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「黒い雨訴訟、上告断念」菅首相の"政治決断"の裏にはなにがあったのか

プレジデントオンライン / 2021年8月5日 11時15分

「黒い雨」訴訟の控訴審判決で全面勝訴を喜ぶ原告ら=2021年7月14日、広島市中区の広島高裁前 - 写真=時事通信フォト

■「衆院選を前に支持率を上げたい」という思惑

76年前の広島で降った「黒い雨」による健康被害をめぐる訴訟について、国が最高裁への上告を断念した。これにより、7月29日、被爆者を広く認定する判断を示して原告の住民全員84人(うち14人死亡)を被爆者と認めた広島高裁判決(7月14日)が確定した。今後、原告全員に被爆者健康手帳が交付される。この手帳によって医療費は無料となる。

上告断念は、「上告しかない」という厚生労働省など政府内部の意見に対し、菅義偉首相が26日に突然表明したものだった。表明に際し、菅首相は首相官邸で記者団にこう説明していた。

「被爆者援護法に基づき、その理念に立ち返るなかで救済すべきだと決めた」「原告の多くが高齢者で、病気の方もおられる。速やかに救済するべきだという考え方に至った」

なるほど、素晴らしい政治決断である。しかし、真に国民のことを考えた決断ではない。菅首相の腹の底には衆院総選挙を前に支持率を上げて選挙を有利に戦いたいとの思惑や打算があると、沙鴎一歩は考える。

この連載で指摘してきたように、菅首相にとって国民は票田にすぎない。秋の自民党総裁選と衆院選に勝って首相を続投する。この自らの願望を実現するために権力を使い、上告断念を決断して人気を獲得しようとしたのだろう。

■援護区域外の住民が「被爆者健康手帳」を求めて集団提訴

「黒い雨」は、1945年8月6日の原爆投下の直後に広島市とその周辺に降り、放射性物質や火災で発生した黒いススなどを含んだ雨を指す。訴訟は2015年11月にこの黒い雨を浴びた援護区域外の住民らが被爆者健康手帳の交付を求めて広島地裁に集団提訴したものだ。提訴から6年だが、原爆投下から数えると76年という長い月日がたっている。

終戦直後に広島管区気象台(当時)の技師たちが黒い雨の降雨範囲を調査し、1976年9月に国が一部を援護区域に指定した。しかし、多くの被害地域が漏れ、1978年11月、援護区域から外れた住民たちが被害者の会を設立して援護区域の拡大を求め、これが6年前の集団提訴へと発展した。

2010年7月には広島県と広島市が独自に調査を実施し、援護区域を6倍に拡大するよう国に求めた。2020年7月に広島地裁が原告全員を被爆者と認定する判決を下した。しかし、8月に国が広島県と広島市の反対を押し切って広島高裁に控訴した。

菅首相は今年7月26日の上告断念の表明で「同じような事情の方々も救済すべく、これから検討したい」とも語っていた。広島市によると、原爆投下直後に国が定めた援護区域の外にいた人は昨年時点の生存者で約1万3000人に上り、これらの人々も84人の原告とともに救済の対象となる見通しだ。

■なぜ国はもっと早く「黒い雨」の救済に動かなかったのか

それにしても国はなぜ、もっと早く「黒い雨」の救済に動かなかったのか。一般的に国は国家賠償訴訟や行政訴訟において責任を認めようとはしない。たとえば薬害訴訟や公害訴訟でも長期間にわたって争われているものが多い。国が一度非を認めると、関連する訴訟が次々と起きるなど、その後の行政運営に大きな負担をかけるからだ。

黒い雨訴訟でも国はこれまで「科学的知見」を口実に被爆者の認定範囲を限定し、援護区域内で被爆し、がんなど11の病気に罹患したケースを被爆者手帳交付の対象としてきた。だが、政府が頼りにしてきた科学的知見は、終戦直後の混乱下で作られた資料や状況説明書類がベースで、時間の経過とともにその実証性が薄くなっていた。

そんな国家賠償訴訟や行政訴訟で解決策として使われるのが、首相自らの判断で決着させる「政治決断」だ。これを菅首相は衆院総選挙に勝ち、再び首相の座に就くためのテコのひとつとして利用したのである。

1945年8月6日の原爆投下から76年。毎年、8月6日には広島原爆忌、9日には長崎原爆忌と続き、15日には終戦記念日を迎える。

長崎地裁でも国が指定する被爆地域外で原爆投下に遭遇して「内部被曝による急性症状が出ている」として被爆者健康手帳の交付を求める訴訟が起きている。菅首相が上告を断念した、今回の広島高裁の判決は黒い雨を浴びていなくても放射性物質を含む水や食べ物を体内に取り込むことで起きる内部被曝も認めている。このため、長崎地裁の原告救済にも波及する可能性は高い。より多くの人々が救済されることを沙鴎一歩は願っている。

広島、日本
写真=iStock.com/Travel Photography
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Travel Photography

■行政を前例踏襲主義から脱皮させるのは政治の役目

7月28日付の朝日新聞の社説は「『黒い雨』救済 根本から改め対応急げ」との見出しを掲げ、「地理的な線引きによらず、健康被害の有無にかかわらず、放射性物質を含む『黒い雨』に遭った人は被爆者である。司法が示したこの判断に沿い、政府は全面救済を急がねばならない」と書き出し、こう主張する。

「こうした人たちが皆、名乗り出て救済されるよう、相談・受付窓口の整備など態勢づくりが急務である」

「こうした人たち」とは、84人の原告と同じように原爆投下直後に国が定めた援護区域の外で黒い雨にさらされ、いまも生存している1万3000人を指す。菅首相は救済に言及した。厚労省などを通じて救済を早急に実行してもらいたい。

