1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

小田急線刺傷事件を「フェミサイド」と結論づけるのが極めて危険な理由

プレジデントオンライン / 2021年8月19日 11時15分

小田急線車内で6日、乗客が刃物で切られた事件で、ホームを調べる警察官ら=2021年8月7日未明、東京都世田谷区(後方は、運転再開され、新たに運行される車両) - 写真=時事通信フォト

8月6日、東京都世田谷区を走行中の小田急線の電車内で刺傷事件が起きた。文筆家の御田寺圭さんは「現代社会で起きる通り魔的な事件には共通する背景がある。それは犯行に及ぶ人々が“疎外”されてきたことだ」と指摘する――。

※編集部註:初出時、タイトルに「小田急線殺傷事件」とありましたが、「小田急線刺傷事件」の誤りでした。訂正します。(8月19日12時42分追記)

■「フェミサイド」と騒がれた小田急通り魔事件

小田急線快速急行の車内で突然男が刃物をもって暴れ、居合わせた乗客を無差別に切りつけて逃走した事件があった。

東京都世田谷区を走行中の小田急線快速急行の車内で、男が複数の乗客を刃物で切り付けて逃走した事件で、警視庁捜査1課は7日、殺人未遂の疑いで、川崎市多摩区西生田4、職業不詳対馬悠介容疑者(36)を逮捕した。成城署に捜査本部を設置し、計画的に無差別殺傷しようとした疑いがあるとみて調べている。
(中略)
逮捕容疑は、6日午後8時半ごろ、成城学園前―祖師ケ谷大蔵間を走行する電車内で、都内の女子大学生(20)の背中や胸など7カ所を牛刀(刃渡り20センチ)で切り付け、殺害しようとしたとされる。
対馬容疑者は「大量に人を殺すため、各駅停車より駅の間が長く逃げ場のない急行を選んだ。誰でもよかった」と供述。「人を殺せず悔しいが、乗客が逃げ惑う光景を見て満足した」と話しているという。
京都新聞『小田急線刺傷 36歳男逮捕「勝ち組の女性を標的に」「乗客が逃げ惑う光景を見て満足」 無差別殺傷を計画か』(2021年8月7日)より引用

これはネットでも大きな話題となった。

事件発生直後の初報において「勝ち組の女性(幸せそうな女性)を標的に」という文言があったことから、一部界隈ではこれを「フェミサイド」だと断定し、一部の人びとはまるでこうした出来事を「待ってました」といわんばかりに声を荒げ、「フェミサイドだ!」「女性が幸せそうにしているだけで私たちを殺さないで!」「日本は女性が命の危険にさらされる女性差別大国!」などと勢いづいていた。

■男性も女性も「無差別に」狙われている

だが、そうした主張は実際には「ファクト」ではないことは付言しておきたい。そもそも本事件でも被害者のうち半分は男性であるし、少なくとも近年における「無差別殺傷事件」の被害者は男性も女性も数としてほとんど同数である(データをいろいろ見てみる「フェミサイドという言葉は男性被害の透明化によって流通するのでは?」)。ツイッターのフェミニストや一部のネット論客が既成事実であるかのように語る「日本では無差別といいながら、実際は女性ばかりが狙われている」「女性ばかりが殺されている」などということはない。男性も女性も、やはり文字どおり「無差別に」狙われ、傷つけられているのである。

こうした事件の際にしばしば報道発表で警察側から伝えられる「だれでもよかった」という犯行動機がある。

ご存じの方も多いと思われるが、この「だれでもよかった」というフレーズは、警察による「作文調書」と呼ばれるものの代表的な一例として考えられることもある。ようするに、警察が詰めかけるマスコミ対応のためのとりあえずの初報として報道発表に間に合わせるために(あるいは今後の捜査で警察にとって都合よくことを運ぶために)作成する「テンプレ」のようなものだ。

■現時点での「犯行動機」は真実とは限らない

「だれでもよかった」というありきたりな表現の場合は「だれか特定の人を私的なトラブルや怨恨で狙ったわけではない⇒つまりだれでもよかった」という意味合いで、一般の人が想定する「だれでもよかった」の表現に含まれるニュアンスとは異なっている場合がしばしばある。

