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「中世の日本に本当にあったデスノートの正体」なぜ僧侶たちは敵を呪い殺せたのか

プレジデントオンライン / 2021年8月3日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Grafissimo

中世の日本には「デスノート」が実在した。明治大学商学部の清水克行教授は「当時の僧侶たちは、敵の罪状、名前、日付を書いた紙を仏前に捧げ、災厄が降りかかることを祈ったという。ただし、こうした呪詛の事例は室町時代以前にはあまり見られない。昔の人々がつねに迷信深くて純朴だったと思い込んではいけない」という――。

※本稿は、清水克行『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』(新潮社)の一部を再編集したものです。

■「呪いはきわめて効果的だった」ワラ人形の使い道

先日、ネット通販のアマゾンで「ワラ人形」を売っていることを発見した。「本、ファッション、家電から食品まで」と銘打っているが、まさかこんなものまで買えるとは。

私が気に入ったのは、1800円の逸品。備考欄には「国産わら使用」、「一点ずつハンドメイド」、「よく一緒に購入されている商品」欄には「丸釘150ミリ」と、いろいろツッコミどころ満載である。

販売会社の名前が「ジョイライフ」というのもイカしている。けっこう売れているらしく、カスタマーレビューの評価も高い。「すっごくいいです」、「効果はありました」、「概ね満足」といったコメントが並んでいて、いつか必要となる日のために、思わず私も買ってしまおうかと思ったぐらいである。

ちなみに現在の日本の法律では、ワラ人形を使用して、憎い相手を死に追いやっても、決して殺人罪には問われない。相手の死と呪いの因果関係が科学的に立証されないからだ。おかげで、こうしてネット通販でも安心してワラ人形が買えるわけだし、こうして「商品」の紹介をしても当局から怒られることもないのである。

ただし、くれぐれも五寸釘を刺したワラ人形を相手の家の玄関先に晒したり、呪詛していることを相手に告げたりはしないように。そこまですると、さすがに現代社会でも脅迫罪が成立してしまうので要注意である。あと、他人の所有する土地に夜間に立ち入って、ワラ人形に釘打ちするのも、不法侵入罪や器物破損罪が適用される恐れがある。呪詛はあくまで自宅敷地内で行おう。

ともあれ、現代社会においては“呪い”と“殺人”のあいだには“科学”という大きな壁が立ちはだかり、その隔たりは決して小さくない。

いま挙げた諸注意さえ守れば、呪詛自体が罪に問われることはないし、そもそも呪詛したところで、その効果があるかどうかは保証の限りではない。ところが、500年前の社会において、呪いはきわめて効果あるもの、と考えられていた。

今日は、そんな「呪い」をめぐるお話。

■応仁の乱の最中に起こった事件

京都の南の郊外にある醍醐寺は、平安時代に開創された真言宗醍醐寺派の総本山である。その醍醐寺で、応仁の乱の真っただ中の文明元年(1469)10月に事件は起きた。

応仁の乱の絵
紙本著色真如堂縁起・下巻(部分)(写真=掃部助久国/真正極楽寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

その頃、醍醐寺の周辺はまだ田畑に囲まれ、多くの村人たちがそこを耕作して、収穫の一部を醍醐寺に年貢として納めていた。醍醐寺は、その門前の集落のことを「御境内」とよんで、そこから上がる収益を重要な財源としていた。ところが、ある日、そこの村人たちが混乱した世情に乗じて、とんでもないことをいい出した。門前のすべての田地の年貢を半済(はんぜい)にする、というのだ。

「半済」とは、荘園領主への年貢の納入を半分だけにすること。残りの半分は、その土地を実効支配している者の手に委ねられた。有名なのは、高校の日本史教科書にも載っている、室町幕府が出した「半済令」だろう。室町幕府は南北朝の内戦中に味方の武士を増やすため、幕府側についた者には土地の年貢の半分をあたえるという出血大サービスの超法規措置を命じたのである。

この半済令というお墨付きを利用して、各地の武士が力をつけ、かわりに収入の半分を失った寺社や公家が窮迫するという事態が生まれることになった(ただし、半済令には「半分」以上の年貢を侵犯することを禁じる意味合いもあり、一方で武士たちによるむやみやたらな年貢の侵食を阻止する側面もあった)。

