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「日本で最も独創的な経営者」阪急電鉄創業者・小林一三が日本で最初に配った"あるもの"

プレジデントオンライン / 2021年10月11日 10時15分

阪急電鉄をはじめとする阪急阪神東宝グループの創始者、小林一三 - 写真=時事通信フォト

阪急電鉄をはじめとする阪急阪神東宝グループの創始者、小林一三は独創的な経営者として知られる。作家の福田和也さんは「阪急電鉄の前身である鉄道会社の経営を委ねられた際、事業展開を記したパンフレットを作成し、大阪で配って宣伝した。これぞ彼の面目躍如というべき企画だ」という――。

※本稿は、福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)の一部を再編集したものです。

■世界的にも類例のない、独創的な経営者

近代日本の経営者、財界人のなかで、最も独創的なのは誰だろうか――。

明治以来、あまたの財界人が澎湃(ほうはい)と登場した。松下幸之助、渋沢栄一をはじめとして、岩崎弥太郎、益田孝、中上川彦次郎、原三渓、松永安左衛門……。

それぞれが強力な個性をもち、価値ある事業を作り上げた人物だが、こと独創的ということになると、評価は難しい。

彼らは欧米の経営者たちが作り上げたビジネス・モデルを真似て、わが国の文化、風土に馴染むように手を加え、適合させた。資源も金もないわが国を、一流の工業国、貿易国にした、先人たちの偉業は尊敬に値する。とはいえ、その「偉業」が輸入品であり、コピーであり、模倣品だったということもまた、否定できない。

そんな中で、只一人、世界的にも類例のない、独創的な経営者と、正面から呼ぶことができるのが小林一三である。

現在、鉄道のターミナルと百貨店を結合するのは、ごく当たり前のことだ。今日では一般化したこのモデルを世界で初めて創始したのが、一三である。一三はさらに沿線にサラリーマン向け住宅を建てて分譲し、阪急電鉄の終点に宝塚歌劇劇場など娯楽、観光施設を建てている。百貨店、鉄道、不動産、娯楽という事業は、たしかに個別には存在していたが、その要素を緊密に結びつけた一三は、やはり「天才」の名に値する企業家といえるだろう。

一三は電力事業や製罐(せいかん)、製鋼、化学産業にも関わっている。映画、演劇といったソフトから、重工業にいたる、事業のレパートリーの広さは、やはり絶後と、言うべきだ。第二次近衛内閣の商工大臣、幣原(しではら)内閣の国務大臣兼復興院総裁として、二度、閣僚を務めている。

■数え年三歳で家督を継ぐ

小林一三は、明治六年、山梨県北巨摩郡韮崎町に生まれた。その名前は、誕生日が一月三日だったことに因(ちな)んだという。小林家は富農で、農業だけでなく、酒造や生糸などを手広く商っていた。母のいくは家つき娘であった。甲州でも一、二と言われた豪農の丹沢家から婿として甚八を迎えて、一三を産んだが、産後、半年にして病死し、父甚八は、実家に戻った。

その後、甚八は、甲州の酒造家、田辺家に婿入りし、七兵衛と改名している。甚八改め七兵衛は、田辺家に四人の男子をもたらした。長男の七六は、衆議院議員となり、中央電力、日本軽金属の社長を務め、次男宗英は、後楽園スタヂアムの社長、三男の多加丸は、日本勧業銀行の理事になっている。

つまるところ、七兵衛の息子たちは、いずれも一廉の人物となったわけだ。一三は数え年三歳で家督を相続した。跡取りであったため、周囲からの羈絆(きはん)を受けることなく、野放図に振る舞っていたという。

韮崎の小学校を卒業した後、当時、地元では最も先鋭的で英語、数学を教授する、八代の加賀美嘉兵衛の成器舎の寄宿生となったが、翌年、腸チフスに罹り、休学を余儀なくされている。

■文学に夢中になった慶応義塾大学時代

明治二十一年二月、一三は、上京し慶應義塾に入学し、当時、塾監の任にあった益田英次(鈍翁益田孝の弟)の家に下宿した。慶應在学中、一三は演劇と文学に耽溺した。坪内逍遙が『小説神髄』を発表し、尾崎紅葉、山田美妙、二葉亭四迷、幸田露伴ら、明治文壇を担う豪傑たちが澎湃として登場していた頃である。

