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「石ぐらい投げられてもいい」歴代天皇として初めて戦地・沖縄を訪問した上皇陛下の覚悟

プレジデントオンライン / 2021年8月13日 10時15分

国立沖縄戦没者墓苑を訪問される天皇皇后両陛下(当時)=2018年3月27日 - 写真=EPA/時事通信フォト

上皇上皇后両陛下は、太平洋戦争で激しい戦闘が行われた数々の島へ慰霊訪問を続けてきた。中でも沖縄県への訪問は11回におよぶ。元ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラーさんは「慰霊の旅は、戦争の反省から生まれた『現代にふさわしい皇室の在り方』を体現するものではないか」という――。

※本稿は、マーティン・ファクラー『日本人の愛国』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■非常時には国民の命よりも国が優先される

日本兵の戦死者は、日清戦争の約1万3800人から、軍事力が増強された日露戦争では約8万5000人へとはね上がっている。

国と政府、そして国民が一緒くたになり、国民の考え方や価値観、戦争に代表される非常時には国民の尊い命よりも国が上位にくる図式を示したのが、前述したように大日本帝国憲法だった。第1条で天皇主権が定められ、1890年11月29日に施行された。

大日本帝国憲法は、第28条で「信教ノ自由」を定めていた。国家神道については、仏教やキリスト教よりも上位に置くことは大日本帝国憲法とは矛盾しない、とする公式見解が存在し続けた。国家神道は、明治維新後に明治政府によって形成・振興され、国民に天皇崇拝と神社信仰を義務づけた国民宗教的な性格をもっていたにもかかわらず、である。

また教育勅語も家族的国家観に基づく忠君愛国主義と儒教的な道徳を主旨としており、国家神道の実質的な教典になった。

このように、大日本帝国憲法のもとで国家神道は、宗教と政治、そして教育を一体化させる役割を果たした。1931年の満洲事変から太平洋戦争の終戦に至る約15年間で、軍部は「天皇の軍隊」として独立した地位を与えられたが、徐々に神聖化されていった軍部が掲げた超国家主義的思想と聖戦思想のよりどころが、国家神道だった。

軍隊の神聖視が圧倒的な支持を集めるなかで、思想家やジャーナリストたちも主義主張を愛国主義へと転向させざるをえない状況に追い込まれていく。

■非戦論を訴えれば処刑される時代

明治初期でいえば、ジャーナリストの徳富蘇峰があげられる。明治政府が掲げた国家主義や貴族主義に対抗する平民主義を訴え、後の総合雑誌の先駆けとなる「国民之友」を創刊した徳富は、日清戦争を境に考え方を180度転向。皇室中心の国家主義を奨励する、代表的な思想家として活動した。

大正から昭和にかけて自由主義の立場からファシズムへの批判活動を展開した、元新聞記者の長谷川如是閑も忘れてはならない。終戦後も日本を代表するジャーナリストとして、「民本主義」という明治憲法に合う形の民主主義の徹底と国際平和確立の重要性などを訴え続けた。しかし、第二次世界大戦に突入してからはリベラルな矛を収め、沈黙する期間が長かった。

対照的だったのは、幸徳秋水。幸徳は、日露戦争が開戦される前年の1903年に「平民新聞」を創刊。非戦論を訴え続けた日本の最初の社会主義者の一人だった。しかし、激しい弾圧を受け続けるなかで思想が過激化し、明治天皇の暗殺を企てた大逆事件の首謀者の一人として検挙され、1911年に処刑された。

しかし、戦後に発見された数々の資料を通じて、自由主義者や社会主義者の一掃を図っていた当局が、幸徳に濡れ衣を着せたことがほぼ確実な状況になっている。

国全体が太平洋戦争へと駆り立てられた反省から、戦後の日本人は異なる国家観を作りあげようとした。その象徴が国民主権、基本的人権の尊重、平和主義が三大原理として定められた日本国憲法だろう。

■海外メディアは「日本は反省していない」と報道するが…

日本国憲法は「平和憲法」とも呼ばれる。憲法の前文および第9条で規定された平和主義に由来するものだ。

平和祈念像
写真=iStock.com/GI15702993
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GI15702993

かつて取材した零戦パイロットの原田要さん、硫黄島で戦った金井啓さんをはじめとする、太平洋戦争から生還した元日本兵の方々の多くは、すでに天寿をまっとうされた。原田さんも金井さんも、晩年は太平洋戦争の悲惨さを伝える語り部を率先して務めた。

よく海外のメディアは、日本は反省していない、戦争の教訓を学んでいないと報道するが、これは完全に間違っていると私は思う。確かに日本はドイツほど、日本帝国主義の被害を受けた国に謝罪していない。しかし、日本も日本なりに、あの戦争の教訓を生かしてきた。それは、日本国憲法の平和主義に反映された、二度と戦争は繰り返さないという決意である。

