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「これがなければピラミッドは建たなかった」古代エジプトの大規模建築に必須だった"ある工場"

プレジデントオンライン / 2021年9月19日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sculpies

古代エジプトのピラミッド建設では、「ビールの醸造所」が併設されていたといわれている。それはビールが労働の報酬でもあったからだ。あるビール考古学者は「ビールは栄養源であり、気分転換のための清涼飲料であり、重労働のごほうびでもあった。十分な量のビールがなかったら、ピラミッドは建たなかったかもしれない」という――。

※本稿は、ブノワ・フランクバルム著、神田順子/田辺希久子/村上尚子訳『酔っぱらいが変えた世界史』(原書房)の一部を再編集したものです。

■クフ王のピラミッド建設に必要だったビールの量

まずはちょっとした計算からはじめよう。

クフ王のピラミッドは紀元前二六〇〇年から二五五〇年のあいだ、二〇年をかけて建設されたというのがエジプト学者の一致した見方だ。

一日一万人が動員され、毎日五リットルのビールが支給された。

一万人×五リットル×三六五日×二〇年=三億六五〇〇万リットルものビールが、この工事だけで消費された計算になる。

しかも当時は何百ものピラミッドや何千ものモニュメントが建造されたのだ! ナイル川の流量は平均毎秒三〇〇万リットル。したがって一三〇〇年ものあいだ、ファラオの地にはもう一本の川、すなわちビールの川が流れていたといっていい。

クフ王のピラミッドに話を戻すと、周辺にすくなくとも一個所の醸造所跡が発見されている。ピラミッドの建設現場は労働者が働き、食べ、眠り、飲む、まるで一個の都市のようだった。

労働者のほとんどは給料をもらっていて、奴隷ではなかった。その多くはナイルの氾濫で手もちぶさたの、失業状態の農民たちだった。

ビールが勤労意欲を高めるだけでなく、賃金がわりでもあったことは、発見された粘土板から明らかだ。

■神が発見した飲み物は労働のごほうび

古代エジプトでは、ファラオから庶民にいたるまで、ビールはだれもが飲む国民的飲料だった。とくに古王国時代(前二七〇〇-二二〇〇)のマスタバ(葬祭用の食具)にはよく登場する。エジプト人はビールにかんしては大真面目で、農耕神にして冥界の支配者でもあるオシリスが発見した飲み物と考えていた。

二〇一一年の「スミソニアン」誌のインタビューで、“ビール考古学者”を自負するパトリック・マクガヴァンはこう語っている。

「ビールは栄養源であり、気分転換のための清涼飲料であり、重労働のごほうびでもあった。ビールという給料。それがなければ反乱が起きていただろう。十分な量のビールがなかったら、ピラミッドは建たなかったかもしれない」。

これまで見つかったビール製造にかんする文書は、醸造所の責任者や経理担当者が会計・管理・技術を記したものがほとんどだ。

具体的にいうと、労働者は一日あたり三、四個のパンと、ジョッキ二杯分(計四~五リットル)のビールを受けとっていた。

ということは、酔っぱらってもめごとを起こした者もいたことだろう。支給されたビールの度数はせいぜい二~三度と推定されている。度数は低いが[非常に高かったとの説もある]、つねに巨大な石を扱うことから事故は多かった。

■「人間としての尊厳を失わせ、心を迷わせる」

ギザでは労働者や職人の墓が六〇〇基以上発見されている。病院もあり、四肢を切断する者も多かった。王家の谷の墓廟を掘削していた労働者たちは、年一〇週の休暇のほか、ビール自家醸造用の大麦の支給を受けられるという特権も得ていた。

大麦
写真=iStock.com/ArthurHidden
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ArthurHidden

こうしたアルコールとの浅からぬ縁は、労働者たちの墓場にまでもちこまれた。エジプトでは二〇一〇年、ギザのピラミッド建設に雇われた労働者の、四〇〇〇年以上昔の墓が公開された。

日干しレンガでできたこれらの墓では、乾燥した砂漠に十数の遺体が埋まっていた。かたわらには、来世での生活のためにビールやパンを入れた容器が置かれていた。当時のビールは非常に腐りやすかったため、材料や製造法を記した文書まで埋められていた。

アメンホテプ二世の大侍従ケンアメンのフレスコ画(前一六世紀)には、地ビールを製造するようすが描かれている。ことアルコールにかんしては、貴賎の区別はなかったようだ。

建設現場では、ビールやパンが貨幣がわりに使われ、書記が酒・パン・穀物の交換比率を決めていた。クリスティアーヌ・デロッシュ・ノブルクールが書き起こした以下の訓示の手紙によれば、書記たちはかなり恵まれていたようだ。手紙は主人が書記に書き送ったものだ。

「聞くところによると、おまえは筆記の仕事を怠り、快楽に身をまかせているという。酒場から酒場をわたり歩いている。ビールがおまえの人間としての尊厳を失わせ、心を迷わせている。(……)ああ、酒が忌いむべきものであることをわかってくれるとよいのだが。そうすれば甘美な酒を呪い、ビールのことばかり考えず、外国の酒を忘れるであろうに(※1)

その一方で、酒に強い者は大いに尊敬された。

クフ王の治世を記したウェストカー・パピルスには、一一〇歳の男が毎日五〇〇個のパンと牛半頭分をたいらげ、一〇〇本のビールを飲み干していた話が感嘆とともに語られている。

また高級ビールは地位の高い人々のためのものだった。

アビドスにあるファラオ・スコルピオン一世(前三二〇〇年)の墓からは、ワインやビールを入れる壺が多数発見されている。

■悪質な醸造家は自分の作ったビールで溺死させられた

かくも“泡立つ”環境では、当然ながらビール醸造家は非常に重要な存在だった。そのことを証するのが、第五王朝(前二四〇〇年)時代のもので、一九六八年にエジプトからユネスコに寄贈された「ビール醸造家」とよばれる彫像だ。

ユネスコのウェブサイトで写真を見ることができる。石灰岩製と思われ、がっしりとした体格に描かれている。いかめしい正面向きの坐像は、ファラオ夫妻や高官の像と通じるものがある。台座に象形文字があり、“ftymhy”という名だったことがわかる。

ただしこの職業に失敗は許されなかった。悪質な醸造家は、自分のつくったビールのなかで溺死刑に処せられた。粗悪な酒を売った者は、死にいたるまでこれを飲まされた。

またカイロのエジプト博物館を訪れる機会があれば、ギザで発見された前二三六〇年頃の「ビールをつくる女性像」も見ておきたい。その恍惚とした表情を眺めていると、ナイル川のほとりでいまも醸造されている古代ビール「ブーザ」を飲みたくなってくる。

神聖な飲み物だったビールは、当初はヘネプトとよばれ、前四世紀のプトレマイオス朝以降はズトスとよばれるようになった。原料は大麦、小麦、ナツメヤシだった。エジプトの文献にはすくなくとも一七種類のビールが記され、「美しく旨い」「天空」「喜びをまくもの」「食事のお供」「豊穣」「発酵」など、シュワシュワとはじけるようなネーミングがなされている(※2)

ビールにはおもに四つの系統があった。zythum(文字どおりは「大麦ワイン」の意。もっとも普及していたライトビール)、dizythum(より強いビール)、carmi(甘いビール)、korma(ジンジャービール)である。

エジプト南部のヌビア人のあいだでは、知らず知らずにビールが病気の治療に役立っていた。ミイラの骨の分析でも、ビールの原料である穀物から生成される抗生物質、テトラサイクリンが多く検出されている。

■労働者たちが好んだビアハウス

当然のことながら、建築事業でもっとも有名な王は、ビールづくりでも傑出していた。ラムセス二世(前一三〇四-一二一三)は、エジプト学者のあいだで「醸造家ファラオ」とよばれている。

このファラオはビールを神聖視し、黄金の杯でこれを飲んだ。アモンラー神を崇拝し、アンフォラ(ビール用の水差し)四六万六三〇八個分のビールを奉納したこともある。約一〇〇万リットルに相当する量だ。水質が悪いため、エジプト人は好んでビールを飲んだ。

自宅でもビールをつくり、建設現場で働く労働者たちが通うビアハウスは、中近東のエキゾティックな雰囲気たっぷりのキャバレーや売春宿もかねていた。腰や太ももに入れ墨をした妖艶な遊女たちの体にしたたり落ちるほどに、ビールがふんだんに供された。

エジプトの東隣バビロニアの『ハンムラビ法典』は、「女性がビアハウスに入るのは不道徳な行為」と戒めている。

■アルコールのにおいが充満する建築現場

ビールから得られる収入を確保するため、ラムセス二世は国営の醸造所をつくってビールづくりを独占した。南部にあるヒエラコンポリスの醸造所では、前四世紀に日産一〇〇〇リットル以上のビールを生産していた。

こうしてファラオは建築現場の監督や兵士、神官に無料でビールをあたえることができた。ラムセスの建設事業はテーべ、カルナック、メンフィス、ブバスティスを中心としていた。

テーべに建てられた王家の葬祭殿「ラメセウム」は、古代エジプト学の父シャンポリオンによって「数百万年の城」とよばれた。その建設に何千人もの労働者が動員されたから、文字どおりビールやワインの匂いが充満していたことだろう。

フランス辛口の赤ワイン
写真=iStock.com/5PH
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/5PH

■ワインの大衆化に勤めたファラオたち

考古学的発掘調査によって、ラメセウムの建設にたずさわる職人たちが住むディール・エル=メディナの集落でワインが支給されていたこともわかっている。これはラムセスを名のる十一人のファラオ以降、ワインも大量につくられるようになったためだ。

歴代のラムセスは肥沃なナイル川デルタ地帯の出身である。ディール・エル=メディナで発見されたヒエログリフ(神聖文字)によると、歴代のラムセス治下では、ワインはビールの五倍から一〇倍も高価だった。それでもファラオたちはワインの大衆化に熱心だった。

ラムセス二世より三〇年後のラムセス三世の時代には、アメン・ラー神殿だけで五一三カ所のブドウ園を所有していた。

ラムセス三世はみずからの事業についてこう語っている。

「わたしは南部と北部のオアシスにブドウ園をつくり、南部地方にも多くの果樹園をつくった。デルタ地帯のそれを何十万倍にも増やし、外国の捕虜のなかから選んだ者に面倒を見させた(※3)

こうして供給が大幅に増え、ワインの消費も拡大した。

すでにセティ一世(ラムセス二世の父)の時代には、ゲベル・シルシラ南部の採石場で何千人もの労働者がワインをふつうに飲んでいたという、王家の使者の報告が残されている。

さらにワインは輸出され、アリストテレス、ソフォクレス、アイスキュロス、ヘロドトス、アテナイオスなどの著作に登場する。

一方で古代ローマの歴史家・地理学者ストラボンは、ギリシアに送られたペルーサ(現ポートサイド)の「大麦ワイン」を絶賛している。

■「ビールの誘惑にひきずられてはならない」

しかし歴代ラムセス王のアルコール好きが万人に共有されていたわけではない。

ブノワ・フランクバルム『酔っぱらいが変えた世界史』(原書房)
ブノワ・フランクバルム著、神田順子/田辺希久子/村上尚子訳『酔っぱらいが変えた世界史』(原書房)

当時の倫理を説いた『アニの教訓』には次のように書かれている。

「ビールの誘惑にひきずられてはならない。自分が考えているのとは逆のことを口にしてしまう。自分が話したことも忘れてしまう。足がふらついて倒れても、だれも手を貸してくれない。そしていっしょに飲んでいた者たちも立ち上がって言う。『この酔っぱらいを追いはらえ』と。だれかが助言を求めにやってきて、あなたが倒れているのを見たら、まるでみじめな子どものように見える」

こんな無粋なことを言い出す者がいたら、どんなすばらしい楽しみも終わりになってしまう。

■アルコールの禁止とともに大規模建築も消滅

七世紀以降はエジプトのイスラム化にともない、アルコールの消費量は減少した。ワイン(アラブ人はハムルという)などは原則的に禁止されている。飲んだ者は笞打ち四〇~八〇回を受ける。

金持ちのエジプト人は加熱処理した甘いワイン、干しぶどうやナツメヤシ、蜂蜜のワインを飲むことができたが、それも一〇〇九年以降は禁止された。この時代から見ると、ピラミッドなどの大規模な墓廟の建設は遠い昔の話になる。

そこで懐かしく思い出されるのが、ロンドンの大英博物館に保存されている、葬儀神官ホレムケネシの「欠勤簿」だ。ホレムケネシはラメセウムで働く労働者四〇人を監督していたが、半年間で皆勤はわずか二人だったと嘆いている。残りの三八人の欠勤理由はさまざま。上司や同僚への「奉仕」、詳細不明の「体調不良」、妻や娘の生理痛、そしてずばり、ビールづくりや二日酔いである。

〈原注〉
※1 La femme au temps des pharaons. Christiane Desroches Noblecourt. Stock. 2001.
※2 L’histoire du monde en six verres. Tom Standage. Kero. 2019.
※3 La vie quotidienne en Égypte au temps des Ramsès. Pierre Montet. Hachette. 1946.

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ブノワ・フランクバルム ジャーナリスト
1997年に「ラ・プロヴァンス」紙でデビュー。2000年、パリ実践ジャーナリズム学院で学位を取得。2004年からはさまざまな雑誌を活躍の舞台としている。

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(ジャーナリスト ブノワ・フランクバルム)

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