「存在しないはずの三角形が見える」人間の脳が"錯覚"をつくりだす本当の理由
プレジデントオンライン / 2021年9月17日 15時15分
※本稿は、ビル・ブライソン『人体大全』(桐谷知未訳、新潮社)の一部を再編集したものです。
■水と脂肪とタンパク質でできた驚異の物体
宇宙でいちばんすばらしいものは、あなたの頭の中にある。
宇宙空間を隅から隅まで旅して回ったとしても、あなたの耳と耳のあいだに収まっている1.3キログラムのぶよぶよした塊ほど、並外れていて複雑で高機能なものは、きっとどこにも見つからないだろう。
紛れもない驚異の物体にしては、ヒトの脳はいかにも魅力に乏しい。なにしろ、その75〜80パーセントは水で、残りはほぼ同量の脂肪とタンパク質でできている。そういう3つのありふれた物質が協力し合って、わたしたちに思考や記憶や視覚や審美的な鑑賞力やその他もろもろを与えてくれるというのは、なかなか驚くべきことだ。
もし自分の脳を頭蓋骨の中から持ち上げてみたとしたら、あまりにも柔らかくて、おそらくびっくりするだろう。脳の硬さは、豆腐や柔らかいバターや少し固めすぎたブラマンジェなど、さまざまにたとえられてきた。
■あなたの脳こそがあなたそのものである
脳には重大なパラドックスがある。世界について知っているすべてのことは、世界を直接見たことのない器官によってもたらされている。
脳は、地下牢に閉じ込められた囚人のように、ひっそりとした暗がりに存在する。脳自体には痛覚受容体はなく、文字どおり無感覚だ。温かい太陽の光も、柔らかいそよ風もまったく感じていない。
脳にとって、世界はモールス信号のトンツー音のような、単なる電気パルスの流れだ。そして、その淡々としたおもしろみのない情報から、あなたのために、生き生きとして立体的で官能を刺激する宇宙をつくっている――そう、文字どおりの意味で、つくっている。
あなたの脳こそが、あなただ。その他すべては、配管や足場にすぎない。脳はあなたそのものである。
■世界中の全デジタルコンテンツを合わせたのと同じ記憶量
ただ静かに座って、まったく何もしていなくても、脳は30秒のあいだにハッブル宇宙望遠鏡が30年かかって処理してきたより多くの情報を激しくやり取りしている。
1立方ミリメートル――砂ひと粒くらいの大きさ――の大脳皮質一片に、2000テラバイトの情報を蓄えておける。これまでにつくられたあらゆる映画を、予告編を含めてすべて、あるいは本書を約12億冊保存できるほどだ。
ヒトの脳は合計で200エクサバイト(訳注1:エクサバイトは100京バイト、10の18乗)ほどの情報、『ネイチャー・ニューロサイエンス』誌によると「今日の世界の全デジタルコンテンツ」にほぼ匹敵する量を蓄えられると推定されている。それが宇宙でいちばんすばらしいものでないとしたら、奇跡のような別の何かは、きっとまだ見つかっていないのだろう。
■頭の中についてわたしたちはまだ何も知らない
脳がどれほど徹底的に、どれほど長年にわたって研究されてきたかを考えると、いかに初歩的なことさえ解明されていないか、少なくとも広く合意が得られていないかに驚かされる。
たとえば、意識とは具体的にどういうものか? あるいは、思考とは具体的にどういうものか?
瓶の中にとらえたり、顕微鏡のスライドガラスに塗りつけたりできなくても、思考は明らかに、現実にある確かなものだ。思考することは、わたしたちにとって最も重要で輝かしい能力だが、生理学上の深い意味で、思考とはなんなのかを本当には理解していない。
だいたい同じことが、記憶にもいえる。記憶がどのように組み立てられ、どこにどんなふうに保存されるのかについては多くのことがわかっているが、なぜ残る記憶と残らない記憶があるのかはわからない。どう見ても、実際の価値や有用性にはほとんど関係がなさそうだ。
わたしは1964年のセントルイス・カーディナルズの先発出場選手をすべて憶えている――1964年以降のわたしにとってはまったく重要ではなかったし、その当時もたいして役立ちはしなかった――が、自分の携帯電話の番号や、大きな駐車場に駐めたときの車の位置や、妻にスーパーマーケットで買ってくるように言われた3つのものの3番めや、その他ものすごくたくさんの、間違いなく1964年のカーディナルズの先発メンバーよりも差し迫った必要のあることを忘れてしまう。
■わたしたちは常に5分の1秒後の世界を見ている
というわけで、これから学ぶべきことは山のようにあり、多くのことは永遠に解明されないかもしれない。しかし、わかっている物事のいくつかは、とにかく、わかっていない物事と同じくらいすばらしい。
たとえば、この目に見えるもの――いや、もう少し正確に言うと、脳が見るよう命じているものについて考えてみよう。
今ここで、まわりを見回してほしい。両目が毎秒1000億の信号を脳に送り込んでいる。しかしそれは、物語の一面にすぎない。あなたが何かを“見る”とき、視神経から伝わるのは、その情報のわずか10パーセントほどだ。
