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「氷点下での作業は苦しかった」餓死寸前の南極探検隊の命をつないだ"ある食べ物"

プレジデントオンライン / 2021年9月19日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Grafissimo

1914年、イギリスの探検家アーネスト・シャクルトン率いる探検隊が「エンデュアランス号」に乗り込んで南極点をめざした。だが流氷にとじこめられて遭難、漂流した。隊員たちはいったいどんなものを食べて命をつないだのか。作家の椎名誠さんが解説する――。

※本稿は、椎名誠『漂流者は何を食べていたか』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

■北極、南極をめざす冒険家たち

極地探検といえばアムンゼンとスコットの名がすぐに浮かぶ。アムンゼン隊は1911年12月に南極に到達し、スコット隊はそれに遅れること約1カ月後の1912年1月に同じ極点に到達した。スコットはアムンゼン隊の残したテントの中で、アムンゼンが自分に宛てた手紙を発見する。スコットの落胆はすさまじいものだったろう。その帰路にスコット隊は疲弊と食料不足によって全員死亡する。この対照的な展開は広く知られている。現代に置き換えれば米ソによる宇宙探検レースのように世界中の耳目を集めた大冒険だったのだろう。

1914年にはイギリスの探検家アーネスト・シャクルトン率いる探検隊が「エンデュアランス号」に乗り込んで南極点をめざしたが流氷にとじこめられて翌年遭難。漂流したが全員無事に生還している。

北極探検ではアムンゼンよりもスコットよりも早い1893年にナンセンを隊長とする探検隊が「フラム号」に乗って極点をめざしたが船がやはり流氷に阻まれて遭難。犬ゾリによって極点をめざした。

北極にしても南極にしてもその頃の探検は帆船によるもので、目的地に接近していくと夥(おびただ)しい流氷にはばまれ、多くはそれらの帆船が氷盤(巨大で厚い浮氷)や氷山などによって閉じ込められ、しだいに動きがとれなくなって遭難していく、という息苦しい経緯をたどっている。

当時の帆船が流氷にとざされるとすさまじい氷の圧力にとじこめられ、そこから脱出しないかぎり帆船が持ちこたえられる保証はなかった。

1879年、アメリカの北極探検船「ジャネット号」はウランゲル島の南東で氷にとらわれ、氷結した氷とともに2年間漂流し、最後は新シベリア島の北方で沈没してしまった。

■流氷に強い設計の船で犬ゾリも用意

ナンセンの「フラム号」はこうした氷盤にとらわれる不幸を回避するために、四方から迫り来る氷の圧力に耐えられるように船の設計を考慮した。凍結した海によって動けなくなった帆船が氷盤の圧力をうけたとき、氷の圧力をやりすごすように船の底面から側面にかけてなだらかにし船底を強化している。

簡単に言うと丸みをおびた比較的タイラな船底にした。氷盤が迫ってきてもするりと氷盤の上に船ごとおしあげられるようにしたのだった。そして氷結期がすぎたらまたゆっくり〈無傷〉で海に降りていく、というしくみだった(『フラム号漂流記』フリッチョフ・ナンセン著、加納一郎訳、教育社)。

そうであってもひとたび周囲を氷に囲まれれば同じ場所で越冬するわけで、たえず前に進んでいこうとする探検隊にとって停滞の辛さにはかわりなかった。

ナンセンとその探検隊員は本船の船室で暗く(実際極地の冬は太陽がでないので極夜といわれる)長い1年間を過ごすのは辛かった。閉じ込められた探検家魂はバクハツ寸前になっており、ナンセンは船を降りて突撃隊のような組織をつくることにした。

その頃まだあまり実行されていなかった犬とソリを使った少数精鋭の偵察遠征隊を編成したのだ。

エスキモーから伝授されたように滑走面に海獣の皮を張りつけた6艘(そう)のカヤックと犬ゾリを準備した。この小部隊は隊長ナンセンのほか隊員1名。犬28頭。荷物は食料と犬の飼料とで重さ952キロになった。かくて思いつきの突撃隊はフラム号を出て北にむかった。かたちは突撃隊だったが、進んでいくうちにいろんなところに故障が出てきて氷盤の上を進む漂流隊のようになっていった。けれど食事は最初のうちは持ち運んでいる食料のなかから献立をつくる余裕があった。

