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「両腕のない競泳選手」14歳・山田美幸を最年少メダリストに導いた"亡き父親の言葉"

プレジデントオンライン / 2021年9月5日 11時15分

競泳女子50メートル背泳ぎ(運動機能障害S2)で銀メダルを獲得した山田美幸=2021年9月2日、東京アクアティクスセンター - 写真=時事通信フォト

東京パラリンピックで「最年少メダリスト」が誕生した。水泳女子の山田美幸選手は100m、50m背泳ぎでそれぞれ銀メダルを獲得した。スポーツライターの本條強さんは「生まれつき両腕がなく両足の長さも異なる。水を蹴り、両肩を揺らして進む唯一無二の泳法は、亡き父親の存在なくして語れない」という――。

■最年少メダリストの“唯一無二”の背泳ぎ

山田美幸が電動車椅子に乗って東京アクアティクスのプールに登場するや、場内から大きな拍手が巻き起こる。生まれつき両腕を失っている山田は、左右長さの違う足を上げて声援に応える。

今年3月の日本選手権で50mと100mに日本新記録を樹立して優勝。この東京パラリンピックでもメダル候補の最右翼であるから、拍手や声援が送られるのは当然と言えば当然。山田はそんな期待への重圧などまるでないような天真爛漫な笑顔をみせて一礼する。

自分でよちよちと歩いて水に入る。140cm、33kgの小さな体の14歳、その笑顔と可憐な姿は天使にしか見えない。さあ、これから、水の中で思い切り羽ばたくのだ!

100m女子背泳ぎ決勝。カテゴリーは運動機能障害が2番目に重いS2。山田は第3コースだ。水の中でスタートを待つ。ブザーが鳴るやプールの壁を思い切りキック。すぐにトップに躍り出る。予選はスタートで出遅れたが、本番は足がスムーズに動き、水を蹴っていく。

本人曰く「100点満点」。しかし35m過ぎで両腕が使えるシンガポールのイップ・ピンシウに抜かれる。とはいえ、50mのターンも「100点満点」で2位の座をキープ。隣の第4コースのピンシウに粘り強くついていく。

泳ぎだして2分が経過する。イップがゴールに辿り着く。山田は2位のまま懸命に脚を動かす。左右の長さが違うので、長い左足は横に蹴り、短い右足は縦に蹴る。山田が編み出した自分だけの泳法だ。両腕がなくても両肩を揺らして推進力につなげる。

頑張れ、もう少しでゴールだ。頑張れ、頑張れ、頑張れ!

50メートルのスポーツプール。水中背景のスイミングプール。
※写真はイメージです。(写真=iStock.com/Evgenii Mitroshin)

健常者のように速くは泳げない。しかし、山田の魂がゴールへ体を確実に押し進める。
天使が背中の見えない羽根を動かしているのだ。

魂の泳ぎ。見ているだけで涙が止まらない。泣いてはいけない。山田が頑張っているのに。そう思っても涙が溢れ出る。
  こんな心迫る泳ぎを見たのは生まれて初めてだ。オリンピックの背泳ぎでメダルを獲った鈴木大地や入江陵介だってできない、山田だけの魂の泳ぎである。

■小児ぜんそくを治すために水泳を始める

山田は5歳のときに水泳を始めた。小児喘息を治すためだったが、地上とは違い、水の中なら不自由なく体を動かせる。すぐに好きになった。山田を教えることになったコーチの野田文江は「教える私が怖がってはいけない。必ず水に浮くと信じて取り組みました」と言う。

すぐに水に馴染み、「私の腕の中で体を回転させても大丈夫だし、他の子供たちと潜ることも平気でした」。小学2年の時に100mを泳げるようになり、小学4年の時にリオのパラリンピックを見て出場を夢見るようになった。自由形で頭角を現し、背泳ぎに転向してタイムを大幅に更新していく。今年3月には50mで19年の世界選手権銀メダリストと同等のタイムとなり、日本代表の座を確実に射止める。