朝日社説は「何より、これまでの被爆者援護行政を根本から見直すことが不可欠だ。対象区域を決め、そこにいた人のうち一定の疾病を抱えた人に特例として手帳を出す。そうした対応と決別すべきことを、政府は自覚しなければならない」とも訴えるが、賛成である。行政を前例踏襲主義から脱皮させるのは政治の役目だ。

■朝日社説は「気がかりなことがある」と書く

さらに朝日社説は「気がかりなことがある」と書いたうえでこうも主張する。

「首相が『判決には受け入れがたい部分がある』として発表した談話だ。そこで強調したのは、放射性物質に汚染された水や食物を口にしたことによる内部被曝に関してで、判決が健康への影響を認めた点を『容認できない』とした」
「談話はその一方で、『国の責任で援護するとの被爆者援護法の理念に立ち返る』と述べている。その言葉に偽りがあってはならない」

首相談話は上告断念を表明した翌日(7月27日)、持ち回り閣議で決定された。政治決断にもかかわらず、一部を「容認できない」と否定するのはいかがなものか。被爆者援護法の理念に大きく矛盾する。

衆院選を前に支持率を上げて選挙を有利に戦いたいとの打算があるから、煮え切らない談話になるのだ。あらためて談話を出すことも検討してほしい。

■ベースは「日本が世界で唯一の被爆国」にある

朝日新聞は原告勝訴の広島高裁判決が出た次の日(7月15日)付でも、「ただちに救済の決断を」(見出し)との社説を掲載している。

「これ以上、裁判で争ってはならない。政府はただちに非を認め、救済を決断するべきだ」と訴え、次のように主張していた。

「政府は、原爆投下直後に行われた調査をもとに、大雨が降った地域にいた人だけを特例措置として援護対象としてきた。これに対し広島地裁は、一人ひとりの黒い雨体験を重視し、健康状態も加味して判断。今回の高裁判決は、原爆の放射能による健康被害を否定できなければ被爆者にあたるとし、政府が主張する『科学的な合理性』にこだわらず救済の間口を広げた」
「被爆者の高齢化はいやおうなく進み、この裁判でも6年前の提訴後に原告のうち14人が亡くなった。一連の判決は、救済を急げとの強いメッセージである」

広島平和記念公園
写真=iStock.com/somphop
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/somphop

結果はこの朝日社説の主張に近いものとなった。菅首相はこの朝日社説を読んで政治決断を下したのかもしれない。ただし、繰り返すが、そこには菅首相の思惑や打算が存在した。

朝日社説はその後半部分で、「従来の行政と決別することは、役所任せでは難しいだろう。決断すべきは菅首相である。政治の責任として方針転換を指示するべきだ」と菅首相に政治決断を強く求めている。

最後に朝日社説は訴える。

「救済を求める被爆者の声を、それを支持する司法の判断を、唯一の戦争被爆国の政府が受け流すことがあってはならない」

やはり、日本が世界で唯一の被爆国であることを忘れてはならない。核兵器の問題を考えるベースはそこにある。

■「衆院選を念頭に人道的姿勢を示す思惑がある」と読売社説

7月28日付の読売新聞の社説も「上告見送りを救済の第一歩に」との見出しを立て、「原爆の被害者は高齢化が著しく、残された時間は少ない。国は、これまでの援護制度を見直し、早急に救済を図らなければならない」と主張する。

さらに読売社説はその前半部分で「首相の判断の背景には、秋までに実施される衆院選を念頭に、人道的に対応する姿勢を示す思惑もあったのだろう」と書き、菅首相の心のうちを探っている。

そして、読売社説はこう訴える。

「手帳の交付事務を受託する県と市は、一刻も早く手続きを進めてほしい」
「国は、救済の対象者をどのように認定するのか、早期に決めてもらいたい」

交付手続きと救済対象者の認定、いずれも原告が生存しているうちに完了しないと救済の意味がない。

最後に読売社説は「国は、黒い雨が降った地域の特定にとらわれず、県や市と連携し、個別の被害実態に即した認定の仕組みを構築する必要がある」と指摘する。仮に救済が滞るようなら、そのときこそ菅首相が発破をかけるべきである。国民はそうした有言実行を支持するはずだ。

■産経社説も「国は上告を断念し救済を急ぐべきだ」と書いていた

7月17日付の産経新聞の社説(主張)は、率直に「国は上告を断念し、幅広い被爆者救済に向けた対応を急ぐべきだ」と書き出し、広島高裁の判決をこう評価する。

「判決は『黒い雨に遭った人は被爆者にあたる』として救済の範囲を広げた。国の援護行政の従来の枠組みを1審の広島地裁判決に続いて否定し、高齢となった被爆者の早期救済を強く迫ったもので妥当である」

見出しも「『黒い雨』高裁判決 救済へ国は上告の断念を」だ。菅首相はこの産経社説を朝日社説(7月15日付)の次に読んだのかもしれない。

産経社説は「(広島高裁)判決は『被爆者援護法の意義を踏まえると、住民らに厳密な根拠を求めるのは無理がある』と退けた」と書いたうえで、最後にこう主張する。

「原爆投下から間もなく76年を迎える。原告の高齢化が進み、提訴後に14人が亡くなった。行政には血が通っていなくてはならない。広島県と広島市は国に上告断念の判断をするよう要請した。国は足並みをそろえるべきである」

「行政には血が通っていなくてはならない」。その通りである。私たち国民のためにあるのが行政だ。

(ジャーナリスト 沙鴎 一歩)

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