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「10代から親の介護で"人生が棒"」定職につけず、恋人に捨てられた30男を鬱病にした身近な真犯人

プレジデントオンライン / 2021年8月14日 11時30分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/oopoontongoo)

30歳独身の男性は高校時代から13年間も父親の介護をひとりでしている。父親は脳梗塞の後遺症や糖尿病網膜症などを患い、要介護4。ギャンブル狂の母親は父親と離婚し、パチンコで知り合った男性と再婚。男性は、昼夜を問わない介護で消耗するだけでなく、底意地の悪い親戚や自分の陰口をたたく職場同僚などにも悩まされ、心を病んでしまう――(後編/全2回)。
【前編のあらすじ】
子煩悩だが、酒を飲むと暴れて手がつけられない土木関係の仕事をする父親。借金までしてパチンコにのめり込み電気やガスを止められる事態を招いた看護師の母親。夫婦ゲンカが絶えない家庭で育った九州在住の和泉直也さん(現在30歳・独身)は、小学校高学年の頃から不登校に。中学に上がる頃には、母親はパチンコがきっかけで知り合った男性と暮らし始め、両親は離婚。和泉さんは同じような境遇の仲間とつるみ、酒やタバコを覚え、深夜まで遊び歩くようになる。夜間高校に進んだ和泉さんがまもなく高校2年に進級しようとしていた2007年2月、57歳の父親は脳梗塞を発症。右半身にまひと、失語症が残ったが、リハビリをしたかいあって杖歩行ができるまでに回復。しかし、高次脳機能障害で正常な判断力を失っていた父親は、和泉さんの高校生活の妨げになるのだった――。

■10、20代の青春時代を父親の介護に捧げた30歳男性

2010年春、和泉直也さん(現在30歳・独身)は夜間高校を卒業し、学童保育の職員として働き始めた。

しかし、働きながら脳梗塞の後遺症に苦しむ父親(当時60歳)の介護をするのは想像以上にハードだった。自分が中学の頃に、両親は離婚し、母親が家を出ていってしまったため、父親をサポートできるのは自分しかいない。

朝、6時頃に父親に呼ばれて起床。朝食を準備して父親の服薬を介助し、デイサービスがあるときは見送ってから仕事へ出かける。昼休みに一時帰宅し、父親が家にいるときは昼食の準備をして、服薬を介助して仕事へ戻る。夕方は、仕事が終わったら買物をして帰宅。掃除や洗濯などをして、終わったら1時間ほど仮眠を取る。その後、夕食の準備、父親の服薬介助、入浴介助などを行う。

父親が就寝したあとはゲームをしたり本を読んだりして過ごすが、約1時間おきに父親に「おーい!」と呼ばれる。父親は目が覚めたとき側に和泉さんがいないと呼ぶのだ。呼んでも来ないと、だんだん大きな声になり、最終的には叫ばれる。

常に側にいればいいのだが、そうもいかない。まとまった睡眠がとれない和泉さんは、仕事と介護と睡眠不足で疲弊していった。

そんなある日、大好きなプロレスのテレビ放送を見ていた和泉さんを、いつものように父親が呼ぶ。返事をしたものの、プロレスから目が離せずにいると呼ぶ声がだんだん大きくなり、ついに叫ぶような大声に変わる。思わずカッとしてした和泉さんは、洗濯して取り込み、畳んでいたTシャツで父親を何度も叩いてしまい、後悔に苛まれた。

■脳梗塞の父親が糖尿網膜症に、唯一の味方の伯母の死

2007年に父親が脳梗塞になって以降、和泉さんをいろいろと気遣ってくれていたのが近くに住む伯母(父親の姉)だった。だが、2008年に伯母に乳がんが見つかる。すでに末期の状態だった。伯母はしばらく隠していたが、闘病生活を続ける中で、これ以上隠しておけないと思ったのか、和泉さんと父親に告白。初めて伯母が末期がんだと知った日、和泉さんと父親は声も出ないほど大きなショックを受け、すぐには事態をのみこめなかった。

「自分がやるしかないんだ」。伯母に依存することもできないなか、当時10代の和泉さんは夜間高校に通学しながら、また学童職員として働きながら懸命に父親の介護をした。だが、病状は刻一刻と悪化してしまう。

部屋に立っている男
写真=iStock.com/liebre
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/liebre

2011年の年末頃、61歳になった父親は、「目が見えんがね……」「テレビが見えん……」としばしば和泉さんに言い始めた。確認したところ、父親の両目が充血している。眼科に連れて行くと、医師から大学病院を紹介され、そこでさまざまな検査を受けた結果、糖尿病網膜症を発症していることがわかった。

