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「日本人のコロナ自粛はすごかった」上から目線で"緩み"に怒る人はこれ以上なにを望むのか

プレジデントオンライン / 2021年8月20日 19時15分

欧米ではマスク無しでのスポーツ観戦も日常化しつつある。2021年8月11日、米大リーグのエンジェルス対ブルージェイズ戦 - 写真=USA TODAY Sports/ロイター/アフロ

欧米ではコロナ禍に終わりが見え、「マスクなし」の生活に戻りつつある。なぜ日本は後れているのか。評論家の山形浩生さんは「日本人のコロナ自粛は、欧米先進国に比べれば、よっぽどすごかった。各国の被害は日本以上だが、コロナ禍に見切りをつけて、いまのような“戒厳令もどき”を意図的に終わらせようとしている。日本もそうした判断を下すべきだろう」という――。(後編/全2回)

■これ以上ぼくたちは何ができるというのか

(前編から続く)

そもそも、これ以上の何ができるのだろうか? ぼくは主観的にも、客観的にも、これ以上の大きな犠牲を強いるのは不可能だと思っている。人びとはすでに、十分すぎるくらいに犠牲を払って予防策を講じているからだ。

まずほとんどの人は、主観的にはこれ以上のことはできないと思っている。少なくとも、するつもりはない。

いや、そんなはずはない、という人もいるだろう。感染者数が増えると、毎回ツイッターなんかに、とても意識の高い人びとが出てくる。その人びとによると、これまでのコロナ対策が効かなかったのは、一部の不心得者のせいだ。

曰く、マスクしないヤツが悪い、出歩くヤツが悪い、酒飲んで騒ぐ連中が悪い、無知な若者が悪い、外食する連中が悪い、旅行する連中が悪い、立ち話する連中が悪い、買い物にでかける連中が悪い、フェイスシールドを使う連中が無知だ、空間除菌剤にすがろうとする店舗はバカだ、お弁当をいっしょに食べる連中が悪い、ワクチン打たないバカが悪い。そういう連中さえ行動を改めれば、コロナは一気に解決するはず、なのだそうだ。

でも、それを嬉しそうに指摘する人びとすべてに共通するポイントがある。みんな、自分は大丈夫だと思っているということだ。自分はやるべきことをきちんとやっていると思っている。悪いのはいつも他人だ。自分はしっかりやっている。悪者はあいつらだ。あの他人を取り締まれば世の中はよくなる……

でも、状況はちっとも改善されない。

■みんな「自分の対策」は十分だと思っている

渋谷交差点を歩くフェイスマスクを持つ人々の群衆
写真=iStock.com/Fiers
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Fiers

なぜか? それはその「あの連中」だって、実は主観的には、自分なりにやるべきことをやっているつもりだからだ。出歩いている人は、自分はマスクしてるから大丈夫、と思っている。若者も多くは、自分はしっかりマスクと手洗いしてると思ってる。多くのレストランや施設は、自分たちは感染対策はしっかりやっていると思っている。食事をする人だって、ついたて越しだしいつもより声は控えめにしているつもりだ。酒を飲んで騒ぐ人だって、回数控えめにしているつもりだ。外飲みの人は、屋外でやれば、換気は十分じゃないかと思っている。

みんな、自分なりに対策をしているつもりだ。自分なりに犠牲を払っているのだ。そして、それは決して単なる思いこみではない。何もしない以前の状況に比べれば、対策はしている。そしてみんな、自分の対策は十分だと思っている。その根拠は……自分がそれでこれまでコロナにかからなかったから。もちろん、これは理屈としてはまちがっているけれど、でも人間というのはおおむね、そういう考え方をする動物なのだ。

■「意識の高い人」の批判が届かないわけ

意識の高い人から見れば、あそこがダメ、ここがダメ、それは心得違い、と批判はできるだろう。そしてそれはその通り。でもその批判対象の人びとだって、同じことを思っている。悪いのは他人だと思っている。だから、だれも自分の行動なんかなおさない。よって、全体として対策が特に強化されることはない。だからこれ以上、状況が大きく改善することはないだろう。専門家や政治家がどんな脅しをかけようとも。

