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「夜中に甘いものが食べたい」三流は食べ、二流は我慢する、では一流は?【2021上半期BEST5】

プレジデントオンライン / 2021年9月19日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/demaerre

2021年上半期(1月~6月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった記事ベスト5をお届けします。食生活部門の第2位は――。(初公開日:2021年3月14日)
健康や美容のため、食欲を抑えるにはどうすればいいのか。『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』(新潮選書)を刊行した東京大学の山本芳久教授は「中世の哲学書を読んでいると、現代人が抱いている日常的な悩みに対して、意外な答えが与えられることがしばしばあります」という――。

■「甘いものを食べるかどうか」は哲学の問題

——山本さんは、東京大学で哲学を教えているそうですが、そもそも「夜中に甘いものを食べるかどうか」なんて問題が、哲学のテーマになりうるのでしょうか?

いかにして善く生きるか、どうすれば幸せになれるのか――これは哲学の中心的なテーマです。だとすれば、夜中に甘いものが食べたくなったとき、それを食べるか我慢するかという問題も、「善く生きる」ことや「幸せ」に深くかかわるので、哲学的なテーマと言えるでしょう。

私が専門とする西洋中世の哲学者トマス・アクィナス(1225頃~1274)も、その主著『神学大全』において、この問題について考えるための手がかりを与えてくれています。

——えっ、『神学大全』という書名だけは世界史の授業で習った記憶がありますが、「夜中に甘いものを食べるかどうか」なんて問題を論じている本だったのですか?

『神学大全』はキリスト教神学の百科事典のようなものと思われがちですが、それは一面的な理解です。日本語訳で全45巻もある大著ですから、実に多様なテーマを扱っていて、「キリスト教神学」という狭い枠の中には収まりきらない様々な問題が取り扱われています。

日本語訳の第10巻は、人間の感情の動きがテーマで、欲望に対してどのように向き合うべきかも詳しく検討されています。そこに「夜中に甘いものを食べるかどうか」という問題を考えるヒントがあるのです。

■「節制」とは何か

——で、何と書かれているのですか? 偉い哲学者だから、どうせ「どんなにツラくても、食べるのをガマンしなさい!」とか説教しているんでしょうね。

それがそうでもないのです。トマスは「甘いものを控えることの喜び」という視点を提示しているのです。

——「喜び」なんてないでしょう! 甘いものをガマンすれば、健康や美容には良いかもしれませんが、精神的には苦しくなります。

いいえ、トマスは「〈節制〉という〈徳〉を身につけるからこそ得られる〈喜び〉がある」と言っています。これはトマスだけの特殊な考えではなく、古代ギリシアのアリストテレス以来、哲学における伝統的な考え方の一つです。

トマスは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を参照しながら、4つの「枢要徳」、すなわち「賢慮」「正義」「勇気」「節制」について整理しています。

枢要徳
出典=山本芳久『世界は善に満ちている』121頁より

いま話している「夜中に甘いものを食べるかどうか」は、4つめの「節制」に関わる問題ですね。欲望をコントロールする力が問われているのです。

■「節制」と「抑制」の違い

——「節制」ということは、やっぱり「ツラくてもガマンしなさい」という話じゃないですか。そんなことなら、いちいち哲学を持ち出さなくてもわかります。

いや、ツラいのは「抑制」であって、「節制」からは喜びが生まれるというのが、トマスの哲学の考え方です。「節制」と「抑制」は言葉としては似ていますが、決定的な違いがあるのです。

トマスは「節制」について説明するさいに、アリストテレスに基づいて「節制ある人」「抑制ある人」「抑制のない人」「放埒な人」の4種類を区別しています。図表2は、岩田靖夫『アリストテレスの倫理思想』(岩波書店)という本に由来するもので、私がアレンジを加えています。

「節制」「抑制」「放埓」
出典=山本芳久『世界は善に満ちている』123頁より

——「節制ある人」と「抑制ある人」は何が違うんですか?

一言で言うと、「抑制ある人」は、いやいやながら欲望を我慢して押さえつけているのに対して、「節制ある人」は、節制ある在り方をしていることに喜びを感じている点にです。

——「節制」に喜びを感じるというのは、単なるキレイごとにしか思えないのですが?

トマスは、「節制」などの「徳」を身につけるのは、「技術」を身につけるのと似ていると言います。たとえば子どもがピアノを習うとき、最初はうまく弾けないからイヤイヤ練習するけれど、ある程度弾けるようになると、だんだん楽しくなってくる。技術を身につけると、簡単に素早くできるようになるし、それをやることに喜びが生まれてくる。

それと同じように、「節制」を身につけると、欲望をコントロールすることが容易になり、また素早くできるようになるのです。

青空の下、エクササイズする女性
写真=iStock.com/Hakase_
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hakase_

——それと「甘いものを食べるかどうか」という話は、どうつながるんですか?

