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「これで世界史は大きく変わった」アレクサンドロス大王を32歳で早逝させた"ある飲み物"

プレジデントオンライン / 2021年10月3日 12時15分

アレクサンドロス大王のモザイク - 写真=Unknown creator/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

古代ギリシアのアレクサンドロス大王は、わずか10年で地中海からインドに至る広大な帝国を築いた。しかし32歳で早逝したため、草創期のローマ共和国とは激突せず、世界史にはローマの名前が残った。なぜ大王は早逝したのか。その原因は“ある飲み物”にあるという――。

※本稿は、ブノワ・フランクバルム著、神田順子/田辺希久子/村上尚子訳『酔っぱらいが変えた世界史』(原書房)の一部を再編集したものです。

■「自分は酒の神の生まれ変わりだ」

これほど不幸な結末になっていなければ、本章は投げられてぐしゃっとつぶれたリンゴの話で終わっていただろう。

時は紀元前三二八年の初め、現サマルカンド州(ウズベキスタン)でのこと。征服した都市を離れるときはいつもそうするように、アレクサンドロスは現地の宮殿で盛大な宴会を開いた。側近たちにとってこの夜は特別なものだった。知事に任命されたクレイトスがそれ以後の遠征からはずされるためだ。

大王の幼なじみ(乳母の弟)であるクレイトスは、この決定に不満をいだき、五〇歳にして大王の不興を買ったのではと恐れている。二二歳年下のアレクサンドロスがクレイトスが死ぬ夢を見て、彼を守るために遠ざけようとしているとは知らなかった。

当時、アレクサンドロスはペルシアを撃破し、エジプトのファラオとなり、いまやインド遠征にとりかかっていた。得意の絶頂にある大王は、側近もふくめだれもが自分にひざまずくことを求めた。

暦の上ではディオニュソスの祝日だったが、自分はこの神の生まれかわりであり、自分を祝うことになるからと祝祭を行なわなかった。謙虚さに欠けるこの態度にクレイトスはいらだち、(大量のワインが供されたことも手伝って)宴会は大荒れとなった。

■酔っぱらい同士の喧嘩は最悪の結末に

不孝者のアレクサンドロスは宴席の人々とともに酩酊し、ほかならぬ父マケドニア王フィリッポス二世をバカにした。軍人として無能だったというのだ。廷臣たちは大王の言うがままに、たしなめもしない。このときの顛末は、モーリス・ドリュオンの『アレクサンドロス大王─ある神の物語(Alexandrele Grandoule Roman d'un dieu)』(Del Duca,1958)に再現されている。

ワインの酔いがまわったクレイトスは怒りを爆発させる。

「フィリッポスは偉大な王、偉大な人物だった。アレクサンドロスにまさるともおとらない、数々の勝利をあげている。フィリッポス王がギリシアを征服しなかったら、いまのわれわれはいないし、アレクサンドロスの名が知られることもなかっただろう。自分をはじめとする人々がいなかったら、大王はハリカルナッソスを占領することも、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)を渡ることもできなかっただろう」と。

そして軽率にも、悲劇作家エウリピデスの有名な一節を引用する。

「血を流して勝利を勝ちとるのは軍隊だが、忌(い)まわしい慣わしによって、戦勝記念碑に記されるのは勝った王の名だけだ。得意の絶頂にある王は臣下を軽んじる。臣下がいなければ、王は何ほどのものでもないのに」。

クレイトスは大王がペルシア人をまねて女装していることも非難する。怒った大王が皿のリンゴをつかんでクレイトスに投げつけると、リンゴはクレイトスの頭にあたった。リンゴを投げつけられたクレイトスは、あいかわらず強情な態度で、ますます怒りをつのらせた。

「あなたは女の乳、わたしの姉の乳で育ったのに、忘れたのか。神どころか一人で立つこともできず、わたしが抱いてやったのに(※1)」。

この言葉の裏には、酔っぱらったアレクサンドロスがたびたびクレイトスに介抱されていたという事情もあった、と思われる。

だが征服者アレクサンドロスに感謝の念はわかず、酔いのほうが上まわった。いきなり護衛の手から槍を奪う。ヘファイスティオン、プトレマイオス、ペルディッカス、レオンナトスら、宴席につらなる側近たちが止めたにもかかわらず、大王はクレイトスを追って宮殿の廊下に飛び出す。

「裏切り者はどこだ」。

クレイトスはまたも主君を挑発した。

「わたしはここにいる、クレイトスはここにいる!」

大王はクレイトスに向かって槍を投げた。とどめの言葉とともに。

「ならばフィリッポス、パルメニオン、アッタロス(いずれも大王が殺害したとされる人々)の後を追え!」

クレイトスは倒れ、絶命した。人をあやめたことの重大さに気づき、酔いは一挙に覚めた。「いやだめだ! こんな恥ずかしいことをした自分に、もはや生きる資格はない!」と悲痛な叫びをあげる。