そして、それはその人たちの主観が、客観的にまちがっているという話ではない。客観的に見ても、それ以上対応を強化しないという行動は、その個人にとっては合理的なのだ。それ以上の予防策なんか、個人レベルではほとんど何の意味もない。個人が追加で感染予防策を講じたところで、その個人にとっての追加の感染リスク低下はほぼゼロだ。

たぶん一般人レベルで普通にできることは、マスク、手洗い、ワクチン接種、公共機関の体温測定、少し外出を減らすくらいだろうか。それ以上のことを一般人に求めること自体が、かなり無理筋だ。しかも「それ以上のこと」って具体的に何? ぼくには思いつかない。

■そもそも出発点から現実的ではなかった

コロナウイルスによる中小企業のロックダウン
写真=iStock.com/Halfpoint
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Halfpoint

あらゆる人が活動の8割だの9割だのを止めるなどというとんでもない話を、強制力もないお願いだけで実現できると考えること自体が、そもそもまちがっている。お願いベースで可能なのは、8割の人に対する8割削減を10日とか、あるいは半分の人に対する2割削減を1年とか、そんなものでしょう。前回の冒頭で、国民へのお願いは医療のオマケだ、と述べた。そのオマケが、軍事政権の戒厳令下でもなかなか実現できない水準の代物となればなおのこと。ぼくは、そもそもの出発点が現実的ではなかったし、それを長期に追求するのが無謀ではあったと思う。

にもかかわらず、日本の一般人たちはそれに応えてきた。それをはるかに上回る行動制約を自主的にやってきた。おかげで世界的に、ものすごく感染率も低く、死者数も少ない。台湾やニュージーランドと比べれば、という話は必ず出る。でも世界平均や欧米先進国に比べたら、信じられない水準だ。それが何のおかげかは、諸説あるけれど、でも人びとの行動制約が大きく効いたのはまちがいない。日本は、強権的な制約は避け、ゆるいお願いと脅しでコロナをそれなりに抑え、まあまあ経済も維持してきた。それは評価すべきではある。でも、それをいま、もっときつくしろというのは、このかなり微妙なバランスを崩せと要求するに等しい。これまた、現実的なことなんだろうか?

■ワクチンでもコロナ禍が終わらない可能性

ワクチンが登場したときには僕も含め、大きな安堵と希望を感じた――(ついでながらアメリカは、ワクチンの下準備をしてくれたトランプ政権には本当に感謝すべきだと思う。彼は本当に多次元的にバカで問題の多い大統領ではあった。でもワクチンの早期開発と手配だけはきちんとやった。それは評価してほめてあげるべきだ)。これぞ本道の医療的な解決策。そして菅総理大臣と現政権は、そのワクチンをいちはやく確保した。注射する人がいない無理だ無謀だと脚を引っ張ろうとした勢力を蹴倒して、一日100万回の目標をすぐに実現するだけの政治力を発揮した。これは本当にすばらしい成果だ。

ところが……だんだんワクチンも効きが薄れるとか、やっぱり接種率が8~9割まであがらないと拡大は防げないとか、だんだん能書きが後退してきたのは否定しがたい。その一方でデルタ株は勢いを増しているし、ラムダ株だカッパ株だゼータ株だと次々に新種が登場しかねない状況だ。ワクチン接種は効きそうだけれど、決定的にこの状況を終わらせるには至らないのではないか、というのはみんな思い始めている。

■どこかで見切りをつけざるを得ない

もちろんこれは、ワクチン無駄、ということじゃない。たぶん、重症化は避けられるし、デルタ株での感染者急増にもかかわらず日本で死者数が(いまのところ)あまり増えていないのはワクチンの御利益だろう。一番死ぬ層だった高齢者が接種をほとんど終えていたのはありがたかった。8月末からワクチン供給が復活して、接種率が急増すればいまの患者数急増にも多少の効果はあるはずだ。それでも5月頃に期待していたような、一気にコロナが沈静化して思い出話になるほどの効能はなさそうだ。ワクチン接種が相当進んでも、まだ感染者は増え、時に医療はあふれ、それに伴い死者も出るのは覚悟しなくてはならない。

