「ここだけの話、君だけが頼りだ」負け組から将軍になった源頼朝が使った"殺し文句"
プレジデントオンライン / 2021年9月2日 9時15分
※本稿は、遠山美都男、関幸彦、山本博文『人事の日本史』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
■負け組の「元プリンス」から「反乱勢力の中核」へ
鎌倉幕府の創立者、源頼朝。彼は、武士という専門家集団の一大派閥「源氏」の「プリンス」(当時の源氏のトップ、義朝の子)として久安3(1147)年に生まれた。しかし、彼が13歳だった平治元(1159)年、彼自身も参加した平治の乱によって、源氏は負け組に転落する。勝ち組はもちろん、もう一方の大派閥、清盛の平氏だ。
ここで、清盛は頼朝を殺すこともできた。そうしなかったのは、清盛の温情である。これが、後から見れば頼朝にとっての最大の幸運であり、平氏から見れば、禍根となる。
死を免れたとはいえ、頼朝にはまったく「人事」的な希望はなかった。彼は伊豆に流され、そこで負け組の派閥の「元プリンス」として、生涯おとなしく生きることを定められていた。彼自身、その運命をいったんは受け入れていたはずである。
しかし、頼朝が30代に入った頃、転機が訪れる。都で反平氏の気運が高まり、源氏の嫡流たる伊豆の頼朝に再び注目が集まる。平氏から見て「反乱勢力の中核」となりかねない、「危険人物」としてである。
彼は最初から中央への謀反を好んだわけではない。しかし、こうして「やるか、やられるか」の状況に追いこまれ、結果として平氏を倒し、「幕府」という前代未聞の政体を創出することになる。
■反乱者が頼みにできたのは同志と家来だけ
さて、体制への反乱者であった源頼朝にとっての「人事」の意味は、平清盛にとってのそれとは、まるで異なる。
清盛にとって出世の要は、自分を引き上げてくれる権力者との関係であった。そこで清盛は、当時の分裂ぎみだった王権のなかで巧みにバランスをとって保身を図った。
それに対し、反乱者の頼朝には、自分を引き上げてくれるような存在はなかった。地位は、自ら戦い獲るしかなかったのだ。
そのために彼が頼みとできるのは、一緒に戦ってくれる同志と家人(家来)だけであった。それを獲得していく――数ももちろん、「やる気」を起こさせる――のが、彼にとっての「人事」戦略だったと言えよう。
頼朝が期待したのは、当然、かつての同志である東国武士たちの助力であった。しかし、平氏への反感があったとしても、東国武士たちは当初、一度負け組となった源氏になかなか付こうとしなかった。これも当然だろう。
■数での劣勢を一人一人の「やる気」で補う
当時の東国武士たちは、中央の人事システムの埒外にあり、多くが無位無官である。だから出世やポストの誘惑で動くことは少なかったが、その代わり、「恩こそ主」を標榜した。現実に恩を受けている者のために働く、ということだ。
そして、この場合、「今そこにある恩」とは、平治の乱以降、武家の棟梁であった平氏への恩である。頼朝がいくら「昔は源氏の世話になっただろう」と説いても、あまり効き目はなかった。
結局、頼朝が取ったのは、数のうえでの劣勢を、一人一人の「やる気」で補う戦略だ。それによって、1人をいわば10人分の戦力に仕立て上げる。そのために頼朝はどのような手を使ったのか。
それについて、『吾妻鏡』に印象的な記述がある。挙兵が間近い治承4(1180)年8月のこと。頼朝は、北条時政以下の家人を一人ずつ呼び寄せ、こう言ったという。
「いまだ口外せずといへども、ひとへに汝を恃(たの)む」
つまり、「ここだけの話だが、お前だけが頼りだ」と囁いたわけだ。
これが「諸人の一揆」のための「方便」であろうことは、『吾妻鏡』の編者も冷静に指摘している。そして、「真実の密事」は北条時政にしか語らなかった、としている。
■部下の士気を鼓舞する上司の「ここだけの話」
