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「女性進出は日本より進んでいた」アフガンの20年間の民主政権が取り組んでいたこと

プレジデントオンライン / 2021年9月15日 15時15分

カブール近郊にあるダルラマン宮殿。内戦で廃墟となった。2008年(写真=Виктор Пинчук/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

アフガニスタンで権力を掌握した武装勢力タリバンは、9月7日、暫定政権の樹立を宣言した。暫定政権には女性や反対勢力の代表は含まれず、統治への不安が広がっている。前駐日アフガニスタン大使のバシール・モハバットさんは「民主政権が統治していたこの20年間で、アフガニスタンは日本よりも女性進出の進んだ国になっていた。このままでは後戻りしてしまう」という――。

■20年前、日本から帰国して、母国の荒廃ぶりに涙が出た

皆さんは故郷を見て、涙を流したことがありますか。

私は1956年にアフガニスタンの首都カブールに生まれました。カブールは花の似合う街です。文明の十字路と呼ばれるように、文化も、食事も、服も、人間も、言葉も全部交ざって、行ったり来たりしている。市場はいつも賑やかでした。私の幼少期は、カブールに欧米の文化がたくさん入り込み、男性も女性も一様にファッショナブルでした。

高校卒業後に日本の大学へ留学しました。その後、帰国せずに長年日本で働いていた私が、カブールへ帰国したのは2002年のことです。

空港から市内に向かう車窓から見えた光景に、私は息をのみました。街は色を失い、目に入るのは瓦礫(がれき)ばかりなのです。民家を含め一つとして元の形が残っている建物がなかった。人の数はまばらで、彼らの服は一様に汚れていました。

ソビエト進攻、それに続く内戦、さらには第一次タリバン政権(1996年〜2001年)による悪政の結果です。国土は静まり返り、破壊されたビルが墓標のように立っていました。道路はところどころ寸断され、電気もついたり消えたり。日本に連絡しようにも、電話線は切れている。国際電話をかけるには隣国のパキスタンまで行かねばならないなんて、何の冗談でしょうか。

ショックで涙が出ました。この墓場が私の故郷なのか。戦争によってアフガニスタンはすべてを失ったのです。何も残っていませんでした。

■女性議員の比率は日本より高く、政権批判も自由にできた

ですが、タリバン政権崩壊以降の20年間で、アフガニスタンは目覚ましい発展を遂げました。

アフガニスタンの国民は、もともと陽気でアクティブな性格です。人口の約7割を占める若年層が中心となって日本や欧州に追いつけ追いこせと躍動していました。

人々は皆スマートフォンを持ち、数十ものテレビ局や100チャンネル以上あるラジオを視聴して、自国のみならず世界各国の最新情報を得ながら生活していました。メディアでは女性キャスターが活躍し、国民誰もがおおっぴらに政権批判をできるほど自由でした。

この自由を保障したのが2004年1月に採択されたアフガニスタン・イスラム共和国憲法です。

名前の通り、イスラム教を国教とした憲法ですが、第22条には、「アフガニスタン市民のあいだで、いかなる種類の差別も禁じられる。アフガニスタン市民は、男女を問わず、法律の前で平等の権利と義務を有する」と書かれています。また、第34条には、表現と報道の自由の保護が規定されています。非常に民主的な内容の憲法です。

それまでタリバンに支配されていた政治は、憲法によって直接選挙による大統領制が定められました。議会は長寿院(上院)と人民院(下院)の二院制で、議席の一定数を女性議員が占めることが決められています(※)

※編集部註:34の県から、県ごとに少なくとも2人の女性が選出される。この結果、下院の27%は女性議員だった。

この憲法下で複数回行われた選挙によって、議員構成は大きく変化しました。常に銃とともにあるような年老いた軍閥出身の議員は回を追うごとに減り、女性や若者が増え、議会の新陳代謝が進んでいきました。直近の投票率は45%です。

女性議員の割合や選挙の投票率については、日本より進んでいると思うのは私だけではないと思うのですが、どうでしょう。

とにかく、市民は政治に高い関心を持ち、自分たちで国を良い方向に持っていこうという強い意志があったのです。

アフガン大統領選の開票作業をする男女
写真=AFP/時事通信フォト
2019年10月2日、アフガン大統領選の開票作業。男女が同じ部屋で作業に当たる(アフガニスタン・カブール) - 写真=AFP/時事通信フォト