「水泳は神様が美幸に与えた贈り物です」

野田はそう言うが、此処までの道のりはたやすくなかった。タイムが伸びてきて新潟水泳協会の人たちがパラリンピックの強化選手に指定するも、家族の大きな協力が必要になる。特に山田の障害を考えればプールへの送迎は必須だ。父の一偉は熟考の末に「皆さんとともに、この船に乗ってみようと思います」と山田の背中を世界へと後押しした。19年1月、「美幸丸」の出航が決まったときだった。

■美幸という名前に込められた両親の願い

山田美幸の美幸という名は「美しい幸せを手に入れて欲しい。美しい人になって欲しい」という両親の願いが込められている。障害を持って生まれた山田は水を得てまさに美しく幸せになった。「水の中なら障害があることを思わない」と美しい笑顔を見せる。「泳ぐことはとても楽しい」と幸せを満喫する。「美幸丸」は帆を広げ、順風を受けて、全速力で走り出した。

山田の座右の銘は「無欲は怠惰の基である」。日本資本主義の父、渋沢栄一の言葉だ。1時間泳ぐだけでも疲労困憊となるのに、もっともっとと泳ぎ続ける。こうして東京パラリンピック代表が見えてきたとき、哀しい出来事が山田を襲う。肺がんを患っていた父が手術3日前に自宅で倒れ、命を失ってしまうのだ。すでに父はコーチの野田に「私がいなくなっても美幸は大丈夫。あの子ならやれます」と言い残していた。

自分を支え続けてくれた父がいなくなった。山田の悄然は言葉に表せないくらいのものだったろう。私は何のために泳ぐのか。それは父が喜んでくれるからだ。その父がいなくなった。ならばどうして泳ぐ必要がある? 泳ぐ意欲が失せ、プールに行くこともなくなった。

しかし山田を技術指導する岡野高志は必ずや戻ってくると信じていた。もちろんその気持ちは野田も一緒だったろう。

水泳選手
※写真はイメージです。(写真=iStock.com/Juanmonino)

果たして、山田はプールに戻ってきた。
「水泳が好きなんです」
  しかし、戻って来れたのはそれだけではない。水泳を続けること、そして東京パラリンピックでメダルを獲ること。それが父の願いであることを、山田は休んでいる間に心底思い知ったのである。

水の中こそ山田は美しさを輝かせ、幸せをつかみ取ることができる。そんな父の思いを山田自身が知った瞬間だったのだ。

■猛練習の末に自分だけの泳ぎを身につけた

プールに戻った山田は休んだ分まで取り戻そうと猛練習を重ねた。自由形でタイムも上がっていたが、障害の重度判定でS2になると、メダルを現実のものとするために、競泳種目を背泳ぎに変えた。山田自身は背泳を苦手としていたが、コーチたちを信じた。

両腕のない山田の泳ぎの頼りは長さの違う両足でのキック。そのキックの推進力を上げるために、左足は膝下の外側で水を蹴る横の蹴り、右足は足の裏側で水を蹴る縦の蹴りだ。
  左右違った動きをマスターしてスピードアップを図った。さらに左右のキックの違いで斜めに泳いでしまいやすいところを、頭を傾けて真っ直ぐに進めるように工夫した。しかも両肩を激しく回して水流を作って推進力に変えていった。やってみればわかるが、左右の足の動きを変えて泳ぐだけでも至難の業。山田は猛練習によって自分の技としたのだ。

そこには障害者だからと言って決して諦めない山田の姿勢が見える。野田や岡野たちコーチ陣の指導や支えも凄いものがあったろう。小さな子供にかける大人たちの無私の情熱。まったく頭が下がる。

障害があるから諦めるのではなく、障害があるからこそできることを工夫してベストを尽くす。そうしたときに、その人の障害は障害ではなく、特別な個性となって光り出すのだ。

