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「人口当たりでは日本一」沖縄出身のプロ野球選手がこの50年で急増した"たったひとつの理由"

プレジデントオンライン / 2021年8月13日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RBFried

沖縄県は、人口当たりではプロ野球選手が最も多い都道府県だ。しかし50年前まで甲子園上位に残るには分厚い壁があった。なぜ沖縄は「野球強豪県」に変わったのか。そこには、ある県立高校の監督の存在があった――。

■1968年の「興南高校のベスト4」は本土復帰前だった

沖縄には少なくとも2つ、“全国トップレベル、日本一”と言っていい分野がある。元歌手の安室奈美恵さんら県出身のアーティストや俳優、タレントの活躍にみる「エンターテインメント」、そして、甲子園上位を狙える複数の強豪校とプロ野球人材の宝庫として知られる「高校野球」だ。

太平洋戦争で経験した唯一の地上戦、米軍占領の時代、過剰な基地負担、そして全国ワーストから抜け出せない県民所得と低い経済力。終戦から76年、本土復帰から49年。沖縄には暗い過去の影響と、暮らしに関わる“変わらない”現実が今なお横たわる。それらと比べると、「エンターテインメント」と「野球」の発展は、まるで別世界にある。

特に、沖縄県民にとって高校野球は、胸がすくような清々しさがある。県勢躍進の歴史は、本土復帰前の1968年、興南高校が初のベスト4に進出してから、2010年の興南・春夏連覇に至るまでの40年余りに集約される。

春夏を通じた甲子園の優勝回数は4回。“日本一”の峠を越えた後も、離島を含む県内各地の学校から有力選手が次々と現れ、今や沖縄は出身都道府県別の人口割合でプロ野球選手の輩出が最も多い県となった。

■「経営感覚」があったから、本土との格差を乗り越えられた

弱小県から強豪県へ、「本土との格差を乗り越えた」というリアルな体感は、球児や関係者だけのものではない。40代以上のウチナーンチュ(沖縄人)ならその肌感覚が分かるはずだ。本土復帰後、「大臣誕生が先か、甲子園優勝が先か」のフレーズとともに、県の“遅れ”は自らの“劣り”と、潜在的に意識せざるを得なかった。その克服を目指した県民と「高校野球」は、独特な連帯感の上にあったといえる。

野球という一競技の枠を超えて、地域の人々がもつ素質と意欲が引き上げられた背景には、忘れられない1人の「教員監督」の存在があった。

沖縄の野球と経済力。どちらも本土から大きく後れをとってきた歴史をもち、「離島性の克服」という課題に違いはない。それなのに、なぜ前者は全国トップレベルの人材を生み出し、地位を塗り替え、後者は課題の多くを解決できずに日本最下位にとどまるのだろうか。答えを求めて、ある教員監督の類いまれなる「経営感覚」に導かれた元・現役指導者、選手たちを訪ね歩いた。

■県勢初、2年連続甲子園準優勝に導いた「栽野球」

栽弘義(さいひろよし)監督(1941-2007)。

小禄(おろく)高校、豊見城(とみしろ)高校での監督経験を経て、沖縄水産高校を県勢初の2年連続甲子園準優勝へ導いた。沖縄の高校野球は、この人の手によって道筋がつけられたと言っても過言ではない。2007年に65歳で亡くなって14年が経つが、その影響力と存在感はいまだ絶大だ。

インタビューを受ける沖縄水産高校の栽弘義監督(当時)
撮影=吉見万喜子
インタビューを受ける沖縄水産高校の栽弘義監督(当時) - 撮影=吉見万喜子

「飲めばいつだって栽の話になる。勉強する姿勢、勝負に対する執着心では群を抜いていた。野球の監督であり、経営者でもあった。一流になればなるほど風当たりが強くなりますから。暴風に耐えられる男だったんだと、今でもそう思いますよ」

