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「笑顔より苦しんだ顔ばかりが浮かぶ」自宅で母親を看取った次女がいまでも後悔していること

プレジデントオンライン / 2021年9月24日 11時15分

死の10日前。鈴子さんと知賀子さんがふれあった様子。

2017年3月11日15時58分、白血病という病名も、余命も知らされないまま、伊藤鈴子さんは自宅で亡くなった。84歳だった。次女の知賀子さんは「家で過ごした日々は、良いことも悪いことも強く記憶に残っている」と話す。死に向かう過程は壮絶で、家族は悲しい姿を目にすることもある。あなたは大切な人を看取る時、“徐々に衰えていく姿”を受け止められるだろうか——。(第3回)

■訪問医も、訪問看護師も、同居家族も頼りにならない

都内在住の小平知賀子さんは日に日に衰えていく母を、胸を痛めながら見守っていた。ほぼ毎日のように実家に通って身の回りのケアを行ったという。

「お風呂で体を流すたびに背中が小さく、足の筋肉は衰えて細くなっていました。白血病のため、内出血した大きなアザがところどころあって、痛々しかったです」(知賀子さん、以下同)

訪問医も訪問看護師も頼りにならない、母と同居している長男夫婦もよほど助けを求めなければこちらに手を貸さない。そんな中、知賀子さんは鳥取でホスピスケアを行う徳永進医師が著した『わたしだって看取れる』(KKベストセラーズ)を手元に置き、自身を励ましていた。「この本の通りに母の病状が進んでいった」という。

痛みを緩和するため、少量のモルヒネを処方してもらっていたが、死の1カ月前から時折、せん妄(認知機能の障害)が起こった。

「お母さん、お母さん」「お兄ちゃん」「あなた、あなた」

眠りながら、すでに亡くなっている人たちを大きな声で呼び、母本人はドタンバタンと動いている。

かと思えば、急に意識が戻って「なんだかすっごく眠れるんだよね」と、知賀子さんに話しかける。

■「体温は正常なのに、体が氷のように感じられた」

亡くなる10日前のこと。知賀子さんがいつものように部屋をたずねると、母がうっすら目を開けて、「知賀か」と問うた。「そうだよ」と答えると、「お母さん、がんばったけどもう無理だ」と応えたという。

知賀子さんはそんな母に「頑張れ」とは言えず、「大丈夫よ」と繰り返す。

さらに死の6日前、母がしみじみお礼を言った。

「人間、誰もが死ぬ。お前には本当に世話になったなぁ。あの世に行ったらきっちりお返しをするからね」

病名も余命も知らない母が死を受け入れている、と知賀子さんは感じた。

そしてその翌日から母の意識は低下し、普通に会話をすることが難しくなったという。

当時のことを思い出しながら知賀子さんが涙をぬぐう。

「亡くなる一週間前から、母の体がどんどん冷たくなっていくんです。手でさすってもちっとも温かくならない。布団の上に湯たんぽを入れて温めようとすると顔だけが火照ってしまう。体温は正常なのに、日を追うごとに体が氷のように感じられて……生きている人の体温じゃなかった」

■こっそりミカンを食べさせると、少しだけ意識が戻った

長男夫婦は自分たちが認めた食品でなければ母に与えない。知賀子さんは時折目をさます母親に、こっそり望む食品を与えた。自分の指に蜂蜜をつけて吸わせたり、死の4日前は甘酒を飲ませたり。

「母はおいしいって言っていました。亡くなる数日前には『みかんが食べたい』と言うので用意しようとしたら、弟(長男)はまたダメと。でも翌日にこっそり持っていって、みかんをちぎって、母の開いた口にその水分を少しだけふくませました。糖分だからか、母の意識が少しだけしっかりしたようでした。でも、次の瞬間にはせん妄がひどくなって、痛がって、私は添い寝で母の体をさすり続けました」

最後の一週間、知賀子さんは同じ部屋にいる時は「常に母の体に手をあてていた」という。母の手をとり、足をマッサージして、背中をさする。母を抱きしめ、抱きしめられる日々。その時、突然、知賀子さんの胸に感謝が湧き出してきて、こう叫んだ。

