「これがないと五輪は成功しない」組織委理事が競技会場に"子ども専用席"を作った理由
プレジデントオンライン / 2021年8月5日 10時15分
東京五輪・パラリンピックでNTTが提供する通信の高速大容量規格「5G」技術を用いた高精細ワイドビジョンによるセーリング競技観戦体験のデモンストレーション=2021年7月1日、東京都千代田区 - 写真=時事通信フォト
※本稿は、野地秩嘉『新TOKYOオリンピック・パラリンピック物語』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■川淵氏を変えた61年前の「出会い」
東京オリンピック・パラリンピック選手村の村長を務める川淵三郎は、前回東京大会が始まる前の1960年、早稲田大学の4年生で、サッカーの日本代表として8月18日からドイツ・デュッセルドルフ近郊の「デュースブルク・スポーツ・シューレ」というスポーツ施設にいた。日付まで覚えているのは、その日の衝撃が後に彼をある行動に追い立てることになったからだ。
当時、日本代表チームは西ドイツサッカー協会のコーチだったデットマール・クラマーを指導者に迎えることを決めていた。日本代表は、デュッセルドルフ空港で初めてクラマーと会う。クラマーはチームの全員に挨拶すると、その場から選手たちをスポーツ・シューレに連れていったのである。
施設に着いた川淵の目に飛び込んできたのはどこまでも広がる青々とした芝生のグラウンドだった。
スポーツ・シューレは地域スポーツの施設でドイツ各地にある。広大な敷地に天然芝のピッチ、体育館や宿泊棟、ジム、医務室、映写室まで備えたものだった。合宿するのは代表クラスに限らない。地域の少年チーム、障がい者チームもまた利用することができた。
日本代表選手たちは芝生の上でボールを蹴るのだが、勝手が違った。なんといっても当時の日本のグラウンドは、でこぼこの土である。代表の試合だって土の上で行ったこともあったから、芝生の上でボールを蹴るなんて体験をしたサッカー選手はごくわずかしかいなかったのである。
■「サッカーでなくともいい。子どもたちに芝生をあげたい」
「芝生なら転んでも痛くない。スライディングタックルだってぜんぜん怖くない」
選手たちは最初のうちボールを蹴らずにただ走ったり、寝転んだりして、芝生の気持ちよさを体全体で感じた。しかし、走っているうちに、自分たちがサッカーをやっていた環境がどれほどみじめなものだったかが次第にわかってきた。日本に戻ったらまた、でこぼこの土のピッチに戻ってプレーしなくてはならないことを考え合わせると、自然に涙が出てきた。
「いつかの日か、日本でも緑の芝生の上で普通にサッカーができるようにしたい」
川淵が人生を賭けてやりたかったことはJリーグではない。
「子どもたちに芝生のあるところで遊んでもらいたい。サッカーでなくともいい。子どもたちに芝生をあげたい」
本当の夢はそれだ。1960年のドイツで彼は生涯の夢を持った。
サッカーのプロリーグは彼でなくとも、誰かがやる。
しかし、子どもたちのために芝生を植えることを決め、実行しているのは川淵しかいない。彼は好きなゴルフをやって、クラブを振るたびにフェアウェイの芝生を削る。しかし、その何百倍、何千倍もの芝生を全国の学校の校庭に植えてきた。
花さかじいさんではなく、芝生を植えるじいさんが川淵三郎だ。令和の「芝植えじいさん」として、彼はレガシーを作ってきた。
■キャプテンが考える「スポーツの振興に大切なふたつ」
「スポーツの振興に大切なのはふたつ。それが地域密着と子どもたちへの普及。Jリーグを立ち上げた時、読売新聞の渡邉恒雄さんから『空疎な理念』と呼ばれたけれど、結局はどのスポーツでも、プロチームは地域密着を目指すようになった。ナベツネさんからも、『川淵君の言うとおりだ』と後に仲直りしたんだ。
![サッカー](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/d/2/670/img_d20a1b38c5d9483a313fdd5bb59453b3664775.jpg)
もうひとつが子どもたちへの普及です。サッカー協会ではキッズプログラムというのをやっていて、加えてグリーンプロジェクトという校庭や公共のグラウンドに芝生を植える運動をやっています」
キッズプログラムは日本サッカーの未来のために始めたものだ。多くの子どもたちにスポーツの楽しさを知ってもらい、その中から優秀な才能を持った子どもを世界で通用する選手に育成している。
■JFAアカデミーや「夢の教室」を立ち上げたワケ
JFAアカデミーがそれだ。JFAアカデミーは中学から高校の6年間で日本代表、日本サッカー全体を牽引する選手を育成するもので福島に開校した。ところが、2011年の東日本大震災で福島第一原子力発電所が事故を起こしたため、静岡県の御殿場(女子は裾野)に移転していたが、時を経て再び福島に戻る。