■パラリンピックへの憧れ、膨らむ夢

こうして山田は21年3月、50m背泳ぎにおいて僅か1年4カ月で10秒あまりもタイムを縮める。一気に東京パラリンピックのメダル候補に浮上したのだ。

2021年3月撮影日本国立競技場駅
※写真はイメージです。(写真=iStock.com/ebico)

山田は言う。
「リオパラリンピックで泳いだ選手の楽しそうな顔。仲間たちと嬉しさを分けあい、外国の人たちとも交流ができる。水泳で世界にお友達ができる。私も参加したいなと思いました」
  山田の夢は膨らみ、英語の勉強に熱が入る。現在、阿賀野市立京ヶ瀬中学校の3年生。得意科目は英語。英語でスピーチがしたいという夢もある。

阿賀野と言えばドキュメンタリー映画のカリスマ、佐藤真が監督した「阿賀野に生きる」を思い出す。美しい阿賀野川に水銀が流されたことから起きた第二水俣病と言われた公害。この映画には阿賀野川沿いに暮らす素朴な人たちが描き出されている。

こうした試練を乗り越えて力強く生きてきた阿賀野の人たちの逞しい血を、山田が受け継いでいるに違いないと私は思ってしまう。
  山田は2021年8月25日、遂にパラリンピックに出場した。

■東京パラリンピックで念願の銀メダルを獲得

車椅子から自分で降り、自分の足でプールサイドまで歩いて腰をかけ、落ちるようにしてプールに入る山田。壁に足を付けての「用意」、スタートのブザーが鳴る瞬間、しっかりとキックして飛び出していく。誰よりも速く泳ぐ。

「プールに入ると自分だけの世界になる気がする。それが気持ちいいんです」
山田は自分の世界に入り、脚を使い、全身を使い、どんどん泳ぐ。

「緊張よりもワクワクのほうが大きい」
そう言ってのけた山田はまさに言葉通り楽しんで泳いだ。
40m過ぎに隣の第4コースのイップに抜かれるが、マイペースは崩さない。

「できれば金メダルが欲しい」
 そうは言ったが、それはあくまでベストを尽くした結果であることを知っている。

頭がプールの壁につくや巧みに体を入れ替えてターンを行う。
「ターンも100%のできでした」

50mのタイムは1分6秒47。解説者も唸る自己ベストでの好タイム。
2位の順位を保ったまま泳ぐ。懸命にキックを行い、水しぶきが上がる。スピードはまったく衰えない。イップとの差は縮まりはしないが離されていくこともない。

「頑張れ、頑張れ、頑張れ!」
スタンドから日本チームの大声援が巻き上がる。日の丸が振られる。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ!」
懸命の泳ぎがどこまで持つのか。心配で心配で堪らない。止まったら溺れてしまうような儚い泳ぎ。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ!」
夢をつかみ取るんだ。メダルを首にかけるのだ!
イップが先にゴール。山田は遅れるものの、3位とは大きな差をつけている。
そのまま泳ぎ切れ。

「もう少し、あと少しだ!」
とうとう山田がゴールした。頭を壁にゴツンとぶつけるゴール。痛いことも忘れる嬉しい2着だった。

■「お父さん、私もカッパになったよ」

東京パラリンピック2020で最初のメダルは山田が獲得した。それも日本のパラリンピック史上最年少のメダルだ。

プールから上がると、プールに向かってお辞儀をした山田。
「私を泳がせてくれたプールに感謝しました」
ありがとうプール。ありがとう、水。山田を自由に羽ばたかせたプール。自分の存在  意義を高らかに誇ることができたプールにお礼を言ったのである。

「メッチャ、楽しかった。泳ぐことは楽しい。パラリンピックでも楽しく泳ぐことができた。それが嬉しい」

天国にいる父親に銀メダルを取れたことを報告した。
「俺はカッパだった」と言った父に、山田は言った。
「お父さん、私もカッパになったよ」

■50m背泳ぎでも銀メダル。コーチの首にかけて上げたい

山田の東京パラリンピックは100m背泳ぎで終わったわけではない。8日後に50m背泳ぎが行われる。50mのほうが得意な山田。イップに競り勝って金メダルを獲得したい。50mまでの1週間、山田はスタートの強化を図った。両腕を使えるイップは後半に伸びてくる。であれば、スタートダッシュして、前半にできるだけリードを作っておきたい。