チョコレート、パン、ペミカン、オートミールか小麦粉とバターと水のお粥、といったものだった。

■アザラシの生肉は歯ごたえがあってうまかった

3カ月ほどすると食料は深刻なくらい乏しくなってきたが、それを救うようにアザラシが現れるようになってきた。氷盤の空気穴から頭を出したところを鉄砲で撃つ。毎回確実に捕獲、というわけにはいかなかったが、銃弾が命中すると氷穴の下の海に沈む前に突進しモリで確保した。

「アザラシの肉、肝臓、脂、を使ったスープの朝食をとると目の前が急に明るくなるような気がした。せっかく銃でアザラシに命中させたのにモリで確保するタイミングが悪く、数日分の豪勢な食事が夢と消えることも多かった。しかしちゃんと確保できたときはアザラシの赤肉、脂肉、さらにそのスープという御馳走をものにし、腹に隙間のあるかぎりいつまでもたべほうけた」と記録にある。

アザラシはもともと犬が海に入って適応したものだ。解体すると前ヒレ、後ろのヒレなどは手足の骨が折りたたまれて体の中に入っていて、手首から先、足首から先がそれぞれ体から出てヒレになっているのがよくわかる。

10年ほど前、筆者はアラスカ、カナダ、ロシアの北極地帯を旅したが、そのあたりに住むエスキモー(国によってイヌイット)はみんな例外なくアザラシを主食にしていた。

筆者も何種類かのアザラシを生で食べたが牛や豚などよりも脂が強いけれど歯ごたえのある肉はすぐに慣れ、いかにも栄養になりそうでなかなかうまかった。心臓、肝臓はやわらかく、血や腸の中身などは啜(すす)って飲む。

いったんそういうものに慣れてしまうと赤身やロースなどの部位による味の違いがわかるようになった。さらについでの話だが、夏のはじめエスキモーの集落の近くでキャンプしていたとき、貰ったアザラシの肉を焼いていたら近くに住んでいたエスキモーの怖いおばあちゃんにすさまじく怒られたことがある。かれらはアザラシに限らず肉といったら生で食うもので、それを焼くとその匂いがたまらなく嫌なのだそうだ。

■シロクマの胸肉は絶品

フラム号の突撃隊の話にもどる。

アザラシの御馳走で力を得たかれらはやがてクマと出会うようになる。シロクマである。親グマと子グマに遭遇。苦戦したが3頭をしとめた。

シロクマ
写真=iStock.com/W1zzard
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/W1zzard

そのときのかれらの日記にはこうある。

「7月17日。とにかくわれわれはここに腰をすえて時の過ぎゆくのを見おくっている。われわれはここを“あこがれキャンプ”とよんでいた。朝も昼も晩もクマの肉を食べ、しかも食べあきなかった。とくに子グマの胸肉が非常にうまいことがわかった」

クマの肉はとにかく大量にあったのでそれを犬に食べさせられるのが嬉しかったのだろう。ここで筆者はできれば確かめたいと思ったのだが、犬に与える肉はともかくとして、探検隊の人たちは食べるときには火で焼いたのかどうか。アザラシ肉もクマ肉もナマで食べていたのだろうか。

海獣からとれる脂は燃料に使えるが、そういう燃料で焼くにしては脂の量が足りないように思う。やはりどちらもナマで食べていたのだろうと推測する。

北海道あたりにいくとクマの肉を食べさせる店がある。言い伝えだが左手の掌がうまい、という。なぜならクマはハチミツが好物だが、それを捕るとき左手を使うからだ、というのである。

