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「感動の押し付けはたくさんだ」運動嫌いの私が東京五輪に感じる"排除の空気"

プレジデントオンライン / 2021年7月27日 15時15分

東京オリンピック開会式で国立競技場から打ち上げられる花火=2021年7月23日 - 写真=EPA/時事通信フォト

7月23日に東京オリンピックが開幕した。新聞やテレビでは、メダル獲得にまつわるアスリートの感動エピソードが乱舞している。文筆家の古谷経衡さんは「だから私は東京五輪に反対してきた。なぜ感動を押し付けられなければいけないのか」という――。

■この同調圧力には耐えられない

私は昨年の時点で、東京五輪は中止すべきと主張していた。そこには菅義偉首相が嫌いだからとか、自民党に対して不支持であるといった政治的な理由があるからではない。私が東京五輪に反対していたのは、

「せっかく五輪が日本で開催されるのだからみんなで応援しようよ! ホスト国として五輪を盛り上げていこうぜ! 若者や子供たちに夢や希望を与えるためにみんなで頑張ろうよ!」

という同調圧力がただただ堪らなく嫌いだからだ。

感動は押し付けられるものではない。内発的に沸き上がるものである。「感動ポルノ」という言葉がはやったが、私の五輪に対する生理的嫌悪感はこれだ。あなたの感動と私の感動は違う。押し付けはやめてくれ。私の感動は私が発見する。政府やメディアに押し付けられるものではない――。これが私が五輪のノリに対して違和感を抱き、距離を取りたい最大の理由である。

■中学生の15.8%はスポーツが嫌い

だからもしコロナ禍が無く、予定通り五輪が昨年(2020年)に開催されていても、私は五輪のノリには全く乗れなかった筈だ。ただ冷めた目で五輪を見ていただろうし、ましてコロナ禍ではその冷笑は加速する。開会式を境に、

「始まってしまったものは仕方がない。皆で日本選手を応援し、五輪を盛り上げようぜ!」

という手のひらを返した翼賛的なノリも、私にはどうも滑稽に思える。始まってしまったから仕方がない――というのは、構造的には「戦争が始まってしまった以上、仕方がない。われわれは戦争遂行に邁進するべきである」と同じだ。私は今後も五輪開催中、五輪へ冷たい目線を投げかけ続けるだろう。感動の押し売り、押し付けは真っ平御免である。感動は貴方からもらうものではなく、私が内発的に発見するものだ。

スポーツ庁「令和元年度全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果」によれば、「スポーツが嫌い・やや嫌い」と答えた中学校生徒は、男子で10.8%、女子で20.9%にのぼり、平均すると15.8%が「スポーツが嫌い」と答えている。決して無視できない数の生徒がスポーツは嫌いなんだと答えている。

スポーツ庁はこの「嫌い」を半減させることを国策として打ち出している。滑稽である。国語や算数、社会科が嫌いと答える生徒はこれと同数かそれ以上いる筈だが、なぜスポーツだけが「半減目標」の国家的対象になるのか皆目見当がつかない。嫌いなものを無理やり「好き」に変えさせるというのは、古代の世界帝国が異民族に講じた改宗と同じ愚挙ではないか。スポーツだけがまるで特権的に特別視されることに違和感を覚える。

■パニック障害を機にスポーツとは縁のない生活に

かくいう私は、小学校から中学校まで実に8年間に亘り水泳をやっていた(週1回か2回、近所の有名なスイミングスクールに通っていた)。お陰で当時、600メートルは楽に泳ぐことができ、基礎的な筋力や体力がついた。小学校高学年では1年ぐらいバスケットボールをやっていた。遂にレギュラーにはなれなかったが、スポーツが嫌いかと問われると当時の私はNOと答えたと思う。

高校に入ると、この状況は一変した。私は精神疾患(パニック障害)を患い、体育館に出入りすることができなくなった。だから高校の3年間、私は完全にスポーツや体育とは縁のない生活を送り、見学とか保健室待機という形で学校側にその出席単位を認めさせる地道な交渉を成功させたのである。

この頃から、私はハッキリとスポーツというものに対しての違和感を覚えだした。スポーツの祭典というものには必ず、平和とか人権擁護とか、マイノリティの尊重という美辞麗句が付きまとう。そのマイノリティは現代専ら性的少数者とか民族的マイノリティを指す向きが強いが、スポーツに嫌悪感を抱く人とか、スポーツの熱狂に距離を置くという人が「含まれない」という解釈ではなかろう。

■「スポーツ嫌いのマイノリティ」は肩身が狭い

当時の私はそんな美辞麗句から、スポーツが嫌い、または嫌悪感を抱くものはその美辞麗句から言外にも前提的に排除されている、という皮膚感覚があった。先に述べたスポーツ庁が自ら掲げるように、「スポーツが嫌い」という16%近くの人々に対して「スポーツを好きになってもらう」という国策を打ち立てたのがその証左である。

思春期にあって、スポーツ分野の部活で県大会や全国大会に進む者だけが特別視され、「頑張り」の代名詞とされる。そして(非体育会系諸氏の)全員で彼ら彼女らを翼賛的に応援するのが当たり前だとされている。そんな風潮が堪らなく嫌で仕方がなかった。しかし五輪憲章に照らせば、私の様な「スポーツ嫌いのマイノリティ」にもその差別の目線は決して向かってはいけない筈である。

■なぜスポーツだけが特別視されるのか

よく4年に1度(今年は5年になったが)の国際大会の為に、アスリートはどれほど己の肉体を鍛錬し、また科学的に調整して、筆舌に尽くしがたい努力を以て頑張ってきたのであるか、という。そういう特集が五輪のたびに必ず組まれる。無論否定はしない。アスリートはそれが人生であり仕事だからだ。