「母によると、父は会社の健康診断などで随分前から糖尿病だということが分かっていたみたいです。それなのに、母がどんなに説得しても、『自分の身体のことは自分が一番わかっとる!』と言って、絶対に病院へ行こうとしなかったのだとか。母いわく、父は、病院が怖いとか、嫌いとかだったようです」

糖尿病網膜症は、糖尿病腎症、糖尿病神経症と並び、糖尿病の三大合併症といわれ、糖尿病が原因で網膜が障害を受け、視力が低下する病気だ。網膜は、目の中に入ってきた光を刺激として受け取り、脳への視神経に伝達する組織で、カメラでいうとフィルムの役割をしている。定期的な検診と早期の治療を行えば病気の進行を抑えることができるが、現状、日本の中途失明原因の代表的な病気となっている。

これをきっかけに、和泉さんに父親のインスリン投与が課されることになった。

2012年10月、和泉さんと父親は、約4年にわたり乳がんで闘病していた伯母を、緩和病棟で看取った。痛み止めのモルヒネを投与され、意識が朦朧とした中で、「あんた、きてくれたんかい?」と和泉さんに向かって言ったのが、伯母の最後の言葉となった。63歳だった。

■「自分だけお金がもらえるように、裏工作でもしたんやろう!」

両親も夫も亡くし、子どももいない伯母の喪主は、本来ならすぐ年子の弟である父親が務めるべきだったが、父親は脳梗塞の後遺症で杖をつかなければ歩けないばかりか、失語症と高次脳機能障害もあるため難しい。そこで生前から、喪主は和泉さんが務めるよう伯母に頼まれていた。

伯母を看取った和泉さんは、思いの外大きな精神的ダメージを受けていた。そのダメージは、伯母の葬儀を滞りなく終えたあとも一向に回復しなかった。回復しない理由は、伯母に対する悲しみや寂しさが深かっただけではなく、落ち着いて伯母の死と向き合う時間がとれなかったためだ。

6人きょうだいの伯母と父親は、伯母が長女、父親が長男で、次女は遠方に嫁いでからは、長年会っていない。三女は結婚して同じ市内に住んでいる。次男は自衛隊に勤めてていたが、49歳で突然練炭自殺してしまった。三男はもともと遠方で暮らしていたため疎遠になっていたが、数年前に病死している。

このうち、同じ市内に住む、伯母より6歳下、父親より5歳下の、三女である叔母が、和泉さんと父親に連日嫌がらせをしてきたのだ。

父親によると、伯母と叔母は、子どもの頃から仲が良くなかったらしい。夫に先立たれ、子どももいない伯母は、自分の家や土地など、財産すべてを和泉さんに相続させるつもりだった。そのため伯母は、亡くなる2週間前に緩和病棟で公証人立ち会いの下、公正証書遺言を作成する形で手続きを行ってくれた。

しかし、叔母はこれが気に入らない。葬儀後、相続のことを知った叔母は、「自分だけお金がもらえるように、裏工作でもしたんやろう!」と大騒ぎし、毎日のように和泉さんの家に押しかけてきては、ドアをどんどんと叩き、外で暴言を叫び続けた。

こうした嫌がらせが10日以上も続き、和泉さんは仕事に出かけることもできない。結局、退職に追い込まれた和泉さんは、ついに警察に相談。警察が仲裁に入ってくれたことでようやく叔母は引き下がったが、この騒ぎのせいで和泉さんは精神的にボロボロに。気付けば伯母の葬儀から2週間も経っていた。

「『いろいろ精神的にきついけど、僕がしっかりせないかん……』とは思うものの、ふと気が付くと県営住宅の3階にある家のベランダからぼーっと下を覗き込んで、『このままいっそ飛び降りてしまおうか……』と思うようになっていました」

アパートメント
写真=iStock.com/Asobinin
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Asobinin

数年前、父方の叔父が49歳で自殺していることから、「このままではまずい!」と思った和泉さんは、心療内科を受診。診断は、不眠症、適応障害、軽度な鬱病だった。

父親の糖尿病網膜症、伯母の死と、度重なる身内の不幸に、和泉さんにさらに追い打ちをかけたのは、高校2年から付き合っていた彼女からの別れ話だった。

「おそらく、父親の介護があり、僕はフルタイムで働くことができないため、将来が不安だったからだと思います……」

2014年。父親はかれこれ半世紀近く県営住宅3階の同じ部屋に住んでいるが、建物自体がかなり老朽化しているだけでなく、エレベーターがない。そのため脳梗塞になってから、杖をついて3階まで上がらなければならない父親のことを心配した他の住民が、県に相談してくれたおかげで、和泉さん父子は1階の部屋へ移ることができた。