慶應義塾大学
写真=iStock.com/mizoula
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mizoula

一三が昂奮するのも無理はない。しかも一三の慶應における保証人であった高橋義雄(箒庵)は、書肆金港堂と懇意で、みずからO・ヘンリーの翻訳を手がけていた。保証人が先を切って文学の道を歩んでいるのだから、一三が勇みたつのは当然のことだろう。

高橋は、時事新報の記者になった後、三井銀行に入った。一三は文学への志を捨てがたく、当時、文芸新聞として名を馳せていた都新聞の記者を目指したが――当時、新聞の連載小説の執筆は記者の領分だった――、同社の内紛により果たせず、結局、高橋の斡旋(あっせん)で三井銀行に勤めることになった。

■三井銀行時代に財界の巨頭たちと出会う

明治二十六年、一三は、十等手代月給十三円という身分で、日本橋室町の三井銀行本店に勤務することになった。初めに配属されたのは、秘書課だった。

毎週一回、三井財閥の最高決定会議である仮評議会が、本店三階で開かれる。総本家の三井八郎右衛門、三井高保、中上川彦次郎、益田孝、三野村利助、渋沢栄一ら、お歴々が集まった。

一三の仕事は、その席で茶や弁当を配るくらいのものだったが、財界の巨頭たちの議論に、直接触れることができたのは、貴重な体験であった。

同年九月、一三は大阪支店に転属となった。兄貴格の高橋が呼んでくれたのである。転勤に際して秘書課長から「大阪に行くと必ず悪いことを覚える」と注意されたが、その通り、すぐに遊里に通い始めた。

「人力車の勇ましい音に驚いて、私は振返って見た。車上の人は艶色矯態、満艦飾の舞妓姿である。芝居の舞台と絵画とによって知っている活きた舞妓を初めて見たのである。(中略)もし、大阪から色街を取除けるものとせば、すなわち大阪マイナス花街、イクオール零である、と言い得るほど、花街の勢力は傍若無人であったのである」(『逸翁自叙伝』)

一三が二十一歳の八月、日清戦争が始まると、広島に大本営が置かれ、一三は大阪から広島への現金輸送に従事した。二十三歳の時、岩下清周が、大阪支店長として赴任してきた。岩下との出会いは、あらゆる意味で、一三にとっては巨きなものだった。

信州松代に生まれ、東京商法講習所に学んだ岩下は、母校で教鞭を執った後、明治十一年、三井物産に入社、アメリカ、フランスに在勤し、品川電灯会社を創立した功績で財界の信認を得て、三井銀行の支配人となった。

岩下の融資方針は大胆きわまるものであった。鉄商として名を馳せた、津田勝五郎に対して、たびたび巨額の当座貸し越しを見逃していた。また、これまで銀行が融資をしなかった、北浜の株式市場や堂島の米相場にも、資金を提供した。貸付係の一三は、いつもはらはらさせられた。

明治三十年、岩下は横浜支店に左遷された。藤田組への金融援助を三井銀行理事、中上川彦次郎に批判されたためである。岩下は、三井銀行を辞め、藤田伝三郎と北浜銀行を設立した。一三は、岩下の配下と目されており、当然、北浜銀行に行くものと見られていた。実際、同僚だった堂島出張所主任の小塚正一郎は、岩下の膝下についた。一三は、懊悩(おうのう)した。岩下は小塚を支配人に、一三を貸付課長にするつもりでいたらしい。

新しく大阪支店長として赴任した上柳清助からは、岩下の元に行くのか、三井に残るのか、態度をはっきりさせてほしいと要求されたが、一三は決められないでいた。結局、一三は貸付係から預金受付係に左遷されながらも、三井銀行に残った。

■北浜銀行の設立者の最後

岩下は、北浜銀行の頭取に就任すると、財界に限らず、軍部の巨頭――山縣有朋、桂太郎、寺内正毅――とも深い関係を結び、衆議院議員となり、大阪を代表する政商となった。

北浜銀行は、大胆な融資で規模を拡大したが、大正三年、二回にわたって取り付けにあった末、岩下は背任横領に問われて有罪判決を受けた。

大阪一の料亭とうたわれた大和屋主人、阪口祐三郎は、大阪のために尽くしてくれた、岩下の名誉回復を企てた。

岩下の事業の中でも、生駒トンネルの開通は大事業で、当初、七十五万円の予算が三百万に膨らんだが、結局、為し遂おおせた。

「岩下さんという方は実に気の毒や。あんな人をほっとくのは、大阪人の恥や、自分のことは放っておいて、大阪に尽くした人やから、ぜひ、銅像を立ててあげたい。ひとつ協力してほしい」と、阪口は一三に持ちかけた。