しかし、今回は武士ではなく村人たちが「半済」を主張しはじめたのである。しかも、べつにこのときは室町幕府から半済令が出された形跡はない。「半済」というと聞こえはいいが、彼らは内戦下の混乱を利用して、事実上の年貢半減要求を醍醐寺に突きつけたのである。しかも、彼らはこの要求を貫徹するため実力行使に出て、寺に対して様々な「狼藉(ろうぜき)」(暴力行為)まで行っていたらしい。

■僧侶たちの恐るべき“最終兵器”

お坊さんやお公家さんというと、質実剛健なサムライたちとちがって軟弱で、こんな事態が起きたら、オロオロするばかりで、てんで頼りにならない、というイメージが読者の方々にはあるかも知れない。しかし、このときの醍醐寺はビックリするほど毅然としている。

まず醍醐寺の僧侶たちは、この事態を放置すれば「一寺の滅亡」であると一歩も引かず、全山あげて村人たちに対する徹底弾圧に乗り出した。そのときの様子は、みな僧侶であるにもかかわらず「甲冑(かっちゅう)」や「弓矢」を帯びて、応戦に及ぶという過激なものだった。一方、対する村人たちも決して引き下がらず、門前は収拾のつかない大混乱に陥った。

やがて膠着(こうちゃく)状態を脱するため醍醐寺は、こういうときの「旧例」として、ついに恐るべき“最終兵器”の使用に踏み切ることになる。

時は、文明元年10月10日。僧侶たちは帳(とばり)から執金剛神像を引っ張り出すと、それを本堂の内陣、東護摩壇に安置して、そのまえで数日にわたり20人がかりで千反陀羅尼と不断陀羅尼という呪文を唱えた。さらにその後は神像を外陣に再安置して、再度、毎日、千反陀羅尼を唱えたのだった。

執金剛神とは、釈迦に従って仏法を守護する守り神。その姿は、仁王像と同じく憤怒の形相で、甲冑を帯び金剛杵という武器を掲げる厳めしい武人の出で立ちをしている。

ふだんは寺内の奥深くに安置されているその像を引っ張り出し、20人もの僧侶たちが堂のなかで濛々(もうもう)と護摩の煙を焚き、揺らめく炎のまえで呪いの文言をひたすらに唱え続けたのである。そのさまは、おそらくこの世のものとは思えない鬼気迫る情景であったにちがいない。

手を合わせる仏教の僧侶
写真=iStock.com/nattrass
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/nattrass

■「仏罰ここに報い来たれり!」次々と命を落とす村民……

やがて、その効果はてきめんとなって表れた。まず首謀者であった村人数人はすぐに捕らえられ、寺の僧侶たちによって呆気なく処刑される。仏罰ここに報い来たれり! かくて事件は落着したかに思えたのだが、話はまだここでは終わらない。

その後、他の「御境内」の村人たちにも「病死」、「病悩」(重病)、「餓死」、「頓死」(原因不明の急死)という悲惨な運命が待ち受けていた。年内のうちに村内の数えきれない人々が不可思議な理由で次々と命を落としていったのである。

その災厄は人間にとどまらず、果ては彼らが飼育していた牛馬や、家中の下人(使用人)にいたるまでが「頓滅(とんめつ)」するという始末。わずかな期間に、決して広くはない村のあちこちで、醍醐寺に反抗した人たちや無関係者が僧侶たちの呪いをうけて連続不審死を遂げる。これこそが醍醐寺が秘蔵していた“最終兵器”だったのである。

そんなバカな話があるか。と思われるだろうが、これは真実なのである。いや、少なくとも、当時の人々はこれを「真実」と考えた。

こともあろうに醍醐天皇も祈願所とした霊験あらたかな大寺院に刃を向けた愚かな村人どもは、当然の報いとして、一村滅亡の災厄に見舞われることになったのである。その後、仏罰の霊験が証明され、醍醐寺に盾突く村人があらかた死に絶えたことを確認した翌文明2年5月3日、執金剛神像は元の場所に戻され、ようやく呪詛の儀式は終結した。

「これは本尊の威力であり、すべては皆の丹精込めた祈りの結果に他ならない。尊いこと極まりなく、崇敬してもしたりないほどのありがたさである」

一連の出来事を書き残した醍醐寺の僧侶は、右のような誇らしげな言葉でその文書を結んでいる(「三宝院文書」、『大日本史料』八編三巻所収)。

■名前を書いたら、その人が死亡

本来なら人を救済するべき僧侶が、その死を念じて呪詛を行う。しかも、その効果が表れるや、得意満面。宗教者にあるまじき所業というほかないが、これは醍醐寺に限ったことではない。大和国一国を支配した奈良の巨大寺院、興福寺では、それがさらに頻繁に行われていた。