■転々とする職場の人間関係が常に悪く、定職につけない

学童職員を辞めてからの和泉さんは、伯母が住んでいた家の片付けに明け暮れ、それが1年ほどして落ち着くと、自分の家に引きこもる生活を続けていた。

しかし2015年10月、「このままでは自分がダメになる!」と考えた和泉さん(当時24歳)は、従兄弟が勤めていた人材派遣会社に登録。油断すると引きこもりたい気持ちになる自分にむちを入れて面接に行き、車の部品工場で、3カ月ごとの更新契約で働くことに決まる。

ところが、数日もすると頭がぼーっとしてきて集中力が続かず、たびたび不良品を出してしまう。和泉さんが出した不良品を、正社員が残業をして探す……という事態を引き起こしてしまい、これ以上働き続ける自信がなくなった和泉さんは、3カ月で辞めてしまった。

その後、介護人材バンクセンターに登録したところ、2017年の7月1日からデイサービスで働く話が来た。だが、今度は働き始めてからしばらくして、他の女性職員たちから陰口を言われるようになり、1年を過ぎる頃には完全に無視され、結局1年半で退職。

失業給付を受けながら、次は介護タクシーの運転手になろうと普通自動車二種免許とホームヘルパーの資格を取得し、2018年2月から介護タクシー事業とお弁当の宅配を行う会社で、お弁当の宅配員兼ヘルパーとして働くように。

しかし、そこでは何かと厳しい口調で和泉さんに注意する年配女性職員に目をつけられ、次第に和泉さんはその女性職員に話しかけられるたびにパニックを起こすようになってしまう。

和泉さんは昼休みに、失禁や排便の失敗が頻繁になった父親のオムツ替えや昼食準備、インスリン投与のためにいったん家に帰るが、その女性職員は、和泉さんのいない時間を見計らって和泉さんの様子を施設の重役に逐一報告していたため、突然重役に呼び出されて叱られることが増える。そんな毎日に耐えられなくなった和泉さんは、わずか2カ月で辞めてしまった。

2019年7月。今度は市役所の清掃職員として働き始めた和泉さんは、最初の頃は、お昼に余ったお弁当を持ち帰らせてもらうなど、リーダーから良くしてもらっていたが、ある時から急に仕事量が増え、疑問に感じる。どうやら同じ清掃職員の女性からの嫌がらせだった。

入り口で食べ物と紙袋を手渡すマスクを着用したアジア人男性
写真=iStock.com/Kayoko Hayashi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kayoko Hayashi

この頃、和泉さんの父親は、転倒することが増えた。そのため和泉さんは、自分が不在の間の父親が心配で、父親の部屋にウェブカメラを設置。仕事中でも時々スマホを確認し、父親が転倒している様子が映し出されると、リーダーに事情を話して早退させてもらっていたのだが、それが女性職員は気に入らなかったようだ。

2020年4月、深夜から明け方にかけて父親が腹痛を訴えたため、救急外来に連れて行ったところ、医師から「便が消化しきれないことによって、お腹にガスが溜まっています。しばらく入院し、絶食と点滴でよくなるでしょう」と言われた。

翌朝、ほとんど睡眠がとれないまま仕事に行くと、「動きが遅い! 何日も休んだくせに!」と女性職員から言われ、何もかもどうでも良くなった和泉さんは、その女性職員と言い争いをして、そのままリーダーに退職を相談し、25日付で辞めることに決まった。

■「軽度のうつ病」から「うつ病」に診断が変わった

無職になった和泉さんは、「このままではダメだ!」と思い、社会とのつながりを求めて8月からB型就労継続支援所で働き、人間関係に対する苦手意識を少しずつ克服していこうと考えている。

腹痛で入院した父親は、コロナ禍で面会がまったくできなかったこともあり、認知機能が急激に衰えた。失語症の症状も進み、「おーい!」と呼んだはいいが、「あれ……? (言葉が)出てこん……」と言って黙ってしまうことも頻繁に。

1カ月半ほどで退院した父親は、要介護4に介護度が上がった。排便や排尿の失敗もさらに増え、和泉さんが後始末をする度に、父親は無言のまま、悲しそうな、申し訳なさそうな表情をした。

和泉さんは、2012年から月1で通院している心療内科に行くと、「軽度のうつ病」から「うつ病」に診断が変わった。

主治医は、「介護疲れでしょう。きみの場合、とても長い期間お父さんを介護していますから……」と言った。

高校卒業から30歳になるまでの間、職場をいくつもわたり歩き、細々とした収入を得ながら父親の介護をしてきた和泉さんは、いまこう話す。

「急に排泄の失敗が増えて、その度に父は申し訳なさそうな顔をするのですが、僕は時々カッとなり、叩いてしまうこともあります。内心、『早く死んでくれないかな』『父ちゃんさえいなければ、今頃恋人もいたかもしれんのに』と思うこともあります。つるんでいた仲間が都会へ出ていき、結婚したとか、子どもができたとかの知らせを聞く度に、『自分は何をしているんだろう……』と、虚しくなります」