私に言わせれば、それと同じような気概を以て艱難辛苦を乗り越えて政治、経済、社会、文化の方面で創意工夫している人は、スポーツ分野以外にも大勢いる(単純な量的数量ですればそういった人の方が多かろう)。なぜスポーツだけが特別視されるのか。私はいくら熟考してもまるで分からない。一種の選民思想のようにも感じる。

まずよし、スポーツに於いてはその努力の結果として明確な勝敗というものがあり、或いは新記録という数値目標がある。努力の結果がダイレクトに反映され、数値的に可視化されやすいのは確かである。よって、それに熱狂するのは分からないでもない。ただし、私に言わせれば「勝手にやってくれ」という一言である。

貴方の頑張りの感動は私の努力や人生とは違うものだ。サークルや部活の範囲内でそれを喧伝することは結構なことだが、税金を投入した国家的なイベント――、五輪にそれをそのまま投射するのは断じて納得できない。スポーツ音痴の私の偽らざる本心はここにある。

■感動の押し付けをしないでほしい

アスリートに罪はない、ともいう。その通りである。アスリートは様々に噴出した今次五輪関係者に関する人権意識の低さ等々に連なる醜聞に責を持たないのは全くその通りだろう。私はアスリートを怨嗟している訳ではない。頑張ったのなら、五輪という晴れ舞台で勝負し、その結果メダルを獲得した選手は素晴らしいと思うが、その感動を押し付けないで欲しい。そのノリに私は乗れないのだ。私の主張はこの一点に尽きる。

2002年、日韓共催W杯が開催された。私は当時大学2年生で関西圏に住んでいたが、同級生の少なくない一郡は、皆青いユニフォームを着て、或いは頬に日の丸のペインティングをして、京都・河原町、或いは大阪・梅田の酒場やパブリックビューイングで日本代表の戦いに熱狂した。私はそういった同級生を冷ややかな目線で冷笑し、京都市内の吉野家で牛皿をつつきながら学友と押井守の話とか自公保連立(当時は、自民・公明・保守党)の是非を深夜まで闘わせていた。W杯に何の興味もなかった。貴方の感動と私の感動は違う――、これがすべての要因であった。

■サッカーが嫌いなのではなく同調圧力が嫌い

日本代表を応援する学友からは、「古谷はなぜ日本代表を応援しないのか。日本人なら青いユニフォームを着て日本代表を鼓舞するのが当然ではないか」と揶揄された。知った事ではない。くり返すように私は、サッカーが嫌いな訳でもなく、W杯という国際大会をボイコットしようとする気概を持っている訳でもなかった。ただ、「日本人なら国家的イベントを、日本側に立って応援するのが当たり前だ」というその、私から言わせれば醜悪な同調圧力にただただ嫌悪感を抱いただけである。

本来、どの国の選手を応援しようと、また応援しなくとも個人の自由である。日本人でありながら日本代表を黙殺し、コロンビアやカメルーンやモロッコのチームを応援することもまた自由である。「○○なんだから、○○せなばならない」――この同調圧力が嫌なだけなのだ。サッカーが嫌いな訳ではない。

■みんながスポーツを好きだと思うなよ

事程左様に、私の五輪禁忌は、こういった五輪にまつわる翼賛的同調圧力に生理的に嫌悪感を感じる、その一点に尽きる。日本選手が金メダルを取る。実によろしいではないか。日本選手が銀メダルを取る。あと一歩であったが実によろしいのである。しかし、それは私の人生ではない。情報が狭窄してネットのない時代、日本選手の活躍=自分自身の人生とか、拡大して日本全体の偉業とダブらせて尊崇する時代では最早ない。

優勝メダル
写真=iStock.com/franckreporter
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/franckreporter

はたまた繰り返しになるが、今次五輪に於いて、日本選手団が如何に活躍しようとも、私の人生には何も関係がない。アスリートの感動は国家レベルの感動と同一ではなく、また個人の生活に何の変化も与えない。寧ろ私は五輪狂騒の裏で、本来問題とされるべき社会問題が五輪紙面に圧迫されて疎かになりやしまいか、という部分を危惧する。事実五輪が開幕してから、新聞紙面の構成もテレビの編成も、ラジオだって一部そうなっているではないか。ミャンマー情勢はどうなった。夫婦別姓をめぐる判決は。原発再稼働の是非は。熱海の土石流災害については。もうどこかへ吹き飛んでしまった。危惧すべき状況が進行形で表面化している。

五輪という国家的なイベントを楽しむべきか、或いは批判的・懐疑的であるかという問いに答えなどない。「やるのなら、勝手にやってくれ」というのが私の結論である。好きにしてくれ。ただそれを他人に押し付けてはいけない。それだけのことがなぜ分からないのだろうか。

安倍晋三前首相は「東京五輪に反対するのは反日的である」旨、月刊『Hanada』2021年8月号の対談で発して物議をかもした。そういう問題ではない。五輪をどうしてもやるのなら「ただ静かに黙ってやってくれよ」と思うだけだ。そういう人は多いはずだ。みんながスポーツを好きだと思うなよ。ただこれだけのロジックを建てるために、懇切丁寧に説明しなければならないという時点で、日本にダイバーシティ(多様性)などというものは微塵もないと断言できる。本当に嫌な時代だと思う。

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古谷 経衡(ふるや・つねひら)
文筆家
1982年、札幌市生まれ。立命館大学文学部卒。保守派論客として各紙誌に寄稿するほか、テレビ・ラジオなどでもコメンテーターを務める。オタク文化にも精通する。著書に『愛国商売』(小学館)、『「意識高い系」の研究』( 文春新書)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)など。

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(文筆家 古谷 経衡)

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