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子供に「です」「ます」を使う日本人に対して、韓国人が違和感を持つワケ

プレジデントオンライン / 2021年9月29日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Marco_Piunti

日本語では大人が子供に「です」や「ます」などの丁寧語を使うのは普通だ。一方、韓国語にはそうした表現はない。韓国人作家のシンシアリーさんは「韓国語にも敬語はあるが、『敬』の適用範囲や方向性が違う。日本語の『敬』は多元的で、広範囲で、双方向的だが、韓国語の『敬』は、二元論的で、範囲も限られ、一方通行だ」という——。

※本稿は、シンシアリー『日本語の行間』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

■韓国では大人が子供に「貴方」と言うことはない

二〇一九年の夏、京都の伏見稲荷大社に、ご祈祷を受けるために訪れたときのことです。

韓国人がご祈祷を受けに来るのは珍しいようで、神楽の場所に移動する前、神職の方が声をかけてくれました。普通に「日本はどうですか」「日本語お上手ですね」などの会話で、当時話題(?)だった輸出管理厳格化の話もちょっとだけあったりしましたが、その際に私が驚いたのは、普通の人ならともかく、神職の方が、神様のことを「お稲荷さん」と言っていたことです。お~さんですから尊敬語表現ではありますが、神様に「様」を付けないなんて。

日本語では自分側の人を紹介するとき、お父さんを父というなど、謙譲な表現を使うのはわかっていました。韓国語にはない敬語表現です。でも、まさか、神職の方が神様を「様」と呼ばないなんて、これは本当に凄いことだな、と思わずにはいられませんでした。人に適用する敬語法の概念が、神様にも適用されているんだな、と。

とにかく、韓国のイエス尊待法の観点からすると、天罰ものかもしれません。

日本の「敬語の世界」でまた驚かされるのは、大人が子供に対し、丁寧語などを使うことです。そこがまた、韓国語には訳せない部分でもあります。日本語では、先生が生徒に、親が子に、「です」や「ます」を付けたり、お前ではなく「貴方」と言ったりしても、それは日常の中に自然な形で存在する日本語です。特別な場合だけではありません。別記なしで、普通に社会構成員たちの間で「これは問題ない表現だ」という感覚が共有されています。

日常生活の中で使われるこれらの日本語は、同じく日常の韓国では信じられないほど、幅広い相手に「敬」を与えます。ですから韓国語には、そのまま訳すことができません。いや、訳そのものはできるけど、出来上がった韓国語文章が、表現として不自然すぎます。

「日本ではこんなシチュエーションでも敬語を使います」という説明でも付けないと、訳として落第点になります。それらのシチュエーションで、韓国語では尊敬語も丁寧語も使いません。使う理由がありません。

■『AKIRA』のあのセリフは「様をつけろよ」になる

同じ流れで、もう一つ、個人的に「日本語の韓国語訳に困った経験」を紹介しますと、韓国語には日本語の「さん」がない点です。日本では、同じクラスでも、そんなに親しくない間では敬語を使うことありますよね。「~さん」を付けたりします。そういうのも、韓国語への直訳は不可能です。韓国語に「氏」はかろうじて尊称の意味を保っていますが、「さん」にあたいする言葉はありません。「さん」が日本の敬語システムが持つ重要さを考えると、これもまた、意外なことです。

個人的に、日本語の「さん」は、「氏」よりもっと「やさしい敬称」だと理解しています。アニメ映画『AKIRA』で「さんをつけろよ」というセリフがありますが、あれの韓国語訳はどうなるのか、ご存じですか?

シチュエーションからして、「様をつけろよ」になります。「氏」は、韓国でも尊称ではありますが、他人を見下すときに使うことが増えて、敬称として使うにはあまりにも微妙です。『AKIRA』のシチュエーションで「氏をつけろよ」という訳は、不自然すぎます。いずれ、韓国語の一般的な敬称は、「呼び捨て」と「様」の二択になるでしょう。

■「バカ」(韓国語のバボ)の字が付く攻撃的な表現比較

日本の映画・アニメなどでは、もの凄く怒った人が、相手に「このバカヤロウ」と言うシーンがあります。でも、これもまた韓国語に訳すのはなかなか難しいです。意味がちゃんと伝わらないからです。

韓国人の訳者からすると、「あんなに怒っているのに、なんでひどいことを言わないの?」がまず疑問です。「バカヤロウでも日本では結構ひどい言葉ですよ」というと、韓国人は「えっ? それってバボニョソック(バカ奴)の意味だろう? それがどうした?」と不思議な顔をします。さすがに本稿では詳しくは書けませんが、韓国語には、特に相手の親や下半身などに関する、ひどい単語がいろいろあります。

一例として「バカ」(韓国語のバボ)の字が付く攻撃的な表現を比べてみると、日本語では「バカな男という意味の表現」として相手本人をバカにするのが一般的です。しかし、韓国語では、主に「バボセッキ(バカ+その息子という意味の侮蔑表現)」とし、その親をバカにするのが一般的です。親に侮蔑を向けることで、蔑の強度を高め、範囲を広げるのです。

このように、日本語と韓国語の「敬」は、適用範囲も、方向性も違います。日本語の「敬」は多元的で、広範囲で、双方向的です。韓国語は、二元論的で、範囲も限られ、一方通行です。

■韓国語の敬語で作られるのは「尊」ではなく「下」

日本語は、敬なる語……言わば尊待が基本で、それ以外は使う場面が限られます。すなわち日本語は、メインの「尊」のためにサブの「尊ではないもの」が存在します。韓国語は、その逆です。この差があるから、日本語と韓国語が敬語法により作り出す「敬」の範囲は、全然違います。

日本語のほうが、遥かに広い、敬で満ちた空間を作ります。韓国語にも日本語にも敬語はあります。どちらにも、尊待と下待、またはそれに準ずる概念や表現はあります。しかし、それぞれの言語の使用によって社会に作られる「空間」は、韓国語の場合は「下」、日本語の場合は「尊」です。

言葉は、空間を作ります。私は、いままで書いてきた尊や下、敬などの概念、及びそれが社会構成員たちによって共有されるプロセスも、言語体系と文化の相互作用によって作られた、その文化圏特有の空間の一種だと思っています。

直接耳には届かないニュアンスや裏の意味、強いて言うならその言語体系の「行間」が、その空間を作ります。それは、文法や単語の表面的意味だけでは作られない巨大で抜かりのない空間です。

■言葉が作る「空間」は精神を支配する

相手からひどい言葉を耳にしながら育った世代は、当然のように、そのひどい言葉を口にするようになります。それがどんどん広がって、社会レベルまで広がってしまうと、「そんなひどい言葉を使ってはいけません」と指摘する人がどんどん少なくなっていきます。下手をすると、「使ってはいけません」と指摘する人のほうが、「皆は使っているのになぜ使うなと言うのか。あなたは『ひどい』人だ」と言われるでしょう。

その空間の力は、想像を超えます。人の善悪の基準すらもひっくり返せる力が、込められています。単に単語の羅列からは想像もできない様々な効果を及ぼし、その空間の中の人々の精神を支配します。その空間に支配されている領域の人たちが、その空間から抜け出すのは、なかなか大変です。

さらに、大人たちによって決められたその空間の中で生まれ育った子どもたちは、その空間が「実は歪められたもの」という事実にすら気づくのが難しいでしょう。その空間にいる時間が長ければ長いほど、抜け出すのは難しくなります。他の国に引っ越しても、自分で歪みに気づかないかぎり、その呪縛から解き放たれるとは限りません。

■韓国生活の長い外国人が抱く疑問

韓国で暮らすようになった外国人は、ほぼ間違いなくこう言います。「韓国語って、本当に敬語が発達していますね」、と。それもそのはずで、例えば飲む(drink)はお父さんが飲もうが子供が飲もうが、神が飲もうが悪魔が飲もうがdrinkです。「お飲みになる」「飲まれる」「召し上がる」のような言葉はありません。

日本語もそうですが、韓国語の敬語は、それらをしっかり区別します。こうした敬語表現になれていない外国人からすると、たしかにカルチャー・ショックものです。

英語にも聖書の訳や神への祈りの際に使う特別な言葉、例えば日本語訳だと「汝」になるthouやtheeなどの言葉がありますが、まず日常で使うものではありません。日本で「なんじ」って友だちに時間を聞くとき以外は使わないでしょう。そんな感じです。

韓国語を学び始めた外国人、韓国で暮らし始めた外国人の方々も、最初は驚きます。韓国語には相手へ「敬」を示すために、独立した単語があるのか、これは本当に素晴らしいことだ、さすがは儒教の国、礼儀の国だ、と。

しかし、韓国生活が長くなると、外国人は韓国語についてある疑問を抱くようになります。「敬語がこんなに発達しているのに、なんで私にジョンテッマル(尊待語、尊敬語)を使う人はいないのか」。

■英語は単語だけで見ると敬語がないように見えるが…

もちろん、本人の社会的立場にもよるでしょうけど、実生活で、韓国語の尊待語は、彼ら外国人が相手する人、例えばお客様に使うものであり、相手から尊待語を使われることはそうないからです。これでは、敬語が発達していても「私」とは関係ないじゃないか、ただのカスタマーサービスじゃないか、と。日本側のネットでもよく言われる「韓国語って、尊敬語も尊称もちゃんとあるのに、なんでこんなに相手を侮辱する言葉が多いのか。なんでこんなにいちいち上から目線なのか」という指摘も、同じ趣旨のものです。

そして、外国人の方々は、やがて気づきます。むしろ英語のほうが、韓国語より幅広く敬語表現を使っていることに。英語は、単語だけで見ると敬語がないように見えますが、言語の特徴を単語だけで語るべきではありません。英語には、「敬」にあたいする表現がたくさんあります。

有名なのがCan you ~またはCould you ~で、日本語に直訳すると「~していただけたらと思いますが~」になります。単語だけだと「おまえ、できるか」と、昔のアニメで宇宙人が話すギコチナイ地球語のようにしかなりませんが、使い方一つで、その意味には十分な「敬」のニュアンスが生まれます。

もちろんシチュエーションと話す人の態度がもっとも大きな判断要因でしょうけど、基本的に、Can(Could)you 〜は立派な敬語表現です。canに「できる」と「できます」の区別はありません。youにも「おまえ」と「貴方」の区別はありません。単語そのものだけで敬語表現が成立するわけではありません。でも、文章としてCan(Could)you 〜にすると、それは立派な敬語になります。

■敬語は「主従」ではなく「優しさ」の表現方法

「そういうものは敬語的な表現であり、敬語ではないのでは?」と反論することもできます。

しかし、私はこう思っています。「敬語がない言語でも、敬を示すための使い方はいくらでも出来る。敬語がたくさんあっても、敬を示そうとしない言語の敬語システムは、いずれ崩壊する」。

前者のほうが、ずっと心地の良い会話ができるのは、言うまでもないでしょう。敬語は「主従」ではありません。敬語は、「優しさ」です。実際に使わなければ、意味がありません。使うからといって減るものでもありません。その優しさもまた、社会を包み込み、その空間を相応の感覚で満たします。その空間で育った人は、いつのまにか優しさの言葉を口にします。

手をつないでいる人たち
写真=iStock.com/taa22
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/taa22

■外国人労働者が嘆く「敬語を使わない韓国人」

外国人労働者への差別とか、そういう問題もあるでしょう。暴言を浴びせられることもあるでしょう。韓国語には「ヨク(辱)」といって、低俗で攻撃的な言葉が非常に発達しています。そういうヨクにやられた経験があると、韓国語が好きになるなんて不可能でしょう。

でも、本稿で述べたいのは、そういう極端な場面ではありません。もっと一般的な会話でのことです。少し、経験談を紹介します。

私が大学生だった頃、学校の近くにあったコンビニで働いていた、ある東南アジアの外国人労働者の方は、いつも自分自身のことを「トライ(バカ)」と言っていました。周りからしょっちゅうそう呼ばれるので、そういうことにした、と言います。「はい、私はバカです」と言うと、まわりの皆が喜ぶというのです。

彼は、「韓国ドラマを見ると、本当に敬語が多い。私も、韓国人に敬語いっぱい使う。でも、なぜ私に敬語を使う韓国人はいないのだろう。きっと、私がバカだからだよ」と話していました。それがきっかけで、似たような事例をネットで探してみましたが、その結果、思ったより大勢の外国人が、同じ疑問を抱いていることがわかりました。

外国人、社会的にあまり高い地位ではない、韓国社会で「いわゆる外国人労働者」としてひとくくりにされている人たちの場合、特にそうです。「私の国の言葉は韓国語ほど敬語がいろいろあるわけではないものの、『敬』としての表現を受けることはできた。しかし、韓国にはあんなに多くの敬語があるのに、韓国に来てから『敬』の表現を受けたことがほとんどない。これはどうしてなのか」。

彼らとて、最初のうち、韓国語を単語単位でやっと覚えようとしていた頃は、韓国語の敬語の多さに驚きます。でも、韓国生活に慣れて、文章としての韓国語と、そのニュアンスが分かるようになればなるほど、「敬」は見出せなくなってしまうのです。

■韓国語の敬語システムが作る善悪二元論の空間

それからまたしばらく経って、まだ韓国で携帯ではネットが出来なかった頃、ミニブログのような形で短い日記や雑記を書くネットコミュニティーが人気でした。そこに、ある外国人が書いた「韓国に来てヨクをいっぱい学んでしまった。もう私も、少し怒るだけですぐヨクを吐き出してしまう。私は悪い人(demon)だ。自分が怖い」というつぶやきは、いまでも忘れることができません。彼はきっと、「空間」の中で同化されてしまったのでしょう。

シンシアリー『日本語の行間』(扶桑社新書)
シンシアリー『日本語の行間』(扶桑社新書)

このように、「敬語」の存在意味がおかしくなりつつある韓国社会ですが、その結果として、二つの形で、敬語システムの崩壊が表れています。

「二元論(dualism)」とは、絶対に相容れない二つの領域をもって、世界を見ることです。例えば、社会を「善」と「悪」という対極として二つの原理で説明しようとするのも、二元論です。

さて、善(徳のあるもの)は悪(徳のないもの)より「上」だとする儒教思想の国が、善悪論の二元論に陥ってしまうと、その国の社会にはどんなことが起きるのでしょうか。一つは、「相手から尊待されたくて仕方がない」人の量産。もう一つは、「相手を下待したくて仕方がない」人の量産です。

尊でないものは下だから、「私への尊待」と「他人への下待」が、同じ流れとして表われるわけです。二つしかなく、「枠」は上と下しかありません。だから、下でないものは上で、上でないものは下なのです。

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シンシアリー(しんしありー)
著作家
1970年代、韓国生まれ、韓国育ち。歯科医院を休業し、2017年春より日本へ移住。アメリカの行政学者アレイン・アイルランドが1926年に発表した「The New Korea」に書かれた、韓国が声高に叫ぶ「人類史上最悪の植民地支配」とはおよそかけ離れた日韓併合の真実を世に知らしめるために始めた、韓国の反日思想への皮肉を綴った日記「シンシアリーのブログ」は1日10万PVを超え、日本人に愛読されている。著書に『韓国人による恥韓論』、『なぜ日本の「ご飯」は美味しいのか』、『人を楽にしてくれる国・日本』(以上、扶桑社新書)、『朴槿恵と亡国の民』、『今、韓国で起こっていること』(以上、扶桑社)など。

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(著作家 シンシアリー)

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