しかし、そうだとしても、このときの「部下」の身になって考えれば、この頼朝の「囁き」作戦は効いたであろう。少なくとも、「昔は世話してやったじゃないか」などと言われるよりは、はるかに心を奮い立たせられたはずだ。
こうしたことは、今も昔も変わらない。今の会社でも、上司の「ここだけの話」という「囁き」が、部下の士気を鼓舞したり、同志としての絆を強めたりしているのではないか。
組織といっても、最終的には、それを構成する一人一人の「心」が動かしている。多くの場合、人は打算で動いているだろうが、ときに、打算を超えて「心」で動く。人間としての誇りや自尊心といった部分だ。それを動かしうるのが、よきリーダーの資質ということになろうか。
頼朝は、この「心」のつかみ方がうまかった。そして、なるほど、武士というのは、この「心」で動く部分が大だったからこそ、頼朝は最終的に勝ったのである。
■大兵力を率いる武将をあえて叱りつけた効果
頼朝の心理巧者としての側面を表すエピソードをもう一つ紹介しよう。同じく『吾妻鏡』が治承4年(1180)9月のことと伝えている。
緒戦の石橋山(現・小田原市付近)で敗北した頼朝は、房総に逃げた。ここには上総介広常が率いる大武士団がいた。劣勢の頼朝としては、本音では喉から手が出るほど欲しい戦力だったはずだ。
しかし、頼朝はそれを態度にまったく表さなかった。それどころか、迷ったあげくに最後に2万余騎という大兵力を率いて広常が参陣すると、頼朝は「遅い!」と叱りつけたのだ。
「数万ノ合力(ごうりき)ヲ得テ、感悦セラルベキカノ由、思ヒ儲クルノトコロ、遅参ヲ咎(とが)メラルルノ気色(きしょく)アリ」――つまり、広常は、頼朝が「よく来てくれた!」と感激して迎えるだろうと思っていた。しかし違ったというわけだ。
■部下を心服させた「計算されていない」演出
『吾妻鏡』によれば、実は広常は、この時点でも頼朝につくべきかどうか迷っていた。頼朝が弱気ならば、すぐにでも彼を討って首を平氏に献上し、褒賞をもらおうとすら思っていたという。しかし、頼朝の態度を見て「人主ノ体(てい)ニ叶(かな)ヘルナリ」と感服し、恭順を誓う。
地方のボスとして誇り高き広常が頼朝の気概に圧倒された、というわけだが、この話のポイントはそこだけではあるまい。頼朝は、自分の他の「部下」たちへの効果も考えていたはずだ。
頼朝はリーダーとして、常に「見られている自分」を意識し、自ら「威風」つまりカリスマ性を演出していた節がある。それは、「強い棟梁」を求める武士たちが相手だったことと、絶対的な劣勢から出発せざるをえなかったことから、頼朝にとって必要な「戦略」だったであろう。
もっとも、それは必ずしも現代的な「計算された」演出や戦略ではないだろう。今だって、計算だけで人を心服させることはできまい。頼朝自身がだれよりも武士の「心」を持っていたからこそ、それが可能だったのだ。
こうして頼朝は、誇り高い武士の心をつかみ、平氏を倒して鎌倉幕府を開く。
幕府とは何かといえば、武士による武士のための政権だ。京都との関係でいえば隔絶でも孤立でもない。東国の相対的自立という、日本の中世独特の政治システムである。このシステムには先例も手本もなかった。いわば頼朝のオリジナルであり、だからこそ、頼朝は新たな時代の幕開きを宣し、「天下草創」と呼んだ。
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歴史学者
1952年生まれ。日本中世史専攻。日本大学文理学部特任教授。著書に『武士の誕生』(講談社)、『東北の争乱と奥州合戦』(吉川弘文館)など多数。
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(歴史学者 関 幸彦)
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