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「いつまで"最後の我慢"を続けるのか」これ以上、高齢者のために子供を犠牲にするべきではない

プレジデントオンライン / 2021年8月20日 17時15分

8月17日に開かれた東京都新型コロナウイルス対策本部会議の終了後、記者団の取材に応じる小池百合子知事 - 写真=時事通信フォト

8月4日、1都3県の知事は「最後の我慢」を訴え、旅行、帰省の原則中止や積極的なワクチン接種への協力を呼びかけた。評論家の山形浩生さんは「これまで何度、この手の台詞を聞いたことか。こんな呼びかけはいつまでも続けられるものではない。高齢者の命を守るために、若者や子供を犠牲にするのは、もうやめるべきだ」という――。(前編/全2回)

■だれもこんなに長引くとは思っていなかった

オリンピックが無事すんで、世間の話題はまたもやコロナだ。デルタ株で感染者数急上昇。収束の気配は見られない云々。緊急事態宣言は当分続きそうだ。酒は出すな、外に出るな、会食はだめ、帰省もやめろ、あれはするな、これはダメ。それを守らない不心得者どもがけしからん……。

そしておそらく、ほとんどの人ははっきり思っているはずだ。

これって、いつまで続くの? いや、いつまで続けるの?

今回ですでに2回目の夏だ。だれもこんなに長引くとは思っていなかった。去年の3月頃、コロナが本格化した頃には、まあ多少は余裕を見て2020年9月くらいにはおさまるだろうと思っていた。用心深い人でも、年度開けくらいにはすべてが元に戻ると思っていた。

それがこんなに続くとは。しかも1年半たったいま、ほぼ抑え込んであとは残党処理、という状態ではない。ヘタをすると、これからさらにデルタ株の山がくるかもしれない。次もあるかもしれない。ワクチンも鉄壁ではないような話もある。

すると当然、だれもが内心思うだろう。これって本当に終わるの? でも、この状態が10年続けられると思っている人はいないはずだ。とすると問題は、いつまで続けるの、ということだ。

■一般人の我慢は本来「オマケ」にすぎないはず

そもそも、コロナはウィルス性の病気だ。それに対応するのは、基本は医療だ。コロナ患者が増えたら、まずは医療で何とか対応するのが筋だ。

もちろん、世の中、すべて予定通りにはいかないのは当然だ。医療だけでは足りませんので、ご協力お願いします、というのはわかる。ぼくたちだって、すすんで病気にかかりたくはないし、人助けですと言われればそれなりに協力はしよう。でも、一般人の貢献は、あくまで医療のオマケであり、その補助でしかないはずだ。

■なぜ行動制約と指図が対策のメインなのか

ところが現在では、コロナ対策で出てくるのは、すべてがぼくたち一般人への指図だ。あれをするな、これをするな。強制力はないからお願いです、と言いつつ、従わなかった店舗は罰金かけたり、さらしものにしたり。

なぜ本来はオマケであるはずのものが、コロナ対策のメインになってしまっているわけ? そもそも本質的におかしくないか?

メインとおまけの関係から言えば、医療での施策が主体であるべきだろう。医療方面で二つくらい大きな施策や進展があって、これだけやってますが、足りないので他のみなさんも是非ご協力を、と頼むのが筋だろう。それが、なぜ一般の人びとに対する行動制約と指図がメインになっているのか?

■医療現場が頑張っているのはわかるが

もちろん僕たちが知らないだけで、どっかの密室では、医療方面で何やらすごい施策が次々に打ち出されているのかもしれない。2020年4月ごろのマスク対応は、いまにして思えば医療装備の確保として偉かった。そして当時「医療崩壊」と騒いでいた水準に比べ、2020年末から今年初頭のかなりの件数増大でも耐えられたということは、それなりに医療側でもキャパを増やす活動はしたんだろう。

その一方で、普通の病床はいくらでも空いている、病院がそれをコロナ用に使いたがらないだけだ、というのも報道で出てきた。だったら、コロナで医療逼迫というのは本当なの? コロナで入院できないだけで、それ以外の病床って空いているわけ? コロナ以外の病気で使える病床はあるということ?