■アメリカ軍の駐留があっても、国民は前を向いていた

私の幼少期、アフガニスタンはザーヒル・シャー国王が治めていました。アフガニスタンに初めての民主化路線を敷いた人物です。第二次世界大戦では中立を保ち、戦後には日本やイギリスの資本導入を行うなど外交にも長けた国父と呼ばれる人物です。

そんな彼が1960年代に導入した憲法と、アフガニスタン・イスラム共和国憲法は非常によく似ています。実際に国会の構成、司法府のありようなどベースにしたともいわれています。ザーヒル・シャーが作った憲法は、立憲君主制を導入し、出版や政党の設立の自由を認めました。このイスラム諸国の中では先進的な憲法により、アフガニスタンは大いに発展したのです。多くのアフガン人が新しい憲法を見て、「あの幸福な時代がもう一度来る」。そう思っていました。

未熟な民主主義だったのは自覚しています。カルザイ大統領や老議員の汚職が頻発したのは事実です。議会には課題が山積みでした。アメリカ軍の駐留があっての平和維持だったのも確かです。それでも、国民は皆前を向いていたのです。民主化の萌芽は見えていたのです。

■日本の支援のおかげで1000万人が学校へ通えるように

アフガニスタンがこの20年間でかなりの復興を遂げられたのは憲法のおかげだけではありません。世界各国の支援のおかげで、ハード、ソフト面でのインフラがかなり整いました。特に約7000億円もの資金を支援してくれた日本には感謝の一言です。

日本の支援プロジェクトは、主に教育、医療、農業、インフラ分野でした。

その中で、最もありがたいと思ったのが教育です。第一次タリバン政権時代、激しい内戦で学校が破壊されたり、そもそも教育への関心が低かったことから、就学児童数は100万人未満でした。これは、人口比にしてはかなり少ない。さらに、生徒全員が男子でした。

JICAをはじめとする日本は、800以上の学校の建設・修復を進め、さらに1万人もの教師を育成したのです。この支援のおかげで、直近では約1000万人が学校へ通うようになりました。生徒のうち約40%が女子です。公教育を受けた女性は、次々に社会へ進出しました。憲法には職業選択の自由が保障されていたので、閣僚、大使、軍のパイロットや警察官など、さまざまな職業で活躍していました。

■テロに倒れた中村哲さんはアフガン国民のヒーローだった

医療分野では、基礎医療を受けられる国民の割合が20年で、8%から57%に増大。病院の建設や改修も進みました。日本の支援によって、カブール市内に建てられた「アフガン・日本・感染症病院」は、アフガニスタンで唯一の感染症に特化した優れた病院です。今回のコロナ禍においても感染患者の治療にあたり、多くの命を救っています。この病院がなければ、カブールでコロナウイルスによるパニックが起きていたかもしれない。感謝してもしきれないです。

中村哲医師
2016年11月17日、カブールの大使館で行われた叙勲式で、ピースジャパンメディカルサービスの中村哲医師に鈴鹿光次在アフガニスタン大使から旭日双光章が授与された(写真=在アフガニスタン日本国大使館/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)

アフガニスタンは食文化が豊かな場所でした。しかし、長年の戦争で農地は荒れてしまった。日本が米や小麦の栽培方法を指導し、品質の良い種子も提供してくれたことで、穀物の生産量が増えて輸出をするまでになりました。

中村哲さんを思い出してください。医師である彼は診療所開設をきっかけにアフガニスタンに入り、病人が絶えない原因は水にあると考えました。地元の人と協力して1600本の井戸を掘り、用水路をひき、その効果で荒地が田畑に変わっていきました。彼は汚職には目もくれない純粋な人で、アフガン政府と国民にとってのヒーローです。2019年12月にテロによって亡くなったのは、本当に残念でした。

物流は社会の血液といいますが、その血液が走る道路の舗装でも日本が大きく貢献しています。カブールにおける幹線道路のみならず、地方でも道路の整備を進めました。タリバン時代は16キロメートルしかなかったといわれるアスファルト道路が2万キロメートルほどになったのです。

車のトランクに乗り込み音楽を楽しむ若者たち
写真=筆者
車のトランクに乗り込み音楽を楽しむ若者たち。各国の支援で新たに舗装されたカブールの道路にて。2018年、バシール氏撮影 - 写真=筆者