栽監督との思い出を語る九州共立大野球部前監督の仲里清さん。福岡六大学リーグ優勝36回、全日本大学選手権16回、明治神宮大会6回出場。99年の明治神宮大会で九州勢として初の大学日本一に輝いた=6月30日、九州共立大(筆者撮影)
栽監督との思い出を語る九州共立大野球部前監督の仲里清さん。福岡六大学リーグ優勝36回、全日本大学選手権16回、明治神宮大会6回出場。99年の明治神宮大会で九州勢として初の大学日本一に輝いた=6月30日、九州共立大(筆者撮影)

九州共立大学野球部で監督を務めた仲里清さん(66)はこう語る。1971年、豊見城高校野球部2年のとき、赴任してきたばかりの当時29歳だった栽監督から猛烈指導を受けた教え子の一人だ。「栽のことを一番分かっているのはオレだ」と言って譲らない。

高校卒業後は栽監督の出身校でもある中京大学(名古屋)へ進学、同じ指導者の道に進んだ。プロ野球選手の大瀬良大地、馬原孝浩、新垣渚らエース級投手など20人をプロへ送った名監督として知られるが、自身の野球人生の骨格を形づくったのが、“栽野球”だったという。

■不利な環境や時代性を逆手にとって、一気に米国流を導入

仲里さんら豊見城高校と沖縄水産高校の教え子たちが語る“栽野球”は、それまでの野球練習の定番を覆す「先見性」にあふれ、不利な環境や時代性を逆手にとった。どこか、子どもたちの内心に宿っていた卑屈さを押しのけるような、熱と勢いを帯びていた。

指導する栽監督の様子(撮影=吉見万喜子)
指導する栽監督の様子(撮影=吉見万喜子)

仲里さんが栽氏と出会った当時、沖縄はまだ米軍統治下にあった。戦後混乱からの復興の途上にあり、物資や情報の乏しい時代。本土の野球のことはよく知らないが、フェンスを挟んで地続きの「米国」は近い。米軍基地内のテレビ放送を見ることができ、本場プロスポーツの手本と憧れがあった。

栽氏自身も、中高生の頃から基地内で行われる野球チームの試合や練習を間近に見て育ち、ダイナミックな米国野球の虜になった。パワーを鍛えるアメリカ人選手をまねて、早くから手製のダンベルなどを使ってウエートトレーニングに励んでいたという。

栽氏は、野球を続けるために中京大学に進学したが、選手としての限界を感じ、3年生の頃には「教員監督」になる目標に切り替え、野球部を退部。夏休みなどを使って全国の高校野球強豪校を訪れ、練習方法の研究に明け暮れた。大学で自身が突きつけられた、本土との違いとレベルの差を目に焼き付け、強さの理由を探り続けた。全てはいつか、沖縄の子を甲子園で勝たせたい一心だった。

■他校がやらない練習を取り入れ、「勝てる」環境を整えた

「外の目」を持ち帰った栽監督の指導方法は、仲里さんら生徒たちに鮮烈な印象を残している。

「県内のライバル校が絶対に取り組んでいない練習をして、ミーティングでは他校の選手が絶対に聞いたこともないような訓示が並ぶ。それが優越感になって、負けられないという意識に変わった」と仲里さんは振り返る。

古典や文学、哲学、芸術、心理学、医学などあらゆるジャンルの書物に触れて知識欲にあふれていたという栽監督。企業や他のスポーツ界との人脈も豊富。さまざまな業界の一流の人の考え方に関心を持ち、見聞きしたことを部員とのミーティングでよく話題にしたという。

沖縄の中だけで戦うのではない。さらに上の世界を見せ、そこに到達するために必要な練習アイデアを次々と取り入れた。「勝てる」環境を整えることに、一心不乱だった。

■技術にはほとんど口を出さなかった理由

実は、栽監督に野球の技術を教えてもらったという教え子は、少ない。

「栽先生から教えてもらったのは『フリーアーム』、それだけ。腕は自由だって。練習メニューは自分で考えてやっていました」

元プロ野球・中日ドラゴンズ投手で、沖縄水産高校の元エース上原晃さん(52)はあっさりこう答えた。140キロ超の速球を投げ、栽監督の熱烈なスカウトを受けて沖水に入学した。「全国をとりたい、お前の力を借りたい」という電話の声が今でも耳に残っているという。

