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「人生こんなはずじゃなかった…」から昇る人と落ちる人の決定的違い

プレジデントオンライン / 2021年9月26日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Alekseyliss

身勝手な隣人や同僚のせいで、いつも損をする。「あの人を許せない」という気持ちが抑えられない。いったいどうしたら? 下町和尚として人気の名取芳彦住職は「“怒り”はあっていい、でも“自分の怒りのツボ”を知ろう」と言います。セブン‐イレブン限定書籍『不安の9割は起こらない』より、心穏やかな毎日を手にするマインドセットのコツを特別公開します──。(第4回/全4回)

※本稿は、名取芳彦『不安の9割は起こらない』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■「こんなはずじゃなかった」というのが人生

人生設計という言葉があります。30代ではこうなって、40代でこうなっている。50代でこんな暮らしをして、60代ではこうなっているだろう、という自分の人生の相対的なイメージです。

現在の暮らしぶりを起点に、客観的に人生を展望できる天才もいるかもしれませんが、実際は、「設計」などと言いながらほとんどがイメージ、希望的観測によるものと言っていいでしょう。

もっと言えば、大半が「こんなはずではなかった」というのが人生ではないかと思います。

自分ではどうにもできないことが原因で、人生設計の変更を余儀なくされるケースもあるでしょう。あるいは、自分のふがいなさ、放蕩三昧(ほうとうざんまい)、不倫などで人生設計を狂わせてしまうこともあるのではないでしょうか。

順風満帆な人生などあり得ない。こう考えておいたほうが、堅実な生き方を全うできるのではないかと思います。

■善か悪かを判断する方法

私自身、20代の頃は、仏を信じていませんでした。それが30代で仏教に出会い、心からその出会いを良かったと思うようになりました。これも、20代の頃に思い描いた人生設計とは違っています。

30代から仏教をみなさんにお伝えすることが生きがいになりましたが、その頃に描いた人生設計では、49歳から執筆活動に入るなどということは夢にも思っていませんでした。

予想もしなかったこと、想定外の事態、これが良いことなのか、悪いことなのか、その時点では分かりません。

仏教では、時間が経過して心が穏やかになることならば「善」、心が乱れるようなことならば「悪」としますが、さりとて、そこにさまざまな「縁」が加わり、道が曲がったり逆転したり、というのはよくあることなのです。

■いろいろな「風」に合わせて「帆」を変える

人生100年時代といわれる中、これから先も予想もしなかったこと、想定外のあれやこれやが次々と起きていくのでしょう。つまり、人生に順風満帆はあり得ない、ということです。

ただ、「順風満帆」についても、いくつか考え方があります。もっとも普通に解釈されているのが、「追い風」を受けての順風満帆。順風というのは、そういう「帆をいっぱいに膨らませてくれる一方からの風」のことでしょうし、1本柱に1枚の帆という日本の帆かけ船ならば、そういうイメージが浮かびますね。

しかし、海上も人生も、いつもいつも順風、つまり追い風ばかり吹いているわけではありません。いや、どちらかといえば、横風や斜め風、逆風のときのほうが多く、ときどきは台風のような大嵐に遭遇することもあるわけです。

そうした順風ではないとき、西欧の4本マストの帆船ならばどうか。たくさんの帆の張り方を千変万化させて、どんな方向からの風も受けられるようにする。時には逆風でも、目指す方向に船を進めて行ける思考法と技術を持っています。

風向きが変わったらそれに合わせて帆の向きも変える。そういう臨機応変の生き方ができるならば、ワザありの「順風満帆人生」が送れるかもしれませんね。

■世の中には勝ちもなければ負けもない

私たちは、何かというと「あれかこれか」という話のつけ方をしてしまいます。さまざまな「分かりにくいこと」を分かりやすくするためのものごとの「二極化」ですが、世の中、そう簡単に「あれかこれか」「白か黒か」で決着がつくものではありません。

ものごとが「分かりにくい」のは当たり前なんです。ですから、「あれかこれか」「白か黒か」などと問われても、結局、そうした二極化のせいで逆に迷ったり、悩んだりすることになるわけです。

仏教のお経は8万4000あるといわれていますが、その中でもっとも読誦(どくじゅ)され、写経されているのは「般若心経」です。「般若心経」は、実は全部で300文字足らずの短いお経。ゆっくり読誦すれば約4分、早く読めば40秒くらいで終わってしまう短さですが、そこで説かれていることはたとえようのない大きさ、広さ、深さを持っています。

前半で説かれているのが、「空(くう)」の大原則。すべてのものごとは「あれ」とか「これ」といった変化しない固有の実体はなくて、「縁」の集合体であり、絶えず変化し続けるという真理です。

この「空」の大原則をもう少しやさしく解説すると、次のようなことになります。たとえば「生」と「滅」、「垢(あか)」と「浄」、「増」と「減」といった対立概念、二極の概念をあげて、「そんなものは実体としてあるわけではない」と否定しています。そしてこの考え方は、先にあげた3つの例だけでなく、対立概念すべてにいえることだとしています。

そのように考えれば、世の中には「勝ち」もなければ「負け」もありません

■勝ち負けに固執する人の心理

勝負の世界を見れば、「相撲に勝って勝負に負けた」などという言い方が定着していますし、究極的に言えば「戦争に真の勝者なし」もそういうことですよね。

しかし、世の中には勝負にこだわる人、いわゆる「白黒」をつけたがる人が少なからずいます。

そういう人はほとんど「勝つ」ことにこだわり、「負け」を怖れます。そして往々にして勝てば傲慢になり、負ければ相手を怨(うら)んだり憎んだり、といったことになってしまうのです。いずれにしても、穏やかな心は求めようもありません。

同じようなことは、「損」と「得」、「多」と「少」、「善」と「悪」といった対立概念にもいうことができます。その対立、二極に分かれる境目がどこにあるのかを考えてみれば分かると思いますが、それは時代によって変わったり、人によって異なったりするものなのです。

ビジネスとデザインのコンセプト:チェスのコマ
写真=iStock.com/voyata
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/voyata

■般若心経が教える「二元化しない生き方」

今「損」だと思っているものが、1年後に「得」になったりするのはよくあること。「正」や「多」や「善」にしても、時代、価値観、地域が変われば簡単に評価がひっくり返ってしまうものばかり。まるでオセロゲームですね。

般若心経は、対立概念の境目で思考停止せずに、「正と誤などの対立概念からは離れたほうがいい。気にしないほうがいい。そう悟りなさい」と説いています。

世渡りの中では、二極化、白黒つける二元論は分かりやすい思考法かもしれません。ただ、それにこだわっていると迷路に入ってしまうことがよくあります。

ものごとを二元化しない生き方のほうが、ずっと楽だよ、と般若心経は教えてくれているのです。

■「らしさ」ほどあやふやなものはない

「らしさ」って何だろう、と思います。まず、「男らしさ」「女らしさ」という言い方がありますね。ほかにも「中学生らしく」「会社員らしく」「お坊さんらしく」とか、まあ、山ほどの「らしさ」があります。

よく耳にするフレーズの中では、変な言い方かもしれませんが、いちばん小さな「らしさ」が「自分らしさ」、いちばん大きい「らしさ」が「日本人らしさ」でしょうか。

しかし、改めて考えてみると、この「らしさ」ほどあやふやで、よく分からないものはありません。「らしさ」というからには、そのおおもと、基準になるものがあるはずですが、これが聞く人によって答えがさまざまなんですね。

「自分らしさ」といったって、本当に「自分」というものが何なのか分かっている人に、残念ながら私は一度も出会ったことがありません。自分が何だか分からなくて「らしさ」といったって、という感じです。

逆に、一人ひとりに「自分らしさ」があるとするならば、日本人1億2000万人それぞれに「らしさ」があることになりますから、それこそ「日本人らしさ」といったざっくりとしたまとめ方など、とてもできるわけがない。こういうことになるのではないでしょうか。

■「空の教えによって異議あり」

そこに仏教は、「空」の教えによって異議あり、と唱えます。

「空」とは、「すべてのものに、変化しない固有の実体はない」という教えです。この教えに従えば、変化しない、絶対的な「らしさ」などはない、ということが分かります。

なぜ、不変の「らしさ」はないのか。それは、すべてのものは「縁」によって現在仮にそうなっているだけで、それに別の「縁」が加わったり、現在の「縁」が減ったりしたら、別のものになってしまうからです。

すべてのものは変化していくもの、変化をやめないものであり、同じ状態であり続けることはありません。そのように、同じ状態は続かないのに、「これはこういうものだ」とレッテルを貼るのは、単なる「こだわり」にすぎません