それだけではなく、宗教と政治を混ぜた、究極の力を持っていた明治国家への反省として、国家の力に対して、戦後の日本社会は警戒心を抱き続けた。

二度と戦争をしない決意は、社会党や他の野党だけではなく、ずっと与党の座についていた自民党も見せていた。軍事予算はGDP比1%以内にほぼ抑えており、自民党の歴代総理大臣は、憲法維持を明言してきた。

■憲法前文を「みっともない」と評価した安倍元首相

それまでにない動きを見せたのは元首相の安倍晋三氏だ。

06年9月に行われた自民党総裁選に出馬した安倍氏は、施行から60年を迎えようとしていた日本国憲法を改正する公約を掲げた。52歳で、なおかつ戦後生まれで初めて内閣総理大臣に指名された直後の臨時国会では、改憲に対する持論を答弁している。

「現行の憲法は日本が占領されている時代に制定され、60年近くをへて現実にそぐわないものとなっているので、21世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を、憲法として書き上げていくことが必要と考えている」

安倍氏は1993年7月の総選挙で初当選を果たしたときから、改憲の意向を明言。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義が謳うたわれた日本国憲法の前文を「敗戦国のいじましい詫び証文」「みっともない」と発言したこともある。

安倍氏の後を引き継いだ菅義偉首相は、安倍氏ほど明確に憲法改正を掲げていないが、それも今のところコロナ対策に忙殺されているからなのかもしれない。私から見ると、菅首相は、安倍氏と比較するとイデオロギーの色が薄く、もっと実践的(pragmatic)であると思う。

菅政権下の自民党は、安倍氏が持ち上げた「日本の復活」という壮大なゴールではなく、デジタル庁の設置や東京五輪の実現などという、もっと限定的な目標を目指すようになった。

そうした状況の中で、直截的ではないものの、数々の発言や行動を通して現行憲法へのメッセージを発していたのは、先の天皇で今の明仁上皇ではないだろうか。

■「平和と民主主義を守るべき大切なもの」と明言

私の記憶に色濃く刻まれているのが、第125代天皇として在位していた2013年12月18日に行われた、傘寿となる80歳の誕生日を前にした記者会見での言葉だった。以下、敬称は原則として取材当時のものとする。

マーティン・ファクラー『日本人の愛国』(角川新書)
マーティン・ファクラー『日本人の愛国』(角川新書)

80年の道のりで特に印象に残る出来事を尋ねる代表質問に、明仁天皇は「やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです」として、こう続けた。

「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」

日本国憲法を作った主体を、明仁天皇は「連合国軍の占領下にあった日本」と位置づけていることがわかる。

大日本帝国憲法第1章で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定されていた天皇は、日本国憲法第1章では「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と大きく地位を変えている。

象徴という立場から逸脱することなく、それでいて日本国憲法の立ち位置を「平和と民主主義を、守るべき大切なもの」と明言した。このときの言葉から、改憲派である安倍氏や政権与党へのアンチテーゼを私は感じた。

■11回におよぶ沖縄への「慰霊の旅」

明仁上皇は即位する前の皇太子時代から、毎年8月6日、9日、15日、そして6月23日になると黙とうを捧ささげてきた。広島および長崎の原爆忌、終戦記念日、そして太平洋戦争における沖縄戦で組織的な戦闘が終結した日だ。慰霊祭の時刻に合わせた祈りは、外国訪問と重なっていても欠かさなかったという。

「終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましい限りです」

80歳の誕生日前会見で太平洋戦争に対してこう言葉を残している明仁天皇は2018年、天皇として臨んだ最後の誕生日会見で、18万8136人もの日本人が命を落とした地上戦の舞台と化した沖縄へこう言及した。

「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」

■「石ぐらい投げられてもいい」という覚悟だった

2人が初めて沖縄県を訪問したのは、皇太子時代の1975年7月。昭和天皇の名代としてであり、皇族では第二次世界大戦後で初めてのことだ。

沖縄
写真=iStock.com/TungCheung
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/TungCheung

本土を死守するうえでの捨て石にされた、という思いが戦争中から沖縄にはあった。1941年に「米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」を出した昭和天皇の戦争責任を問う厳しい声が飛び交っていた。

明仁皇太子は当時、「石ぐらい投げられてもいい」と語っていたという。不測の事態が起こることも覚悟したうえでの訪問だったと考えられる。

実際、テロ未遂事件も発生している。糸満市内のひめゆりの塔を訪れて献花を捧げていたときに、付近の洞窟のなかに潜んでいた2人の過激派から火炎瓶を投げつけられたのだ。

火炎瓶は献花台を直撃して炎上したが、幸い2人に大きなけがはなく、犯人たちは現行犯で逮捕された。明仁皇太子は事件を非難するどころか、事件が起こった夜に「沖縄の苦難の歴史を思い、これからもこの地に心を寄せ続けていく」とする談話を発表。その後もスケジュールを変更することなく、慰霊の旅を続けた。