■足が少しでも見える服を着たら公開鞭打ち刑

各国の支援のおかげで、人々は自由を謳歌(おうか)していました。女性は誰にも脅えることなく堂々と顔を出して外出する。好きな音楽やファッションに身を包み、サッカーでも凧揚げでも好きなことをしてよかった。街に行けばいろいろなレストランがあった。市場はかつての賑やかさを取り戻しました。

残念ながら、その時代は過去となりました。

タリバン政権がどれだけ融和や進歩を語ろうと本質は変わらない。女性が男性と連絡をとることすら禁じられ、足が少しでも見える服を着たら公開鞭打ち刑。かつて経験した恐怖政治という地獄の日々が、早晩復活するでしょう。

人間にとって何よりつらいのは自由を奪われることだと私は思います。現在、膨大な数の人々がアフガニスタンから陸路でパキスタンやイランへ逃れています。目的地は難民キャンプです。大変な暮らしが待っているとわかってても、タリバンの下にいるよりマシという判断です。

■「ガニ大統領がアフガンを見捨てた」とは思えない

8月末にカブール国際空港付近で起きた自爆テロでは180名以上が死亡し、直後にテロ再発の可能性が示唆されていたにもかかわらず、空港にはなお多くの人が押し寄せました。

中には飛び立つ米軍機につかまって空中から落下した若者もいました。タリバン政権下の地獄を逃れられるなら死んでもいいという覚悟で、自由の国へ行きたかったのだと思います。

アシュラフ・ガニ大統領
アフガニスタンのアシュラフ・ガニ前大統領(2020年2月14日、ドイツ・ミュンヘン)(写真=U.S. Secretary of Defense/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)

立場上、許されるものではないですが、「ガニ大統領がアフガニスタンを見捨てた」というのは事実とは思えません。彼はカブール大学学長や財務大臣など重要ポストを経験し、清廉潔白とうたわれていました。そのため、汚職の噂が絶えなかったカルザイ前大統領に対し、不正の撲滅を掲げ、国民から期待されていた人物です。彼が国外逃亡を余儀なくされたのは、身の危険を感じたからと私は理解しています(※)

※編集部註:9月8日、ガニ大統領はツイッターで「1990年代の内戦時のような市街戦になるとの大統領府警備の忠告に従って国外退避した」と釈明した。

金を積んで逃げたという報道も、真偽は不明です。いずれ身の安全が保障されれば、ガニ大統領はアフガニスタンに戻り、タリバンと国家運営についての話し合いをするでしょう。

■タリバン幹部は末端メンバーを管理できていない

新政権の今後について、今は座して待つしかありません。かつてのように民衆を厳しく統制すれば反発が起きるでしょうから、タリバンは政権維持のために、昔よりは多少の自由を与えるのではないかと思います。

とはいえ、タリバン幹部は末端メンバーの行動を完全にコントロールできていません。一口にタリバンといっても、その中にはいろいろな派閥があります。つまり烏合の衆であり、共通敵のアメリカなき後、権力闘争が始まるのは目に見えています。

政治の世界はグレーゾーンで先のことは何もわかりません。タリバンがどんな政権を運営するのか、別の国と勢力を作るのか、他のグループがどんな行動をとるのか、注視していく必要があります。

少なくとも民主化政策をとらないとタリバンの広報官は話しているので、彼らの協議と相反するアフガニスタン・イスラム共和国憲法は捨てられてしまうでしょう。この20年、各国の支援と素晴らしい憲法の下、進められてきた民主化への歩みは止められるわけです。非常に悲しいですね。

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バシール・モハバット 前駐日アフガニスタン・イスラム共和国大使館特命全権大使
1956年、アフガニスタン・イスラム共和国のカブール生まれ。叔父は駐日アフガニスタン大使館の副大使。1977年中京大学商学部入学、1986年卒業。同年名城大学大学院に進み、国際法修士を取得。2003年駐日アフガニスタン大使館二等書記官・領事。一等書記官。同年に日本大学で国際法の博士号取得。2007年から大使特別補佐官、参事官、代理大使、大使補佐を務める。15年に本国外務省の戦略研究所で外交政策・国際関係部長。16年駐日アフガニスタン大使館副大使を経て、17年7月に特命全権大使に就任。21年に離任。現在は創価大教授。

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(前駐日アフガニスタン・イスラム共和国大使館特命全権大使 バシール・モハバット インタビュー・構成=大西 夏奈子)

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