1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「肘が痛いなら、もう頑張らなくてもいい」そんな妻の言葉が国枝慎吾選手を金メダルに導いた

プレジデントオンライン / 2021年9月23日 12時15分

車いすテニス男子シングルス決勝でプレーする国枝慎吾=2021年9月4日、東京・有明テニスの森公園(写真=時事通信フォト)

東京パラ大会の車いすテニス・男子シングルスで国枝慎吾選手が金メダルに輝いた。スポーツライターの本條強さんは「男子世界歴代最多の優勝記録を更新しつづけている。絶対王者と呼ばれるが、パートナーの愛さんの存在なくしてその記録はありえない」という――。

■“魅せるテニス”への恐ろしいほどの重圧

「オレは最強だ!」

国枝慎吾はロッカーの鏡に映っている自分の顔に向かって言い聞かせた。

もうすぐ金メダルを賭けた最後の闘いが始まる。地元東京でのパラリンピック、どんなことがあっても負けるわけにはいかない。

相手はオランダのトム・エフベリンク。37歳となった自分よりも9歳も若く、170kmの超高速サーブを放つ。しかし、怯(ひる)んでなどいられない。日本中に車椅子(いす)テニスの素晴らしさを伝えたい。車椅子テニスプレーヤーになりたいと思って欲しい。そのためにはなんとしても勝つことが必須となる。

「見る人の予想を遥(はる)かに超えるテニスをする。魅せるテニスをすることだ」

いつも考えていることを、この有明テニスセンターという大舞台でやってのけなくてはならない。上手いではなく凄いプレーをする。信じられないスーパーショットを決めてポイントを奪う。そうした健常者テニスに勝るとも劣らない車椅子テニスで金メダルを獲得する。国枝はこの東京パラでそれを実現すると自分自身に誓ってきたのだ。

こう誓いは恐ろしいほどの重圧が心にのしかかる。負けられない闘いであり、勝たなければならない闘い。自分はベテランの域も過ぎた年齢で肘痛も抱えている。2021年の今年はグランドスラム大会のすべてに敗れている。怖れは最高潮まで高まっていたのだ。

■弱いからこそ、強くなれる

しかし、国枝はその怖れを払いのける。それにはこのまじないの言葉を叫ぶしかないのだ。

「オレは最強だ!」

オーストラリアのメンタルトレーナー、アン・クイーンが自分に授けた自信回復法。パラリンピックの選手村に入った時から、毎日毎日、言い続けてきた言葉だ。自分が最強であると自己暗示をかける。この言葉を放った後、勝利を手にしてガッツポーズをしている自分を頭に描く。そこまでを必ず行いきる。

この言葉を放てば弱気を消し去り、強気一本槍になれる。自信が持てる。試合中でもポイントを連続して失ったとき、ラケットに貼り付けた「オレは最強だ!」を見る。フレームの内側にテープに書いて貼り付けた文字に勇気づけられ、力が漲(みなぎ)ってくるのだ。

最強のメンタルを持つ男と言われる国枝だが、本当はとても弱いのだ。弱いからこそ、強くなれる方法を学び編み出してきた。

「オレは最強だ!」

この言葉こそ、国枝の特効薬なのである。

■プレーを支える妻の“愛”

さあ、時間だ。国枝は車椅子に乗り、センターコートに出て行く。手を使わず、車椅子を左右に揺すって前進、一般客はコロナのためには入れないが、唯一許された日本選手たちが国枝を声援する。両手を挙げて日の丸を振る。それに応える国枝。

「観客の声援が聞こえたとき、僕は幸せな男だなと思います。力が湧いてきてきます」

スタンドが満員になり、その前で素晴らしいプレーを見せることを夢見てきたが、今はそれが少数であってもモチベーションとなる。テレビの前では多くの人が応援してくれていると信じているからだ。その中には、会場に入れない愛する妻、愛さんもいる。