即位後に初めて行われた記者会見で、明仁天皇が言及した「現代にふさわしい皇室の在り方」とは、おそらくは初めて沖縄を訪れた1975年7月の延長に位置づけられていたのではないだろうか。

■「天皇陛下、万歳」と身を投じた断崖に立ち…

1993年4月に歴代の天皇として初めて沖縄を訪れると、1994年2月に硫黄島、戦後50年の節目を迎えた95年の7月から8月にかけては、特に戦火が甚大だった長崎、広島、沖縄、東京都慰霊堂を訪ねる慰霊の旅を行った。

戦後60年の2005年の6月には、1944年6月から7月にかけて日本軍とアメリカ軍の戦闘が繰り広げられ、日本軍が全滅した北マリアナ諸島の中心、サイパン島を訪れている。

即位後から続けてきた慰霊の旅で外国の戦場を訪れるのは初めてだった。

サイパン島には日本から直行便で数時間。島内には多くの戦争遺跡が残る。彩帆香取神社もある
サイパン島には日本から直行便で数時間。島内には多くの戦争遺跡が残る。彩帆香取神社もある(イラスト=iStock.com/Danler)

日本の委任統治領だったサイパンの戦いにおける日本人の戦没者は、約5万5300人にのぼった。厚生労働省によれば収集できた遺骨は約3万柱で、いまだに約2万6000人分の遺骨が地中に眠っている。

サイパン島の北部には、追いつめられた多数の日本兵や民間人が身を投じことから、スーサイドクリフと呼ばれるようになった絶壁がある。その下に建てられた中部太平洋戦没者の碑の供花台に、2人は白菊の花束を捧げた。

さらに日本兵や民間人が「天皇陛下、万歳」や「大日本帝国、万歳」と叫びながら自決したバンザイクリフにも足を運び、青い海へ向かって黙礼した。

バンザイクリフからは80メートルも下の海へ、1万人が身を投じたという。明仁天皇は断崖(だんがい)に立ったときの気持ちを次のように詠んだ。

「あまたなる命の失せし崖の下海深くして青く澄みたり」

■「天皇の島」ペリリュー島への訪問で語ったこと

戦後70年となる2015年4月8日には、日本から直線距離にして南へ約3200キロ離れたパラオ共和国を訪れた。

美しいサンゴ礁の島、ペリリュー島。島内には防空壕跡や戦車、洞窟などの戦跡が数多く残っている
美しいサンゴ礁の島、ペリリュー島。島内には防空壕跡や戦車、洞窟などの戦跡が数多く残っている(イラスト=iStock.com/Danler)

それまでドイツの植民地だったパラオは、第一次世界大戦後には日本の委任統治領となった。

パラオを形成する主要な島のひとつ、ペリリュー島も太平洋戦争の激戦地の一つだ。日本兵1万200人、アメリカ兵2336人が命を落とした。日本兵の遺骨約2400柱がまだ発見されていない。

長くて4日とアメリカ軍が想定していたペリリュー島の戦いは、最終的にアメリカ軍が占領するまでに74日もの時間を要した。島全体の地下にまるで迷路のように広がる洞窟を要塞化した日本軍が仕掛けた、徹底したゲリラ戦が戦局を長期化させ、アメリカ軍にも多大なる犠牲を払わせたからだ。

想定外だった奮闘が大本営を喜ばせたのか。ペリリュー守備隊には、大元帥の昭和天皇から「お褒めのお言葉」である御嘉賞が11度も与えられた。

いつしか「天皇の島」と呼ばれるようになったペリリュー島を、平成の天皇皇后はパラオ滞在2日目に訪れた。パラオへの出発にあたっては、ペリリュー島の戦いに対してこうお言葉を述べていた。

「太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」

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マーティン・ファクラー(まーてぃん・ふぁくらー)
元ニューヨーク・タイムズ 東京支局長
アメリカ合衆国ジョージア州出身。ダートマス大学卒業後の1991年、東京大学大学院に留学。帰国後、イリノイ大学、カリフォルニア大学バークレー校で修士号取得。96年よりブルームバーグ東京支局を経て、AP通信社ニューヨーク本社、東京支局、北京支局、上海支局で記者として活躍。2003年よりウォール・ストリート・ジャーナル東京支局特派員。05年よりニューヨーク・タイムズ東京支局記者となり、09~15年に支局長を務める。現在はフリージャーナリストとして日本を拠点に活動。著書は『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(双葉新書)、『米国人ジャーナリストだから見抜けた日本の国難』(SB新書)など。ツイッター(@martfack)でも積極的に発言。

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(元ニューヨーク・タイムズ 東京支局長 マーティン・ファクラー)

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