すると……話は最初に戻ってくる。これ、いつまで続けるの? そういう状態になっても「人命には……」という口実でいまのような戒厳令もどきを続けるんだろうか。

たぶんどこかの時点で見切りをつけざるを得ないだろう。そしてここで見切りをつけるというのは、コロナ感染者が増えても、もう気にしないということだ。ワクチンの接種までは、とにかくやり切ろう。でもその後は病院が一時的にあふれても、憂慮してみせたり、緊張感を持って注視くらいはするけれど、でも原則は放置するということだ。補助金とかはつけるかもしれない。でも他の人びとの行動を大幅に制約するような施策はもう採らない、ということだ。

■「マスクなし」の生活に戻りつつある欧米

一部の先進国は、すでに明らかにこの通りの見切りをつけ始めた。ワクチンはすでに行き渡らせた。いま打っていない人は、自らの意志で打たない選択をした人びとであり、したがってそれに伴う損失も受け容れたのだ、という判断をしている。

ワクチン打ってない人はお酒は飲めない。一部の公共施設には入れない。そうした待遇上の差別をしてもかまわない、とアメリカやフランスの一部は判断しつつある。そのうえで、もうマスクもしなくていい、隔離もしない。まったく以前と同じ状況が戻りつつある。中国や、初期にコロナ抑え込みに成功した国々が、今後どうするかは見ものだ。

デルタ株が思ったより強くて、アメリカではやっぱマスクいるかも、なんて一歩後退はしている。でもそれもしばらくすれば終わるだろう。ワクチンパスポートで、ワクチン接種さえあれば行き来を認める仕組みが、多分広まってくる。つまりは、それ以上の対策は考えない、ということだ。

日本もどこかで、そういう判断を下すしかない。ワクチンパスポートが普及してきて、他の国ではコロナ感染があっても往き来が始まれば、日本だけ鎖国を続けるわけにはいかないし、追従するしかない。たぶん日本では、はっきりとそれを言える政治家も行政機関も、たぶんない。でもなし崩し的に、そういうかつてと同じ状態に向かうだろう。

■なんとなく通常営業に近づいている

いや、いますでにそうなっている。いまは、緊急事態宣言だ。そして最初の2020年4月に比べて緊張感が緩んでいると、有識者と称する人たちは嘆いてみせる。でも見てみよう。一般の人の活動以前に、美術館もやっている。学校もやっている。映画館もやっている。公立のスポーツ施設もやっている。すでに公共ですら、人にお願いをしておきながら、申し訳程度の対策をしつつ、通常営業にだんだん近づけている。

もちろんそれに対応して、民間もだんだん通常営業に近づいている。レストランもお酒以外はやっている。映画館もやるし飛行機も飛んでいる。最初の緊急事態宣言とは、環境がまったくちがう。この状況で、緊張感が緩んでいるとか、自粛疲れとか罵倒されるのは、だれもが心外だろう。みんな、環境に反応しているだけだ。

口だけは緊急事態宣言と言いつつ、中身はどんどん以前と同じ状況になりつつある。それで患者数が増えたところで、もうあまりできることはないから、と行政も投げ気味だ。でもまだわからないけれど、さっきも述べたワクチンの効果か、死者はあまり出ていないようだ。だったらそれでいいじゃねえか。

■車をすべて禁止すれば自動車事故はなくなるが

ワクチンの接種はどんどん進めよう。運悪くかかってしまった場合にも、治療薬や症状を抑える薬がだんだん出てきているような報道もある。また長期的な対応としては、集中管理できる施設の整備方針とか、医療従事者の予備役とか、注射くらいは打てる予備軍の養成とか、おそらくぼくがおもいつく程度の案はすでに検討(というのは、検討したけど断念というヤツではなく、何らかの形で実現に向けた動きがあるということ)されているんだろうと信じたい。医療のほうで、こうした緊急事態にすぐ対応できるような仕組みを拡充するのは必須だ。

でも、それが間に合わなかったら? 不十分だったら?

