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「元寇は神風が吹かなくても本当は防げた」鎌倉幕府が幾度もあったチャンスを見逃した根本原因

プレジデントオンライン / 2021年8月21日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/brytta

われわれが習ってきた歴史は、史実のごく一部でしかない。東京大学史料編纂(へんさん)所の本郷和人教授は、「もしも鎌倉幕府に教養があったら、日本はモンゴルに襲われなかっただろう。モンゴルにしてみれば、わざわざコストパフォーマンスのよくない日本攻めなどやる意味がない」という――。

※本稿は、本郷和人『日本史の法則』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。

■腕っぷしは強いが、知力や教養は乏しかった

これは日本史ではなく、東洋史のほうの研究者の知見なのですが、いわゆる「元寇」の前段階、モンゴルから送られてきた国書は、別に服属を求めてきたわけではなく、驚くほど丁寧なものだったそうです。

だから、もしももう少し鎌倉の武士たちに教養があって、モンゴルの意図を理解することができていたら。少なくとも挨拶の使者くらいは送ったのではないかと思います。

当時の鎌倉の武士は腕っぷしは強い。しかし知力や教養は乏しかった。

たとえば極楽寺重時(1198―1261)という、北条泰時(1183―1242)の弟にあたる武士がいました。泰時は御成敗式目を定めた執権。重時はその兄に非常に忠実な人で、泰時に頼まれて京都で六波羅探題を務め、泰時没後は、兄の孫の北条時頼(1227―1263)を補佐するために京都から帰ってきた。

重時は時頼をしっかり補佐し、やがて重時の娘と時頼が結婚して時宗が生まれた。後にモンゴルと戦うことになる北条時宗(1251―1284)です。時宗からすると、重時は祖父ということになります。

彼は、兄の泰時とともに、政治行為の重要性を知らしめ、鎌倉幕府に「統治」という概念を植えつけました。この極楽寺重時が鎌倉時代のキーパーソンだったと私は考えています。

その重時が、子どもたちにあてて書いた遺訓が残っています。

そのなかの1つには「どんなに腹が立っても家来を殺してはいけない」とある。どんな教えだ。重時ほど優秀な人にして、このレベル……。しかも言われている子どもたちが、箸にも棒にもかからない出来だったのであれば、まだ仕方がないですが、その子どもとは、北条時頼から認められ、初めて北条本家以外から執権になった北条長時(1230―1264)なのです。

重時ですら、やがて執権となる息子に「腹が立ったからといって家来を殺すな」と教えなければならないレベル。それが当時の武士の教養の現実でした。

■国書を読みこなすこともできない

それでも北条家は鎌倉武士の中でも非常に賢い家だったのですが、モンゴルの国書を読みこなすだけの力はない。それに、モンゴルが非常に低姿勢であるというのは、現代の東洋史研究者だからこそわかることであって、リアルタイムの彼らが理解するのは難しいことだったのかもしれません。

ただ使者が何人も来ているわけですから、きちんと話を聞いてみればよかった。しかし、そこが駄目なところなのですね。少し教養があれば、ともかくもフビライに使いを送って、挨拶をする。そうしたら「お前の所はど田舎だと聞いているけれども、遠い所はるばるよくやって来た。朕は満足である」ということで、たぶん鷹揚(おうよう)にご褒美をいっぱい持たせて帰してくれたと思います。

■モンゴルがわざわざ日本を攻める意味はない

モンゴルにしてみれば、わざわざコストパフォーマンスのよくない日本攻めなどやる意味がないのです。

趙良弼(ちょうりょうひつ)(1217―1286)という使者の1人が1年ほど日本に滞在し、日本の様子をよく観察した。

そして元に帰ってフビライに報告しているのですが、その内容は「あの国は人は荒くれ者ばかりで、土地は痩せて耕作には不向きです。あんな所に兵を送っても割りに合いませんので、出兵は不可です」というものだったのです。

だからフビライをわざわざ激怒させない限り、おそらく攻めてくることはなかった。

馬に乗ったモンゴルの射手
写真=iStock.com/insima
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/insima

たまに「モンゴルは日本征服の闘志を、めらめらと燃やしていた」というようなことを語る人がいますが、それは全然違ったと思います。金のロレックスを持っている人が、今さら1万円くらいのデジタル時計を欲しがるでしょうか。欲しい場合もあるのでしょうか。ふつうは、要らないと思うのですが。

けっきょく北条氏は、モンゴルの使者を無視しました。「かかって来るなら来い」という姿勢に他なりません。

しかもこの辺りが北条氏のどうしようもないところで、モンゴルと日本が戦争になるという状況がまったく読めていないのか、それとも当時の戦争とはそうしたものだったのか、元との交易はしれっと行っているのです。しかもそれで、北条本家に近い人間が利益を上げていた。

