1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「元ダンプカー運転手バツ2の娘の懺悔」"30年絶縁"状態だった母が最期に教えてくれた天職

プレジデントオンライン / 2021年9月11日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/pcess609

現在53歳の女性は10歳の時から母親とは“絶縁”状態になった。高卒後に家を出て、結婚・離婚・出産を2度繰り返し、40歳になった頃、母親が2度目のがんにかかり、その影響で認知症に。体や脳の機能が衰え、余命宣告を受けた母親を見て、元ダンプカー運転手の女性はある天職に巡り合うことができた――(前編/全2回)。
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹の有無に関わらず、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

■反発心の強い三女

関東在住の和栗葵さん(仮名・53歳・独身※婚歴あり)は1968年、夫婦で小さな印刷会社を営む、当時34歳の父親と33歳の母親の間に三女として生まれた。

小さい頃ぽっちゃりしていた和栗さんは、賢くしっかりした5歳違いの長女と、スリムでハキハキした4歳違いの次女と比べられ、反発心の強い子どもに育つ。

三姉妹で共通の記憶は、「母に褒められたことがない」。母親自身、お茶やお花を教える厳格な母親に育てられ、自分にも他人にも厳しい性格だった。

和栗さんが10歳の頃、母親と和栗さんは、街で友だちの母親に会った。和栗さんの母親は立ち話をしているうちに、うっかり和栗さんの体重を口にしてしまった。

もともと体型に劣等感があり思春期に入っていたこともあって、その日以降、和栗さんはより一層母親に反発。憎み、嫌悪し、一切「お母さん」と呼ぶことさえなくなった。

母子関係の悪化もあり、中学、高校と心理的に荒れた青春時代を過ごすことになった和栗さん。唯一の楽しみの時間はアルバイトだった。高校2年の頃にバイト先で知り合った5歳年上の先輩と仲良くなったのだ。その男性が翌年大学を卒業して大手企業に就職。和栗さんが高校を卒業してから付き合い始め、19歳のうちに結婚を決める。「母親から離れたい。家を出たい」という一心だった。

ただ、約1年後、夫の転勤先の中部地方で息子を出産するも、21歳で離婚。離婚理由を和栗さんは、「夫は自己中心的な性格で、家庭を顧みない人だったから」と話すが、若い和栗さんの側にも至らないところもあったのかもしれない。

離婚時2歳になっていた息子の親権を巡る裁判で負け、夫側に引き渡すことに。以降、和栗さんは夫側とは全く付き合いはなく、息子にも会っていない。

離婚後、和栗さんは、引っ越し代やアパートを借りる費用を両親に無心。両親は実家へ戻るよう言ったが、和栗さんはそれを頑なに拒否した。

そして22歳の頃、2歳年上の公務員の男性と知り合い、約1年後に結婚。その年に再び、男の子を出産した。

ところが、夫は古い考えの残る“本家の長男”。和栗さんは、「本家の長男の嫁」「もっと子どもを産め」という義両親からのプレッシャーに耐えられない。だが、夫もそれをよしとする人だったため、夫とのケンカが頻発した。

「私は、『この家に嫁に来たのではなく、あなたの妻になったのに!』と反論していましたが、夫は両親の言いなり。しかも夫は女性関係とお金にルーズな人。正直、内縁関係のほうが楽だなと思いました」

結局和栗さんは、26歳の頃から別居し、28歳で離婚。2回目は円満離婚となり、息子は和栗さんが引き取り、元夫と元義両親とも交流は続いている。

■不仲な母親ががんに

和栗さんは19歳に実家を出てからの約10年間に2度の結婚と離婚と出産をしたことになる。その間、両親とは疎遠な状態がつづいている。

中でも、「体重事件」以来、犬猿の関係を引きずっていたのが母親だ。その母親は1985年、和栗さんが高校2年の頃に胃がんを患っていた。

幸いにも初期に見つかったため大事には至らなかったが、ある日突然、母方の祖母から突然電話がかかってきて、「娘を病気にしたのはあんただ!」とののしられ、和栗さんは、「うるせえ、くそばばあ!」と怒鳴り返して電話を切った。

当時の和栗さんは、母親に対して全く興味がなかったため、母親の手術には立ち会ったものの、「病院臭い。早く帰りたい」としか思わなかった。

それから20年以上経った2007年、母親は膵がんが発覚。後で聞いた医師の話によると、先の胃がんとは全く別のがんだという。

中学・高校時代に荒れて家族に迷惑をかけ、19歳で半ば家出のように実家を飛び出した和栗さん(当時35歳)には、家族から何の連絡もなかった。

そして2008年8月、運送会社仕事の昼の休憩時間、同僚と喫茶店に入ってすぐに、父親から電話がかかってきた。「口座にお金を振り込むから、それを使って週末実家に帰ってきてくれないか」という内容だった。