個体にもよるのだろうが、クマの左手の肉は思ったよりも固く、かみ切るのに顎が疲れる。他の柔らかい部位にもいきあたらずそれほどうまい肉だとはとても思えなかった。

■シャクルトンも流氷に船を破壊され漂流

アムンゼンとスコットに続いてイギリスの探検家アーネスト・シャクルトンが南極大陸横断に挑戦した。けれどその過程で彼らの探検船「エンデュアランス号」は氷盤と氷山に囲まれ動きがとれなくなった。帆船エンデュアランスの船底は伝統的な尖った龍骨によって造船されていたので、船はまともに厚い氷盤の挟撃にさらされ、がっちり凍結された。

船は氷盤の圧力によって急速に破壊され、乗組員は全員船から氷盤の上に脱出することを命じられた。

「最後の1人が下船してから1時間も経たぬうちに、氷は船の側面を貫いた。まず、やりで刺すような一撃が側面に穴を開け、そこから氷の大きな塊が押し寄せるように入り込んだ」

この攻撃を受けたあとであろう。左舷に大きく傾いたエンデュアランス号の写真が『エンデュアランス号漂流』(アルフレッド・ランシング著、山本光伸訳、新潮社)に出ている。この時代の探検記はかなり詳細にその状態を写真に撮っているので事態はわかりやすく臨場感に満ちている。

シャクルトンは取り囲んだ氷盤を様々な策を講じて切りひらき、脱出しようと試みるが氷の海は非情である。やがて季節がもっと友好的に変わるまでは氷海からの脱出はかなわない、という厳しい現実を知ることになる。そればかりか氷海の圧力はエンデュアランス号をさらに圧縮し、舷側を突き破り、しだいに船と呼べるようなものから、船の古材の巨大なカタマリの物体に変えていった。

シャクルトンは自分らがもうその場にとどまっている意味を無くしてしまった、と結論づけ、幾度かの話し合いとそのための準備を綿密にして、帆船の残骸の地から脱出することを決める。全員の脱出である。

かれらの食料の基本もやはりアザラシだった。体力をつけるためにシャクルトンは夕食には全員のアザラシ肉のシチューのなかに脂肪の塊を入れさせた。食料節約のためにもこの味に慣れなければいけない、シチューの中の脂肪の塊は肝油のような匂いのするネバネバしたものだったという。

アザラシ
写真=iStock.com/benedek
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/benedek

シャクルトンは力のある3名の部下とともに偵察、先発隊としてソリで氷の海に出た。先発隊はシャベルやツルハシなどで氷盤の上の乱氷群を崩し、切り開き、あとの部隊が通りやすくする重要な仕事があった。そういう辛い仕事が連続するから部下に力と信念のある者を選んでいたのだった。

先発隊の次に犬ゾリのチームが1台あたり900ポンド(約408キログラム)の荷物を積んだソリを曳(ひ)いて続き、最後に15名の男たちが行列を作って2隻のボートを乗せたソリを曳いた。

シャクルトンのこの奇妙な行列は“船のない亡者たちの漂流”であるのは間違いなかった。最初の頃の2週間はまったくアザラシを捕まえられなかった。その苦闘のありさまを本文からほぼそのままひく。

「肉の蓄えはまだ十分あったけれど、調理に使う脂肪分は残り僅かだった。停滞中に彼らは一度捨てた骨などについた脂肪分を少しでも回収しようとした。さらにアザラシのヒレ足を切り刻み、頭は皮をはいで取れる限りの脂肪分をこすりとったがそれでも入手できたのはごくわずかだったので、シャクルトンは温かい飲み物を1日1回、朝の粉ミルクだけに制限することに決めた。翌日、全員にチーズが1インチずつ配られ、それでチーズの配給はつきた。

隊員のなかには空腹を紛らわすため、気分が悪くなるまで煙草をふかす者もいた」

■アデリーペンギンを1日で69羽しとめる

脂肪分がいよいよなくなるという2月17日の朝、アデリーペンギンの群れが目撃された。隊員らはそれぞれ殴打できる道具を持って襲い、1日がかりで69羽をしとめた。

アデリーペンギン
写真=iStock.com/slowmotiongli
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/slowmotiongli