「だれでもよかった」「むしゃくしゃしてやった」「いまでは反省している」など、事件発生直後に錯綜するさまざまな犯行動機は、必ずしも真実であるとはかぎらない。多くの人の記憶に刻まれる「秋葉原通り魔事件」がその典型である。初報段階でメディアに流れていた「負け組の怒り」「いわゆる『毒親』による教育の失敗」「非モテの怒り」は真実ではなかった。被告人の口から裁判で語られたのは「自分の大切な居場所だったネット掲示板でなりすましをやめさせたかったから」だった。

犯行の直接の動機としてはさまざまに推測されうる(そしておそらくは複雑な個人的ライフヒストリーにおいて複合的に影響し合っている)が、それは今後の取り調べや裁判で真実が明らかにされるのを待たなければならない。よって本稿では、今回の事件の容疑者の個人的な動機の具体的断定ではなく、多くの「通り魔事件」に共通する一般論としてのマクロな「背景」を考察する。

■「通り魔」たちに共通する「疎外」という背景

凶行に及んだ最終的な個人的動機(トリガー)がなんであったにせよ、具体的な動機の内容にかかわらず、現代社会の「通り魔」的な事件のほとんどに大なり小なり共通している心理社会的背景は「疎外」である。

排除
写真=iStock.com/kvkirillov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kvkirillov

法務省の「通り魔」についての統計調査資料『無差別殺傷事犯の実態』によれば、こうした「通り魔」的犯行に及ぶ人びとは、住所不定者や施設入所者の割合が高く、また交友関係も狭く交際経験も乏しく、半数以上が無収入者であることが確認されている。相当過大に見積もっても、かれらのほぼ全員は恵まれた社会生活を送っている者ではない。社会的・経済的・人間関係的に厳しい状況にある人びとである。かれらはその厳しい状況のなかで、人間社会そのものに絶望や憎しみを抱くようになっていった。

私たちはこうした「社会的・経済的・人間関係的に厳しい状況にある人」を自分たちの手で助けようとすることは少ない。助けるどころか、可能なかぎりにおいて自分の傍から遠ざけて疎外する。ただし、疎外するときの態度はけっして冷酷なものではない。「自分が相手を拒絶した」というある種の《後ろめたさ》を負わなくてもよいように、とても美しく思いやりのある表現によって丁寧に装飾加工がほどこされている。

■「小さなノーサンキュー」の積み重ねが絶望を生み出す

「あなたには、もっとふさわしい時期があるよ(ただしいまではない)」

「あなたには、もっとふさわしい場所があるよ(ただしここではない)」

「あなたには、もっとふさわしい相手がいるよ(ただし私ではない)」

「あなたには、もっとふさわしい場所や相手がいる」というやさしいオブラートに包まれた言葉によって、自分にとっての「厄介者」を首尾よく遠ざけることに成功した人びとは、しかし自分が追放したことすら自覚していないこともまったくめずらしくはない。

ある人にそうやって「やさしげな言葉」でもって追放された人は、別の場所でもやはり同じようにだれかから「やさしげな言葉」によって追放され、遠ざけられている。世間の人びとが「私は包摂しないけど、きっとほかのだれかが代わりにやってくれるだろう」と小さくパスしあった結果、だれからも包摂されず、だれからも肯定されず、だれからも承認されない「疎外者」が、だれにも見えない場所で生まれる。人びとに不可視化された「疎外者」たちは、統計データによってようやくそのおぼろげな輪郭が見えてくる。

だれかの激しい憎悪や迫害の結果として「疎外者」が生まれるのではない。皆が自分の「加害者性」を自覚しないで済むようにと洗練させてきた「小さなノーサンキュー」が積もりに積もった結果、巨大な疎外と絶望をつくりだすのだ。

停止
写真=iStock.com/nzphotonz
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/nzphotonz

■現代社会が快適なのは「厄介者」を犠牲にしているから

この社会で生きる全員が「厄介者」を、自らの手で直接包摂することをせず、ほとんど無意識的に(罪の意識を感じることがないような方法で)辺縁部に追いやり、不可視化することを選んでいる。