沖縄水産高校での活躍が評価され、中日ドラゴンズから3位指名を受けプロ入りした上原晃さん。1年目から1軍で活躍したが、右手の不調が長引き29歳で引退。現在は愛知県内で整体師として働いている=7月1日、名古屋市内(筆者撮影)
沖縄水産高校での活躍が評価され、中日ドラゴンズから3位指名を受けプロ入りした上原晃さん。1年目から1軍で活躍したが、右手の不調が長引き29歳で引退。現在は愛知県内で整体師として働いている=7月1日、名古屋市内(筆者撮影)

「こっちはエースだから、自覚と責任しかない。自分が勝って引っ張ればチームのためになるという考え方でした」

沖縄を「日本一」に導けるかもしれない期待の“逸材”であることを、本人も強く意識していた。1985年に1年生で甲子園に出場して以来、3年間で春夏合わせて計4回の大舞台に登板している。栽監督は自宅を寮にして上原さんを住まわせ、先輩後輩との人間関係に悩むことがないよう、生活面を気遣うほどだった。だが、フォームや体の使い方を修正したり、型にはめたりするようなことは、一切なかった。

沖縄水産高校のユニフォームを着て練習に励む上原晃さん
関係者提供
1987年夏の甲子園。試合前に栽監督と言葉を交わす上原晃さん(左) - 関係者提供

あくまで、素のままの、天性の身体能力を生かしたい。栽監督はひたすら、“場づくり”、雰囲気づくりに徹した。部員には、試合に向き合う時の考え方を説き、当時では珍しかったイメージトレーニングや瞑想なども取り入れながら、持てる力をいかに引き出せるか工夫を重ねた。

■県の発展と共に沖縄野球も黄金時代へ

教え子たちの記憶に残る栽監督の「手腕」は、その“土壌づくり”にある。県立高校の一教員、一公務員の職業の枠に収まることなく、試合の采配を振るう監督業の域をもはるかに超えていた。

1980年代半ば。本土復帰後初となる国体(国民体育大会)の沖縄開催が決まり、インフラ開発ラッシュの最中。高速道路や陸上競技場、運動公園が県内各地に整備され、エアラインの新規路線就航も相次いだ。人とモノの流れが一気に加速し、沖縄の風景が急速に変わっていった。

時を同じくして、栽監督率いる沖水は、84年から5年連続で甲子園に出場、88年の夏の大会では投手に平良幸一選手(元西武ライオンズ)や野手に伊禮忠彦選手(元中日ドラゴンズ)を擁して68年の興南旋風から20年ぶりのベスト4に進出した。同じ年の秋には京都国体で沖縄県勢初の全国1位を勝ち取る。90、91年には夏の甲子園で2年連続準優勝を達成し、栽監督の圧倒的な指導力が全国に知られるようになった。

■沖縄水産は全校生徒360人中120人が野球部員に

勝ち続けるところには、人と情報と、支援が集まる。全盛期の沖水には、全校生徒約360人のうち、野球部員が120人を占めた。県内全域からスカウトしてきた主力選手だけでなく、「沖水野球」に憧れ入学した生徒たちも大勢いた。

一方で、県立高校の限られた部活動予算では、到底全員が満足に練習できる環境はつくれない。部員の中には母子家庭で育つ子どもたちも少なくない。栽監督は沖縄戦で当時23歳、19歳、16歳の3人の姉を亡くし、きょうだいでただ一人生き残った。母親の苦労と寂しさを背中いっぱいに感じて育ち、多くの沖縄県民と原体験を共有していた。

ボール1個のサッカーと違い、バットやグローブなど道具を揃(そろ)えることから苦労する贅沢なスポーツが野球だ。家計をやりくりする親の心苦しさが痛いほどに分かっていた。