たとえば、冷蔵庫の中に甘くて美味しそうなお菓子が入っているとします。最初のうちは、それを食べるのを我慢するのは困難で、つい食べてしまったり、たとえ我慢することができたとしても、「食べたい」という思いと「食べてはいけない」という思いとの葛藤を経て、ようやく食べるのを我慢するという流れになりますね。

——そうです。とても「喜びを感じる」どころではありません。

それは、まだ「抑制」の段階にあるからです。それに対して、「節制」を身につけた人は、それを食べるのは自分の健康にとってよくないことだと判断したら、自ら進んで食べないという選択をする。すると「今日も健康な食生活を送ることができたな」という喜びを感じることができます。

つまり「節制」という徳を身につけることは、何かをイヤイヤ我慢することではなくて、むしろ自分が本当に望んでいるものを見つけ、本当に満足するあり方へと自分を導いていくことなのです。

■「節制」はどうすれば身につくか

——「節制」がよいものだというのはわかりますが、むしろ問題は、どうすればそれを身につけることができるかでしょう。

トマスやアリストテレスは、「節制」などの徳は「習慣」の積み重ねによって形成されると考えます。たとえば大好きなスイーツが冷蔵庫にあるとき、「食べる」か「食べない」か、どちらを選択するかは、人生全体のなかで見れば些細(ささい)なことのように見えて、実はそうではないのです。

——いくらなんでも、人生全体のなかでみれば、些細なことでしょう。

人間がそうした分かれ道に直面して、どちらかの選択肢を選ぶかということは、そのときにたまたまどちらかの選択肢を選んだということで終わるものではありません。選んだ方の選択肢を選びやすくなるような「習慣」が形成されてくるのです。

そうすると、次に似たような状況に直面したさいにも、そちらの選択肢を選びやすくなってくる。そうした仕方で、どんどんある選択肢を選びやすくなるような性格や人柄が形成されてくることになるわけです。私たちが毎日行っている一見些細な選択が、実は人生全体の在り方へと直結しているのです。

——うーん、厳しいですね。

「習慣」は、単なる惰性ではなく、もっと積極的な意味を持っています。アリストテレスは言葉遊びを兼ねて、「エートス(人柄・性格)」は「エトス(習慣)」を少し語形変化させることによって得られると述べています。

いわば人間とは「習慣のかたまり」であって、その人が積み重ねてきた習慣がその人らしさを形成している。ですから善い習慣を身につけることは、善く生きるうえで決定的に重要なのです。

■「アクラシア」と「アコラシア」

——自分が「節制」を身につけられるかどうかは別にして、お話はだいたい理解できました。ところで、さきほど見せていただいた図表で、カタカナで書かれている「アクラシア」「アコラシア」というのは何ですか?

「アクラシア」というギリシア語は、「無抑制」とか「抑制のなさ」などと訳されます。俗な言い方をすれば、「分かっちゃいるけどやめられない」という状態のことです。つまり、何かが善くないということが頭では分かっているのにそれをしてしまうという在り方のことです。

——「分かっちゃいるけどやめられない」とは、まさに私のことです。

「抑制ある人」と「抑制のない人」には共通点があります。どちらも、「理性」と「欲望」との葛藤があるという点です。そのうえで、「理性」が「欲望」に打ち勝つのが「抑制ある人」で、「理性」が「欲望」に負けてしまうのが「抑制のない人」ということになります。

他方、「アコラシア」というギリシア語は、「放埒(ほうらつ)」「自堕落」を意味します。喜ぶべきではないものに喜びを感じたり、度を越して快楽を追求したりすることが、生きていくうえでの基本原理になっているような在り方のことです。

自堕落な人は欲望を追求することによって、自らの心身の健康を害したり、あるいは他人を傷つけたりしようとも、後悔することがありません。そもそも「理性」と「欲望」の葛藤もないのです。「理性」が「欲望」の奴隷になり、欲望を満たすための道具のようになってしまっているのです。

■「節制」が欲望を整え、喜びを生み出す

——「分かっちゃいるけどやめられない」という葛藤があるうちは、まだ理性の健全さが保たれているけれども、「アコラシア」の場合は、そもそも理性の健全性が損なわれてしまっているわけですね。

山本 芳久『世界は善に満ちている:トマス・アクィナス哲学講義』(新潮選書)
山本 芳久『世界は善に満ちている:トマス・アクィナス哲学講義』(新潮選書)

そうです。そして、「節制ある人」の場合には、「理性」が健全な在り方をしているだけではなく、「欲望」もまた徳によって整えられているので、葛藤がないのです。

しかも、この徳を身につけることによって、「喜び」が感じられるようになるわけですから、「節制」は「喜び」を抱いて真に幸福な人生を安定的・持続的に送っていくために不可欠な要素だということになります。

——たしかにエリートと言われる人は、節制を楽しんで生きている人が多いように見えますね。『神学大全』にそんな身近なことが書いてあるとは意外でした。

トマスの哲学は、キリスト教信仰の有無とはかかわりなく、人生を肯定的に生きていくうえの智慧がいっぱい詰まっています。ぜひ日本の読者の方々にも、トマスの哲学に触れてほしいと思っています。

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山本 芳久(やまもと・よしひさ)
東京大学大学院総合文化研究科教授、哲学者
1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、現職。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。主な著書に『トマス・アクィナスにおける人格の存在論』(知泉書館)、『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)、『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書、サントリー学芸賞受賞)、『キリスト教講義』(若松英輔との共著、文藝春秋)など。

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(東京大学大学院総合文化研究科教授、哲学者 山本 芳久)

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