槍を壁に立てかけ、自分の体を刺しつらぬこうとした。

それから三日のあいだ、なにも食べず、眠らず、体も洗わず……酒をいっさい断った。酒を断ったということは、心の底から後悔したということだ。流血の張本人が、被害者のために盛大な葬儀を行なったのである。

■父母に対する報復行為としてのアルコール摂取

ここまでの物語では、アレクサンドロスには遺伝の影響が色濃くみられる、といってよい。父親は、自分の子どもたちにつねに不満をいだき、トラウマを植えつけてしまうような男だったし、兄には知的障害があった。

そして母は……アレクサンドロスに、おまえはゼウスの子だ、と告げ、父を憎むよう仕向けた。くわえて大王の師だった偉大な哲学者アリストテレスも、ペルシアを滅ぼしてアキレウスの墓をとりもどすよう励ました。

かくて大王は征服にとりつかれた。だがそれだけでなく、アルコールも報復行為の原動力になっていた。「選ばれし者」である大王の遠征軍には、酔いにまかせての暴力がつきものとなった。

なかでももっとも有名なのは、前三三〇年のペルシア帝国の王都ペルセポリスの焼き討ちである。アレクサンドロスさまご一行の乱痴気騒ぎは伝説となった。

遺跡 ペルセポリス のユネスコの世界遺産都市
写真=iStock.com/BornaMir
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BornaMir

なんとペルシア帝国の行政都市スーサでも、前三二五年から三二四年にかけての冬、四二人の兵士が酒飲み競争で命を落としている。優勝したプロマコスは、薄めていないワイン一三リットルを飲み干して死んだ。大王が酒に強いことはよく知られていて、アテナイの喜劇作家メナンドロスも、登場人物の一人に、「君はアレクサンドロス王より飲める」と言わせている。

■自己破滅的な飲み方をする大王の姿

クレイトスの死後、得意の絶頂にあった征服者はますます酒と遊蕩におぼれていく。インドや中央アジアにアヘンをもちこんだのも、アレクサンドロス大王だといわれている。

現実から逃避する大王の姿を、歴史小説家ミシェル・ド・グレースがみごとに描いている(※2)

「当初、アレクサンドロスは自分にはなんでも許される、夜な夜な酔いつぶれ、セックスにおぼれてもいい、と信じていた。その後、中央アジアの高地に遠征すると、不品行は悪の域に達し、自制も節度もきかなくなった。放蕩は自己破滅的なものになった。承知の上で限度を超え、意識を失い、命を落とすことさえいとわなかった。誰彼かまわず命を奪い、男とも女とも、無差別に、精根つきるまで愛しあった。酒に力を借り、放蕩でとことんボロボロになって、永遠の休息にいたることを望んだ。だが酔いから覚めると、倦怠感で立つこともできず、絶望はさらに深まった。その退廃的行動は決して弱気からではなく、一貫して意図したものだった」

■アルコールの影響で、残忍さを増していく

ローマの歴史家クィントゥス・クルティウス・ルフスは著書『アレクサンドロス大王伝』で、すべての原因はペルシア文化にあるとし、

「ペルシア軍の武器には負けなかったが、その悪徳によって倒された」と述べている。

大王の凋落は、じつは前三三一年のバビロンの占領からはじまっていた。“アレックス”はそこで放蕩の味を覚えた。何週間にもわたって、快楽とワインと愛の都にとどまった。

クルティウスによれば、昼夜をわかたぬ宴会ざんまい、常軌を逸した飲酒・夜遊び、そして遊興と高級娼婦の群れに大王はおぼれた。捕虜となった人々に、「外国人から見ると野卑でショッキングな」ペルシア風の歌をうたわせた。

まさにバビロンはその悪名を裏切らなかったといえる。同じくクィントゥス・クルティウスによれば、対価を得られるならば、親や夫が娘や妻を占領軍に売春婦として差し出すこともあった。

卑劣だが計算高いバビロニア人は、宴席の終わりに妻が上半身や下半身をさらすことを許した。わが身を辱めたのは高級娼婦でなく、身分の高い女性や娘たちであり、公衆の面前で自分の体を辱めるのは礼儀にかなうこととされた。

将兵たちはアレクサンドロスを飲んだくれとみなし、陰謀や反乱が頻発するようになる。酒の影響や苦悩が重なり、大王は残忍さを増していく。

前三二四年には「寵臣」であり、幼なじみであり、将軍でもあったヘファイスティオンが死ぬ。プルタルコス『英雄伝』によれば、ヘファイスティオンが高熱を出したため、医師グラウコスが厳しい食事療法を指示した。ところがヘファイスティオンは去勢鷄のロースト一羽分と冷たいワイン一本という食事をとり、数日後に亡くなった。

悲嘆にくれるアレクサンドロスは、すべての音楽を禁止し、軍馬の毛を刈り、地元の町々の城壁を破壊し、コサイア人たちを虐殺。そして哀れなグラウコスを十字架刑に処した。

■死の間際まで飲んでいたワインが遠因

ヘファイスティオンの死後、大王はバビロンに戻り、そこでみずからも死を迎える。大王の死をめぐる古文献の記述はさまざまである。

しかし事件が友人の一人、テッサリア人メディオスの家での大酒宴の後に起こったという点は一致している。また古代ギリシアの歴史家シケリアのディオドロスによると、大王は何杯も飲み干したあと、「強打されたかのような激痛に襲われた」という。

プルタルコスによると「一晩中、そして翌日も飲みつづけたあと発熱した」という。その一〇日後、おそらくは前三二三年の六月一三日、アレクサンドロスは亡くなった。大王の留守をあずかり、マケドニア本国の摂政をつとめていたアンティパテロスが、ワインに毒を盛ったとの説もある。

ワイングラスで乾杯
写真=iStock.com/Instants
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Instants

法医学者で古病理学者でもあるフィリップ・シャルリエは、乱れた生活や異国への遠征の結果、複数の寄生虫による「多寄生虫症」をわずらっていたと考える。

二〇一七年に発表された研究では(※3)、長年の不節制が急激に悪化したと分析している。「宴会が多く、大量のアルコールを摂取し、徹夜も多かった。(…)体には大きな負担がかかっていた。現在の基準でいえば、危険な食習慣や生活習慣をもっていたといえる。こうしたハビトゥス(個人の生活習慣)が、二週間にわたる発熱の遠因になっていたと思われる。(…)征服者の人生だから当然のことだ。もしわたしが病院のカンファレンスで、アレクサンドロスの症例を説明するとしたら、『若い男性、三二歳、長距離移動が多く、生活習慣が不規則、慢性的アルコール依存、多寄生虫症』と言うだろう」。

では昔から根強い、てんかん説は? フィリップ・シャルリエは、「完全なアルコール漬けというより、そう言ったほうが穏当で体裁がよいだけ」と切ってすてる。

また、バクトリア王女ロクサネやペルシア王女スタテイラ(ダリウス王の娘)など、この放蕩者が愛人にした女性たちをとおして性病にかかっていた可能性もある。あるいは最愛のヘファイスティオンをあげるまでもなく、男性の恋人からの感染もありうる。

■もし32歳という若さで亡くなっていなかったら

こうして酒豪アレクサンドロス大王は、ローマとの真っ向勝負にいたる前に死んでしまった。東西の文化を融合させようとした彼は、後継者も息子もなく去った。

死の床で相続人の指名はなかった。「だれが統治するのか」との問いに対する答えは、「あなた方のなかで最強の者」だった。

その結果、将軍たちのあいだで戦争が起き、大王が残した帝国はあっというまに分裂していった。大王が三二歳という若さで死んでいなかったら、どうなっていただろうか。

アラビア半島に進攻しようとしていたことは確かだ。東の次は西に興味をもっただろうことも想像にかたくない。地中海、カルタゴ、スペイン、シチリアは約束されたようなものだった。

アレキサンダー大王直下
写真=iStock.com/PeterHermesFurian
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeterHermesFurian

草創期にあったローマ共和国は、この強大なライバルの前では繁栄を築けなかっただろう。幸運なことに、ローマが第一次マケドニア戦争を戦うのはずっと後(前二一二─二〇五年)のことである。この間に国力をつけたローマは、この戦争に勝利する。

ブノワ・フランクバルム『酔っぱらいが変えた世界史』(原書房)
ブノワ・フランクバルム著、神田順子/田辺希久子/村上尚子訳『酔っぱらいが変えた世界史』(原書房)

つまりアルコールのおかげで、現代のわれわれはギリシア語を話したり、ギリシアの地酒ウーゾを飲んだり、大勢の神さまを拝んだりせずにすんだのだ。だから大王が残した偉大な遺産よりも、彼の酒臭い影響でその後の世界がどう変わったかを詮索せずにいられない。

たとえば大王の東征以後、中央アジアで東西貿易を担うようになるソグド人がワイン製造技術を中国に伝え、中国では「酒后吐真言(本音は酒で明らかになる)」ということわざが生まれる。現在、中国ではワインをレモネードやソーダで割って飲むことが多い。アレクサンドロスが生きていたら、どれほど嘆いたことだろう。

〈原注〉
※1 Alexandre le Grand ou le roman d’un dieu. Maurice Druon. Del Duca. 1958.
※2 Les mystères d’Alexandre le Grand. Michel de Grèce, Stéphane Allix. Flammarion. 2014.
※3 Hors-série Pour la science n°96.

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ブノワ・フランクバルム ジャーナリスト
1997年に「ラ・プロヴァンス」紙でデビュー。2000年、パリ実践ジャーナリズム学院で学位を取得。2004年からはさまざまな雑誌を活躍の舞台としている。

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(ジャーナリスト ブノワ・フランクバルム)

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