(参考:「空き30万病床、コロナ向け転用進まず 役割分担が不十分」(日本経済新聞2121年7月31日」)

ワクチン接種についても、現場は対応できない、打つ人が足りない、という話はさんざん聞かされた。でも接種が始まったら、どこでも打ち手が不足して律速段階になったという話は聞こえてこなかった。むしろワクチンが追いつかないくらい。

すると本当に医療は崩壊してるんですか? そしてそれについては、どんな対応がなされているんですか? 医療側としてはいろいろ言い分はあるんだろう。でもその話は少なくとも表にはまったく出てこない。足りない、という脅しばかりが広まり、それ以外に医療制度側からの話といえば、医師会の親玉だのそのお仲間だのがふんぞりかえって、あれができんこれができん、もっと国民に我慢させろと言っているばかり。

現場はがんばっている——はい、それはその通りだろう。それについては、みんな感謝している。でも一方でツイッターでは「うちはもう病床埋まっちゃったのでこれ以上できることはありません。暇だー。行動を控えないおまえらのせいで医療崩壊してるけど、ワシら知りませんからね」みたいな居直ったツイートも流れてくる。

彼らとしては、危機感を広めようという善意ではあるんだろう。でも、コロナ拡大はおまえらの不心得のせいだ、おまえらの頑張りが足りないからだ、医療はもう何もしません——それは話がちがうだろう。医療関係者に感謝しましょう、みたいな話があったけれど、つなぎのオマケの立場でここまで頑張った一般国民こそ、本当に感謝されるべきだ。というのも、彼らの犠牲こそは壮絶なものだからだ。

■人びとはすでにものすごい犠牲を払ってきた

小売店の窓のバナーの背景に閉鎖サイン
写真=iStock.com/Maridav
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Maridav

この2年近くにわたり、ぼくたちはずっと「あとちょっと我慢するだけですよ」と言われ続けてきた。「この程度はなんとかなりますよね、がんばってください」と何とも気軽に言われつづけてきた。

そして最初の頃は、それも多少はもっともらしかった。去年の4月あたり、人びとが緊急事態宣言に従ったのは——家からも出ず、子供を学校にも行かせず、非人間的な拘束に耐えたのは——それが一時的な、一回限りのことだとみんな思っていたからだ。だって、そう言われたもの。そしてその後、それが少しのびても、まあ仕方ない。我慢してあげようとは思う。

でもそれが1年半。もうその我慢はとうてい「ちょっと」どころではない。外食産業、旅行産業、イベント産業、子供たちの遊びと学習と成長、ふつうの人間づきあい、社会交流、それがすべて、コロナ対策のために犠牲になってきた。で、ぼくたちはまだこの犠牲をはらい続けるのか?

そしてそういう状況になると、政治家や専門家が登場して、「最後の我慢をお願いしたい」なんてことを言う。でも……それって本当ですか?

もちろん嘘っぱちに決まってる。いまやみんな知っていることだけれど、言っている本人も、これが最後かどうかなんて実はまるっきりわかっちゃいないのだ。これまで何度、この手の台詞を聞いたことか。「ここが山場」「ここが勝負所」「この夏は特別な夏」「真剣勝負の3週間」「本当の正念場」。みんな目先をやりすごすための方便でしかない。

■「これが最後」を10年繰り返す気か

で、いつまでそれを続けるんだろうか。このまま「あと少し」「これが最後」「あと一回だけ」「ホントに最後の最後」なんてのを、ズルズルと十年続ける? 無理でしょう。だったら、それをやめる方法を考えなきゃいけない。それはつまり、コロナが終息しなくてもこの手の行動制約をやめるということだ。

こういうとすぐに出てくるのが、人命には変えられないとかいう話だ。コロナで死ぬ人がいるんだから、10年でも20年でも我慢しなさい、というわけだ。

もちろん、そうしたい人びとはそうしてくれて一向に構わない。でもほとんどの人は、はいそうですかとは言えないのだ。

■コロナ対策と引き換えに失われたもの

公園遊具使用禁止
写真=iStock.com/Fiers
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Fiers