そんなモヤモヤしたどす黒い気持ちの一方で、「4トン近い山鉾を担いでいた父の姿は、今でも忘れられません」と父親を尊敬し誇りに思いながら、「父ちゃん、いつまでも元気で長生きしてほしいのに……なんでや!」と、もがき苦しむ。

秩父の夜のパレード
写真=iStock.com/tupungato
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tupungato

「高校1年の頃、当時は自分がグレて遊び歩いていた後ろめたさもあったので、父が脳梗塞になったことがきっかけで、『こうなった以上は、僕が面倒を見るしかない!』と腹をくくりましたが、(離婚して、他の男性と再婚した)母のことは今でも許せず、ずっと恨み続けています」

父親が脳梗塞になってから、母親は月に1度、1泊2日で介護を手伝いに来てくれていたが、たびたび母親と和泉さんでケンカになり、それ以降、泊りがけの介護は断っている。

「母は、僕と父を置いて家を出たくせに、今さら戻ってきて、父の入所のこととか介護のことなどに口を出してくるんです。さすがにムカついて、『話がややこしくなるだろ! ふざけるな!』と言うと、ケンカになります。父は母とよりを戻したがっていましたが、母は再婚相手とうまくいっているようで、その気はありませんでした」

それでもやはり母親は、拭いきれない罪悪感があるようだ。介護を手伝いに来る度に、「私があんたに苦労かけた。私だけ家を出て、13年間も一人で介護をさせて悪いと思ってる。毎日家で泣いてる。あんたのことを考えない日はないからね」と言い続ける。

和泉さんは、母親にどんな形で父親の介護をサポートしてもらうのがベストなのか考えるとともに、要介護4になってから申し込んだ8施設の空きを、今か今かと待ちわびている。

■プロレスラーの夢と八方塞がりの未来

10代後半、20代の時間のすべてを父親の介護に費やした和泉さんだが、幼い頃から抱いていた、「プロレスラーになる」という夢に少しでも近づくために、2018年頃から生活費を切り詰め、ない時間を捻出し、格闘技教室とプロレスのトレーニングジムに通い始めた。

すると地元のレスラー好きの仲間と知り合い、交流ができた。介護や仕事とは関係のない時間は和泉さんにとってかけがえのないものだった。だが、2020年のコロナ禍以降、格闘技教室は休校になり、仲間との交流も途絶えてしまった。

ルチャリブレメキシコレスリングマスク
写真=iStock.com/sdstockphoto
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ただ、和泉さんは、約8年前に大仁田厚さんの試合を見に行った際に、本人と話したことを今でも覚えている。うれしさと緊張のあまり、何を話したのかはよく覚えてないが、大仁田さんと話している最中にスマホが鳴ってしまったときに、「おい! お前はまだスマホ持てるんだからいいよ! 俺なんて団体立ち上げた頃、携帯持つお金もなかったもん!」と言われたことと、「俺もヘルパー2級の資格を持ってるぞ!」と言っていたことだけは忘れられない。

大仁田さんは、その後も和泉さんが試合を見に行くと、話しかけてくれるようになった。

2018年頃には、「お前のSNS見てるからな! どん底かもしれないけど、あとは上がって行くだけだぞ!」という激励の言葉をかけられた記憶が、和泉さんの心にずっと残っている。

和泉さんは高校卒業後、中学や高校時代の仲間たちとは距離を置き、極力会わないようにしてきたが、年末年始やお盆などになると、今でも家の玄関のドアノブに、都会から帰省したと思われる旧友からのお土産がぶら下がっていて、袋の中には一言『今はコロナ禍やから、会わずにお土産だけ置いとくね』と書かれたメモが添えられていることがある。

「中学や高校時代の仲間たちとは、つらくなるだけなので会わないようにしています。トレーニングジムでの練習を再会したいのですが、金銭的に苦しいことと時間がないこと、そして父が退院したので、家に一人でいる父のことが気になってトレーニングに集中できないため、近々辞めようかと悩んでいます」

和泉さんにとって、トレーニングジムを辞めることは、プロレスラーになる夢を諦めることに等しい。近年、和泉さんのように10代の頃から身内を介護せざるを得ない状況に追い込まれるケースが顕在化してきている。少子高齢化、晩婚化・高齢出産傾向が止まらないわが国では、介護問題の深刻化が決定的となり、2025年問題、2050年問題が迫る。

和泉さんのようなヤングケアラーはもちろん、子や孫、配偶者など身内による介護は、その人との楽しく幸せな思い出さえも、つらく苦しい思い出に上書きし、時には恨みや憎しみに変えてしまうことも少なくない。

誰だって大好きだった人に対して、「早く死んでくれ!」などと思いたくない。

しかるべき施設で専門職による介護サービスが、必要な人に必要なだけ行き渡るよう、早急に整備する必要があるだろう。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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