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「あの人だけは許せない…」"怒り"が爆発しそうなときにするべき"たった1つ"のこと

プレジデントオンライン / 2021年9月20日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SetsukoN

身勝手な隣人や同僚のせいで、いつも損をする。「許せない」という気持ちが抑えられない。いったいどうしたら? 下町和尚として人気の名取芳彦住職は「“怒り”はあっていい、でも“自分の怒りのツボ”を知ろう」と言います。セブン‐イレブン限定書籍『不安の9割は起こらない』より、心穏やかな毎日を手にするマインドセットのコツを特別公開します──。(第1回/全4回)

※本稿は、名取芳彦『不安の9割は起こらない』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■私たちは本質的に仏さまと同じ

私は東京の小岩で、「密蔵院(みつぞういん)」という真言宗のお寺の住職をしています。「もっとい不動」とも呼ばれる下町のお寺ですが、地元のみなさんだけでなく、インターネット時代の現在、全国の方々とも深く、あたたかい交流をさせていただいています。

私の属する真言宗の開祖は、日本史上最高の天才といわれる弘法大師空海ですが、お大師さまは私たちに「三密」が大切である、と教えてくださいました。

お大師さまがおっしゃる「三密」とは「身(しん)・口(く)・意(い)」。つまり、私たちが体と言葉と心の3つで行う行為は、本質的に仏さまのそれと同じだからとても大切ですよ、ということで、不肖私も、この教えに従って修行の道に励んでまいりました。

ところが昨今、未曾有のコロナ禍(か)によって、「三密」を避けろ、というのが世の中でいちばん大切なテーマとなってしまったのは、ご存じの通り。

■「三密を避けろ」で殺伐とした世の中に

もちろん、お大師さまの「三密」と、政府や各自治体が盛んに呼びかけている「三密」は内容がまるで違います。今、みんなで守ろうとしているのは「密閉」「密集」「密接」という三密を避けろ、です。

ただ、この「三密を避けろ」は、やさしく言えば、「人との親しい集まりやふれ合いや会話」を避けろ、ということ。現実的には、「人のぬくもり」などはまったく感じられない世の中にしなさい、と言っているようなものでもあるわけです。

これは、ちょっと辛いなあ、と思います。こうなると、これまで以上に人の世の生きづらさを感じざるを得なくなります。

人に不寛容で、妙に怒りやすくなる。人のやっていることが気になってしようがない。人との接触が避けられる中でますます孤独を深めていく。あるいは、一時減っていた自殺が「コロナ禍自殺」という名前でまた増えているという話も聞きます。

■「煩悩」と「悟り」は表裏一体

もとより、人間はそうした悩みや迷いの塊(かたまり)のようなもの。ちょっとむずかしい言葉ではそれを「煩悩(ぼんのう)」といいますが、2500年前にお釈迦様が開いた仏教は、その「煩悩」の解消法を考え続けてきた宗教です。

ぼんのう、ボンノウ、漢字で煩悩と書いて分解すると、煩(わずら)わしさと悩ましさ。

私たちを煩わせ、悩ませる、そのやっかいなものとは、怒りとか憎しみ、迷いとか、妬(ねた)みとか嫉(そね)みとか、はたまた僻(ひが)みとか不安……。

まったく、あれこれあり過ぎて書いていてイヤになるくらいで、人間というものはなんとめんどうくさい生き物かと思いますが、まあ、とりあえず、そういった煩悩から解放されて、気持ちを鎮めて、心穏やかに生きていきたい、というのは誰もが願うことではないでしょうか。

仏教では、いっさいの煩悩を断ち切って到達する心穏やかな状態のことを「悟り」の境地、あるいは「菩提(ぼだい)」ともいいますが、「煩悩即菩提」、つまり煩悩そのものの中に悟りの境地がある、と考えます。

煩悩と菩提(悟り)は表と裏、裏と表なのです。

私は「煩悩即菩提」という言葉を聞くと、それが「煩悩に咲く菩提」と聞こえることがあります。実は、やっかいそうに思える煩悩は、人の心の中にある栄養満点の土壌でもあります。あなたの育て方次第で、そこに菩提(悟り)という花を咲かせることができるはずです。