中国の朝貢貿易というものは、誰とでもするというものではなくて、その土地の王様しか相手にしない。その場合、小国であっても相手が王様であれば問題ない。たとえば琉球、今の沖縄県には統一以前に3人の王様がいましたが、元の後の明と、それぞれ交易ルートを持っていました。ただしこのとき、中華の皇帝から「おまえを○△国王に任ずる」という、いわゆる「冊封(さくほう)関係」を結ぶ必要があります。王は皇帝の臣になるのです。

■北条氏は現代で言えば「エクセルを使いこなせない人」

もし当時の北条氏に教養があって「元は立派な国だ。使いを派遣しよう」と考えて実行していれば、皇帝フビライは「よし、お前を日本の王様として認めてやろう。これからもちゃんと挨拶に来るんだぞ」と、北条氏を日本の王として承認した可能性が高い。

その上で北条氏が船を派遣すれば、こちらの届けた品に対して、だいたい10倍と言われるお土産をお返しで持たせてくれた。大儲けですから、ますます船をやりとりするわけで、そうすると日元貿易はどんどん盛んになる。となると、貨幣経済がどんどん進んでいたことと思います。

モンゴル帝国の地図
写真=iStock.com/iSidhe
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/iSidhe

ただし気をつけるべきことがあります。貨幣経済が進むと、一般的な武士は貨幣経済の流入についていけなくなる。現代で言えば、「エクセルを使いこなせない人」のように世の流れに取り残されていくことになります。そうした武士が増えると、鎌倉幕府は滅びる。だから、もし北条氏にもっと教養があれば、鎌倉幕府倒壊が、より早まった可能性がありますね。

■似たような状況に置かれていた日本と朝鮮

それともうひとつ、これは違う話ですが、実は日本と韓国──当時は高麗ですが、このふたつの国の歴史は、ここまですごく似た展開をたどっていたのです。

日本の場合は、平清盛という武士が現れて朝廷の実権を握った。その後の源頼朝は、朝廷の実権を握ったと言えるかどうかはわかりませんが、日本全体からすると、非常に重要なポジションにいた。

いっぽう高麗の場合も、この時期にやはり武人政権が生まれているのです。朝鮮という国では、文が上で武が下。だから武人の政権は基本的にあり得なかった。

しかし当時、武人が自分の土地──日本で言えば荘園のような──を基礎にし、軍隊の力で朝廷の中で発言力を高め、そして実権を握るということをやっている。

崔忠献(さいちゅうけん)(1149―1219)という武人が代表的な人物ですけど、この人は日本でいえばまさに平清盛にあたります。その後、崔氏が世襲的に実権を握りますが、これはまさに鎌倉幕府です。この時期、ふたつの国が似た歴史をたどっていたのですね。

しかしその流れがどこで分岐したかというと、モンゴルです。

■もしモンゴル帝国が成立していなかったら

地続きの高麗に対しては、モンゴルは非常に高圧的だった。高麗の王室は、元に完全に取り込まれてしまいます。これは源実朝を懐柔して鎌倉幕府を支配しようとした後鳥羽上皇と同じ政策ですね。モンゴルの皇帝も、高麗の王様をそれなりに厚遇して抱き込んでしまい、そうして高麗を支配しようとした。

本郷和人『日本史の法則』(河出書房新社)
本郷和人『日本史の法則』(河出書房新社)

しかしそこで、武人政権は徹底的にモンゴルに対立する。この流れもまた、実朝をみずから殺してしまった鎌倉幕府と似ています。

当時、高麗には三別抄(さんべつしょう)と言って、3つの独立した軍隊があった。

別抄とは軍隊の意味で、もともとは、左の別抄と、右の別抄。そしてモンゴルから脱走してきた兵「神義」からなる3つの軍が、武人政権のもと別個に独立した動きを見せていた。

しかしそれらが力を合わせて三別抄を名乗るようになり、モンゴルとの戦いを繰り広げる。そのとき、三別抄から日本に対して「一緒に戦おう」という連携の手紙が来ています。しかしけっきょく三別抄はモンゴル軍に負けて解体されてしまう。結果、武人政権自体が完全に解体されることになります。モンゴルは、地続きの高麗の武人政権は認めませんでした。

一方、海をはさんだ日本の武人政権は、北条氏のもとで生き残った。このあたりから日本と韓国の歴史は分岐し、それぞれ違う流れをたどっていくことになりました。

もしも仮にモンゴル帝国が成立していなかったら。日本と朝鮮の歴史は似た展開を続けていたかもしれません。しかし地続きであることと、島国であることの違いが流れを変えた。このことは、地政学的な条件がどのように歴史に影響をおよぼすか。その大きさを、教えてくれていると思います。

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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本資料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。

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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)

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