ペンギンの心臓、レバー、目玉、舌、爪先、そのほかわけのわからないものを煮込んだシチュー、それにコップ一杯の水が配られた。しかしその数日後、隊員らは何千、何万というペンギンに囲まれていた。人間を恐れないからそこで500羽ほど捕獲した。食料欠乏の危機にあった一行はホッとした。ペンギンのシチュー、ステーキ、レバーなどによって当面の飢餓の不安から解放されたのだ。

シャクルトンら4人の一行は氷盤をさらに進みやがて16カ月ぶりに黒々とした岩を目にした。このあたりの記述でいきなりドレーク海峡という記述が出てきたので筆者は目を見張った。以前読んでいるときには見過ごしていた。

「彼らが現在漂流している位置と、世界一の荒海と名高い「吠える海峡=ドレーク海峡」とのあいだには、わずかに2つ、南極大陸の歩哨(ほしょう)のような島、クラレンス島とエレファント島が、北方120マイル(約193キロ)の地点にあるだけだった。それより先はひたすら海が広がるばかりだった」

恐るべき長い時間、氷の中に閉ざされていたシャクルトンらは、ついに陸地が顔をだしている南極大陸の北端にあとほんの少し、というところに到達していたのだ。

しかし南極と南米大陸を隔てるドレーク海峡はパナマ運河ができる前まで死の海峡と呼ばれていた。太平洋と大西洋をつなぐ唯一の海峡を多くの船が越えようとしてこの吠える海峡の荒れ狂う海によって沈んでいったのだ。シャクルトンらにはまったくカケラほどもこの海峡を越えるすべはなかった。

■チリ海軍から生きたアデリーペンギンをもらう

筆者は1983年に僥倖(ぎょうこう)ともいえる幸運な成り行きをもってこの海峡をいくちょっとした海洋冒険の旅をした。

チリ海軍の砲艦に乗ってマゼラン海峡を南下し、まずケープホーンに行ったのだ。まったくの荒れた無人の岬と思っていたそこにはチリ海軍の一個小隊が駐留しているのを知って驚いた。軍艦に便乗はさせてくれたが航海の目的はいっさいおしえてくれなかった。

岬のてっぺんにはナンキョクブナによってカムフラージュされた高射砲が何基かあった。チリは南極のチリ側をピザの1ピースのように領土として主張しており、ケープホーンをその橋頭堡(きょうとうほ)のひとつにしていたのだ。このとき駐留している若い兵士らは平凡な毎日に飽きていたのだろう。思いがけなく興奮し、初めて見る東洋人(筆者のこと)のために生きているアデリーペンギンを一羽プレゼントしてくれた。嬉しいような困ったようなプレゼントだった。

砲艦はそこからさらにドレーク海峡のただなかにある無骨な無人島、ディエゴ・ラミレス諸島まですさまじい荒波のなかを南下した。あと少しで南極だった。軍艦は大きな波に乗るとスクリューが海面から出て激しくカラ回りする不穏な音を聞かせていた。

その絶海の孤島には3人の兵士が駐留していた。そこも橋頭堡のひとつだったのだ。1年間の兵役期間と言っていた。筆者が乗せてもらった軍艦は、その孤島の新しい交代兵士を乗せていたということをその段階で初めて知った。

その当時はエンデュアランス号の苦難の漂流のことは何もしらなかったのだが、シャクルトンは救いの南米大陸まであと少し、と接近しながら到底その365日嵐の海を越えることができないやりきれないむなしさに煩悶(はんもん)したのだろう。

■犬ゾリの犬を食べて飢えをしのぐ

シャクルトンの探検隊――というよりも氷盤まかせの漂流隊はもう何カ月も漂う氷盤の上のテントで再び何もやることのない慢性的な食料不足の日々にあえいでいた。目ぼしい食料在庫はどんどんなくなっていく。アデリーペンギンから得た脂肪分も残り少ない。小麦粉も残りわずかなので、犬用のペミカンにバノック(無発酵パン)を名残り惜しそうにチビチビまぜて食べていた。

どうやらついにソリを曳いてきた犬の肉を食べることになりそうだった。その前に犬の餌用にとりおいたくず肉の中から食べられそうなものを取り出した。いいつけられた隊員は臭いが強すぎてどうしても食べられないものを除き、残りはどんどん取り出した。でも近いうちにアザラシを仕留められないと、このクズ肉を生で食べることになりそうだ。と日記に書いている。

