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「21歳で大学1年生になった理由を話せなかった」祖母の介護を担った、ある女子高生の5年間

プレジデントオンライン / 2021年9月1日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sasilsolutions

通学や仕事をしながら家族の介護・世話をする子どもを「ヤングケアラー」という。当時16歳だったBさんは5年間にわたり祖母の介護を中心的に担うことになり、希望の大学に進学できたのは21歳になってからだった。澁谷智子さんの著書『ヤングケアラー 介護を担う子ども・若者の現実』(中公新書)より、Bさんの5年間を紹介する――。

■家族が次々と倒れ、単位制の高校に通い直すことに

Bさんは、16歳の時から20歳までの5年間、祖母の日常的な身の回りの世話を中心的に担った。祖母は足や心臓に疾患を持っており、自分で排泄もできなかった。

Bさんの家では、すべてが同時に起きた。Bさんの高校1年の夏が過ぎた頃、祖父、父、Bさんがほぼ同時期に倒れるという事態が起こった。祖父は脳梗塞で半身不随になり、施設に入った。祖母は心臓にペースメーカーを入れていて、足も悪く、祖父がいなくなった家に一人で暮らすのは難しかった。父は首の神経を圧迫するヘルニアのようなものになってしまい、Bさん自身は夏バテで入院した。

この状況を経て、家族の生活は再編成を迫られた。それまでBさんは私立高校に通っていたのだが、経済的な負担もあり、単位制の高校に通い直すことになった。その際には、1年生のカリキュラムからやり直す形で入学した。一人暮らしをしていた大学生の兄は自宅に戻り、祖母と一緒に、手狭な家で家族5人の暮らしが始まった。それまでBさんが使っていた部屋は祖母が使い、Bさんは自分の空間を持てなくなった。

最初の頃、Bさんは嫌で嫌で仕方がなくて、夜遅くまでファストフードの店にいたり、友達の家を転々としたりした。家族も揉めていた。父方の祖父母なのに、父は首を痛めて機敏に動けず、もともと家庭のことをするタイプでもなかった。夜帰ってこないこともあった。でも、やや広めの家に引っ越してからは、家族の生活は少しマシになった。

■両親からは「昼間は任せた」と言われ…

車の運転ができる母は、祖父の施設に通い、同居している祖母の世話は、ほぼBさんがすることになった。両親は共働きで、日中は家にいない。入院や介護はお金もかかる。両親からは「昼間は任せた」と言われ、祖母も家のことは女がするという感覚を強く持っていて、兄ではなくBさんを頼った。

平日に母が帰ってくる時間は早くて7時、遅いと10時ぐらいだったので、高1の頃から、母の帰りが遅い時にはBさんが夕食を作っていた。学校の帰りにスーパーに寄って、作るのはあっさりした雑炊や鍋だった。野菜を細かく切り、塩分控えて薄めに作れば、祖母も食べられた。祖母が病院に行く時には付き添い、水はどれだけ飲ませて下さいとか、塩分はこれぐらい、という医師の指示を聞いた。

祖母の薬の管理もBさんの役割だった。病院に付き添わない時も、処方箋を見て、朝昼晩に分けて飲ませた。祖母のお風呂の時は、一人で立っていられない祖母の身体を支えた。祖母は手は動くので、身体は自分で洗った。でも、祖母は、意識ははっきりしていて、自分で食事を作りたがった。ある日、祖母はそうやってボヤを起こし、台所をかなり焦がしてしまった。その時は家に母がいたために惨事は免れたが、以来、誰かが家にいなくてはいけなくなった。

Bさんがしなければならないことは増えていった。トイレも、当初は祖母はどうにか自分で行けていたが、だんだんとBさんが連れ立って行かなくてはならなくなり、オムツと半々になり、そして、オムツをはずせないという状態になった。

■介護をがんばっても虐待だと勘違いされる

夜中に困ったのは、祖母が夜に元気なことだった。祖母はデイサービスに馴染めなかったため、昼間はその施設で寝てしまって、夜中に起きている。手がかかって大変だった。「痛い」とか「ごはんが食べたい」とか、ずっと何か言っている。祖母の部屋はBさんのすぐ向かいの部屋で、しかもドアを開け放していなければならなかった。