皆がいつでもボールに触れられ、自分たちで考え、先輩後輩がバディになって自主練のできる環境をつくる。栽監督の仕事の原点、活力の源泉がそこにあった。「常勝チーム」に集まる人々の関心と情報の交差点に立ち、沖縄の子どもたちの素材を生かす土壌づくりと、肥(こや)しとなる試合経験の充実のために、トップの強みを最大限生かし奔走した。

■ユニフォームは毎回発注先を変えて、価格競争を促す

沖水選手に期待するプロ野球球団は沖縄県での春季キャンプで使ったボールを置き土産にし、大手スポーツメーカーはグローブ、スパイクなど大量の在庫品をグラウンドに運び入れ、格安で高校に提供した。大会ごとに新調したユニフォームは、毎回発注先を変えたことで価格競争が生まれた。

糸満市内にある沖縄水産高校(筆者撮影)
糸満市内にある沖縄水産高校(筆者撮影)

87年の国体の開催に向けては、軟式野球の競技会場の一つにと沖水はいち早く名乗りを上げ、国体予算を活用して、水はけの良い土へ入れ替えるなどグランド整備を進めた。88年の南西航空(現・日本トランスオーシャン航空)の那覇―岡山など本土直行便の開設で、就航地域の学校と交流試合が企画されると、航空会社や企業が渡航費の協賛でサポートした。栽監督を訪ねてくる友人知人、OBらには、手土産に菓子ではなく、ボールを求めた。

沖縄水産高校のグラウンドと練習スペースの充実ぶりは、現在でも他の高校と比べて突出している。実際にその場に立つと、明確に「勝ち」に向かった栽監督の意志がひしひしと伝わってくる。その熱量と行動力は、沖縄の高校野球全体にも波及した。プロ野球の春季キャンプの誘致や、プロが使いやすい球場施設の提案など、水面下で絶えず球団関係者や行政に働きかけていたのも、栽監督だった。

■「(優勝旗を)私が初めて持ち帰っていいんだろうか」

栽監督の背中を追いかけながらも、指導者として独特な経験を積み重ねてきた教え子もいる。

「(甲子園の優勝旗を)私が初めて持ち帰っていいんだろうか、というのが率直な気持ちでした」

沖縄尚学を県勢初の甲子園優勝に導いた金城孝夫監督。「勉強しながら甲子園にいくチームを沖縄につくる」ことが目標だった=6月30日、愛知県弥富市(筆者撮影)
沖縄尚学を県勢初の甲子園優勝に導いた金城孝夫監督。「勉強しながら甲子園にいくチームを沖縄につくる」ことが目標だった=6月30日、愛知県弥富市(筆者撮影)

1999年の春の選抜大会決勝戦。沖縄尚学が水戸商業を破り、春夏通じて県勢初の甲子園優勝を達成した試合後のインタビュー。金城孝夫監督(67)は勝利の瞬間の思いを聞かれ、即座にこう答えた。

金城さんの思いの先に、栽監督がいることを多くの県民が直感した。九州共立大学野球部監督だった“教え子仲間”の仲里清さんは、この中継を見た瞬間、いてもたってもいられず金城さんに電話をかけた。「いいこと言った! 栽先生が持って帰りたかったものを、バトンを受け取った僕らが持って帰るんだ」

■「勝てるチームづくり」のDNAを受け継ぐ

金城さんも、仲里さんと同じ豊見城高校で栽監督の指導を受けた。中京大学卒業後、愛知県の弥富高校(現・愛知黎明高校)で20年間監督を務め、96年から2003年まで沖縄尚学を率いて沖縄に初めての優勝旗をもたらした。その後長崎日大高校に移り12年間で3度甲子園に出場。65歳の定年を迎えた19年には、古巣の愛知黎明高校に請われて再び監督に就任、名実共に全国を代表する高校野球の指導者になった。

勝てるチームをつくるために、練習環境、生活環境、生活習慣から整えていく。

「今、栽先生に負けないくらい、ものづくりやっていますよ。この2年だけでブルペン、サブを5カ所増やしたり、空き家を室内練習所に作り替えたり、合宿所にしたり。すべて栽先生の教えです」