「お母さん、ありがとう、ありがとう」

娘として日々を過ごさせてもらったこと、人はこう終わっていくんだよ、と目の前で教えてもらったこと。母はふんふんとうなずいていた。

■「あとわずかな命だときちんと教えてあげたかった」

最後の日となる、2017年3月11日。知賀子さんは「夕方には行く」と約束していた。しかし嫌な予感がして、仕事を放り出して早めに実家に向かっていたところ、連絡をうけた。実家に着いた時には穏やかな死に顔の母がいた。

母(小平鈴子さん)のお葬式。祭壇は母が好きだった紫色の花で飾った。
母(鈴子さん)のお葬式。祭壇は母が好きだった紫色の花で飾った。

「不思議と、亡くなった後のほうが母の手が温かかったんです。その日はしばらく温かかった」

在宅で看取って良かったなと思うことは、母が「自分がいたいと思う場所」にいられて、終われたということ。病院の個室より、家の人の“生活音”があって、変わらない日常の中で寝ていられる。思うように体が動かなくても、それはよかったことだと感じる、という。

それでは「後悔していることはあるか」とたずねると、知賀子さんは「病気を、寿命を、知らせてあげたかった」と話した。

「あとわずかな命だときちんと教えてあげて、そしたらもっと伝えたいこともあったかもしれないと思う」

その気持ちが、私はよくわかる。私の母もがんのため亡くなったが、もう40年以上も前の話だから、がんの告知は一般的でなかった。母にはがんという病名も、余命も知らされていなかったのだ。だが母は、亡くなる一週間前から、当時2歳だった私に対して「ごめんね。ごめんね」と繰り返し謝っていようだ。そんな姿が、祖母の日記に記されている。自分が大人になり、母が亡くなった24歳と同じ時期に子を持ち、ますます母は「余命」を知りたかっただろうと感じた。そうしたらもっと“親子の思い出”をつくることができたかもしれない。

■「長男である弟に任せたい」と常日頃から言っていた

鈴子さんも、自分の体の状態がどんどん悪くなっていることには気づいていた。医師がきて輸血をすると、「今日、こんなことをして……」と知賀子さんに知らせてきて顔色をうかがう。でも知賀子さんは弟(長男)に固く口止めされていたために言えなかった。

小平鈴子さんの白血病が判明しての緊急入院。このときは医師から「帰宅できない」と言われた。
鈴子さんの白血病が判明しての緊急入院。このときは医師から「帰宅できない」と言われた。

「輸血」という処置にも、知賀子さんは迷いがあった。白血病は正常な血液細胞が減少していくため、輸血をすれば、母は「ラクになった」と言う。しかし、「足りないものを入れる」という対症療法であって、輸血によって病が治ることはない。医療の現場では血液不足も指摘されるなか、治る見込みのない高齢の白血病患者である母に、輸血治療を行い続けるのは「延命」にあたるのではないかと悩んだ。

本当のことを説明し、本人の考えを聞きたい。だが、母が重視した「長男の考え」を優先するしかなかった。

「母はさまざまな事案について『長男である弟に任せたい』と常日頃から言っていました。病になっても内心そう思っていることがわかるから、私も姉(長女)も黙るしかない。けれど一方で、本当は母はこういうケアをしてほしかった、というのが娘の私にはわかる。だから母も身の回りのことは、長男夫婦より私に頼ってくる。在宅の進め方としては後悔ばかりですが、それも母が生前に長男長男とかわいがってきたから仕方ないって、自分に言い聞かせているんです」

■4年が経っても、母の笑顔より苦しんだ顔ばかりが浮かぶ

病院の変更も、訪問医の変更も、長男に許可してもらえないため叶わなかった。実は訪問医は、白血病患者を一度も診たことがない、老衰や認知症の患者の看取りばかりやってきた医者だったのだ。それを知ったのは母の死後だった。

「自宅で白血病の緩和ができず、母をラクにさせてあげられませんでした。それでも母にとっては自分が望んだ場所だからよかったんだと思いますが、私にとっては4年経った今も、母の笑顔より苦しんだ顔ばかりが浮かぶんです。病院で看取った人と、自宅で看取った人の違いは『真の苦しみ』を見ているかどうかの差ではないかと思います」

在宅死は「オーダーメイドができる」のが長所でも短所でもある。病気のことも死についても自ら勉強しなければならないが、言い換えれば、すべてを本人や家族が選択できる。本来は訪問医も看護師も、ヘルパーも、納得がいかなければ変えたっていいのだ。

「自分の中で死がすごく現実化した」と知賀子さんは言う。

「身内は父をはじめ突然死の人が多かったから、苦しむ顔も見ていないし、単に“長い間、会っていないだけ”という感覚になってしまいそうになる。それが母を家で看取ったことで、死ぬってこういうことなんだって母に教えられた気がします」

■死を「意識する」ことで、これからの人生を豊かにする

実は知賀子さんは葬儀社を営んでいる。そこで死について語り合う少人数の「デスカフェ」を時折開催してきた。

知賀子さんが母の在宅看取りをスタートしてから初めて開いた「デスカフェ」の模様。
知賀子さんが母の在宅看取りをスタートしてから初めて開いた「デスカフェ」の模様。

2011年ごろから欧米を中心に広まり始めた「デスカフェ」は、現在およそ40カ国で開かれているといわれ、日本でも開催される場が少しずつ増えている。死を忌み嫌って「目を背ける」のではなく、むしろ「意識する」ことでこれからの人生を豊かに生きようという狙いがある。

コロナ発生前の時期、私も知賀子さん主催のデスカフェに参加した。

「死を意識したことがあるか」という問いには参加者からさまざまな声が上がった。

「自分ががんになった時、死にたくないって。生きて子供の成長を見続けたい、と願いました」
「夫が白血病です。長期間、高い治療費を払い続けることに、“命の値段”を考える」
「勤務先の社長が亡くなった時、初めて死を意識しました。息子と二人暮らしだから、もし自分が死んだらどうしようって」

ある女性は、母親が吐血しながら死んでいった様子を皆の前で語り、「私一人で看取ってしまったことが重かった。誰かに話したかった」と涙をぬぐっていた。このように、誰かの死を消化できず、吐き出せる場を求めてくる人もいる。

■「希望の死に場所」を聞くと意見が分かれる

この日の最終テーマは「最後はどう逝きたいか」であった。

「大切な人に『ありがとう』と伝えたい」
「死ぬ直前に『いい人生だった』と思える自分でありたい」

など、周囲への感謝や満足感を大事にする姿勢は多くの人に共通している。一方で、

「家族に迷惑をかけたくないから、緩和ケア病棟や老人ホームで逝きたい」
「やっぱり自宅で過ごしたい」
「自然の中で一人でひっそり」

など、“希望の死に場所”は意見が分かれた。知賀子さんは「他の人の考えを聞きつつ、それぞれが答えを見つけることが大切」と話す。

「最期を過ごす場所」や「残り時間を共に分かち合いたい人」「周囲に遺したい言葉」を突き詰めていくと、満足のいく死に方につながっていくのかもしれない。(続く。第4回は10月7日11時公開予定)

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笹井 恵里子(ささい・えりこ)
ジャーナリスト
1978年生まれ。「サンデー毎日」記者を経て、2018年よりフリーランスに。著書に『週刊文春 老けない最強食』(文藝春秋)、『救急車が来なくなる日 医療崩壊と再生への道』(NHK出版新書)、『室温を2度上げると健康寿命は4歳のびる』(光文社新書)など。新著に、プレジデントオンラインでの人気連載「こんな家に住んでいると人は死にます」に加筆した『潜入・ゴミ屋敷 孤立社会が生む新しい病』(中公新書ラクレ)がある。

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(ジャーナリスト 笹井 恵里子)

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