祖母が電話で親戚とか地元の友人に家族の悪口を言うのもしばしばだった。「ごはんもろくに食べさせてもらえない」などと言っている。聞いていて、「え?」と思った。祖母は認知症ではなかったけれども、まわりの人は状況がわからない。そのため、祖母がBさんの家族に虐待されているのではないかと思われたりすることもあった。

臭いもきつかった。祖母は自分でオムツをはずしてしまっていたりして、シーツも汚して洗わなくてはいけない時もあった。臭いは向かいのBさんの部屋を直撃した。芳香剤を買ってきて置いたりしたけれど、それでも、ドアを閉めると祖母は騒ぎ出すし、何かあると怖いというのもあって、ドアを閉められなかった。

祖母はデイサービスも嫌がった。もともと隣の県の人なので、Bさんの住んでいる県とは言葉も慣習も違う。そのため、祖母は嫌がって、仮病を使って行かないこともあった。そうすると、祖母を一人で置いておくのが怖くて、Bさんが学校を休んで家で祖母を見た。そのため、Bさんの出席はギリギリだった。

救急車を呼ぶこともあった。Bさんが勉強し終わって「さぁ寝ようか」という深夜、祖母の具合が悪くなり、救急車を呼ぶ。たいてい午前1時か2時ぐらいの時間だった。付き添って、一睡もしないで翌日の模試に行ったこともある。父母は仕事があるため、朝になってから病院に来てもらい、そこから模試に行った。でも、さすがに学校の試験の時には、卒業できなくなるので、親が協力してくれた。

■お手伝いというレベルじゃない

Bさんが受験生の頃は、祖母は入退院を頻繁に繰り返していた。入退院の手続きは父母がして、Bさんは、付き添いとか要るものを運んだりした。祖母の病院は高校のすぐ近くだったので、授業中に祖母から電話がかかってくることもあった。死にそうな声で何かがほしいと頼まれると、昼休みにそれを買って届けたりもした。

学校の先生は、相談してもわかってくれなかった。先生に、おばあちゃんがいて、こういう感じで、と言うと、「おうちのお手伝いしてるのね」と言われてしまった。最初は、自分でも介護という意識はなかった。父親に「つらいんだけど」と言った時に「でも家族だから」と言われたりしたことから、自分でもそう思っていた。

でも、3~4年経って、ようやく介護をしているという意識を持つようになった。お手伝いという範囲じゃない。学校の先生は、おばあちゃんの部屋にただごはんを持っていくだけととらえていたと思う。お手伝いというのはしなくてもいいことという印象。でも、自分のしていたことは、しないと命にかかわることだった。薬も通院も救急車も排泄も食事も。しなくてもいいことではない。自分が起きていてそばに祖母がいる時は、常にそういう感じだった。

自宅で座っている高齢女性
写真=iStock.com/Kayoko Hayashi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kayoko Hayashi

■学校の先生には理解されるどころか目の敵に

出席もギリギリだったり、授業中も寝たり受験勉強のものを持ち込んだりしていたから、先生には、むしろ目の敵にされた。子どもが介護しているのがそもそも理解されない。「お手伝い」と言われてしまったり、「施設に入れればいいんじゃないの」と言われてしまったり。でも、施設は数年待ちだったりする。3年経ったら高校生活は終わってしまう。それに、要介護度によって入れる施設も違う。身の回りの状況もあるし、家で見なければいけないこともある。そういう状況だということをきちんと理解してほしかった。

「親に任せろ」という先生もいた。でも、Bさんの家は共働きだったし、実際、家族介護は親だけでやれるものではなかった。家族で担う介護の全体量のうち、母が4割、Bさんが4割、あとは父と兄が1割ずつやっているという状態だった。父や兄に対する不満はあった。でも、父は、思いつめると何をするかわからなかった。兄は、卒業研究と就職とで、日中家にいなかった。