ですから、煩悩をはなからどうしようもないものと思わずに、きちんと向かい合ってみましょうよ。

■「自分の都合」が大渋滞しているのが世の中

自分で、「あ、私、今、怒りっぽくなっている」と感じるときって、ありませんか。それは、どういうときだと思いますか。

たぶんそれは、「こうしたい」「ああしたい」「こうしてほしい」「ああしてほしい」という気持ち、言い換えれば自分の欲望、私流に言えば自分の「ご都合」にこだわったり、とらわれたりしているときではないかと思います。

お金が欲しいのに、うまくいかない。
出世したいのに、うまくいかない。
褒(ほ)めてほしいのに、誰も褒めてくれない。

それぞれみんな、自分のやり方、つまり「自分の都合」というものがあるわけですが、いつもいつも自分の都合良くはいかない。世の中、そんなものです。当たり前です。

つまり、あなたに「自分の都合」があるように、世の中の人々には、みんなそれぞれに「自分の都合」があるということ。

そうした「自分の都合」だらけの世の中で、「都合」同士がぶつかり合い、怒り合っていたら、みんなくたくたになってしまいますし、世の中は大渋滞で、にっちもさっちもいかなくなってしまうでしょう。

■あきらめとは違う、「当たり前」という受け流し方

社会は、さまざまな欲望を持った人間の集合体です。社会そのものが生き物だといっていいかもしれません。ですから、自分一人の欲望、自分の都合などがまかり通るはずがない。それが、当たり前です。

私たちの社会の、「欲望という電車」が走り回る路線図を冷静に見れば、私以外の線路と交差し、また、ほかの「ご都合」路線が乗り入れている、そういったことがよく分かると思います。

その交差する線路の至るところで黄色の信号が点滅していることも分かるはずです。普段のあなたは、その黄色の信号を見て、早く青信号に変われよ、とイライラしたり、怒ったりしているのではないでしょうか。

でも、ちょっと待ってください。その黄色の信号は、本当はあなたに何を知らせているのでしょうか。それは、自分の欲望、自分の都合だけで動くのではなく、「相手のことを考える時間を持ちなさい」という注意信号なのではありませんか。

私たちは「当たり前だ」ということについては、腹を立てない、怒りの感情が起きません。これは、あきらめとはちょっと違います。納得のひとつの形といってもいいかもしれません。

こういう状況ならば、こうなるのは「当たり前だ」。あの人がこんなことを言うのも「当たり前だ」。こうなれば、心も穏やかになるし、楽に生きられると思いますよ。

渋谷スクランブル交差点
写真=iStock.com/kardan_adam
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kardan_adam

■「怒り」は煩悩の原材料

仏教では「怒らないこと」をひとつの徳目、良いこととしています。私自身の経験からいえば、「怒らないこと」よりも、「怒りたくなる対象」、つまり、自分自身の「怒りのツボ」を知っておくほうが大切ではないかと思っています。自分が何に対して、あるいはどういうことに対して「怒りやすいのか」、自覚しておこうというわけです。

仏教で「怒ってはいけませんよ」というのは、その根本に「ものごとを自分の都合通りにしたい」というわがままが潜んでいるという認識があるからなんです。

さらにいけないのは、「怒り」(仏教では瞋(しん)といいます)で、さまざまにやっかいな局面を招いてしまいます。そして、そのやっかいな局面は、いわゆる「煩悩」、つまり人の心を乱す感情を生み出してしまうのです。

では、怒りから生み出される煩悩とはどういうものかといえば、欲望のままに行動する「放逸(ほういつ)」、心の集中を失う「散乱」、危害を加えようとする「忿(ふん)」、人の弱点を攻撃する「悩」、相手を傷つける「害」などなど、書いていてもイヤになるほど。

「怒り」は人間にとっての諸悪の根源ですが、一方で、「怒り」は人間の根源的な感情の働きでもありますから、これを抑えたり、捨て去ったりするのは至難の業だということも確かなのです。