■「こだわり」とは「その場所から動かない」こと

「こだわる」というのは、「その場所から動かない」という意味。本当は周りに素晴らしい考え方や素敵な世界がたくさんあるのに、何かにこだわってひとつのところから動かない、1カ所にとどまり続けて、ほかの世界を知ろうともしない、そういう良くない状態、困った状態を指して「こだわり」といったのです。

近年は、「こだわりの逸品」とか「この味にこだわりがあって」とか、何か「ひとつのことを究める」といったニュアンスで「こだわり」が使われるようになりました。しかし本来は、「なんだか妙にこだわっちゃって、イヤだねえ」といった感じで、あまり歓迎されない状態を表現するのに使われていた言葉です。

シュールなタッチで描かれた、鏡の中をループする男性
写真=iStock.com/francescoch
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/francescoch

■終わりのないレッテル貼りから抜け出す

「女らしさ」とか「男らしさ」というのも、その人その人のイメージへの単なる「こだわり」「レッテル貼り」に過ぎません。これは「会社員らしさ」とか「学生らしさ」「日本人らしさ」についても同じこと。

一方で、そういう「らしさ」「レッテル貼り」に対して「不快さ」を持ち続けるのもまた、ひとつの「こだわり」かもしれませんね。

そういう「不快さ」をちょっと感じたときは、もうちょっと広い心を持って、こんなふうに考えてみてはいかがでしょうか。

「この人は、レッテルを貼ってものごとを固定化することで安心するんだな」
「そんなレッテル貼りは、あなたらしくないですよ」

そうやって笑いながら対処していけば、きっと心穏やかな日々が送れるのではないでしょうか。すべてのものは変化する。ぜひ、このことを忘れないようにお願いします。

■修羅場を生きている人たち

数ある仏像の中でも、女性に抜群の人気を誇るのが奈良・興福寺の阿修羅像。実はインドの神話に由来する仏教神で、三面の精悍(せいかん)な青年の顔と、異様に細長い6本の腕を持っています。

この阿修羅は、自分の娘を力尽くで奪った帝釈天に対して、何万年もの間敵意を持ち続け、がむしゃらに闘い続けます。そうした阿修羅の姿、すさまじい形相で激しく闘う様子から「阿修羅のごとく」といわれるようになったわけです。

また、果てしなく続く戦乱と闘争の悲惨な状況のことを、阿修羅の「阿」を省いて「修羅場」というようになりました。

「人生は勝つか負けるかだ」とか「人生は弱肉強食だ」などと考えている人は、まさに「阿修羅のごとき」姿で、毎日「修羅場」を過ごしているようなものですから、心穏やかな安息の日々など望むべくもありません。

たまたま「勝った」と思える状況に至ったとしても、そこから先もまた「勝つか負けるか」の地雷原が続きます。このように、果てしない敵意は、結局果てしない不安の日々につながっているということなのです。

■「阿修羅の変わり身」が教えてくれること

仏教は、こうした「敵意を生む勝ち負けへの執着」から早く抜け出しなさい、と教えています。「勝ち負けを問題にしない心」を胸に抱き、勝ち負けが問題にならない人生を歩みましょうよ、と説いているのです。

名取芳彦『不安の9割は起こらない』(プレジデント社)
名取芳彦『不安の9割は起こらない』(プレジデント社)

大暴れしていた阿修羅も、そうした仏教に触れて以降、長々と続いていた帝釈天との闘争を「イチぬーけた」とばかりに、あっけらかんと放棄してしまいます。

それからは、数々の闘争の経験を生かして仏教を守る神となっていきました。

先に例にあげた「勝ち組、負け組」にとらわれている人、「いつも1番」にこだわる人などは、この阿修羅の「イチぬーけた」の心境に思いを巡らせてみてはいかがでしょう。「イチぬーけた」となったときの、晴れやかな阿修羅の表情を思い浮かべてみるのです。

そうすれば、遠からぬ日にきっと、あなたの表情も晴れやかなものになっていることでしょう。

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名取 芳彦(なとり・ほうげん)
元結不動密蔵院住職
1958年、東京都江戸川区小岩生まれ。真言宗豊山派布教研究所研究員。豊山流大師講(ご詠歌)詠匠。大正大学を卒業後、英語教師を経て、25歳で明治以来住職不在だった密蔵院に入る。仏教を日常の中でどう活かすのかを模索し続け、写仏の会、読経の会、法話の会など、さまざまな活動をしている。著書に『気にしない練習』(知的生きかた文庫)、『いちいち不機嫌にならない生き方』(青春新書プレイブックス)などがある。

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(元結不動密蔵院住職 名取 芳彦)

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