脳の他の部分は、その信号を分解して、顔を識別し、動きを解釈し、危険を特定する必要がある。言い換えれば、見ることの最大の部分は視覚映像を受け取ることではなく、その意味を理解することなのだ。
視覚入力があるたびに、わずかだがそれとわかるだけの時間――約200ミリ秒、つまり5分の1秒――をかけて、情報が視神経を通って脳に伝わり、処理と解釈が行なわれる。
5分の1秒は、すばやい対応が必要なときにはささいな時間とはいえない――たとえば、迫りくる車をよけるときや、頭への一撃から逃げるとき。このわずかな遅れにうまく対応できるよう、脳は実にすばらしい手助けをしてくれる。絶えず今から5分の1秒後に世界がどうなるかを予測し、それを現在として提示するのだ。
つまり、今この瞬間も、わたしたちはありのままの世界を見てはおらず、ほんのわずかだけ未来にあるはずの世界を見ている。言い換えれば、わたしたちはまだ存在していない世界を生きながら、一生を送るのだ。
■人生の豊かさはすべて、脳でつくられる
脳はあなたのために、たくさんの方法で嘘をつく。音と光は、かなり異なる速度で届く。頭上を飛行機が通り過ぎる音がして顔を上げるときに、いつも経験している現象だ。空のどこかから音が聞こえるのだが、飛行機は別のどこかで静かに移動している。
もっと身近な周囲の世界では、たいてい脳が差異を調整して、すべての刺激が同時に届いているように感じさせる。同様に、脳は五感を形成するすべての要素をつくり上げている。
光の粒子である光子に色がなく、音波に音がなく、匂いの分子に匂いがないというのは、奇妙でにわかには信じがたいが、厳然たる真実だ。
イギリスの医師で作家のジェームズ・レ・ファニュは、こう語った。
「わたしたちは、木々の緑や空の青さが、あいた窓から流れ込むかのごとく目から入ってくることにたとえようのない感銘を受けるわけだが、実際には、網膜に衝突する光の粒子は無色で、同じく鼓膜に衝突する音波は無音、匂いの分子は無臭だ。それらはみんな、目に見えず重さもない、空間を移動する原子より小さい粒子なのだ」。
人生の豊かさはすべて、頭の中でつくられる。見えているものは実際の姿でなく、そういう姿だと脳が教えているものであり、ふたつはまったく別のものだ。
1個の石鹼を思い浮かべてほしい。石鹼の泡は、石鹼自体がどんな色でも常に白く見えると気づいたことはあるだろうか? 濡らしてこすると石鹼が色を変えるわけではない。分子的には、もとのままだ。ただ、泡が光を異なる方法で反射しているにすぎない。
砂浜に打ち寄せる波も同じだし――エメラルドグリーンの水、白い泡――ほかにもそういう現象はたくさんある。それは色が固定した現実ではなく、知覚による認識だからだ。
■見えないものが見えてしまうワケ
あなたもたぶん、これまでになんらかの錯覚テストを試したことがあるだろう。
たとえば、赤い正方形を15秒か20秒くらいじっと見たあと、視線を白紙に移すと、少しのあいだ紙の上に青緑色のぼんやりした正方形が見える、といったテストだ。
この残像は、目の光受容体の一部を特別に集中して働かせ、疲労させた結果だが、ここで問題なのは、その青緑色はそこになく、あなたの想像の中にだけ存在するということだ。本質的に、それがあらゆる色の真実といえる。
また、脳は混沌の中にパターンを見つけ、秩序をつくり出すのが並外れて得意だ。それを示す、よく知られた2枚のだまし絵を取り上げてみよう。
左の絵は、ほとんどの人にはでたらめな黒い斑点にしか見えない。ところが、絵の中にダルメシアンがいると指摘されると、不意にほとんど全員の脳が欠落した輪郭を補い始め、全体の構成を意味のあるものにする。このだまし絵は1960年代からあるが、最初に誰がつくったのか、誰も記録に残していないようだ。
右のだまし絵には、きちんといわれがある。1955年にイタリアの心理学者ガエタノ・カニッツァがつくったことから、「カニッツァの三角形」と呼ばれる。
もちろん、実際には絵の中に三角形は存在しない。あなたの脳がそこに置いただけなのだ。脳がこういうことをするのは、できるかぎりあらゆる方法であなたを助けるよう設計されているからだ。しかし逆説的に言えば、脳は驚くほど当てにならない。
■経験していないことを記憶している不思議
数年前、カリフォルニア大学アーヴァイン校の心理学者エリザベス・ロフタスは、暗示によって人々の頭に完全に偽りの記憶を植えつけられることを明らかにした。
幼いころデパートやショッピングモールで迷子になってひどいショックを受けたとか、ディズニーランドでバッグス・バニーに抱き締められたことがあるとか(そもそもバッグス・バニーはディズニーのキャラクターではないので、ディズニーランドにいるはずはない)。