サッカーの指導はもちろん、英会話、リーダー教育、地域でのボランティア活動なども行っている。サッカーだけができる人間のための養成機関ではない。社会に貢献できる人間になってほしいと思って作ったものだ。
「夢先生」という名称でアスリートを派遣して授業を行う「夢の教室」というプロジェクトもある。
サッカーを教える以外にも何か子どもたちの未来に貢献できないか、子どもたちのいじめ問題や自殺問題に対して、スポーツができる働きかけがあるのではないか。川淵が思いついたのがアスリートに授業をしてもらうこと。決してサッカー選手だけではなく、さまざまなジャンルのアスリートが子どもたちに1日先生として授業をしている。
■校庭や園庭の芝生化を進める「グリーンプロジェクト」
校庭や公共のグラウンドに芝生を植えようと思ったのはJリーグのチェアマン時代だったが、本格的に推進したのは日本サッカー協会のキャプテン(2002年就任)になってからだ。
当時、こんなことをしゃべっている。
「わたしは『Jリーグ百年構想』の一環で、校庭や園庭などの芝生化を推進してきましたが、日本サッカー協会としても、『キャプテンズ・ミッション』の中に『グリーンプロジェクト』を掲げ、フットボールセンターの推進と並行して、芝生の校庭や広場づくりにも取り組んでいます。芝生については、まだPRと情報収集にとどまっているのですが、今後は、このグリーンプロジェクトの中に、芝生専門の組織をつくりたいと準備を進めています」
「JFAとしては、専門家の協力を仰ぎ、我々のネットワークを利用して、芝生管理の知識やノウハウなど様々な情報を提供したい。場合によっては、そういう人たちに現場に出向いてもらって指導してもらえるような体制をつくり、公共施設の緑化を進めていきたいと考えています」
■サッカーのためにやっているのではない
「サッカー界が芝生のグラウンドを推進するとなると、『サッカーのためにやっている』と取られることが多いのですが、それはまったくの誤解です。わたしたちは子どもたちをはじめ、老若男女が外遊びやスポーツに親しむことによって、人々の心身の健全な発達に寄与することを目的に活動しているんです。それが、スポーツ界の義務であり、責任だと思うからなんです。
実際に芝生化した学校に伺うと、土のグラウンドのときよりも子どもたちが外で遊ぶようになったとか、よい気分転換になるので授業にも集中できるようになった、などという話をよく耳にします。それに、芝生なら転んでもケガが少なく、冬も適度な湿度が保たれるため、風邪を引きにくくなるし、夏の猛暑では、ヒートアイランド現象を緩和するといった効果があります。土埃が立たなくなった、水溜りができにくくなったなど、予想以上の効用が表れています。
実は都内で初めて芝生にした杉並区の和泉小学校(2002年に芝生化、2015年に3校統合で杉並和泉学園に)では、歩行器を使ってしか歩かなかった児童が、校庭が芝生になった途端、クラスメイトの力を借りながらも自分の足で歩きました。わたし自身、そんな感動的な場面を目の当たりにしたこともあります」
■子どもたちのために大人は何ができるか
その言葉を思い出して、彼は言った。
「誰だって、ぼこぼこの土のグラウンドより、緑の芝生の上でボールを蹴ったり、寝っ転がったりしたいんだ。子どもならなおさらだよ」
川淵は芝生を植える運動を進めていた間も忙しい人生を送っていたのだが、子どもと芝生のことを語るとなると、目が輝き始める。
そんな彼にある情報を教えた。
「組織委員会理事の、あの高橋(治之)さんがオリンピックで子どもたちのために一肌脱ぐそうです」
川淵は身を乗り出した。
「どんなことやるの?」
「こんなアイデアですけれど」
「えーっ、高橋さん、やってくれるじゃない。大賛成。絶対、応援する」
川淵と高橋のふたりはオリンピックの評議員、理事として付き合いがあり、昔にさかのぼれば日韓ワールドカップの頃からよく知る仲だ。
川淵は高橋がやろうとしていることを知って、上機嫌になった。
■「子どもを大切にしないとオリンピックは成功しない」
2019年の年末だった。
東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の理事を務める高橋治之は東京・神谷町のステーキ店に日本セーリング連盟会長の河野博文、日本ウインドサーフィン協会会長の長谷川浩(2020年4月、新型コロナ感染症で逝去)、NTTの川添雄彦を招いて、食事をしていた。
![ヨット](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/8/e/670/img_8e54214ba08e3662d0ebde3d9e39a91b1007836.jpg)
話の内容はもちろん、オリンピックであり、レガシーについてだった。