文明18年(1486)3月、仲川荘(現在の奈良市)という荘園の年貢を、地元の武士である箸尾(はしお)為国(ためくに)という男が横領してしまっていた。この年貢は荘園領主である興福寺に納められ、本来、唯識講という仏事の費用に充てられる重要な資金源だった。それを横領されてしまうと、もちろん仏事が開催できなくなってしまう。とはいえ、箸尾は強硬で、年貢を納入させることは難しそうだ。

そこで興福寺の僧侶たちは「名を籠(こ)める」という、これまた“最終兵器”を使う決断をした。「名を籠める」とは、寺に反抗的な人物の名前を紙片に記して、寺内の堂に納めて、その人物を呪詛する、という禍々しい制裁であった。他のケースでの「名を籠め」たときの文書が残っているので、参考までに掲げると、それは下のような感じの紙片であったらしい。

神敵・寺敵の輩
山田太郎次郎綱近
文亀二年戌壬十二月二十三日

罪状と名前と日付という、きわめてシンプルな記載だが、この紙片を包み紙にくるんで、表に「執金剛神/怨敵の輩 山田太郎次郎綱近」と書いて、仏前に捧げて、ひたすらその身に災厄が降りかかることを祈るのである。

■室町時代に実在した“デスノート”

このときも「箸尾為国」の名前は、興福寺の五社七堂に籠められ、寺僧たちは南円堂に群集して、大勢で読経して彼を呪った。しかし、この時点では、彼はまったく悪びれた様子は見せず、むしろ居直って寺の悪口まで吐く始末だった。

すると、どうだろう。翌4月になって、箸尾の支配する村で「悪病」が流行し、130人もの人々が続々と死んでいったのである。そのうえ、箸尾の手下だった村の代官も、妻女とともに病に伏せってしまったという。箸尾自身は死ななかったようだが、ここでも「名を籠める」ことの効果は疑いなかった。

「名前を書いたら、その人が死ぬ」といえば、私などはどうしても人気マンガ『DEATHNOTE/デスノート』(大場つぐみ・小畑健、集英社)を思い出してしまう。名前を書かれた人を死なせることができる死神のノート(デスノート)を手に入れた主人公が、犯罪者を抹殺して理想世界を築こうと暴走してしまう物語である。

あのマンガがヒットした理由には、複雑なプロットによる頭脳戦の面白さもさることながら、誰しもの心に「あいつを殺してやりたい」という相手が一人か二人はあって(それは身近な人間であることもあれば、ニュースでみた凶悪犯罪者であることもあるだろう)、そうした秘めた暗い願望を巧みに創作に取り込んだというところにあるのではないだろうか。

■武士も恐れた“呪力”

もちろん現実世界ではそれを実現することは叶わないのだが、マンガのなかでそれを実現してくれるダーティーヒーローに対して、読者が半ば共犯感を抱く設定の妙は大きい。

しかし驚くなかれ、すでに述べたとおり、室町時代に「デスノート」は実在していたのである。死因や死亡時期は特定できないものの、複雑なルールや変な副作用もないので、ある意味で「名を籠める」のほうがシンプルで効率的ですらある。

この他にも、同時代に「名を籠める」制裁は、興福寺を蔑(ないがし)ろにする不届き者に対して、たびたびその威力が発動された。

興福寺の五重塔
写真=iStock.com/Starcevic
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Starcevic

箸尾為国事件の前年、文明17年正月には、平清水(ひらしみず)三川(みかわ)なる人物が死亡したが、この男はさきに興福寺の大乗院門跡の所領を不法占拠した罪で五社七堂に「名を籠め」られた者だった。そのため、このときも彼の死は「御罰」が下ったものと、多くの者たちに認識されている。

こんなわけなので、領民の側も、この「名を籠める」制裁を心底恐れていたようである。大和国勾田荘(現在の天理市)の年貢2年分と運送料を横領した豊田猶若という人物は、その罪によって「名を籠め」られたが、明応8年(1499)12月、謝罪のうえ横領分を弁償することで、その名を堂内から取り出してもらうことを許してもらっている。