さらに、その金城さんから沖縄で優勝経験を受け継ぐのは、99年の大会で沖縄尚学のエース投手を務めた比嘉公也監督だ。2008年に母校の監督となって2度目のセンバツ優勝を勝ち取った。今年も夏の甲子園出場をかなえ、勝負に臨む。栽監督から連なる指導者の裾野は、県内外で着実に広がりを見せている。

■中学卒業後、100人以上が「県外の強豪校」に進んでしまう

一方で、沖縄の高校が選手を獲得し育成するには、困難が立ちはだかる。

栽監督がスカウティングに力を入れたように、トップを目指すには、素質と才能を秘めた人材の発掘が欠かせない。だが、最近では、今夏の甲子園出場を決めた東海大菅生高校の福原聖矢捕手のように、地元有力選手の本土への流出が止まらない。

中学卒業後、沖縄を飛び越えて直接、甲子園強豪校に進学する野球少年は100人を超えると言われる。時代と共に「格差」の意識が払拭されたことも背景にあるだろう。練習環境が充実し、個性と技術の多様性が育まれたことと引き換えに、沖縄は“人材枯渇”に向かう可能性がある。

NHKの高校野球解説者として20年にわたって沖縄の変遷を見てきた鍛治舍巧さん(現・県立岐阜商業高校野球部監督)は、野球人材の流出が続く沖縄の現状を危惧してこう指摘した。

「今までの沖縄の50年は、甲子園で4回優勝できたけど、これからの50年でできるかどうかは分からない。少年野球から社会人野球、プロ野球まで沖縄の中で自己完結できるような組織、野球環境をいま一度しっかり作っていく必要がある。そのためには栽監督のような魅力ある指導者が出てくることが大切になってきます」

■松下幸之助は「どうして勝ったんだ」としつこく聞いてきた

「とにかく1番が好きな人で、1番になった組織、1番になったチームや人はどういうことを考えて1番になったか、そのプロセスと訳にものすごく興味と探求心のある方でした」

母校県立岐阜商業高校の野球部監督として今年、9年ぶりにチームを甲子園出場に導いた鍛冶舍巧監督=7月19日、県立岐阜商業高校(撮影:平良尚也)
母校県立岐阜商業高校の野球部監督として今年、9年ぶりにチームを甲子園出場に導いた鍛治舍巧監督=7月19日、県立岐阜商業高校(撮影:平良尚也)

鍛治舎さんが指導者として最も影響を受けてきた師、松下電器創業者・松下幸之助とのエピソードには、魅力ある指導者に関する示唆がある。松下電器野球部の監督を務めた5年間、大阪近畿地区の大会出場の結果報告のため7回、松下と直接対話する機会があったという。

「優勝すると、座れといって、少なくとも30分くらいは根掘り葉掘り、『どうして勝ったんだ』と聞いてくる。でも結果が2番とか3番だと、『あ、そうか、じゃ頑張って』って一言で終わっちゃうんです。1番のときは、『1番になり続けるためにはどうしたらいいか』ということを(百も承知で)いろいろ聞いてくれました」

■松下幸之助は「真実は現場にある」をよく知っていた

「最後には『もっと言ってほしい、やってほしいことあるやろ』っていわれて。余計なことをいうと、僕から聞いたとはいわないで、後で現場に来て『あれはどうなっているんだ』ってわざと課題を言ってくれる。周りが慌てふためいて、その課題を潰していく。そんなやり方でマネジメントする、それが松下幸之助流の人の生かし方でした」

社内野球大会(昭和27年)で始球式のマウンドに立つ松下電器創業者・松下幸之助(中央)(提供=パナソニック)
社内野球大会(昭和27年)で始球式のマウンドに立つ松下電器創業者・松下幸之助(中央)(提供=パナソニック)