母は一番がんばっていた。隣の県まで車を飛ばして祖父の施設に通い、祖母のことも、経済的な面とか具体的な入院の手続きとか、一番重要なところはやってくれていた。ケアマネージャーが来た時にも、手続き的なことは母か父がやっていた。Bさんはケアマネージャーに祖母の日中の様子を伝えたりはしたけれど、担うのは主に作業面だった。母とは連帯感のようなものがあった。

■十分に寝られないし遊びにも行けない

友達には、おばあちゃんがどうのこうのとは言わなかった。「あの家は何かあるらしい」と思われていたと思う。でも、協力はしてくれた。だけど、相談はできなかった。祖母が同居し始めた頃、家族で揉めた時は、友達の家を転々とした。夜中にお店で時間をつぶしていたから、そういうのを見て、友達が「泊まりに来ない?」と言ってくれた。

でも、高校時代はほとんど遊べなかった。2つ目の高校の1年目は2カ月に1回ぐらいは遊びに行けていたけれど、だんだん遊べなくなっていった。遊びの約束をしても、最終的には行けなくなった。土日は、親も仕事がなければ家にいたので、平日に比べると、そんなに拘束はなかった。時間があったら寝たかった。もともと睡眠時間は少なかったけれど、受験生の時には1日3~4時間の睡眠になってしまっていて、授業中に寝たり土日に寝だめをしたりした。

気分転換はできなかった。テレビを見る時は祖母と一緒で、自分の好き勝手に見られなかった。祖母の話し相手になって悪口を聞いたりした。祖母はわがままだった。人の悪口を言う。Bさんの悪口や母の悪口を本人に向かっても言った。Bさんはひたすら我慢を続けて、その結果、ひどい月経痛に悩まされるようになった。だんだん疲れてきて、睡眠もとれないし、遊びにも行けないし、年相応におしゃれもできない。そういう気持ちにもならないし、時間もなかった。

■祖母が亡くなると虚脱状態になった

祖母は、Bさんの受験の冬に亡くなった。Bさんも試験前で、亡くなる2週間前は、ごはんも出来合いのものを買ってくるという感じだった。最後の2年間ぐらいは、自分が祖母の首を絞める夢で目が覚めることが何度もあった。母もギリギリで、いつ手をあげるか、という感じだった。いつか母か自分が手を出すんじゃないかと思って怖かった。介護殺人という話を聞くと、他人事ではないと思う。学校の先生や友達には言えない。

第一志望の大学には入れなかった。「あぁ、ちゃんと時間があったら」と思った。塾には行けなかった。勉強時間があって、息抜きの時間もあって、学校の他に塾まで行っていたまわりの子たちが羨ましかった。受験と祖母のケアが一気になくなって、1年は虚脱状態だった。解放感がなかったわけではない。月経痛も祖母が亡くなってからはなくなった。でも、ずっと介護があって、頼られて必要とされて、それが生きがいにもなっていた。つらい、面倒くさいという思いと、その一方で、生活のメインがそれだから、いざ亡くなってみると、「何しよう?」という状況になってしまった。

■自己紹介で年齢を言うと、「何してたの?」と聞かれるが…

「ヤングケアラー」という言葉を知ったのはその頃だった。実際に自分みたいな境遇の人もいるんだなと思った。「わかる人、いないかな」とは思っていた。でも、いなくて、相談しようとも思わなかった。どう言っていいかわからない。おばあちゃんの着替えとか排泄とか、恥ずかしくて言えなかった。若い人で介護している方がいたら、話したかった。

Bさんはその後再受験して、今は、大学での生活を楽しんでいる。「今の大学では、まわりが先生の卵。一般教養の授業のなかで、介護や障がい児の映像を見たりするけれど、映像を見るだけ。こういう人たちが先生になるんだな、と思う。だから、『おうちのお手伝い』とか『おばあちゃん思いの孫』という見方しかできないのは仕方がないような気もする」。

大学では、21歳で1年生というと、「何してたの?」と言われる。そういう時は「身体をこわして」と言う。介護のことは言わない。言ってわかってもらえるものでもないし、言いたくないというのもある。言いたくないというのは、言うのが恥ずかしいのと、いちいち説明するのも面倒くさいのと。学校で言うとなると、何十人にも説明しなくてはいけない。自己紹介して年齢を言うと、「何してたの?」って。「身体をこわした」と言えば、深くは突っ込まれない。

■親と共に介護するヤングケアラーは何を担うのか

Bさんのようなヤングケアラーは、介護関連の書類などで「主介護者」とは書かれない。Bさんの家では母親もかなりの程度ケアを担っていたからである。それでも、家族の生活を経済的に作業的に回していくためには母親だけでは支えきれず、Bさんも相当に重いケアの責任を負っていた。

澁谷智子『ヤングケアラー 介護を担う子ども・若者の現実』(中公新書)
澁谷智子『ヤングケアラー 介護を担う子ども・若者の現実』(中公新書)

Bさんの両親は共働きを続けながらの介護であり、車の運転が必要になってくる祖父のケア、帰宅後から就寝までと土日の祖母のケア、祖母のケアに関わるケアマネージャーや病院との手続き的なことは両親が担った。Bさんは、働く両親をサポートする形で、放課後から両親が帰宅するまでと、両親が寝た後のケアを担当し、祖母の昼夜逆転の生活やデイサービスの利用拒否、病院や救急車の付き添いにも対応した。

Bさんの家のように、家族で分担してケアをする際には、高校生~20代の若者が、夜間や体力を要するケアを担当するという話はしばしば耳にする。親世代は、経済面や対外的なマネジメント、移動を要するケアなど、大人しかできないことを優先的に担い、まずは倒れないように、そして仕事を続けられるように、体力の温存をはかるのである。

しかし、たとえ若者であっても、夜間のケアが数カ月~数年にわたって続くと極度の睡眠不足になり、その心身の健康状態に影響が出てきてしまう。若者は、すでにがんばっている親を支えるためにもギリギリまで無理をする傾向があるが、本人や周囲による「若さ」の過信には注意が必要である。

■自分の行為が「介護」だと認識していなかった

もちろん、ヤングケアラーのなかには、主介護者としてケアを担っている人もいる。さらには、その家庭で「唯一のケアラー(sole carer)」となっている人もいる。たとえば、母一人、子ども一人といった家族構成で、その母が重い病気や障がいを持った場合などには、子どもは「唯一のケアラー」として、母と自身を支えざるを得ない。

しかも、ヤングケアラーは、自分を「介護者」や「ケアラー」だとはほとんど認識できていない。自分のしていることは、単に「生活」ととらえがちなのである。Bさんの場合も、「つらいんだけど」と父に言ったが、「でも家族だから」と言われ、自分の行為を「介護」と意識するようになるまでには数年かかった。

Bさんの話からは、ケアを終えた後にヤングケアラーが抱える喪失感の大きさも見てとれる。ケアをしてきた相手がいなくなったことの喪失感だけでなく、自分が何年も時間とエネルギーを費やしてきたケア役割が突然なくなってしまったことの空虚感からは、そう簡単に抜け出せるものではない。考える余裕ができれば、そこに同世代と自分を比較してしまう思いも押し寄せてきて、さまざまな感情を処理するのが、かなり苦しい作業になっている。

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澁谷 智子(しぶや・ともこ)
成蹊大学文学部 教授
1974年生まれ。東京大学教養学部卒業後、ロンドン大学ゴールドスミス校大学院社会学部Communication,Culture and Society学科修士課程、東京大学大学院総合文化研究科修士課程・博士課程で学ぶ。学術博士。日本学術振興会特別研究員、埼玉県立大学・立教大学非常勤講師などを経て、現職。専門は社会学・比較文化研究。著書に『女って大変。 働くことと生きることのワークライフバランス考』(医学書院)、『ヤングケアラー わたしの語り 子どもや若者が経験した家族のケア・介護』(生活書院)など。

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(成蹊大学文学部 教授 澁谷 智子)

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