一三は、趣旨には賛成したが、御遺族の意向が気がかりだった。

阪口が遺族にもちかけると、御厚意は嬉しいが……という返事だった。

債権者の問題などがあったのだろう。

阪口は、少女歌劇を最初に企画したのは、自分だと言っている。六十人くらい、芸者を抱えていたので、彼女たちを使って舞台をやったら、と考えていたら、一三に先手を打たれてしまったのだという。

■阪急電鉄の前身となる鉄道会社を経営することに

明治四十年、小林一三は、阪鶴鉄道の監査役になった。阪鶴鉄道は、現在のJR舞鶴線と福知山線を経営する私鉄会社だったが、明治三十九年に公布された鉄道国有法によって政府に買収されることになっていた。

一三が阪鶴の監査役を務めた期間は短いものだったが、新しく大阪を起点とし、池田、宝塚、有馬を結ぶ電気軌道を設立しようとする計画が建てられた。一三は、土居通夫、野田卯太郎ら関西財界のお歴々を相手に、失権株すべてを自分ひとりで引き受けるという、大胆な提案をした。土居らは、一三が自分たちに一切迷惑をかけないこと、会社を解散する場合は株主に証拠金すべてを返し、証拠金五万円は一三が支払うという厳しい条件の下、新しい鉄道――箕面有馬電軌――の経営を一三に委ねた。

明治四十一年十月、一三は『最も有望なる電車』というパンフレットを一万冊、大阪市内で配布した。パンフレットは、問答形式で編まれている。

「箕面有馬電気軌道会社の開業はいつごろですか」
「明治四十三年四月一日の予定です、先づ第一期線として大阪梅田から宝塚まで十五哩マイル三十七鎖チエーン及び箕面支線二哩四十四鎖、合計十八哩一鎖だけ開業するつもりです、そして全線複線で阪神電気鉄道と凡(すべ)て同一式であります」
「それだけの大仕事が現在の払込金、即ち第一回払込金百三十七万五千円で出来ますか、それとも払込金を取るお考へですか」
「株主が喜んで払込金をする時まで払込を取らなくて屹度と開業して御覧に入れます」

まさしく、小林一三の面目躍如というべき企画である。当時、広く社会に会社の事業を公表し、賑やかに宣伝するといった経営者は、ほとんどいなかった。一三自身、このパンフレットこそ日本最初のパンフレットだと、自負していたという。

パンフレットの第二弾は、『如何なる土地を選ぶべきか、如何なる家屋に住むべきか(住宅地御案内)』と題されたもので、当初から一三が鉄道事業と不動産事業の結びつきを目指していることが解る。

石橋駅で阪急電車
写真=iStock.com/EarthScapeImageGraphy
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/EarthScapeImageGraphy

■通勤車両では必ず立っていた一三

多岐にわたる分野で活躍した小林一三は、多くのエピソードを残している。たとえば、毎日新聞社の名物記者だった阿部真之助はこんな話をしている。

阿部は宝塚沿線の池田駅近くに長く住んでいた。池田は、一三が分譲した住宅地で、一三も自宅を構えていた。当時、新聞記者は、優待パスを箕面有馬電気軌道から支給されていた。まだ、そんなに乗客が多くない時代で、阿部たちは毎日、座って梅田まで通っていた。

一三は、毎日、車内では立っていた。

ある日、たまたま、電車が混んでいた時があった。阿部が座席に座っていると、一三がやってきて、「君、立ってくれんか」と言う。とっさに何を言われているのか分からなかった阿部が、なんでですか、と問うと、一三は、「君は只じゃないか」と返してきた。御本人が立っているのだから仕方がない、阿部はやむなく座席を立った。(『小林一三翁の追想』)

■部下である岸信介との対立

昭和十五年七月、一三は第二次近衛内閣の商工大臣となった。一三の部下になった商工次官岸信介は、挨拶に赴いた。一三は、初めから、喧嘩腰だった。

「岸君、世間では小林と岸とは似たような性格だから、必ず喧嘩をやると言っている。しかし僕は若い時から喧嘩の名人で、喧嘩をやって負けたことはない。また負けるような喧嘩はやらないんだ。第一、君と僕が喧嘩して勝ってみたところで、あんな小僧と大臣が喧嘩したといわれるだけで、ちっとも歩がない。負けることはないけれど、勝ってみたところで得がない喧嘩はやらないよ」(『岸信介の回想』)

一三にも、初の入閣という事態に対して、かなりの気負いがあったのかもしれない。岸が商工省きっての切れ者、実力者であるという認識も、その口吻に影響を与えたかもしれない。岸の、一三に対する評価はかなり厳しい。

「小林さんはなかなか鋭いけれど、たとえば電気の問題でも、この電信柱は背が高すぎるから切ってしまえとか、電気の本質そのものを問題にするのではなくて、それに関連のある問題について、すぐ処置するという傾向があった」(同前)と、指摘している。

大戦下、商工大臣だった岸は、東條内閣を倒閣するために辞表の提出を拒んだ。戦前の内閣制度では、閣内不一致の場合、当の大臣が自主的に辞表を出さないかぎり、内閣は倒閣してしまう。憲兵隊による執拗(しつよう)な脅迫に対して岸は屈することをせず、東條内閣を総辞職に追い込み、終戦への道筋を作った。この功績は、岸信介にとって安保改定と並ぶ、あるいはより巨きな功績といえるだろう。

岸は一三にとって敵視するのではなく、懐に入れて働かせるべき人物だった。その岸を、一三が認めなかったのは、残念至極である。

昭和二十六年、民間放送が認可されて、ラジオ東京(現在のTBS)が発足した時、その運営にかかわることになっていた毎日新聞社専務の鹿倉吉次は、一三に相談した。一三の反応は、思いがけないものだった。

「アメリカでは、商業放送がたいへん発展したのは事実だ。だが、日本では、すでにNHKがあるから、聴取者は、広告放送をきかない。だから成功するはずがないから、止めた方がいい。NHKを分割するならともかく、他に作るのは賛成できない」

鹿倉は、すでに約束したことなので、と謝意を述べ、一三邸を去った。数年後、一三は、鹿倉の家を訪れ、頭を下げたという。

「今日は君に謝りに来た。ラジオに対する見通しを完全に間違えていた、今日はその取り消しにやってきたのだ」(『小林一三翁の追想』)

■驚くほど扱いが小さかった訃報記事

小林一三は、昭和三十二年、一月二十五日午後十一時四十五分、急性心臓性喘息により逝去した。八十四歳であった。前年夏から心臓が弱り、一進一退を繰り返していた。調子のよい時期もあって、何度か上京もした。

福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)
福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)

新聞の扱いは驚くほど小さかった。せいぜい五、六百字程度の記事である。鉄道経営や、住宅、百貨店、舞台興行などへの貢献の大きさには釣り合わない。告別式は一月三十一日、宝塚音楽学校葬として行われた。

弔辞は石橋湛山総理の代理の平井太郎郵政大臣と天津(あまつ)乙女が読んだ。この日、病気療養中の石橋は岸信介外務大臣を総理大臣に指名し、小林の仇敵に宰相への道を開いた。

小林の墓は池田の大広寺にある。応永年間に創設されたこの古刹は、代々池田城主の菩提寺であった。閑静な境内の奥、多竹林に囲まれた一角に、小林と妻コウの墓が建っている。地にほどよく苔がついていて、丹精が絶えていないことが窺える。独創と熱心と緻密により、文化と理念と希望を生み続けた人にふさわしい。

「この世の中に私ぐらゐ幸運な人はあるまいと信じてゐる」(「私から見た私」)と書いた男が、そこに眠っている。

小林の銅像
兵庫県宝塚市、宝塚大劇場前にある小林の銅像(写真=shikabane taro/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

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福田 和也(ふくだ・かずや)
作家
1960(昭和35)年東京生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。同大学院修士課程修了。慶應義塾大学環境情報学部教授。『日本の家郷』『教養としての歴史 日本の近代(上・下)』『人間の器量』『死ぬことを学ぶ』『昭和天皇』『〈新版〉総理の値打ち』等、著書多数。

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(作家 福田 和也)

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