愛さんとは大学でテニスサークルが一緒だった。国枝が初めてパラリンピックに参加した04年のアテネ大会で斎田悟司とダブルスを組み、金メダルを獲得したときから交際を始め、11年に結婚した。それ以来、国枝の身の回りをサポートしている。13年に国枝の食生活向上のためにアスリートフードマイスターの資格を取得、健康増進に寄与している。愛さんは毎日自分の作った料理をSNSに公開、スポーツ選手を家族に持つ人たちへ役立ててもらおうともしている。その料理の数々は栄養価も高くバランスよく、しかも大変においしそう。国枝が羨ましい限りだ。

国枝が選手村に入る前夜の献立メインは鯛めしだった。遠征前夜好例のメニュー。大きな切り身が2つ、米と昆布の上に並べられ、ストウブ鍋で炊きあげた一品。見るからに美味そうでよだれが出るほど。愛さんはSNSに書いている。

「定番の鯛めしをお腹いっぱい食べてもらいました! 無観客の開催のため、残念ながら家族も会場には入れません。東京開催が決定してから8年間ずっと楽しみに待ち続けたこの日をそばで応援できないのが正直とても哀しいですが、難しい状況の中で開催していただけることに感謝しています。私は自宅から念を送り続けようと思います」

国枝はたらふく鯛めしを食べた翌日に選手村に入り、その日から「オレは最強だ!」と言い続けた。開会式では選手団団長として160カ国4403人の選手の前で選手宣誓し、「1人ひとりの選手が勇気と覚悟を持って、この世界最高の場で全力を尽くす」と声を響かせた。日本選手団には団長として「言葉ではなく結果を残して選手団によい流れをもたらしたい」と明言。愛さんはテレビでこの宣誓を見て「お疲れ様でした」と夫をねぎらう一方、さぞ誇らしく思ったに違いない。

国枝はコートのベースライン際に車椅子を運び、颯爽とラケットを振る。王者の貫禄を見せながら、エフベリンクと試合前のウォームアップラリーを繰り返した。

■車いすテニスとの出会い

国枝は9歳のときに突然、脊髄腫瘍を患った。腰が痛くなり、調べると、脊髄の癌だった。抗癌剤を打ち、手術する。目が覚めたとき、下半身が動かなくなっていた。

「そのときはずっと車椅子に乗らなければならないとは思いませんでした」

それまでは好きなバスケットに夢中だった。もうみんなと一緒に遊べない。信じ難いことだった。いつか治るものと思った。しかし、そうはならない。ようやく車椅子生活を受け入れられたのが2年後。11歳のときに母の勧めにより吉田記念テニス研修センターで車椅子テニスを始める。車椅子バスケがやりたかったが、近くにチームもスクールもなかったのだ。

「センターに向かう道中は不安ばかりでした。テニスなんかやりたくないとも思っていました。しかし行ってみると、みんな、楽しそうにラリーしている。車いすとかそうでないとか、関係なくなった。やってみたいと思いました。胸が躍りました」

国枝の車椅子テニス人生の始まりである。ラケットを振ってボールを飛ばす。スイートスポットで当たったときの快感に酔いしれた。しかもラリーは相手がいる。一人ぼっちではないのだ。

「それまで障害者と話したことはなかったんです。話すのは健常者ばかり。正直、どう接していいかわからなかった。怖かったと言ってもいい。でもテニスをしたら、自然に話せる。触れ合うことができるんです。車椅子テニスの魅力です。はまりました」

だから、国枝は車椅子テニスの魅力を多くの人に伝えたいと思っている。自分と同じ障害を持つなら、車椅子テニスに興味を抱いてもらいたい。やりたいと思って欲しい。それには自分が勝ち続けること。世界の舞台で活躍することだと信じている。

車椅子でテニス
写真=iStock.com/GiovanniSeabra
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GiovanniSeabra

■世界を目指す国枝、理想を託したコーチ

国枝はすぐに頭角を現す。運動神経がずば抜けている。車椅子をくるくる動かすことなどお茶の子さいさい。チェアワークがいいから、楽に打球に追いつける。当然、上手くボールを打てるというわけだ。

「車椅子テニスを始めて1年目の中学1年のとき、ある試合で1回戦負けを喫したんです。それが悔しくて悔しくて、それから練習への取り組み方が変わりました。負けはしたけど、試合って面白いなって。楽しいから、勝ちたいに変わった。目覚めたんですね。僕は根っから勝負が好きなんだと思います」

楽しいだけで十分という人もいるだろう。それはそれで素晴らしいスポーツ人生である。ただし、そういう人は競技には向かない。試合で勝ちたい人が競技者になって行くのだ。国枝はまさに生まれながらの競技者である。

試合で成績を収めるようになり、麗澤高校1年のときに海外遠征を経験する。そのときに当時車椅子テニスの第一人者だったリッキー・モーリエのプレーを見る。素晴らしいテニスに感激、自分も世界を目指したいと思うのだ。

こうして車椅子テニスのコーチとして頭角を現してきた丸山弘道の指導を受けることになる。そのとき、国枝は17歳。丸山は「君は世界のトップに行ける。格好いいテニスでスターになろう」と国枝に言った。車椅子テニスをいかに健常者テニスに近づけられるか、それが指導者としての丸山のテーマだった。その理想を国枝に託した。

■日本一から、世界一へ

この日から世界を目指しての特訓が始まる。車椅子テニスはワンバウンドでなく、ツーバウンドまで返球が許される。しかし、ワンバウンドで返球できれば相手は返球までの時間が短くなる。有利に展開でき、エースも奪える。よってワンバウンドでの返球が義務化される。健常者のテニスである。国枝は抜群のチェアワークとスピードでそれを実現する。車椅子テニスとは思えないテンポの速いテニスだ

麗澤大学に進学した03年、国枝はとうとう日本一となる。NEC全日本選抜車いすテニス選手権男子シングルスで、これまでの王者、斎田悟司を破って初優勝を遂げる。

しかもその斎田とダブルスを組み、翌04年のアテネパラリンピックで金メダルを獲得するのだ。世界の檜舞台に立った。

「ダブルスで頂点に立ったと言っても、シングルスではまだまだ世界のレベルに全然達していなかった。シングルスでも活躍したい。もっともっと強くなりたい。そう思いました」

そのためにはワンバウンドといえどもボールが跳ね上がった時を打つライジングボールが打てなければならない。さらに速い動きでボールに近づき打ち返す。難しい技術だった。さらに、バックハンドでトップスピンをかけてダウンザラインにエースを放てなければならなかった。

■北京五輪で念願の金メダル、プロへ

「トップスピンのダウンザラインをマスターしなければ勝利はない」

丸山は国枝に檄を飛ばした。「1つの技術をマスターするには3万球打たなければならないというデータがある」と丸山は言う。実際に打った球数を数えながら練習した。国枝のノートに残り1万5000球と書かれているページがある。途方もない球数を国枝は打ち、トップスピンのダウンザラインをマスターしたのだ。

この技術を得るとともに国枝の勝利は圧倒的に増えた。06年10月にシングルスの世界ランキング1位となり、07年に当時の車椅子テニスのグランドスラムを達成する。世界テニス連盟からこの年の世界チャンピオンに選出されたのだ。

こうして08年に念願のパラ五輪で金メダルを獲得する。北京パラである。

「日本では金メダルがオリンピックでもパラリンピックでも大きく報じられます。北京での金メダルでようやく僕の名前と車椅子テニスが知られるようになった。初めてスタート台に立てた気がします」

国枝は09年、麗澤大学職員を辞して一気にプロに転向する。

「車椅子テニスで生活していけるか。大きな賭けでした。でも、やりたいことがあれば挑戦する。世界には車椅子テニスのプロがたくさんいる。僕もそのひとりになりたかった」

大会の賞金と契約スポンサー料で生計を立てる。足の動かない障害者がスポーツで身を立てる決心をしたのだ。しかしもはや国枝には障害者か健常者かの区別などなかった。ひとりの車椅子テニスのプロプレーヤーだったのだ。

■思いもよらぬ肘の故障

その後も全豪、全仏、全米オープンなどグランドスラム大会を制覇していく。出場すれば優勝という無敵の強さを誇る「絶対王者」と呼ばれる。車椅子テニスのプロプレーヤーとして順風満帆だった。ところが少し陰が落ちたのが12年。ロンドンパランピックの前に肘を痛めた。手術をし、無事に回復、ロンドンパラでは前人未踏のシングルス2連覇を成し遂げた。

全米オープン(車いすテニス)
写真=Robbie Mendelson/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons
全米オープン(車いすテニス)=2009年9月10日 - 写真=Robbie Mendelson/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons

「少しずつよくする積み重ね。1本ずつの積み重ね。それで勝っていった」

さらに勝ち続ける国枝。グランドスラム通算20勝のロジャー・フェデラーが記者から「日本には強い選手がなかなか出ませんが?」という質問に「何を言っているんだ。日本にはシンゴ・クニエダがいるじゃないか」と言い、「僕もできない年間グランドスラムを達成している」と讃えた。エキジビジョンで国枝とフェデラーはペアを組んだことがある。フェデラーは国枝の俊敏な動きに驚き、「車椅子でなくても難しいテニスなのに」と敬意を表した。

2015年も絶好調だった。全豪、全仏、全米オープンを撃破。全豪は8連覇、全仏、全米は2年連続6度目の優勝を飾った。ところが、この全米オープンが終わったとき、再び右肘を痛めた。まったく回復せず、このままでは16年のリオ五輪で3連覇を成し遂げることができない。4月に12年以来2度目となる手術を断行、リハビリを兼ねながらリオの準備を進めた。とはいえ、痛みは消えない。

「負けるくらいなら出ないほうがいいんじゃないか?」

「絶対王者」故に何よりも敗北が怖い。悩み苦しむ中、妻の愛さんが言った。

「やってみれば。なるようになるわよ」

そこには明るい笑みがあった。

車いすのテニス
写真=iStock.com/roibu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/roibu

■「もう引退するしかない」

「その時、思い出したんです。僕のモットーは挑戦だって。ずっと挑戦してきた。挑戦してきたからこそ今の僕がある」

国枝は痛み止めの注射を打ちながらリオ五輪に挑んだ。愛は懸命に国枝を支えた。結果はシングルベスト8ダブルスは銅メダルだった。

「愛がいなければ、出場もしてなかっただろうし、銅メダルもなかった」

マスコミはシングルスで金どころかメダルが取れなかったことが、国枝に大きな挫折感をもたらせたと書いたが、実際はまったく違う。肘の痛みの中で精一杯のテニスができたことに感謝していたのだ。問題はそのあとである。リオパラが終わっても肘の痛みが消えず、あらゆる治療を施すものの一向に改善しなかった。国枝の主治医は休養を勧めた。

「一度目の手術のときは手術後に痛みは消え、すぐにテニスができ、ツアーにも復帰できた。しかし、2度目は違った。痛みが消えず、休む以外の方法がなかった。これで治らなかったら?」

不安は真っ黒な雲のように覆い被さった。そうして休息後4カ月が経った日。国枝は再びコートに立った。ボールを打つと、右肘にひどい痛みが走った。激痛に顔が歪む。筆者も経験があるが、普段は何でもないのに、ボールを打つと電流が走る。涙が出るほどの激痛である。

国枝は思わず妻に電話する。

「肘が痛い。もう引退するしかない」

愛さんは立ち尽くした。言葉が出なかった。2度目の手術の跡、肘痛が治らず、夫は心が折れた。しかし、「引退」の二文字を口にすることはなかったのだ。自分の頭の中も白くなった。

■妻が発した意外な言葉

「休み明けの初日の練習で痛みが出て、ショックだったのね」

自宅に戻る道すがら、何と言って励まそうか考える。しかし、言葉は見つからない。絶望している人間にどう言葉をかけたらいいものか。

とにかく自分まで暗くなってはいけない。とはいえ、明るくしても行けない。普段通り接しよう。それこそが絶望の淵にいる人間への接し方である。

国枝は後になって笑いながら言う。

「どん底の私に妻は何と言ったと思いますか? これまで十分にやってきたのだから、そのときはそのときよ。もう頑張らなくてもいいんじゃない」

「引退するしかない」といった夫に対して、あえて引退を勧めるような言葉。夫婦でなければ言えない台詞。心底愛している人にしか言えない台詞である。

国枝は言う。

「頑張って、といわれなくて、本当によかった。すーっと気持ちが楽になった」

これまで強気一辺倒の発言をしてきた国枝が、結婚して家庭を持ち、弱音を吐ける場所ができた。強気の発言は弱気の裏返しでもある。いつもいつも狼の皮を被ってはいられない。どん底の自分を受け止めてくれる妻がいることに、感謝しても仕切れない。

国枝は妻の支えの基に再び立ち上がった。また一歩ずつ、頑張り始めることができたのである。

ベイエリアを歩くビジネスウーマン
写真=iStock.com/monzenmachi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/monzenmachi

■「やるだけのことはやろう」

「肘が痛くても命はある。僕は一度死んだ人間です。脊髄の癌を患ってそれでも生かしてもらっている。車椅子テニスと出会って喜びに満ちた人生を送らせてもらった。そんな人間が怖がっていても仕方ない。やるだけのことはやろうと決めました」

テニスでの引退はテニスでの死を覚悟したようなもの。ならば、なんでもできる。

国枝はストロークを改善しようと考えた。もはや手術で解消できるものではなくなっただけに、肘痛は消えなくともテニスのできる打法を会得しようとしたのだ。そのために国枝はまず肘痛の原因となるストロークの問題点を探した。

右肘を痛めたのは、国枝の伝家の宝刀であるバックハンドストロークがもたらしたものだ。ダウンザラインにエースを決めるには、ネットを超えてから急激に落下するトップスピンで打つことが不可欠。トップスピンはラケットの面でボールを擦り上げる技。それだけに肘への負担が大きい。国枝は擦り上げる量を減らすだけでなく、多くのトップ選手のバックハンドを調べ上げ、肘への負担が少なく、しかもダウンザラインにエースを決められる打法を研究した。自分に最適な新打法を見つけ出し、その習得に当たったのだ。

「グリップから変えました。手や腕の使い方、体の動かし方、球をとらえるテンポやリズムなどすべて一から変えました。よって、当初はネットも超えなかった。初心者と同じです」

国枝は毎日毎日ひたすら球打ちを行った。新しい打法が身につくまで、肘痛と付き合いながら基礎練習を繰り返した。しばらくして試合にも出始めるが、かつてのように勝利することができない。

「焦らない。我慢我慢と言い聞かせ続けました」

世界ランクは1位から10位まで滑り落ちた。17年はグランドスラム大会を一度も制すことなく終えた。世間はこのときに初めて国枝の引退を囁き出す。

「不思議なものですよね。本人はまったく引退するつもりがなくなってから言われる。こっちはまだまだ進化できると思っているのに」

テニスラケットとボール
写真=iStock.com/luckyraccoon
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/luckyraccoon

■新打法で復活、世界一への返り咲き

国枝の肉体は過去最高に強くなっていた。ボールが打てなくなったときに上半身を鍛え上げたからだ。妻の愛が栄養満点の食事を提供するから体調も万全。世界一のチェアワークはさらに進化している。手を使わなくとも自由自在に車椅子を動かせる。

やってみればわかるが、素人では体を振って斜めに動かせたとしても、元に戻すことは至難の業。右に左に自由自在に動かせることなどありえない。グランドスラム20勝のノバク・ジョコビッチでさえ「車椅子でのあの動きはアメージングと言うほかない」と国枝を絶賛している。

新打法を手に入れ、動きにキレが増した国枝は、17年末には復活の手応えを掴んでいた。

18年1月、国枝は全豪オープンで復活優勝を遂げる。さらに6月の全仏オープンも復活優勝し、世界ランク1位に返り咲いたのである。

妻の愛は言う。

「彼から『引退』の言葉を聞いたときから、グランドスラムやパラリンピックなど、最高の舞台でプレーできる時間はそう長くないなと実感しました。ですから、それからは常に一緒にいて彼をサポートしようと決めたんです。再び全豪と全仏に勝ったときは、ついていった甲斐があったと思いました」

19年はグランドスラム大会の優勝はなかったが、自己最多の年間9勝を挙げた。そして翌20年は全豪オープン10勝目を挙げ、その後新型コロナでツアーが中断したものの、再開した全米オープンを制した。その間には心の底から目標としていた東京パラリンピックの延期があった。

「東京パラリンピックは13年の夏、全米オープンの決勝の前夜に20年に開催されることを知りました。あまりに興奮して夜も眠れず、翌日はへろへろで負けてしまいましたが、その時からその日を夢見てきました。それだけにコロナでの延期はショックでした」

それは一心同体の愛さんも一緒だった。しかし2人の願いは翌21年に叶えられる。開催か中止かと世論が揺れる中、2人の気持ちも大きく揺れたことだろう。しかし、開催の願いは成就された。あとは勝つだけである。

■東京パラリンピック直前の動揺

1年延期となった2020東京パラリンピック。この1年で変わってしまったのは世の中だけではない。世界1位の国枝がグランドスラムに勝てなくなってしまったことだ。1月、10年連続で優勝してきた全豪オープンに準決勝で敗れる。6月全仏オープンは決勝で負け、7月の全英は準々決勝で敗退してしまうのだ。はっきり言って黄色信号が灯ったと言っていい。

「3月くらいからプレッシャーがかかり始めて、全仏、全英と優勝できなくてメチャクチャ焦りました」

1年間で若い選手たちが急成長を見せた。サーブが超高速となり、ストロークも鋭く速くなった。車椅子テニスが本格的にパワーテニスに変貌してきたのだ。それに比べ、肘を痛めている国枝はサーブもストロークもパワーが乏しい。そこで、戦術に長けている岩見亮を新たにコーチとして招聘して、配球の巧みさでポイントを奪えるようにした。また、車椅子の座席を高くして、高くバウンドするパワフルなトップスピンに対抗できるように改良した。さらにボレー、スマッシュというネットプレーに磨きをかけた。

ロジャー・フェデラーが国枝に言っていた。

「最高のディフェンスはネットに出ること。たとえ失敗しても怯まない。『大丈夫、また、トライしよう』と思うこと。そうしてポイントを積み重ねる。車椅子テニスならば絶対にネットプレーが有利」

その理由は、車椅子テニスはいくら速く動けると言っても限界があり、ネットプレーを決めることができれば絶対に追いつけない、ということがあるからだ。

「東京パラは絶対に勝ちたい。勝って、車椅子テニスの面白さや素晴らしさを多くの人に伝えたい。その絶好機になるからです」

しかし、それでも不安は残った。肘痛によって編み出した新打法のバックハンドが思うように決まらなかったからだ。打ち方を試行錯誤する日々。

「勝つよりも負けたほうがいいと最近思うようになったんです。負けるとどうして負けたのかを考える。そこで気付くことがたくさんあるんです。それがモチベーションになる。練習に打ち込めるんです」

さらにこんなことまで言った。

「負けた数が、自分を成長させる数」

こうしてとうとう、開幕1週間前にバックハンドに光がさした。ようやくフォームが固まったのだ。

■世界一のチェアワーク

2020東京パラリンピックは有明テニスセンターで始まった。シングルス、シードの国枝は2回戦から出場し、1セットも落とさずに決勝に進んだ。準々決勝はライバルのステファン・ウデを第1セットこそタイブレークとしたが2セットで下し、準決勝はウインブルドンで苦杯をなめたゴードン・リードをしっかりと破ることができた。

決勝はオランダのトム・エフベリンク。時速170kmの高速サーブが武器の28歳。伸び盛りで勢いがある。この21年の全豪と全仏を制覇したアルフィー・ヒューエットを準決勝で破っている。

国枝はまずエフベリンクの高速サーブを封じ込める作戦に出る。

「サービスリターンは僕の得意技。バックハンドが固まってからは、フェア、バックどちらでも返球できる」

最初のポイント。国枝はきっちりリターンし、しかもネットに出た。フェデラーの教えをしっかり実行した。

「今日の俺はネットに出て攻撃する」

その意志をはっきりとエフベリンクに伝えたのだ。

このゲームこそエフベリンクにブレイクされたものの、その次のゲームから連続8ゲームを連取した。エフベリンクのスピン量の多いフォアハンドを車椅子の高い座席でしっかりと受け止め、逆に打ち込んだ。相手の高速サーブは確実にリターン、ミスはほとんどしなかった。世界一のチェアワークでバースライン内側からライジングを叩きつけた。ネットに前進、相手が苦し紛れに上げるロブをドライブボレーでエースを奪った。この日のために準備してきたことがすべて実行できた。

第1セットを6-1で圧倒すると、第2セットも国枝のペース。余裕を持った試合運びで、強い球と緩い球を織り交ぜた巧みな配球術でエフベリンクを翻弄する。ゲームカウント5-2でマッチポイントが訪れる。エフベリンクは何度か凌ぐ(しの)が、国枝は焦らない。百獣の王ライオンがじっくりと獲物を料理して食べるように、ゲームを味わう。最後は苦労してものにしたバックハンドをお見舞い、エフベリンクの得意のフォアはネットにかかった。

■「もう一生分泣きました」

その瞬間から涙が溢れ出る国枝。大きな日の丸を背に広げるものの、すぐに旗で顔を覆いおいおいと泣きじゃくった。それだけ大きな重圧が肩に掛かっていたのだ。国枝は泣きながら優勝インタビューに答えた。

「勝ったことが信じられない。夢の中にいるよう。マッチポイントの瞬間も勝利の瞬間も覚えていない。コーチやトレーナーの顔は思い出せるのに、最後の瞬間は思い出せない。涙だけが出てきて。もう一生分泣きました。枯れるほど泣きました」

決勝戦のスコアは6-1、6-2。世界最強は自分であることを実証したパラリンピックだった。

「スコアも信じられない。リオが終わったあと、何度も引退しようとした自分が勝つなんて。この大会前は負け続けて、自分を疑う日々だった。眠れない日々が続いたけど、本当にテニスを続けてきてよかった。妻がいなかったらとっくにやめていた。感謝したい。妻は会場に来られなかったけど、家に戻って喜び合いたい」

その頃、愛さんも大泣きだったろう。遂に2人の夢が叶ったのだから。

彼女は優勝した翌日のSNSで次のように綴っている。

「本当にかっこよかった お疲れさまでした 間違いなく人生で一番幸せな日でした! リオが終わったあの時はこんな日が来るなんて想像出来なかったです。あれから5年、本当に本当によく頑張りました 夫はまもなくスタートする全米オープンに出場のため先程ニューヨークへ発ちました。金メダルはとっても輝いてました」

昨晩の夕食はもちろん、国枝の大好物、鯛めしだった。

----------

本條 強(ほんじょう・つよし)
『書斎のゴルフ』元編集長、スポーツライター
1956年東京生まれ。スポーツライター。武蔵丘短期大学客員教授。1998年に創刊した『書斎のゴルフ』で編集長を務める(2020年に休刊)。倉本昌弘、岡本綾子などの名選手や、有名コーチたちとの親交が深い。著書に『中部銀次郎 ゴルフの要諦』(日経ビジネス人文庫)、『トップアマだけが知っているゴルフ上達の本当のところ』(日経プレミアシリーズ)、訳書に『ゴルフレッスンの神様 ハーヴィー・ペニックのレッド・ブック』(日経ビジネス人文庫)など多数。

----------

(『書斎のゴルフ』元編集長、スポーツライター 本條 強)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください