「だから学歴は問わない」ソニーの創業者が採用面接で必ず投げかけていた"ある質問"
プレジデントオンライン / 2021年9月3日 9時15分
※本稿は、野地秩嘉『あなたの心に火をつける超一流たちの「決断の瞬間」ストーリー』(ワニブックスPLUS新書)の一部を再編集したものです。
■マイケル・ジャクソンの踊りの才能を評価できる力
ソニーの創業者、盛田昭夫の自宅に招かれたことがある。本人はすでに亡くなっていたが、伴侶の良子は健在だった。それより以前のこと、良子にインタビューしたことがあって、「遊びに来ない?」と誘われたのである。
盛田家は目黒区の高級住宅街にあった。個人住宅としては大きな家だったけれど、他を圧するほどではなかった。その辺りには盛田家よりもはるかに敷地の広い家がいくつもあったのである。
自宅に飾ってあったものは故人と世界のセレブとの写真、そしてサインだった。あらゆる部屋に写真立てがあり、盛田とセレブの笑顔があった。とりわけ枚数が多かったのが、指揮者のカラヤンとマイケル・ジャクソンである。
写真を指さしながら、良子は説明をした。
「日本に来たら、マイケルは必ずうちに寄って、食事をしたり、音楽を聴いたり……。主人はマイケルが大好きでした」
「盛田さんはマイケルのどこが好きだったのでしょうか?」
「そりゃ、もちろん才能よ」
聞いてみると、盛田は次のように話していたという。
——マイケルはそれまでのシンガーとは違って、歌う、作詞作曲するだけにとどまらず、自分で振り付けを考えて、誰よりも上手に踊ることができる。そういう才能は彼しか持っていない。
「スリラー」のPV(1983年)が出たとき、盛田は62歳(1921年生まれ)。大正生まれの人間でも、マイケル・ジャクソンの踊りの才能をきちんと評価できたのである。
盛田の特筆すべきところは、「他人への評価」であり、「他人から才能を見いだす」ところにあった。出自、国籍、学歴などにとらわれずに、人間の才能を素直に見ることができた。
盛田昭夫という人物の本質とはそこにあり、「人間を信じる」こと、「人間の才能を愛する」ところから、いくつもの大きな決断が生まれている。
■「ウォークマン®」はなぜ、成功したのか?
ソニーの「ウォークマン®」は創業者の井深大(いぶかまさる)と盛田昭夫の発案で生まれた。部下たちが反対するなか、両経営者はリリースを決意、盛田は大衆へのセールスマンまで買って出た。その結果、ウォークマン®はこれまで世界で5億台近く出荷されている。
「屋外で音楽を聴く、という新しいライフスタイルを創り出したウォークマン®は、80年代のソニー黄金期をけん引した」
ウォークマン®についての記述をネットで調べると、こうした文章がいくつも出てくる。
ソニーが出した製品の中で、もっとも同社らしいといわれたヒット商品だが、作詞家の秋元康はウォークマン®について、こんなことを語っている。
「ウォークマン®がヒットしたのは録音できないから。また、録音できないことをちゃんと主張したから」
井深と盛田がウォークマン®を発想して、作らせたとき、社内のスタッフは「録音できないカセットレコーダーなんて、売れるはずがない」と反対し、録音機能を付けようと提案した。
却下したのは盛田である。
「ウォークマン®はステレオをパーソナルなものにするための製品だ。音がいいこと、軽くすること、かけ心地のいいヘッドホンがあればそれでいい。すべてにわたって優れている必要はない」
あらゆる特性をすべて備えた重量感のあるカセットレコーダーにしてしまったら、ウォークマン®は失敗していただろう。盛田は八方美人の製品よりも、一つの特徴にこだわる製品こそ、ソニーらしいものとわかっていた。
彼は人間に対してだけでなく、製品についても、本質を評価し、それをアピールして売り込んだ。
ウォークマン®発売よりも十数年前、盛田は評論家の大宅壮一(おおやそういち)との対談で、大宅が語った「ひとつのことを掘り下げる」点について、大いに賛同している。
ソニーの社員は八方美人な才能ではなく、ひとつのことに優れていてほしいと語っている。才能を愛する盛田ならではの言葉だ。
「大宅 徳富蘇峰(とくとみそほう)はジャーナリストの条件として、エブリシングについてサムシングを知っていなくてはならない。そして、同時にサムシングすなわち自分の得意とする面についてはエブリシングを知っていなくてはならない、と言ってますが……。
盛田 それです、それです。それなんですよ。(略)
ひとつでも自分の特徴がなければいかん。私は入社試験の面接で、『あなたの特徴はなんですか?』と聞くんです。ところが言下に『私はこういう特徴があります』と言える人は少ないですよ。
自分の特徴も売り込めない人が、セールスに行って、他人の作ったものをうまく売り込めるはずがない、と言うんですがね」
■“とんがった会社”にするための「採用論」
1991年、ソニーは「学歴不問採用」を打ち出した。大学名を履歴書に書かなくとも、就社試験を受けることができるという意味で、学歴がない人が有利というわけではない。今、同社の幹部の中でも、これ以降に採用されている人間は多いはずだ。
一時は「ソニーは死んだ」とまで言われ不振が続いたけれど、2017年には大きく業績をアップさせた。学歴不問採用の効果とも言えるだろうか……。
盛田が残した決断のうちでも、学歴不問採用は大きなものだった。そもそもこの採用に至る前、『学歴無用論』(1966年、文藝春秋)という本を出し、そこに意見を載せている。
「その人が、どの大学で何を勉強してきたかは、あくまでもその人が身につけたひとつの資産であって、その資産をどのように使いこなして、どれだけ社会に貢献するかは、それ以後の本人の努力によるものであり、その度合いと実績とによって、その人の評価が決められるべきである」
「大学で教えている専門の学問が、どの程度まで企業の要求するものに役立つか、はなはだ疑問であるし、実際、学校では秀才だった者が必ずしも社会の俊才になるとは限らないのも、事実である」(いずれも同書から)
これを読むと、盛田は大学を否定しているのではなく、学歴よりも「特徴(才能)を持て」と言っていることがわかる。盛田はマイケル・ジャクソンのようなミュージシャンだけでなく、自社の社員にも特徴(才能)を要求したのである。
大宅壮一との対談でも、こう語っている。
「学校の成績は、全課目おなじようにできることがいいとしているようですね。ところがうちの会社としてはそうじゃない。すべてのものができるよりも、ひとつの特徴を持っているほうがいいんです。
よく『私は意見が違うからソニー辞めます』という社員がいるんですがね。トンでもない、だからこそ、社にいてもらいたい、と私は言うんです。みんながおなじ意見だったら、大勢の社員がいる必要はない。(略)
だから、うちの社は、それぞれ特徴を持ったやつがいいわけです」
経営者の決断の瞬間とは、えてして経営上の問題、財務や新製品の発売についてだと思ってしまう。しかし、盛田昭夫の場合はそれよりももっと根本的なことを最初から決断していた。
「特徴のある人間が集まって、特徴のある製品を出す」
今も昔もソニーとはそういう会社だ。そして、特徴のあるとんがった会社にしたことが、彼のもっとも大きな決断だった。
■「私が下したなかでいちばんよかった決断」
二番目の決断の瞬間は広く知られている。それは本人自身が「人生でもっとも大きな決断だった」と繰り返し語っているからだ。
ソニーの前身、東京通信工業が設立されたのは敗戦の翌年、1946年だ。9年後、同社は日本初のトランジスタラジオを発売。同時に製品すべてに「SONY」というロゴマークを入れた。
57年には「ワイシャツのポケットに入る」ポケッタブルラジオ「TR-63」を開発する。世界に対して「SONY」が知られるようになったのはこのTR-63が大ヒットしたからであり、翌58年に同社は東証一部に上場している。
もっとも、このラジオができた当時、大きさは「ポケッタブル」ではなかった。ポケットよりほんの少し大きなサイズだったのである。一計を案じた盛田は自社のセールスマン用に、普通よりも胸ポケットのサイズが大きな特注シャツを用意して、それを着用させ、ポケッタブルに仕立て上げたのである。
ポケッタブルラジオがアメリカのマーケットを制圧する少し前のこと、ニューヨークにいた盛田は、まだ試作機段階だった「TR-52」のセールスに歩いていた。
だが、1950年代のアメリカは当時の自動車を見ればわかるように、「大きなもの」が好きな消費者であふれていたのである。せっかくの小型ラジオも反応はよくなかった。
ただ、一社だけ「10万個、発注します」と言ってきたところがあった。格式ある時計会社のブローバである。
盛田は一瞬、「やった」と思ったのだが、ブローバの仕入れ担当者は、「ある条件」を付け加えた。
「ラジオにブローバの商標を付けてほしい」
担当者は続けた。
「わが社は50年も続いてきた有名な会社なんですよ。あなたの会社のブランドはアメリカでは誰も知らない。わが社のブランドを利用しない手はない」
盛田はすぐに返事をせず、東京にいた幹部たちと街角の公衆電話で話し合った。幹部たちはブローバの担当者の言うとおりだと同意し、「その注文を受けろ」と言った。
だが盛田だけは断固、反対で、その理由をあれこれ話しているうちに手持ちのコインがなくなってしまう。そこで、彼はブローバの仕入れ担当者に「申し訳ないが売ることはできない」と断りを入れた。
後のインタビューでこう語っている。
「これは非常に重要な決断だったんです。(略)
私は、ソニーのブランド以外では製品は売らないと主張しました。品質が高いという評判をソニーはつくりあげなければならなかったのですよ。(略)私が下した決断で一番よかったのがこれでしたね」
■「泥棒はソニー以外の商品には手も触れなかった」
1961年、都内のある菓子店が堂々と「ソニー・チョコレート」と名付けた商品を販売した。盛田はすぐに不正競争防止法違反だとして提訴した。
解決まで4年の時間を要したが、菓子店は商号の使用をやめ、チョコレートの販売も中止した。盛田は自分が確立したブランドを守るためであれば、ちょっとしたことでも見逃さなかったのである。
彼が守ったソニーブランドだが、実は不振だった時代でも価値は衰えていなかった。
さまざまな調査があるけれど、ソニーに対する信頼は海外では不変のものがある。
そんな彼がブランドを語る際、気に入って紹介していたエピソードがある。
これもまた、ニューヨークでのことだった。人気になっていたポケッタブルラジオ4000個が倉庫から盗まれたことがあった。ソニーにとっては災難だ。
ただ、その倉庫には商売敵のラジオもまた在庫されていたのである。泥棒はソニーの製品だけを盗んでいき、競争相手のラジオはそのまま残されていた。
「泥棒はソニー以外の商品には手も触れなかった」
アメリカのメディアはこのことを大々的に報じた。盛田は自ら下した大きな決断よりも、こちらの方のエピソードを好んでいたふしがある。関係者のなかには、本人がこの話を楽しそうに語ったのを覚えている人がいるからだ。
ソニーに限らず、ブランドとは背景にさまざまな物語がひそんでいる。盛田が非凡だったのは自らの言葉で、自慢話ではなく、ソニーブランドについて、語ることができた点だろう。
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ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。noteで「トヨタ物語―ウーブンシティへの道」を連載中(2020年の11月連載分まで無料)
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)
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