このように、「名を籠める」習俗は、寺僧たちはもちろん、領民たちにまでその効果が強く信じられ、宗教的制裁としての類まれな威力を発揮していたのである。

鎌倉~室町時代というと、鎌倉幕府や室町幕府に集った武士たちが“歴史の主役”で、坊主や神主は“前時代の生き残り”、あるいは武士に比べて“無力な存在”というイメージをもつ人がいるかも知れない。たしかに武士たちがもった“武力”を侮ることはできないが、当時においては僧侶や神官たちがもっていた“呪力”というのも、場合によっては物理的な暴力よりも当時の人々を震撼(しんかん)させる巨大な力であったのだ。

■戦国の梟雄、呪詛に敗れる

室町後期に活躍した越前国の大名で、朝倉孝景(1428~81)という人物がいる。彼はもともと越前国守護である斯波氏の家老の一人に過ぎなかったが、応仁の乱の最中に西軍から東軍に寝返るという離れ技を演じ、大乱の戦局を一転させたうえ、その功績で越前国の守護職を手に入れるという、“下剋上”の権化のような男だった。

しかも、それによって手に入れた領国内に「朝倉孝景条々(別名、朝倉敏景十七箇条)」と呼ばれる分国法を制定したことなどから、北条早雲(伊勢宗瑞。1456?~1519)と並んで“最初の戦国大名”とも評される人物である。

そんな目的のためには手段を選ばないマキャベリストの彼は、当然ながら、自身の領内にある寺社や公家の荘園に対しても容赦がなかった。荘園の管理役としての代官職を手に入れると、その権限をテコにして、彼は次々と荘園年貢を横領して、恐れ入る様子もなかった。

そのため、当時、孝景の存在は公家や僧侶たちからの怨嗟(えんさ)の的となり、彼が病死したとき、ある公家などは「おおむね、めでたいことではないか。彼は天下の悪事の張本人である」と日記で快哉(かいさい)を叫んだぐらいである。前時代の権威など物ともしない、“最初の戦国大名”の面目躍如たる逸話であろう。

■興福寺に屈した朝倉孝景

さて、興福寺も越前国内に河口・坪江荘という大きな荘園をもっており、そんな孝景の専横に頭を痛める領主の一人だった。

朝倉英林孝景肖像画
朝倉英林孝景肖像画(写真=福井県福井市心月寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

寛正五年(1464)5月、孝景は興福寺領河口荘のうち、自分の意志に従わない細呂宜郷(現在の福井県あわら市)の村を、こともあろうに焼き討ちにしてしまう。しかも、現地では孝景に反抗的な態度を示している3人の百姓が、現在も拘禁されているという。

それ以前からの不当行為も重なって、ついに興福寺はこれを重大視し、ことの次第を室町幕府に訴え出た。しかし、室町幕府も孝景には強く出ることはできず、訴訟は棚ざらしのまま、いっこうに進展しない。

しびれを切らした興福寺は、ここでついにお得意の“最終兵器”の使用に踏み切る。悪逆無道な孝景の「名を籠める」のである。同年6月24日、彼の名前を記した紙片は寺内の修正手水所の釜のなかに納められ、呪詛が開始された。

さすがの孝景も、これには参ったようである。彼も“中世人”、やはり呪詛は恐ろしい。興福寺で隠然たる力をもっている安位寺経覚(1395~1473)という大物に泣きついて、ひたすら制裁の解除を求めた。そこで、もともと孝景とは交流もあり、男気のあった経覚は、このとりなし役を快く買って出て、孝景に「二度とこのようなことはしない」と記した起請文(神仏への宣誓書)を提出すれば、罪を赦してやることを提案した。

8月10日、京都の二条家の屋敷に孝景はしおらしく出頭し、経覚はじめ寺僧たちに「今後、興福寺をなおざりにすることはせず、忠節を尽くします」という起請文を提出し、彼らの見ているまえで文書に署判を据え、これまでの不届きの一切を謝罪した。かくして、“最初の戦国大名”とまでいわれた朝倉孝景も、興福寺という中世権力の権威のまえに惨めな屈服を強いられたのである。

■改名は呪詛に対する対抗策だったのか

しかし、である。この一連の出来事を記す経覚の日記などを見てみると、不思議なことに気づく。上杉謙信が「景虎」→「政虎」→「輝虎」→「謙信」と名前を変えたように、この時代の人々が名前を変えるのは珍しいことではない。

孝景も、もとは「敏景」と名乗っていたが、長禄元年(1457)7月~同3年11月の間に「教景」と改名しており、この事件のときは「朝倉教景」と名乗っていた。実際、6月24日に修正手水所に「名を籠め」たときは「教景」という名前に対して呪詛が行われていた。

ところが、それから一カ月余り後の8月10日に二条邸に謝罪に現れたとき、経覚の日記のなかで彼の名は「孝景」と記されている。つまり、呪詛をうけた後、この1~2カ月の間に、彼は名前を「教景」から「孝景」に改名してしまったようなのである。あるいは、これは彼なりの「名を籠める」呪詛に対する対抗策だったのではないだろうか?