野球と経営は共通項がある。野球の中にある経営の極意を、松下は80を超えてもなお、自分自身でつかみ取ろうとしていたという。

鍛治舍さんはいう。

「真実は現場にある。現場をよく知って、現場が勝ち続けるために何が大事なのか、日本一になるにはどうしたらよいのか、プロセスや環境を日に新たでどう改善したらよいのかを考える。それが経営者であり、指導者ですね。沖縄にも、現場の声に聞く耳を持って、それにちゃんと対応できるような人が今後もいるのか。そこが一つ大きなポイントになると思います」

■経済指標「全国ワースト」の沖縄は変われるか

この示唆は、高校野球だけにとどまらない。沖縄の経済に目を向けると、課題解決の着手すらままならない現実がある。産業、経済、労働など多くの指標で沖縄は「全国ワースト」の常連だ。経済の課題はつまり、「経営感覚」「マネジメント」の問題。プロセスや環境の改善に対応できる「経営者」や「指導者」の不足を意味している。

100の指標からみた沖縄県のすがた

栽監督は、「沖縄の子で日本一をつかむんだ」という大きな目標を掲げて素材を発掘し、その選手たちを生かす環境づくりと原資の確保に奔走した。いわば、沖縄球界を代表するGM(ジェネラルマネージャー)さながらの立ち回りで、一つずつ課題を潰していった。「並み」や「平均」を越えたところに大きな目標を持つことが、課題を克服する一番の近道であることを、監督が自ら強く意識していたからではないだろうか。

栽弘義監督の記念碑。小禄・豊見城・沖縄水産3校の野球部OBによって2013年に建てられた=糸満市・西崎運動公園
筆者撮影
栽弘義監督の記念碑。小禄・豊見城・沖縄水産3校の野球部OBによって2013年に建てられた=糸満市・西崎運動公園 - 筆者撮影

■チームとして地域を代表する意識は薄れつつある

悲願の日本一という峠を越え、人材流出という新たな下り坂が見えてきた沖縄の高校野球。さらに、球界全体では野球人口の減少から、球数制限や練習時間の徹底管理といった制約も加わる。マネジメントを担うリーダーの経営手腕が、いっそう試される段階に入った。

チームとして地域を代表する意識は薄れ、選手の「個」が主役になる時代にあって、指導者には評価の数値化による“見える化”が求められるようになってきた。今や野球指導の王道だった鉄拳制裁や連帯責任といった“根性論”は通用しない。テクノロジーの活用に関心を持ちながら、選手や家族の納得感とやる気を同時に引き出す指導者が、新しい「1番」の価値を創っていくのかもしれない。

■栽監督は常に「子どもたちの素質を生かすこと」を目指していた

地域経済を担う企業や行政の組織においても構造は同じだ。誰かとの横の比較の中でわずかな差を競い合う現状では、目の前の課題や生活環境に対する不満が一向に解消しないことに、多くの人が気づき始めている。

栽監督が実践したように、比較の及ばないところで突出、突破する、圧倒的な高い目標設定とそれに至るプロセスを示せるかが、沖縄のリーダー、経済界トップ、企業経営者にとっての重要なテーマとなる。

その前提には、特定業種の税減免措置や、予算消化の延長を求めるような前例踏襲から抜け出すこと。物事を興(おこ)し、社会変化に対応できる人づくりと、そこに直結する育成環境の整備に限られた原資を投じていくことが必要ではないか。

勝利という目標に突き進むため「子どもたちの素質を生かす」ことを目的の中心に据え、その為に「場をつくる」信念を徹底した“栽野球”に、改めて学ぶことは多い。

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座安 あきの(ざやす・あきの)
Polestar Communications取締役社長
1978年、沖縄県生まれ。2006年沖縄タイムス社入社。編集局政経部経済班、社会部などを担当。09年から1年間、朝日新聞福岡本部・経済部出向。16年からくらし班で保育や学童、労働、障がい者雇用問題などを追った企画を多数。連載「『働く』を考える」が「貧困ジャーナリズム大賞2017」特別賞を受賞。2020年4月からPolestar Okinawa Gateway取締役広報戦略支援室長として洋菓子メーカーやIT企業などの広報支援、経済リポートなどを執筆。同10月から現職兼務。

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(Polestar Communications取締役社長 座安 あきの)

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