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「言いたいことが言えなくなった」水面下で進む"インターネット離れ"本当の理由

プレジデントオンライン / 2021年9月29日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

新型コロナウイルスの世界的な流行は、人々にインターネットの便利さを実感させた。だが、文筆家の御田寺圭さんは「『ネットのつながりは現実の代わりにはならない』という声を聞くことが増えた。原因は“つながりすぎ”ではないか」という――。

■「不安・不満・怒り」が溢れている

「うーん、最近はネット見なくなったなあ。現実の方が自由だから(笑)」

――と、先日一緒に食事をしたとある知人から言われた。

「むかしはネットの方が自由で、現実じゃ言えないことを言いあえるような空間だと思ってたんだけど、最近だと『その話はネットで言うのはまずいから、オフで会ったときに話そう』ってな具合になってきて、もうネットをやってる意味なんかないなと思うようになってきた」

そう語る彼は、ひと昔前までSNSでもそれなりに発信していた、なおかつそれなりのフォロワー数と知名度のある人物だったが、最近では数カ月に1回程度の発信になっていた。

彼にかぎった話ではない。「結局は現実のつながりがどれだけありがたいものなのかわかった」「ネットのつながりは現実のつながりを代替できない」といった声が、ちかごろ私の周囲でどんどん聞こえるようになってきた。皆さんの周囲でもそうではないだろうか。

外で人と対面的に会うことが「望ましくない」「不道徳」「反社会的行為」とされたニュー・ノーマルの時代において、人びとはやむを得ずインターネットやSNSを経由したコミュニケーションを現実社会のそれの代用とした。

だがそこで多くの人は、ネット空間は現実世界のように自由ではなく、すでに「閉塞」が広がっていたことに気づいた。右を見ても左を見ても、だれかの不安や不満や怒りが共鳴してそこら中でぶつかりあい、迂闊なことを言えば容易く炎上して「キャンセル」されてしまうような殺伐とした緊張感が、いまのインターネットには蔓延している。ようするにギスギスしているのである。

■ネット世界に「ローカル」な場所がなくなった

現在のネットには「ローカル」なスペースをつくる余白がほとんどなくなってしまっている。すべては「グローバル」な空間としてシームレスにつながっているからだ。

ありとあらゆる場所がつながりをもって「グローバルな公共空間」になってしまう現在のインターネットの世界は、「この場所、この相手となら、こういうやり取りを気兼ねなくやれるコンテクスト(不文律)がある」という前提をすべて喪失させてしまった。

私たちが「自由」を実感できるのは、どのような場所でも野放図にふるまえるときではなくて、自分の考えや価値観のコンテクストがストレスなく共有される空間や人間関係に身をおいたときだ。だが現在のインターネットやSNSには「自分のコンテクストをストレスなく共有できる余地」がない。だからこそ「自由」を感じられない。圧迫感や閉塞感を感じる。

つねに緊張を強いられ、見ず知らずのだれかの視線に怯えながら、自分の本当に言いたいことや価値観を押し殺して、「グローバル」な規範とコンテクストに沿ったコミュニケーションだけに終始する。いまインターネットに接続していると、ただそこに「接続している」だけでなくて、そうしているうちに自分自身ならではの価値観や考えを抑圧されているような感覚や、それらを剥奪されているような感覚ばかりが蓄積してくる。

■インターネットは「ひとつのグローバル社会」になった

「現実社会以上に自由にふるまえるローカルな場所」を求めて人びとはかつてネットに集まった。実際にインターネットにはたくさんの「ローカル」が担保されていた。ひと昔前に栄えた、無数のトピックごとに分かれた匿名掲示板などはその典型だ。だが、やがてネットは「ソーシャル・ネットワーク」の発明とその発展にともなって「つながりすぎた」がゆえに「ローカル」の余白はどんどん埋め立てられ、ひとつの「グローバル社会」になった。

現実社会以上に他人とのつながりが構築され、他人の言動が可視化され、他人とコミュニケーションできる空間――。それは情報ネットワーク・コミュニケーション技術の進歩や進化の象徴であるとして一時は歓迎されたが、しかし人びとが大切にしていた「不文律」「自分の価値観」がそこでは一切通用しなくなった。人びとは少しずつ閉塞感を覚えるようになっていった。

相変わらず、SNSでは人はさまざまな興味関心について話しているし、自分の意見を表明している。一見すると自由があるように見える。だが実際のところ、人びとは「グローバル」な秩序体系から逸脱しないように細心の注意を払いながら、薄氷を踏む思いを味わいながら自由に意見表明をしているだけだ。

……それを本当に「自由」と呼ぶべきか?

ソーシャルメディアを使う人びとのイメージ
写真=iStock.com/scyther5
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/scyther5

■自由につながりすぎたゆえに、不自由になった

「グローバル」で「ボーダレス」なネット空間で提供される「息苦しい自由」によって、皮肉なことに現実社会のコミュニケーションは相対的に「すばらしいもの」になってしまった。

ネットと違って現実社会のつながりには「ローカル」な余白がいまもなお保存されているからだ。かつては現実社会のローカルを息苦しいと思っていたはずなのに、いまではネットより現実の方が断然に余白があって「自由」なのだ。これほど皮肉なこともない。

現実社会のクローズドなつながりなら「いつもなにかに怒っている人」に見つかって予期せぬトラブルに巻き込まれることもないし、自分の発言ログを掘り起こして「最新の倫理観や価値観ではそのような発言は許されない」と職を失わせようとする人もいない。

ネットは「現実世界にはない自由な地平と自由なつながり」を切り拓いてくれるものとして人びとから期待された。だがその期待はあえなく潰えた。期待したほどの自由がなかったからではない。期待以上に自由につながりすぎたがゆえにだ。

■ネットを使えば使うほど、現実の快適さに気づく

文章にすると本末転倒にしか思えず哀しいが、人びとは「本当の自由」を求めて、ネットから現実に還りつつある。

ウィズ・コロナの時代における「新しい生活様式」によって、人びとは外に出られなくなった。お互いの唾液が飛散するのを恐れて対面のコミュニケーションを忌避するようになった。それにともなってネットの接続時間が長くなった。ネットで出会う人びととのつながりを現実の人間関係の代わりにしようとした。

だが、そうすればするほど「ローカル」な余白のある空間に担保された「同質性」の快適さに気づいてしまった。「グローバル」な規範と秩序によって統合された人間同士が、いかにストレスフルで、不自由で、窮屈で、殺伐としているのかを思い知らされた。

「グローバル」なつながりのなかに身をおくほど、学歴、年収、職業、生活習慣、行動様式、価値観、性格、認知的傾向が整えられている同質的な人びととの「ローカル」なコミュニティの快適性と優位性が強調されていった。「グローバル」な秩序や規範と地続きでない隔絶された場所に身をおくことで、ようやく自分らしくいられる実感と安心を得たのだ。

一筆書きで描かれた談笑する人びとのイラスト
写真=iStock.com/Tetiana Garkusha
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Tetiana Garkusha

■「グローバルでボーダレスなひとつのムラ」が奪うもの 

冒頭で述べたとおり、いま「ネットが息苦しい、現実の人間関係の方が落ち着く」という人が相次いで現れている。皆さんの周りも――あるいは皆さん自身も――そうかもしれない。それは気のせいではない。

インターネットはかつてのように「ローカル」のコンテクストが近しい者同士が小さく集まる場所ではなく、すべての人を「グローバルでボーダレスなひとつのムラ」に押し込めるものとなってしまったからだ。

現実社会で持っていたそれぞれの「ローカル」なコンテクストやカルチャーや価値観や行動様式や思想信条は、「グローバルでボーダレスなひとつのムラ」では厳しく検閲を受けてしばしば制約される。制約されるくらいならまだましだ。それによってときに激しい社会的制裁を受けることすらある。

「グローバルでボーダレスなひとつのムラ」への統合事業はきわめて急速かつ暴力的なものだ。それぞれが現実世界で大切にしてきた「ローカルなコンテクストや価値観」こそが、自分が「自分らしさ」を感じるなによりの縁(よすが)であるのにもかかわらず、それらを無理やり剥奪していく。

■「全体主義社会」の疑似体験をしているようだ

端的にいえば、今日のネットの息苦しさは、ネットが人びとに対して「全体主義社会がどのようなものか」を疑似的に体験させているからこそ生じている。

現在のインターネットは、全体主義社会がじわじわと浸透する社会での暮らしがどのようなものなのかを体感させてくれるシミュレーションゲームのような状況になりつつある。10年前の私に言ったら信じてもらえないだろうが、これが現実だ。

いま、もはや何回目かも忘れた緊急事態宣言のさなか、街に少しずつ人が戻っている。

それは単に「ニュー・ノーマル」の生活様式へのストレスや反動だけではないかもしれない。「ニュー・ノーマル」の世界で、人びとのコミュニケーションの代替手段となったインターネット。そこで急拡大するグローバルでボーダレスな「ニュー・ワールド・オーダー」への反発や疲れを少なからず含んでいるようにも思える。

「現実はクソ、ネットこそ救い」だった世界は遠くに過ぎ去り「やっぱり現実の方がいいよね」となりつつある。

人びとは、つながりすぎたがゆえに、お互いと手を取り合えなくなった。

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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』を2018年11月に刊行。Twitter:@terrakei07。「白饅頭note」はこちら。

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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)

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