■「怒りのツボ」を知る

私自身、40代まではよく怒っていました。何に怒っていたのか。

ひとつ目。公の場所にゴミを捨てる人たちに対して怒っていました。たとえば車からポイとゴミを捨てる人。あるいは、歩きながら道路にゴミを捨ててそのままスタスタと行ってしまう人たち。

「こら、拾って持って帰れ。誰が掃除すると思ってるんだ!」もう、私の心の中はぐつぐつと煮えたぎって、爆発寸前。

今では、前を歩いている人がゴミを捨てたならば、それを拾って自分のポケットに入れるようにしています。

「誰が掃除すると思ってるんだ!」というかつての疑問が、私の中で「誰が掃除をするかなんて考えていないから、平気で捨てられるんだ。ならば、仕方ない」というふうに解決したからです。

ふたつ目。いまだに目撃するとすぐに心のお湯が沸騰するのですが、「食事の仕方」の問題です。

足を組んで食事をする人。肘をついて食事をする人。くちゃくちゃ音をたてて食べる人。中には3パターンをすべて持っている人もいるんですね。そういう人が隣の席にいたりすると、私はさっさとその場から離れるようにしています。これがいちばんの解決策です。

それ以外、日常生活の中では「怒りのツボ」にハマることはあまりありません。だいたいが、「おいおい、あなた、大丈夫?」くらいでにっこり笑って、相手の心配をしてあげておしまい。「怒りの沸点」の手前あたりで、心のお湯を冷ますようにしています。

このように、自分の「怒りのツボ」を知っておくことは、とても大切です。それを知っていれば、ツボにハマる前に何らかの解決策を講じることができて、心が穏やかでいられます。

■人間だもの、摩擦はあっていい

生活全般の中で、人にはそれぞれに自分のやり方、つまり、ルールや方法のようなものがあります。そして、自分がたどり着いたそのルールや方法は、とりあえず現在はうまくいっているルールや方法なのです。

人は、その自分のルールや方法に自信を持っています。今までそれでやってきて問題はないし、それでいいと思っています。中には、そのルールや方法が「ベスト」だと過信している人もいます。

しかし、自分のルールや方法が誰にでも通用するわけではありません。あくまで、「マイルール」。違った生活をし、異なった経験をすれば、たどり着くルールや方法に違いが出るのは当然のことです。

「今日できることは明日に延ばすな」と言う人もいれば、私のように「明日やればいいことを今日するな」を信条とする人間もいます。

恋人同士の喧嘩も、嫁姑のいさかいも、多くはそれまでの互いの生活のルールが異なるために起きたもの。ルールの異なる相手に自分のルールを押しつけたら、摩擦が起きるのは当然です。

■摩擦に我慢するより「ルールのすり合わせ」を

私は、ものごとの最初に摩擦、ぶつかり合いが起きるのは良いことだと考えています。摩擦を起こさないようにと我慢することなど無用。最初から我慢をする必要などありません。

名取芳彦『不安の9割は起こらない』(プレジデント社)
名取芳彦『不安の9割は起こらない』(プレジデント社)

お互いが、それぞれのルールを主張し合うのは当然のことで、むしろ、それはうまくいくようになるために必要なステップと考えればいい。あとはルールのすり合わせをすればいいのです。

「私はこう思っているんですが、あなたはこう思うわけですね。では、どこをどうやって妥協できるか、考えてみましょう」
「なるほど、あなたのルールにも一理ある。では一度、その方法でやってみましょうか」

こういったやりとりこそ、心穏やかに生きていくコツですよね。

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名取 芳彦(なとり・ほうげん)
元結不動密蔵院住職
1958年、東京都江戸川区小岩生まれ。真言宗豊山派布教研究所研究員。豊山流大師講(ご詠歌)詠匠。大正大学を卒業後、英語教師を経て、25歳で明治以来住職不在だった密蔵院に入る。仏教を日常の中でどう活かすのかを模索し続け、写仏の会、読経の会、法話の会など、さまざまな活動をしている。著書に『気にしない練習』(知的生きかた文庫)、『いちいち不機嫌にならない生き方』(青春新書プレイブックス)などがある。

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(元結不動密蔵院住職 名取 芳彦)

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