ロフタスが人々に、まるで熱気球に乗っているかのように加工された子どものころの写真を見せると、被験者は多くの場合、突然その経験を思い出し、興奮気味に詳しい話をし始めた。誰ひとり、そんな経験はしていないにもかかわらず。
あなたは今、自分はそんなに暗示にかかりやすくないと思ったかもしれないし、それはおそらく本当だろう――そこまでだまされやすいのは約3分の1の人だけだ――が、この上なく印象深い出来事でさえ、誰もがときどき完全に記憶違いをすることが、別の形でも証明されている。
2001年、ニューヨークのワールドトレードセンターでの9.11同時多発テロ事件の直後、イリノイ大学の心理学者たちは、700人の人々から、事件を知ったとき自分がどこにいて何をしていたかについて、詳しく話を聞いた。
1年後、心理学者たちは同じ人たちに同じ質問をし、半分近くの人がかなり大幅に矛盾した話をしていることを見出した。事件を知ったとき別の場所にいたことになっていたり、実際にはラジオで聞いたのにテレビで見たと信じていたり、その他いろいろだった。
しかし、自分の回想が変化したことには気づいていなかった。
(わたし自身は、当時住んでいたニューハンプシャー州の家で、子どもふたりといっしょにテレビで事件のライブ映像を見ていたことをありありと思い出せるのだが、あとになって子どものひとりは当時イギリスにいたことを知った)
■記憶は永久の記録ではなく、揺れ動くもの
記憶の保存は特異なプロセスで、奇妙なほど支離滅裂だ。
脳はそれぞれの記憶を部品ごと――名前、顔、場所、情況、手触りはどうだったか、生きていたか死んでいたかまで――に分け、その部品をさまざまな場所に送り、全体がふたたび必要になると、呼び戻して組み立てる。
ふと浮かんだひとつの考えや追想が、脳全体に散らばった100万個以上のニューロンを発火させる。しかも、こういう記憶の断片が時とともに脳内を動き回り、なぜだかはまったくわからないが、大脳皮質のひとつの場所から別の場所へ移動する。記憶の細部がごちゃまぜになってしまうのも無理はない。
要するに、記憶はファイリング・キャビネットに収めた書類のように固定された永久の記録ではない。もっとずっと漠然としていて、移ろいやすいものなのだ。エリザベス・ロフタスは、2013年のインタビューでこう語った。「少しウィキペディアのページに似ています。あなたはそこに入っていって書き換えることができるし、ほかの人も同じように書き換えられます」。
■子どものころの記憶はどこに消えた?
以前は、あらゆる経験は記憶として脳のどこかに保存されているが、そのほとんどは、即時想起の力が及ばないところへしまい込まれてしまうと考えられていた。
その考えはおもに、神経外科医ワイルダー・ペンフィールドが1930年代から1950年代にカナダで行なった一連の実験から導き出された。
モントリオール神経学研究所で手術を行なっているとき、ペンフィールドは、探針で患者の脳に触れると、しばしば強烈な感覚が呼び起こされることを発見した。
子どものころに嗅いだ懐かしい匂い、すばらしい幸福感、ときにはごく幼いころの忘れていた場面を思い出すこともあった。こういう事実から、脳はどんなに些細なことであっても、意識を伴う人生のあらゆる出来事を記録し保存しているという結論に行き着いた。しかし現在では、ほとんどの場合、刺激が記憶の感覚を与えているだけで、患者が経験したのは、思い出した出来事というより、幻覚に近いものだったと考えられている。
けれども、わたしたちが簡単に思い出せるものよりはるかに多くの記憶を保持しているのは、確かな事実だ。
幼いころに住んでいた近隣についてはあまり思い出せないかもしれないが、そこに戻って歩き回れば、何年ものあいだ頭に浮かびもしなかった取るに足りない細部まで、ほぼ確実に思い出すだろう。
じゅうぶんな時間と刺激があれば、おそらく誰もが、自分の中にどれほど多くのものがしまい込まれているかを知って驚くだろう。
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1951年、アイオワ州デモイン生れ。イギリス在住。主な著書に『人類が知っていることすべての短い歴史』、『シェイクスピアについて僕らが知りえたすべてのこと』、『アメリカを変えた夏 1927年』など。王立協会名誉会員。これまで大英帝国勲章、アヴェンティス賞(現・王立協会科学図書賞)、デカルト賞(欧州連合)、ジェイムズ・ジョイス賞(アイルランド国立大学ダブリン校)、ゴールデン・イーグル賞(アウトドア・ライターならびに写真家組合)などを授与されている。(Photo © Julian James)
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(ノンフィクション作家 ビル・ブライソン)
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