月明かりに照らされる家
写真=iStock.com/urbancow
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/urbancow

両親は、70歳の時に印刷会社をたたんでいた。当時、34歳で離婚して実家近くに引っ越してきていた長女は、会社の整理を手伝った。次女は結婚して家を出て、保育士になっていた。

父親と姉たちは、母親の看病と自分たちの仕事や家庭などの両立生活に疲れ切ってしまっており、父親を通じて和栗さんの助けを求めたのだった。

和栗さんは週末に中部地方から駆けつけ、母親は腹腔鏡の専門病院で手術を受けた。

ところが、手術自体は成功したものの、72歳になっていた母親は、刺激の少ない入院生活で認知の低下が進み、徘徊(はいかい)するようになってしまう。時には、病院の敷地外に出てしまい、看護師によって警察に捜索願が出されたこともあった。

そして2009年3月、肝臓へのがんの転移が見つかり、母親は終末期における医療的、介護的ケアをするターミナルケア病院への転院が決まった。

■母が最期に教えてくれた“天職”

転院の日、長女も次女も仕事で来られず、転院のためのサポート要員として父親に呼ばれた和栗さんは、しぶしぶ中部地方から馳せ参じる。

父親があらかじめ呼んでおいた介護タクシーに、酸素マスクをつけた状態の母親をドライバーと3人で乗せると、車は病院を出発。介護タクシーのドライバーは、母親にとってこれが最後の外出だと知っていたためか、道路沿いに色とりどりの花が咲き乱れる道を選んで走ってくれた。

すると、認知症の症状が進み、和栗さんをお手伝いさんと勘違いしていた母親は、「きれいね」と言い、とても穏やかな表情を和栗さんに向ける。そのとき和栗さんは、「介護タクシーのドライバー」という職業に強い興味を持った。

「『酸素マスクをつけたままの、母のような重病の患者でも車に乗せられるんだ!』と感動しました。もともと車が好きで、子供が小さい頃はダンプカーに乗っていたこともあった私。高齢者を相手する仕事に抵抗感はないことを考えると、『もしかして、この仕事は天職ではないか?』と思いました」

ダンプカー
写真=iStock.com/sh22
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sh22

和栗さんはすぐさまドライバーに、「どうしたら介護タクシーの運転手になれますか?」と質問。翌日、旅客運送のために必要な普通二種免許を取得するため教習所と、介護職員初任者研修(旧ホームヘルパー2級)の講習会の申し込みをした。

「介護タクシーの運転手になったら、母を車に乗せ、生きているうちにいろんなところに連れて行ってあげたいと思っていました」

母に対する憎しみや嫌悪感が消えたわけではない。だが、人生の最終盤を迎えた親に自分は何もしなくてもいいのかという良心の呵責(かしゃく)を感じていたのだ。

しかし、その後も母親のがんは進行。認知症の症状も進み、会話もままならなくなる。

そして2009年5月、和栗さんの介護タクシーに乗ることなく、母親は死んでしまった。73歳だった。

「後で知りましたが、父が私に連絡してきたとき、すでに母は余命宣告を受けていたようです。ターミナルケア病院へ転院する際に再び余命2カ月と宣告され、そのとき初めて、『本当に死ぬんだ』と悲しくなりました。それまで私は、母を失うことをまるでひとごとのように思っていたのです。今一番、後悔していることは、母のことも病気のことも、何も知らないままで通してしまったことです」

和栗さんは、母親の死ぬ間際、どさくさに紛れるような形で「お母さん!」と言ったが、しっかり意識があるうちに「お母さん」と呼んであげられなかったことが心残りで、骨壷に「お母さんへ」と題してメッセージを書いた。

母親の死後、教習所での普通二種免許も、介護職員初任者の資格も取得できた。すぐに介護タクシーの会社に就職するが、「研修で学んだだけの、知識や経験不足のままでは、患者さんに触れることさえ怖くてたじろいでしまう。何とかしなければ」と考えた和栗さんは、実務経験を積むために、訪問介護バイトと障害福祉バイトをスタート。

和栗さんが介護タクシーのドライバーとして自信が持てるようになったのは、母親の死から約3カ月後のことだった。

■親子孫三世代同居

とても社交的な人だった母親の葬儀は、一個人としては盛大に執り行われた。両親と姉たち家族とは、年に1〜2回旅行をしていたが、和栗さんは母親への反発心から自分は参加せず、息子だけを参加させてきたため、子どもたち同士は仲が良い。

