/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

イタリアのバロック期を代表する画家でありながら、傷害や恐喝、ついには殺人まで犯し、逃避行の中で鬼気迫る作品を描き続けたカラヴァッジョ。アートディレクターのナカムラクニオさんは、「逃げれば逃げるほど、ケンカをすればするほど絵画に迫力が生まれることを発見してしまったのかもしれない」という――。

※本稿は、ナカムラクニオ『こじらせ美術館』(ホーム社)の一部を再編集したものです。

■生々しいリアリティ

カラヴァッジョは、光と闇の画家だ。わずかな光と膨大な闇で鑑賞者を魅了する。

描かれている作品のすべてが彼自身をモデルにしているように感じられるところも非常に興味深い。

技術的に優れているというよりは、生々しいリアリティが魅力だ。

彼は、イタリアのバロック期を代表する画家でありながら、傷害、器物破損、恐喝で裁判沙汰を起こし、少年愛を告発され、さらに殺人まで犯している。投獄と脱獄を繰り返し、逃避行の中で鬼気迫る作品を描き続けたのだ。彼自身が劇的な絵画空間を生きた男だった。

■「賭けテニス」で負けて口論に

1606年、カラヴァッジョは、知人のラヌッチョ・トマッソーニという男を剣で刺し殺した。「賭けテニス」をしていた時に負け、得点について口論となりカッとなって刺したのだ。当時禁じられていた決闘を隠ぺいするためのカモフラージュだったのかもしれない。賭けた金額は、わずか1スクードと言われる。

スクードは16〜19世紀まで使われていたイタリアの通貨だが、当時依頼された絵画の支払いが200スクード程度だったことを考えると、1万円程度の遊びの賭けだったのではないか。わずかな金額の賭けで殺人を犯したカラヴァッジョが400年後、イタリア紙幣の肖像画になるなんて誰が想像しただろうか。

■投獄と脱獄を繰り返して

死刑宣告を受け、指名手配されたカラヴァッジョはローマから逃亡した。ローマの司法権では罰せられないナポリでパトロンとなる貴族を見つけることに成功するが、ここでも再びケンカをして、相手に重傷を負わせてしまう。そのため、マルタへ逃げながら、次々と傑作を描いた。それでもカラヴァッジョはケンカを続けた。投獄と脱獄を繰り返し逃げ続けた。

残酷な場面を描いたカラヴァッジョの絵画は、まさに彼自身の体験がモチーフとなっているのだ。逃げれば逃げるほど、ケンカをすればするほど絵画に迫力が生まれることを発見してしまったのかもしれない。写真がなかったこの時代、彼は人を斬った後も、まじまじと血が流れる様子を観察していたのだろう。剣のひと振りがカラヴァッジョのスケッチだったのだ。

■一枚も「自画像」を残さなかった理由

もしかするとカラヴァッジョは、2次元の世界で描いた残酷な世界と、3次元の現実世界の区別がつかなかったのではないか。描いた作品の登場人物は、すべてカラヴァッジョ自身であり、絵画というドラマチックな劇場空間の中で彼は生きていたのかもしれない。

カラヴァッジョ像
カラヴァッジョ像(画=ナカムラ クニオ)

というのも、カラヴァッジョは、生涯で一枚も自画像を残さなかった(画家のオッタヴィオ・レオーニが描いた彼の肖像画は残されている)。

そして、作品に登場する男は、いつも同じ顔だ。大きな目、二重のまぶた、眉毛は濃く、目の色は黒、鼻は低い。ほとんどが同じ男に見える。

当時、モデルを雇うお金がなかったから自分を見て描いた、という説もある。代表作「果物籠を持つ少年」も「病めるバッカス」もなぜか彼自身の顔にそっくりだ。

カラヴァッジョの作品は、すべてが鏡のように彼の心の内側を映し出した「表裏一体の絵画」と考えると納得できるのだ。

■生首に当たる優しいスポットライト

カラヴァッジョは、最晩年に「ゴリアテの首を持つダビデ」を描いた。旧約聖書に登場するダビデが巨人ゴリアテを倒し、その切り落とした首を持つ場面だ。切り落とされたゴリアテの頭部は、まさにカラヴァッジョ自身の自画像だ。大きな悲しみを浮かべた目と観念したような半開きの唇。自らの死を予言したのかもしれない。

カラヴァッジョ『ゴリアテの首を持つダビデ』
カラヴァッジョ『ゴリアテの首を持つダビデ』(1609-1610、ボルゲーゼ美術館蔵)(写真=Caravaggio/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