国民は、××総理辞めろとかハッシュタグで憂さを晴らし、内閣支持率も下がるかもしれない。でも……それだけだ。コロナにかかった? それはかわいそう。一日死亡者が少し増えた? それはご愁傷様。今後の状況を、緊張感を持って注視しましょう。でもそれだけだ。

やることはやった、できることはやった。それ以上はもう、ワクチンを打たなかった人が自分で選んだ道であり、それ以外の部分は天災であり事故だ。自動車事故だってなんだって、一応常識の範囲でできることをやって、それでも出てくる被害は事故だ。そりゃあんた、車をすべて禁止すれば自動車事故はなくなる。でも、しないじゃん。それと同じだ。

■ある一定以上の「犠牲」はもう払えない

それでも、感染者数が増えれば、手を洗ってマスクをするくらいはしてあげる。公共機関の入り口で体温測定も、続けていいんじゃない? ワクチンも学校で義務的に打たせよう。デルタ株のリスクを見ると、今より低年齢から打たせるのも、そのうち正当化できそうだ。毎年打つことになるって? まあ仕方ない。

でも、みんながそれ以上の犠牲を払うことはないだろう。少なくとも、何週間にもわたる長期に、生活が一変するような犠牲を(少なくともお願いベースで)強いるのは無理だ。

コロナの初期の頃、ウィズコロナというのは何か、社会経済的な制約をずっと抱えつつ生きるような話だとみんな思っていた。コロナに日々怯え、みんなが日常的に死を思いつつ暮らすような世界だと思っていた。あるいは、文明そのもののあり方を見直そう、なんて神妙なことをみんなが思うのでは、などという反文明知識人たちもウンカのように湧いて出た。

でもおそらく、実際はちがう。人は何にでも慣れる動物だ。いつも病気や死のことばかり考えてはいられないのだ。コロナは、なってしまったら仕方ない。運が悪かった。他の多くの病気と同じように、そういうものになるはずだ。ポストコロナ/ウィズコロナの世界で、人びとはいまより少し冷酷になるだろう——少なくともその病気そのものについては。そして、かつてとほとんど変わらない生活に戻るだろう。でも、ぼくはそれが本当に健全な生き方だと思っている。

■次のパンデミックでは、人類は違うバランスを検討するはずだ

そして、次にコロナ以外で何かパンデミックが生まれてきたら——そのときにはどうなるだろうか。まず今回よりは、早期の封じ込めに全力を挙げるだろう。世界のあらゆる国が、こんな事態の再演は避けたいのはまちがいない。そのために非常時の私権制限や戒厳令もどきの法制化までやるかは、その国の覚悟次第だ。予防や各種研究への予算も、ずっと積まれるようになるだろう。医療体制も、それまでに見直しがあって、非常時対応の拡充があると信じたい。

が、それでも広まってしまったら?

こういう言い方をしようか。もし次回、こういうことがあったら、そのときはおそらく、その病気そのものによる被害と、その対策の費用との間で、もっとちがうバランスが検討されるはずだ。そしてそのバランスが今回のコロナと比べて、どっちに偏るものになるだろうか。ポストコロナの、少し冷酷になった人類が取る選択肢は——ぼくは明らかだと思う。

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山形 浩生(やまがた・ひろお)
評論家、翻訳家
1964年生まれ、マサチューセッツ工科大学修士課程修了。大手シンクタンクで地域開発や政府開発援助(ODA)関連調査を手がけるかたわら、経済、文学、コンピュータなど幅広い分野で翻訳・執筆を手がける。著書に『新教養主義宣言』、訳書にポール・クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』、トマ・ピケティ『21世紀の資本』、フィリップ・K・ディック『ヴァリス』など多数。

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(評論家、翻訳家 山形 浩生)

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