9月2日午後7時。山田は再び電動車椅子に乗って東京アクアティクスのプールに登場した。コースに到着し、プールに向かってお辞儀をする山田。

「これで私のパラリンピックも最後。プールに泳がせていただきますと言いました」
  仰向けになって足をスタート板に付ける。できるだけ膝を曲げてキック。100m同様、好スタートが切れた。トップを泳ぐ山田。

予選では右足が上手く動かず、自分にとっては予想外に悪いタイムだった。これをわずか8時間の間に修正。強く蹴ろうとせず、リズムにのって動かすようにする。決勝ではスムーズに右足が動くようになった。

イッチ、ニッ、イッチ、ニッ、イッチ、ニッ……。
「リズム良く、テンポ良く、気持ちよく。そう思って泳ぎました」
もう周囲は気にならない。自分の呼吸、自分が泳ぐ水の音、それだけしか聞こえない。横のイップのことは見えないし気にしない。

■「楽しんで泳ごう」

山田は日本パラリンピックの女王、51歳になる成田真由美から手紙をもらっていた。成田はこれまでパラリンピックに6度出場し、金メダルを15個も獲得した大選手。その成田からもらった手紙には「楽しんでね」と書いてあった。

この日の朝もその手紙を読んだ山田。
「力が湧きました」

前半から飛ばしていく山田。山田は思い切り水を蹴っていく。上体も上手く動いて水流を生み出す。山田だけができる山田だけの泳法。
「これまで50mは前半にセーブしたらタイムが出なかった。だから、スタートから全力で泳ぐ」

イップが追い上げてくるが、山田のトップは変わらない。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ!」
スタンドも大興奮、日の丸が振られ、大声援が飛ぶ。
「行け、行け、行け!」

スタンドからの声援は一層大きくなる。しかし、終盤、山田はイップに抜かれた。イップは手でタッチ板に触る。山田は頭でゴツン! 最後はスピードが鈍ってしまった。でも本人はまったくそう思ってはいなかった。最後まで全力を出して泳ぎ切ったからである。

「気持ちよく泳げました。アドレナリンがドバドバ出ちゃって」
そう言って、周囲を笑わせる。
「金メダルが獲れなかったのは悔しい」
屈託ない明るい笑顔は青空のように晴れやかだ。

■山田選手の泳ぎから教わった大切なこと

一方、コーチの野田はゴールしたときから涙が止まらない。「此処までよくぞ成長してくれた」と感激が止まらない。山田は野田の涙を見る。

「今度の銀メダルも重たいです。2つもメダルがもらえて、本当に嬉しい。小さいときから見てくれていた野田コーチにメダルをかけて上げたい」

天使の顔はプールの水の煌めきよりも輝いていた。
人は自分を不幸と思ったら不幸になる。幸せと思えれば幸せになれる。
山田の泳ぎからそのことを教えてもらった。

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本條 強(ほんじょう・つよし)
『書斎のゴルフ』元編集長、スポーツライター
1956年東京生まれ。スポーツライター。武蔵丘短期大学客員教授。1998年に創刊した『書斎のゴルフ』で編集長を務める(2020年に休刊)。倉本昌弘、岡本綾子などの名選手や、有名コーチたちとの親交が深い。著書に『中部銀次郎 ゴルフの要諦』(日経ビジネス人文庫)、『トップアマだけが知っているゴルフ上達の本当のところ』(日経プレミアシリーズ)、訳書に『ゴルフレッスンの神様 ハーヴィー・ペニックのレッド・ブック』(日経ビジネス人文庫)など多数。

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(『書斎のゴルフ』元編集長、スポーツライター 本條 強)

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