そもそも、『西遊記』に出てくる、その名を呼ばれて返事をすると吸い込まれてしまう銀角大王が所持する魔法のひょうたん(紫金紅葫蘆)の逸話や、わが国での妖怪や幽霊に名前を呼ばれても返事をしてはいけないという民俗禁忌のように、昔から洋の東西を問わず、名前にまつわる呪詛というものは存在した。

「名は体を表わす」の言葉どおり、前近代において、名前はその人本人と一体のものと考えられていた。そうした認識を前提にして、「名を籠める」呪詛は成立していたのである。

戦場の武士と祈る僧侶の絵
写真=iStock.com/wynnter
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/wynnter

■改名した朝倉孝景のその後……

では、それを逆手にとって、呪詛された人が改名をしてしまったら、どうなるだろうか。

本家の『デスノート』では、そこに名前を書かれたら、絶対に死からは逃れられないという話になっていたが、さすがに対象者が法的に改名してしまった場合のルールは無かったように思う。しかし、その理屈でいけば、彼らも呪詛からは逃れることができるはずなのである。

どうやら朝倉孝景は、現代人が思いもつかない高度な裏技を編み出し、「名を籠める」呪詛を無効化しようとしていたようである。その後の歴史を見てみると、彼は応仁の乱の混乱に乗じて、けっきょくそれまで以上に荘園の侵犯を派手に展開して、ついには興福寺の2つの荘園を「半済」に陥れている。

彼は謝罪を完全に反故にしてしまったのである。やはり、彼は“最初の戦国大名”とよばれるに相応しい、新しい価値観の持ち主だったようだ(ちなみに、興福寺はよほど悔しかったのか、改名の事実を知らなかったのか、その後もしばらく朝倉孝景のことを「教景」と呼び続けている)。

むろん、呪詛を避けるためにわざわざ改名し、律儀にも謝罪の手続きを踏んだことを考えれば、それはそれで彼のなかにも呪詛を恐れる気持ちがあったことは否定できない。

その点で、彼のなかには呪詛を不可避なものと恐れる中世以来の価値観と、呪詛すらも合理的に回避しようとする新時代の価値観が同居していたことになる。彼自身が、旧時代と新時代の境界的な存在だったといえるかも知れない。

時代は、呪詛を恐れない、呪詛を合理的に回避可能とする人々を、少しずつ生み出していたのである。

■「呪詛の時代」の終焉

さらに、そこから考えを進めるならば、「名を籠める」呪詛は、決して古い時代から連綿と行われ続けたものではないことにも注意をする必要がありそうである。これまで呪詛を中世の宗教権力の特徴であるかのように述べてきたが、じつは領民に対する呪詛の事例はあまり室町時代以前には見られないのである。

清水克行『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』(新潮社)
清水克行『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』(新潮社)

どうも「名を籠める」をはじめとするエキセントリックな呪詛は、中世も後期に入って、宗教領主の命令に従わない百姓や武士たちが続出するなかで活用されるようになったようである。考えてみれば当たり前のことだが、当時の人々に神罰や仏罰を信じる気持ちがあったならば、そもそも年貢を半減要求したり、横領したりすることはなかったはずである。

だから、「名を籠める」という行為は、当時の人々が迷信に縛られていた証しというよりも、むしろ人々の心のなかから信仰心が希薄化していたことの表われとみるべきかも知れない。支配を継続するために恫喝的な手段を使わざるをえない、宗教勢力の焦りを示していると言い換えてもいいだろう。

昔の人々がつねに迷信深くて純朴だったと思い込んではいけない。

一見すると信心深い時代のように思える室町時代は、一方で“呪詛の時代”の黄昏の時代でもあったのだ。

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清水 克行(しみず・かつゆき)
明治大学商学部 教授
1971年生まれ。立教大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。専門は日本中世社会史。「室町ブームの火付け役」と称され、大学の授業は毎年400人超の受講生が殺到。2016年~17年読売新聞読書委員。著書に『喧嘩両成敗の誕生』、『日本神判史』、『耳鼻削ぎの日本史』などがある。

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(明治大学商学部 教授 清水 克行)

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