高橋は10歳以上年下の長谷川にこう語った。
「……いいか、大切なのは子どもたちだ。大人はどうでもいいとは言わないが、スポーツの未来は子どもたちだ。オリンピックだって、子どもたちがいちばん見たいんだ。
浜辺でKirari!(※)を見せるのはいい。僕も見たことあるけど、いいぞ、あれ。ただし、大きな問題がある。前に大人が立つと、背の小さな子どもたちは見えないんだ。
いつも思うんだけど、マラソンとか競歩でも、列のいちばん前に大人が立つと、もう、子どもたちは見ることができない。あれがいけない。大人が前に立つのはやめさせないとダメだ。子どもを大切にしないとオリンピックは成功しない。
いいか、ヒロシ、2020年の東京大会を中心になってやってる連中ってのは1964年の時、子どもだったやつらなんだよ。
あの時、子ども心にオリンピックってすごいなと思ったから、必死になって働いている。だから、オリンピックは僕たちみたいな、じじい連中ではなく、子どもに見せなきゃならない」
※NTTが開発した超高臨場感通信技術。観客席から遠い洋上のセーリング競技の様子を、観客席のディスプレーに映し出す仕組みになっている。
■最前列に子どもたちを招待できないか
そこまで話してから、河野を見て言った。
「河野、子どもたちをKirari!が見えるいちばん前の席に招待するなんてことできないかな。子ども専用の席を作るんだよ。ウインドサーフィンがやったら、他の競技団体だって、子どもだけの席を作ることを始める。それがレガシーになったらいちばんじゃないか」
河野は無表情だった。
「うん、しかし、IOCが何と言うか?」
すると、誰も発言はできない。その時、川添がそっと手を挙げた。
「河野会長、うちはオリンピックスポンサーですから、子どもたちの席はなんとかなります。チケットは手に入れます」
席にいた人々は河野の顔を見る。
「川添さん、ありがとう。それならやろう」
河野は「あのね」と語りだした。
「1965年のことだけれど、オリンピックの後、ロイヤル・デニッシュ・ヨットクラブが江の島ヨットクラブに6艇の子ども用ヨットを寄付してくれたんだ。それで、その6艇を使って日本で初めての江の島ヨットクラブジュニアができたんだよ」
河野は咳払いをした。
「だからさ、高橋、オレが言いたいのは、子どもたちを招待して席を作ることは不思議でも何でもないぞってことなんだよ」
そう言って河野が席にいた男たちを見まわした。
そこにいた人たちは誰もが納得した表情をしていたし、亡くなった長谷川浩も愉快そうだった。
■大人がレガシーを創るのではない
高橋は「ありがとう」と言いながら頭を下げた。
![野地秩嘉『新TOKYOオリンピック・パラリンピック物語』(KADOKAWA)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/b/5/200/img_b57b56f3f50c695a6aa3af38b043d5a5273230.jpg)
「ほっとしたよ。ありがとう、河野、川添さんもありがとう。ヒロシ、よかったな。ウインドサーフィンは幸せだ。ありがとう。けどな、大役だぞ。お前が直接、海岸で子どもたちの世話をするんだ。いいな。それと、これはお前のアイデアってことにしとけ」
長谷川は「先輩のアイデアじゃないですか」と言った後で、「でも、ありがとうございます」と嬉しそうに笑った。ありがとうの連発の席だった。
こうして、もうひとつのレガシー、子どもたちのためのゾーン、「未来ゾーン」ができることになった。名づけたのはECCの社長、山口勝美だ。「当社も子どもたちを応援したいから協力します」と高橋に言ってきたのである。
今のところ「未来ゾーン」があるのはウインドサーフィンだけだ。しかし、それを見た他の競技団体も次回から未来ゾーンを採用することになるかもしれない。今大会では感染対策を行ったうえで、戸外での実施を想定している。
子どもたちを大切にしなくてはオリンピックは先細りになってしまう。
未来とは子どものことだ。子どもたちが体験した現実がいずれ未来になるとも言える。子どもたちが未来とレガシーと物語を創る。大人がレガシーを創るのではない。
童話作家のハンス・アンデルセンはこう言っている。
「われわれの空想の物語は現実の中から生みだされる」
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ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。noteで「トヨタ物語―ウーブンシティへの道」を連載中(2020年の11月連載分まで無料)
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)
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