通夜のあとは母親の眠る祭壇の横にありったけの布団を敷き、父親、長女、長女の子ども2人、次女、次女の夫、次女の子ども2人、和栗さんと息子の10人で、明け方近くまで母親の思い出を語り合い、告別式を迎えた。

母親の葬儀から一段落ついた頃、和栗さんの高校3年生の息子が、「関東の大学に行きたい!」と言う。普段はあまり自己主張のない子が頭を下げてきただけに、和栗さんはなんとか行かせてやりたいと思った。

一方、一人暮らしになった74歳の父親は、四十九日法要で再会すると元気がなく、「一人でご飯を食べるのが寂しい」とこぼす。

双方の話を聞いた和栗さんは、「息子と一緒に関東へ引っ越して、父親と同居しよう! そうすれば同時に2人の希望がかなえられる!」と思い立つ。

早速和栗さんは、家族会議を開く。当時47歳の長女は、13年前に離婚して以降、息子2人と共に、実家から2キロほどの距離にあるマンションに引っ越してきていた。数年ぶりの関東暮らしに多少の不安を感じた和栗さんは、「長女と同じマンションに引っ越して、父親との同居を考えている」と話すと、姉たちも父親も賛成してくれた。

金銭面では、息子の父親であり、和栗さんの元夫が、「息子が希望する大学の入学金を援助する」と申し出てくれた。

2009年10月、和栗さんの息子は、第一志望の大学にみごと合格。ところが、元夫に合格の報告をしたところ、「やっぱりお金がないから大学は諦めてほしい」と。和栗さんにも経済的な余裕がほとんどなかったため、入学は断念。息子は大きなショックを受け、和栗さんと泣いた。

廊下の奥の明かりはついている
写真=iStock.com/DedMityay
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/DedMityay

その後、和栗さんの父親が大学進学を強く勧めたため、まだ受験ができる大学を探したところ、合格した第一志望の大学に二部(夜間)があり、まだ受験できることがわかる。急いで願書を出し、受験すると、無事合格することができた。

「めげずに受験をしてくれた息子はすごいと思います。この日を境に息子は大好きだった父親を、『親とは思っていない』と言うようになりました」

2010年3月半ば、42歳の和栗さんと18歳の息子は高校卒業を待って、長女と同じマンションへ引っ越してきた。そしてまもなく父親も引っ越してきて、親子孫三世代の新しい生活が始まった。

■同居の後悔

3人の同居生活のルールは、基本的に自分のことは自分で行うこと。和栗さんが父親にすることは、夕飯のおかずをおすそ分けすることと、父親の部屋を含め、家全体の掃除をすることのみ。当時75歳の父親はまだ元気で車の運転も続けており、会社を経営していた関係で友人知人が多かったため、旅行や外食で不在にすることが少なくなく、自由気ままに暮らしていた。

ところが、同居から半年ほど経った頃、問題は起こった。

関東へ引っ越してくる前に車の運転免許を取得していた息子。和栗さんが、「息子にここでも車の運転をさせたいから、お父さんの車を貸して」と言ったところ、「保険料が上がるから嫌だ」と断られたのだ。

「今思い返すとささいなことですが、当時は息子をばかにされたような、否定されたような気持ちがして、『なんで?』『反対の理由がせこい!』と思い、父と同居したことを後悔しました」

お酒が好きな父親は、「付き合いだ」と言ってお酒を飲んで帰ってきては、深夜にトイレを汚したりつまずいて転んだり。ベランダで吸ってくれるとはいえ、ヘビースモーカーで1日に30本以上タバコを吸うため、煙が部屋の中まで入って来るのも、洗濯物がタバコ臭くなるのも嫌でたまらない。「やめたほうがいいよ」と言っても、「やめるくらいなら肺がんになって死んだほうがいい」と聞く耳を持たなかった。

毎日の小さなストレスが日に日に積み重なってきた和栗さんは、姉たちに言って家族会議を開いてもらうが、解決策は見つからない。ただ、「和栗さんたちが父親と同居してあげている」というスタンスで、父親が家賃を負担するということだけ決定。和栗さんは、「家賃を負担してくれるなら仕方ない。我慢しよう」と思うように努めた。

しかし父親は、年齢を重ねるにつれて年相応の物忘れが出始め、耳が遠くなり、イライラすることが増えていく。同居から5年経ち、父親が80歳を超えた頃、几帳面できれい好きだった父親の行動が、目に見えておかしくなっていった。

台拭きと皿拭きを一緒にしてしまう。1日履いた靴下が部屋の片隅に脱ぎっぱなし。入れ歯ケースが食器の扱いになり、油物のお皿と一緒に洗い桶に入っていたのを目にしたとき、和栗さんは「いよいよ来たな」と思った。

以下、後編へ続く。

----------

旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

----------

(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング