「最期は家に帰りたい」6年間のがん闘病の末に帰宅した70歳女性は、家族に囲まれ、笑顔で逝った
プレジデントオンライン / 2021年9月22日 11時15分
※編集部註:厚生労働省の「人生の最終段階における医療に関する意識調査」(平成29年度)によると、末期がんと診断され、人生の最終段階の状況において過ごす場所について、一般国民の47.4%が「自宅」と回答した。医師は66.5%、看護師は69.3%、介護職員は61.8%で、医療従事者は一般国民より自宅を希望する割合が高かった。
■末期がん特有のだるさや痛みが相当あったはずなのに
「もう十分生きたわ。幸せだった」
6年間がんと闘病した柿谷厚子さん(70歳)は、自宅の、玄関が見える位置に置いたベッドの上でそうつぶやいた。亡くなる前々日、訪問看護師の小畑雅子さんが厚子さんの体をさすっている時のことだった。
「幸せ」という言葉が、小畑さんの胸に響く。
「厚子さんは自分がこの世からいなくなることを理解されていました。しかも末期がん特有のだるさや痛みが相当あり、どんなに苦しいだろうっていう時です。私だったらそこで『幸せ』って思えるだろうか、言えるだろうか。すごい人だと思いました。恨み言も不安も口にせず、最後まで笑顔いっぱいだったんです」
次男の柿谷徹治さんは、身の回りの世話をしていた際、横たわる厚子さんから「ありがとう」と声をかけられた。
「いや、特別なことじゃないから。ありがとうなんて言わなくていいよ」
徹治さんは母親の顔を見ずに、そう答えるのが精いっぱいだったという。
その翌日の2016年10月2日が、厚子さんの命日になった。
■担当医から「治療しても余命3年」と告げられた
厚子さんががんと診断されたのは、2011年11月。「腰が痛い」と、地域にある大病院を受診した。CTには肝臓に4つのがん、尿管に大きながんが映し出された。がんが尿管を圧迫していて、一つの腎臓が機能していない状態だったのだ。肺にも小さなかげがあった。入院し、時間をかけて原発がん(最初に発生したがん)を調べると、大腸がんであることが判明。肺や肝臓にあるがんは、大腸がんからの転移であり、がんがかなり進行した「ステージ4」という診断が下された。その時点で、担当医から「治療しても余命3年」と告げられた。厚子さんの夫、柿谷嘉規さんは悔しそうに振り返る。
「その年の6月にも『腰が痛い』と、以前大腸ポリープを切除した診療所にかかったんです。でも診療所の先生は『お年だから』と。女房はその時、65歳でした。あの時もっとちゃんと病歴などを調べてもらったらって……」
担当医は厚子さんに病名と病状を告げた。家族の心配をよそに、厚子さんは自分の体ががんに冒されていることをしっかり受け入れたという。
「母の姪は、30歳の時に胃がんで亡くなっているんです。それに比べて自分は、僕も兄も大きくなるまで生きることができた。兄夫婦の子供、つまり自分の孫にも出会えた。だから仕方ない、と思ったようです」(次男の徹治さん)
まもなく抗がん剤治療が始まった。
■息子の徹治さんは病院に「休薬」を申し出た
家族は病院での治療だけでは心もとないと感じ、厚子さんに都心の免疫療法や温熱療法などを勧め、その治療も平行して行われることになった。
当時は、周囲が「本当にがんなんだろうか」と疑うほど厚子さんは元気だったという。さまざまな治療に通うのに、厚子さん自ら車を運転するぐらいなのである。
ところが新しい抗がん剤を試しはじめると、副作用で体調が悪化していった。
「髪の毛は抜けるし、上の血圧が200ぐらいまであがるし、全身も湿疹だらけで……。食欲も出なくなっていったんです」と、嘉規さん。「大病院の医者は女房の顔を見ずに、パソコンばっかり見ておったから」と怒る。
徹治さんは病院に「休薬」を申し出て、セカンドオピニオン(担当医以外に「第2の意見」を求めること)のために都心の病院を訪ねた。
「当時は僕も東京にいたし、兄も都会に住んでいましたから、実家のある田舎の病院で受ける治療に不安がありました。都会みたいにいろんな病院を選べるわけじゃないですから。もちろん選べないからこそ、かえってここで頑張ろうと、決断しやすい面もあるかもしれません。でも、あの時は簡単に割り切れませんでした。東京なら病院を選べるのにと思って、『僕の家に来て治療を受けないか』と提案したこともあります。でも、母は『うん』とは言わなかった」
厚子さんにしてみれば、夫を一人で残すことに不安があったのだろう。
■抗がん剤を変更すると、たちまち元気になった
セカンドオピニオンでは、現在の治療方針でも問題ないといわれた。地元の病院での抗がん剤治療が再開された。
「ただし副作用の強かった抗がん剤は変えてもらいました。たとえ抗がん剤が効いたとしても、ひどい副作用に悩まされるようでは、生活の質が維持できません。そこは本人だけでなく家族が判断し、医師に伝えていく必要があるのではないでしょうか。実際に母は抗がん剤を変更してたちまち元気になったんです」(徹治さん)
その後も抗がん剤の種類を変えながら、それなりに効果が続いていった。
4年後の2016年、腫瘍マーカーの値が下がらなくなり、食欲が急激に低下した。
柿谷家にとって、いつもケタケタと笑う厚子さんは、太陽のような存在だ。夫の嘉規さんも、次男の徹治さんも、言葉の端々に「絶対に失いたくなかった」という思いがにじむ。「がん末期にラドン温泉がいい」と聞けば、家族で湯治に出かけた。「がんに効くという水」があれば、片道4時間かけて徹治さんが何十リットルもの水をくみにいった。
しかし——2016年8月、ついに抗がん剤が効かなくなった。
■厚子さんは「最期は家で過ごしたい」と応えた
「もって2カ月でしょう」
担当医は家族にそう告げた。そして「この後はどうしますか?」と問いかけた。治らない患者を前に、もう熱心に治療する気がないようだった。
「(抗がん剤が)効かないから、次は緩和治療のために緩和病棟に移ってください、と流れ作業のように言われたんです」。徹治さんは当時を振り返り、「もっと向き合ってもらいたかった」とつぶやく。
夫の嘉規さんは抗がん剤が効かなくなったことだけを妻に伝えると、厚子さんは「最期は家で過ごしたい」と応えたため、家族は担当医に「在宅診療に切り替えたい」と申し出た。
「女房の母親がずっと病気のため入院していて、手術が終わった後に目が覚めないまま帰らぬ人になってしまったんです。それが本人はすごく悲しかったみたいですね。家族が立ち会えないこともそうだし、最後の瞬間に自分の意識がないまま逝く、というのが嫌だったようです。そういう意味で在宅を希望したんでしょう。女房は介護ヘルパーをしていたんで、在宅の状況も、自分の死期もよくわかっていたと思います。本人は緩和治療に否定的だったのですが、元同僚のケアマネジャーさんに説得されて訪問看護師の方を紹介してもらい、訪問医にも来てもらう体制を整えました」
■「小畑さんがうちに来るとぱっと明るくなって」
この時に出会ったのが、のちに厚子さんの心を支える訪問看護師の小畑雅子さんだ。小畑さんはいつも笑顔を忘れず、時にユーモアをまじえて周囲を和ませながら、キビキビと働く。だが陰では、患者や家族のことを案じて、たびたび涙を流す細やかな人でもある。
徹治さんも「親しみやすくて、小畑さんがうちに来るとぱっと明るくなって」と言う。
「母が頼りにしているのがわかりました。ケアマネジャーさんもさまざまな手続きを進めてくれて、車いすや介護ベッドをすぐに用意してくれました。私たちを遠慮なく呼んでください、使ってくださいと言ってくれたんです」
厚子さんはここから2カ月間、自宅で寝たきりの生活になった。
母親っ子だった徹治さんは、兄嫁から「もって2カ月」という医師の診断を電話で聞いた時、とても受け入れられないと思ったという。その日のうちに長年勤めていた会社の上司に状況を話し、休職を申し出て実家に戻った。
■「家族みんなが無理なく支えられた」
「変な話ですが、あの時は家族みんながいいタイミングだったんです」と、徹治さんは言う。
「その一年前でしたら仕事が忙しくて休職は厳しかった。当時は仕事が一区切りつき、ある程度蓄えもあって仕事を休んでも辞めてもいいという状況だったんです。独身だったから身軽でしたしね。兄も転職して実家近くに帰ってきていて、父も独立して自営業だったので母親をサポートできました。『家にいたい』という母の希望を、みんなが無理なく支えられる状況だったと思います」
末期がんの患者が家で過ごす場合、疼痛管理が大切になる。看護師の小畑さんが説明してくれた。
「厚子さんは腹水で体がぱんぱんで、横を向くこともつらかったと思います。それで『マルチグローブ』を使って、厚子さんの体をずっとマッサージしました。体をさすりながら、生きること、死ぬこと、家族のこと、いろんな話をして……。痛みを緩和する医療用麻薬も使いましたが、それ以外にマッサージしたり、気分が変わる話をしたりすることも重要です。そして家族みんなが厚子さんに気持ちが向いてケアを頑張れるようにサポートするのも、私たちの務めだと思っています」
■自宅で過ごせて、とても嬉しそうだった
夜は徹治さんが厚子さんの隣に寝て、寝返りがうてない厚子さんの体にクッションをはさんであげたり、痛みでうんうんうなっている時は足をさすったりした。
排泄は、徹治さんの兄の妻を含む3人がかりで車いすに乗せ、厚子さんをトイレに運んだ。
「私がオムツを提案したこともあります。でも厚子さんは本当に最後まで『トイレに行きたい』とがんばっていました」と小畑さん。
「自宅で過ごせて、とても嬉しそうでした。厚子さんの寝ているベッドから、玄関が見えるんです。だから誰が来たか、すぐわかる。孫がバタバタと帰ってくると『帰ってきたー』と喜んで、『こけないでね』と心配する。玄関からさーっと風が入ってきて、私が『いい風』と口にすると、ニコッと笑う。表情がころころ変わるんです。何度も『幸せ』と言って、でもだからこそ家族とお別れしたくないんだな、死にたくないんだなと感じる時もありました」
亡くなる1週間前から小畑さんは「そろそろ覚悟したほうがいいかもしれない」と家族に伝えた。
■「まるで仏様みたいに安らかな顔でしたよ」
「ずっと看護をしていると、死が近いかもしれない……という兆候を感じるんです。血圧が下がる、尿量が減るなどといった経過とあわせてサインをつかみとったら、家族の反応をみて心が乱れないように配慮しながらお話をしていきます」
亡くなる前日、厚子さんは途中まで一言、二言の会話ができたが、やがて目をかっと見開いて苦しそうな様子に変わっていったという。
「寝ていても目が開いていて……薄目ではなくギョロ目で目が合うんです。でももう意識がないようでした」(徹治さん)
日付が変わって午前0時半頃。顎で呼吸する下顎呼吸が始まった。厚子さんの隣で寝ていた徹治さんは、ひとつ屋根の下に眠る父親の嘉規さん、兄夫婦を起こしにいく。4人が見守るなか、それから30分程度で厚子さんは眠るように息を引き取った。「人間死ぬ時は穏やかな顔になるんだ」と、嘉規さんは思ったという。
「まるで仏様みたいに安らかな顔でしたよ」(続く。第2回は9月23日11時公開予定)
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ジャーナリスト
1978年生まれ。「サンデー毎日」記者を経て、2018年よりフリーランスに。著書に『週刊文春 老けない最強食』(文藝春秋)、『救急車が来なくなる日 医療崩壊と再生への道』(NHK出版新書)、『室温を2度上げると健康寿命は4歳のびる』(光文社新書)など。新著に、プレジデントオンラインでの人気連載「こんな家に住んでいると人は死にます」に加筆した『潜入・ゴミ屋敷 孤立社会が生む新しい病』(中公新書ラクレ)がある。
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(ジャーナリスト 笹井 恵里子)
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