コロナでなくても人は死ぬ。そしてコロナ自粛やコロナ戒厳令でも人は死ぬ。すでに多くの店舗が閉店・倒産を余儀なくされている。その人びとの先行きは? 子供たちの奪われた交流機会や学習機会は、今後一世紀近く彼らの知能にも幸福にも、そしてその生産力にも影響するだろう。去年、一度もまともに大学で講義を受けられなかったぼくの甥っ子たちに、何の影響もないとは言わせない。そしてそれが日本の今後の発展や改善に何も影響しないはずがない。それによる損失は? ついでにコロナでは世界的に出生率が劇的に下がった。そこで生まれなかった子供の命は?

ちなみにコロナ対策委員会の経済学者たちは、本当はそういうのをきちんと計算するべきだった。それを初期の段階で、政治と国民に示すべきだった。このコロナ対策で、どれだけの犠牲が出るんですか? 本当にそれを負担しろと言えるんですか? その判断材料を出すのが彼らの仕事だったはずだ。

ところが彼らの提言は、PCR検査をしろとかいう代物。役立たずのきわみ。その親玉たる小林慶一郎の手記によると、医療やPCRの問題を指摘したら無視されたとか。あたりまえだ。そして彼らがちゃんと仕事をしなかったからこそ、コロナの直接の感染者ばかりが重視され、人びとにすさまじい犠牲と費用を強いる「自粛」だの「お願い」だのが、ズルズルと垂れ流され続けてきた。

■老人を守るために犠牲になった若者たち

いま述べたように、コロナ対策とされる行動制約の損失を最も大きく被ったのは、成長期にその様々な機会を大きく奪われた若者や子供たちだ。ぼくのような中年初老の損失は、まあお金で解決できる程度かもしれない。でも若者や子供はそうはいかない。

そして彼らの犠牲により恩恵を受けたのは、どの世代だろうか? もちろん老人たちだ。

コロナは最初、老人が圧倒的に死にやすいから、という話で登場した。だからこそ、老人を守るために非常事態とか自粛とかしましょう、という話になった。

そしてどのみち老い先短い老人を守るために社会全体を犠牲にすべきか、という話が出てきかけると、医療崩壊だという話が登場した。医療の世話になるのは高齢者だけじゃありませんね、若者も使いますね、それが崩壊したらみんなが困りますね、というわけだ。

でも……医療が崩壊して最も被害を受ける人びとは? 高齢者だ。病院にいってごらん。待合室に大量に群れているのはだれ? 高齢者だ。医療費のほとんどを使っているのはだれ? 高齢者だ。

■1年も2年も続く犠牲を正当化できるのか

もちろんコロナでも、若者が倒れたり死んだりすることはある。若者も医療を使うことはある。だから若者の被害もゼロではない。マスコミその他は、そうした例をあれこれ挙げて、ほらごらん、医療崩壊はみんなの問題です、老人のためだけじゃないんですよ、自分たちのためにも自粛しましょう、と喧伝してきた。

でもコロナで発症、重症、死亡する人の比率は、若者は圧倒的に少ない。さらにそれ以外の病気でもなんでも、事故などを除けば医療を享受するのは圧倒的に高齢者だ。何をどう強弁しようとも、コロナ対策は老人を守るために、中年たち、子供たち、そしてだれより若者たちを犠牲にしてきた。

1カ月くらいなら、それも仕方ないといえるだろう。でも1年、2年となったら? 本当にそれは正当化できるのだろうか? (後編に続く)

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山形 浩生(やまがた・ひろお)
評論家、翻訳家
1964年生まれ、マサチューセッツ工科大学修士課程修了。大手シンクタンクで地域開発や政府開発援助(ODA)関連調査を手がけるかたわら、経済、文学、コンピュータなど幅広い分野で翻訳・執筆を手がける。著書に『新教養主義宣言』、訳書にポール・クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』、トマ・ピケティ『21世紀の資本』、フィリップ・K・ディック『ヴァリス』など多数。

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(評論家、翻訳家 山形 浩生)

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