雪の中の犬ぞり
写真=iStock.com/RelaxFoto.de
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RelaxFoto.de

付近にそびえる氷山が不安定な海流の影響を受けて氷盤全体の崩壊に拍車をかけていた。氷盤が割れてしばらくした日、霧のなかから奇妙な物体があらわれた。隊員が狙いをつけてライフルを発射すると全長11フィート(約3.3メートル)のヒョウアザラシが一発の弾丸で倒れていた。突然1000ポンド(約454キロ)の肉が手に入ったのだ。解体作業を進めていると胃のなかから消化されていない魚が50匹近くも出てきた。

シャクルトンはそのあと犬を射殺するよう命じた。彼らにとってもう犬は必要ない存在になっていたのだ。子犬を含む全ての犬がこの日射殺され、その肉は食用に処理された。

キャンプは2週間ぶりに温かい食事を食べられることになった。ヒョウアザラシの肉よりも犬たちの肉のほうがおいしいし贅沢だ、と隊員たちは評価した。

■アザラシとペンギンのチキンスープを激賞

この日を契機にヒョウアザラシがまた捕獲され、キャンプはすっかり明るい空気に包まれた。

シャクルトンの一行はやがてほどよい開氷部からここまで牽引してきたボートで内海に出た。漂流の旅は忍耐のかいあって再び前進を開始したのだ。

シャクルトンと数人の隊員はいよいよ救助を求めるために海洋を進んだのだ。この漂流記はそのあらゆる展開が波瀾(はらん)に富んでいて凄まじい経緯をたどるのだがシャクルトン以下隊員らの活躍が見事で、北極および南極探検史のなかでももっとも引きつけられる内容に満ちている。

ここでは、漂流者の食べてきたもの、というところにテーマを絞っているので、本来なら欠かせないそういう探検の内容については殆ど触れられないのがもどかしいのだがそのへんはシャクルトンの本文を読んでもらうしかない。

椎名誠『漂流者は何を食べていたか』(新潮選書)
椎名誠『漂流者は何を食べていたか』(新潮選書)

やがてシャクルトンは隊員の誰をも失わずにエレファント島にたどりつく。甲板のない船を疲弊しきった者たちが荒波にむかって漕ぎ続けた結果、彼らは思いがけない勝利のしるしとして陸地に立っていた。

アザラシはいくらでもいたが、そこでも200羽ほどいたペンギンをみつけそのうち77羽をとらえた。すぐにアザラシやペンギンの皮をはいでいく。氷点下の野外で凍傷になっている手でのそういう作業は苦しかった、と記述にある。

それらは温かいスープになった。「こんなにうまい肉汁つきのチキンスープはこれまでお目にかかったことがない」と隊員らは激賞した。

筆者はとらえたばかりのアザラシを素手で処理するロシアのユピック族と半日ほどすごしていたことがある。アザラシは哺乳類だから捕らえてすぐあとはまだ体温があり、凍傷の手にここちいいのだ、とユピックは話していた。

シャクルトンと数名の隊員は休むこともなくサウスジョージア島を目指した。エレファント島に残る22人はそこでひたすらシャクルトンらを待っているしかなかった。そして残された多くの隊員たちはシャクルトンが無事に救援をつれて帰ってくるとは信じていなかった。

エレファント島のそのあたりでは海からカサガイがとれた。それはスープのいい材料になる。料理担当者は隊員らが好きなアザラシの骨つき肉のシチューを作っていた。

そのとき食事の合図から一番遅れた隊員の1人が、沖から船が1艘やってくるのを知らせた。シャクルトンが迎えの船で帰ってきたのだった。

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椎名 誠(しいな・まこと)
作家
映画監督。1944年、東京都生まれ。辺境の旅人としてルポの執筆、ドキュメンタリー番組などに出演。90年『アド・バード』で日本SF大賞受賞。『ぼくは眠れない』(新潮新書)など著書多数。

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(作家 椎名 誠)

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