そんなゴリアテの生首には、慈悲深く優しいスポットライトが当たっている。カラヴァッジョは、血と暴力に彩られた生き方を自らが実践することで「真のリアリズム」を手に入れ、最高傑作を完成させることができたのだ。

カラヴァッジョは、1610年7月、ナポリからローマへと向かう途中でお尋ね者の山賊と間違えられて逮捕され、釈放後おもむいたトスカーナ地方の港街ポルト・エルコレの海岸で7月18日に亡くなった。38歳だった。死因は病死とも、鉛中毒とも言われているが、マルタ騎士団による暗殺だったという説もある。いずれにしても、長いあいだ闇の中を歩き続けたカラヴァッジョ最期の場所が地中海の光に溢れた海岸だったというのは、何とも皮肉な話だ。

■6歳で父を、19歳で母を失う

1571年、カラヴァッジョはミラノで生まれた。父は侯爵家に仕える執事で、土地や財産を持っていた。しかし、彼が6歳の時、ペストが大流行。父、祖父、叔父が相次いで死んでしまう。少年カラヴァッジョは、借金を抱えた母を助けるため、12歳から細密描写が得意なミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノに師事し、絵画の勉強をはじめた。当時人気があった画家のジローラモ・サヴォルドやレオナルド・ダ・ヴィンチの絵からも光の効果や静物画の技術を学んだ。

しかし、19歳の時、最愛の母が亡くなってしまう。彼は絶望した。ここからカラヴァッジョの暴走がはじまる。弟、妹と母の遺産を分けると、彼は家族を捨てローマに旅立った(何らかの傷害事件を起こしたから、という説もある)。読書が好きなおとなしい少年は、感情が激しく粗暴な性格になっていった。社会性に乏しく性格はひねくれ、自信過剰で自己中心的、皮肉屋であらゆる画家の悪口を言っていたらしい。実際に1603年、ライバルの画家ジョヴァンニ・バリオーネを誹謗(ひぼう)中傷する詩を公表し、名誉毀損(きそん)で訴えられている。もしカラヴァッジョが現代人だったら、SNSで発言が大炎上するようなタイプの男だったかもしれない。

■天才的なライティングのセンス

ナカムラクニオ『こじらせ美術館』(ホーム社)
ナカムラクニオ『こじらせ美術館』(ホーム社)

カラヴァッジョは2週間絵を描くと、1、2カ月ほど酒場を渡り歩きケンカに明け暮れるという日々を送りながら、次々と傑作を生み出す。家族や安定した生活を失った代わりに、超絶技巧の画力を身につけたのだった。

いつしかカラヴァッジョは、光を自在に操る画家となった。肌の質感、表情、感情までもリアルに浮き上がらせるその天才的なライティングのセンスは、現代の映画や写真にも影響を与えている。

人物の左斜め上から強いライトを当て、影を強調する演出は、物語やモチーフに強いインパクトを付けたい時に使われる。暗いスタジオでスポットライトを人物に斜めに当てると、顔も体も半分が影になるので、被写体の印象が強くなるのだ。カラヴァッジョが生み出したこの照明術は、現在でも映画やスチール撮影におけるライティング技法のひとつとなっている。

■レンブラントやフェルメールにも深い影響を

この技法は、一般的には「レンブラント・ライト」と呼ばれている。17世紀オランダの画家レンブラント・ファン・レインが、カラヴァッジョの影響でこの明暗法を確立したのだ。映画『ゴッドファーザー』でマフィアのボス役、マーロン・ブランドが登場するシーンは、ブランドを真上から照らすレンブラント・ライトで有名だ。それほどまでに多くの芸術家が彼の影響を受けた。このようなカラヴァッジョ風の絵は「カラヴァッジェスキ」と呼ばれている。

オランダのレンブラント、フェルメール、スペインのベラスケス、フランスのラ・トゥール。実は、みんな「カラヴァッジョ・チルドレン」なのだ。その光の系譜は、現代の画家にも脈々と受け継がれている。まさに、美術史における光の系譜は、カラヴァッジョから始まるのだ。

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ナカムラ クニオ(なかむら・くにお)
アートディレクター
1971年東京都生まれ。東京・荻窪「6次元」主宰。日比谷高校在学中から絵画の発表をはじめ、17歳で初個展。現代美術の作家として山形ビエンナーレ等に参加。金継ぎ作家としても活動している。著書に『金継ぎ手帖』『古美術手帖』『モチーフで読み解く美術史入門』『描いてわかる西洋絵画の教科書』(いずれも玄光社)、『洋画家の美術史』(光文社新書)などがある。

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(アートディレクター ナカムラ クニオ)

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