「面倒くさい人間・無能な人間・厄介な人間・キモい人間・有害そうな人間」にかかわらなくて済むような社会を理想として推進してきたことで、私たちは「自由で平和で快適な社会」の恩恵を最大限享受することができている。

私たちの視界から排除された「疎外者」は、ただ私たちの視界から見えなくなっただけで、その存在が実際に消えたり、すぐさま死んだりしているわけではない。疎外と孤立のなかでじっくりと心身を蝕まれていく。多くは人びとの目につかない場所でひっそり生き、そして消えるように世を去っていくが、しかしきわめて少数の人びとによって「暴発事故」が発生することになる。具体的な件数にしてみれば、毎年1件以上は無差別に人を襲撃する事件が起きているだろう。

■「疎外者」を生み出す限り事件は必ず起きる

人知れず生まれる「疎外者」たち――かれらは私たちが毎日をなにげなく過ごしている「自由で平和で快適な社会」を維持するときにかならず生じる「副次的産物」にほかならない。

東京
写真=iStock.com/kokoroyuki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kokoroyuki

「(社会的・経済的・人間関係的に)傍にいることがふさわしくない者」を排除して、そうでない平均以上の人びとの同質性や快適性を高めようとすれば、どうしても「疎外者」を生み出すことは回避できない。「疎外者」となってしまった人が必然的に社会に激しい怨念を抱くわけではない。だがごくわずかにしても、そこから例外が生じる。

「疎外者」を生み出すことを所与として実現した快適で平和な社会では、こうした凄惨な事件や事故が必ず起きてしまう。これはいうなれば、私たちが日常生活の場面において「厄介者」に煩わされないためにかれらを「疎外」することを選んだ以上、毎年支払わなければならない「必要経費」に相当するものだ。

私たちがかれらを包摂せず疎外すると決めたからこそ、この代償は――はっきりとした時と場所は不明だが――いつかは必ず支払わなければならないものになった。

■「不快な他人」を遠ざけた社会の代償

社会に対して「反逆」することを選んだ「疎外者」たち――「派遣社員としての絶望(マツダ本社工場連続殺傷事件)」にせよ「インセルとしての憎悪(トロント車暴走連続殺傷事件)」にせよ、あるいは「ジハーディ・ジョン(ISILに参加したムスリム系イギリス人。首狩りの処刑人として知られた。彼はイギリスの名門大学を卒業するが、イギリス社会の人種・宗教差別によって恵まれた仕事ができず、次第に西欧文明の先進社会に憎悪を募らせていくようになった)」にせよ同じことだ。

のちに明らかにされたかれらの直截的な具体的動機は全員異なるが、かれらは自らの希望とは反し「疎外者」として生きることを余儀なくされたという背景を共有している。その対岸で、彼らのような人を疎外することによって、その他大勢の人びとは「不快な他人」とかかわらなくて済む快適な社会を享受した。

■通り魔を生み出した「背景」を考えているか

言うまでもないが、通り魔やテロなどの行為自体はけっして許されるわけではない。だがそうした行為に及んだ人びとの「差別性」「加害者性」にのみ注目してしまうのはナイーブな議論である。「私たちとはまったく相容れず無関係な狂人が、お門違いな憎悪や差別心を募らせた結果だ」とすれば、自分たちや自分たちの暮らす社会の無謬性や正当性を守りながらたやすく「切断処理」してしまえるが、しかしそれでは「通り魔」という結果を生み出した原因のより深層にあるものを知ることができなくなる。

私たちはかれらのような存在を代償にして、人類史上かつてないほどに「自由で平和で快適で個人主義的な社会」を実現している。

それぞれがいま享受している「自由で平和で快適で個人主義的な暮らし」のために、かれらのような人間を包摂せず「疎外する」と決めたその瞬間、この社会にいる全員でロシアンルーレットを回す。

自分がそのルーレットに当たることは、確率的にほとんどないに等しいが、そのルーレットによって、何億人もいるうちの数名には確実に、予想もつかないタイミングで「必要経費」の支払いが求められる。

しかし私たち全員の手でそれを回している。それだけはたしかだ。

----------

御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』を2018年11月に刊行。Twitter:@terrakei07。「白饅頭note」はこちら。

----------

(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください