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なぜ「強盗慶太」とまで呼ばれたのか…東急創業者・五島慶太のすさまじい経営手腕

プレジデントオンライン / 2021年10月17日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mizoula

東急グループの創業者である五島慶太には、「強盗慶太」という禍々しい仇名がある。なぜそのように呼ばれたのか。作家の福田和也さんは「五島慶太は次々と企業買収を進め、猛烈な勢いで事業を拡大した。その苛烈な経営手腕にふさわしい仇名だった」という――。

※本稿は、福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)の一部を再編集したものです。

■「強盗慶太」が苦学して東大法学部に入るまで

財界人、政治家で仇名をつけられるようになれば、本物で通るらしい。

高橋是清の「ダルマ」などは、その温容も含めて至極めでたいものだけれど、なかには強烈というより不吉な響きを含んでいるものもある。

「強盗慶太」という禍々しい仇名を背負っているのが、五島慶太だ。

五島は、明治十五年四月十八日、信州上田から十キロほど離れた長野県小県郡青木村の、小林菊右衛門の次男として生まれた。

兄はおとなしかったが、自分は乱暴者だった、と慶太は言っている。

青木村の小学校を経て、上田中学に通った。毎日、三里の道のりを歩き、一日も休まず通学したという。中学を出た後、上級学校へ入りたいという希望は止むことがなく、小学校の代用教員をしながら、学費を貯めた。

東京の高等師範学校に生徒の募集があり、合格し、入学を果たした。師範学校の校長は、嘉納治五郎。講話は、いつも「なあに、このくらいのこと」と腹をきめる「なあに」精神一本槍だった。

卒業して、四日市の市立商業学校に、英語の教員として赴任した。学校は校長を筆頭に教員から事務員まで覇気がなく、ともに仕事をする気になれない。

次の年の四月、慶太は商業学校を辞め、東大法学部本科に入学した。入学はしたものの、たちまち学費の支払いができなくなり、仕方なく嘉納の門を叩いた。

「なあに」精神の先生ならなんとかしてくれるだろう、と思ったのである。嘉納は、民法学者の富井政章男爵の子息の家庭教師の仕事を斡旋(あっせん)してくれた。子息がめでたく第二高等学校に合格したので、慶太は男爵から加藤高明を紹介してもらい、高明の息子、厚太郎の住み込みの家庭教師になった。加藤家は待遇がよく、慶太は小遣いをもらい、浅草十二階下で、女郎を買った。

■「松の枝がみな首つり用に見えて仕方がなかった」

二十九歳で、東大法科を卒業。四年遅れたわけだが、同期は錚々たる顔ぶれ――重光葵、芦田均、石坂泰三、正力松太郎、河上弘一――だった。

文官試験に合格し、加藤の周旋で農商務省に入ったが、山本権兵衛内閣が緊縮政策を推進したため仕事らしい仕事がなく、鉄道大臣の床次竹二郎の周旋で、鉄道院に入った。鉄道院に入る直前、古市公威――内務省土木局長、枢密顧問官――の媒酌で、久米民之助の長女五島万千代と結婚した。

五島は久米の母方の姓で、万千代との結婚は、五島家を再興するという含みがあった。原敬内閣が成立すると、五島は高等官七等という身分になった。七等は役所では、課長心得という身分であるが、この「心得」が、五島には気に入らなかった。稟議書に「課長心得」と書いてあると、五島は、そのたび「課長心得」の「心得」の二字を消して上に回したという。何度も「心得」を消していると、さすがに上司が気づいて「心得」を抹消してくれた。

人生というのは面白いもので、「心得」騒動を伝えきいた人が、五島を武蔵電気鉄道の経営者に推薦した。ところが、鉄道経営についての先達である小林一三は、五島にこうアドバイスをした。

「荏原電鉄をさきに建設して、渋沢栄一さんの田園都市計画を実施して、四十五万坪の土地を売ってしまいなさい。土地がうまく売れたら、その金で武蔵電鉄をやればいいではないか」

阪急電鉄を経営し、沿線を住宅地として分譲し、ターミナルに百貨店を設置した稀代の事業家のアドバイスに、五島は、素直に従った。

しかし、現実は厳しかった。昭和初年の大不況では、しばしば自殺の誘惑にかられたという。

「十万円の借金をするのに保険会社に軒並み頭を下げて回り、みな断わられて小雨の降る日比谷公園を渋沢秀雄君とションボリ歩いたこともあった。松の枝がみな首つり用に見えて仕方がなかった。しかし今にして思えば、すべて信念と忍耐力の問題であった」(『私の履歴書 経済人1』)

この苦境から、五島は「予算即決算主義」に開眼したという。

■「電鉄王国」東急コンツェルンを形成してゆく

昭和九年十月、東京市長選挙に際して、選挙資金を五島が経営する目蒲電鉄が出したという投書があり、五島は市ヶ谷刑務所に収監され、半年間をそこで過ごした。

「この六カ月間の獄中生活の苦悩は、おそらく経験者でなければその心境を推察することは不可能であろう。私はこのときが人間として最低生活であった。/だが、こういうときこそ人間の日ごろの訓練とか修養とかがハッキリ出てくるものである。胆力もあり、肚もすわった人間でなかったら、あるいは悶死するようになるかもしれない。その点では私は宗教的信念をもっていた。抜くべからざる自信である。それが物をいってくると、私はむしろ健康もよくなり、ふとったくらいである」(同前)

昭和十四年の目蒲電鉄、東横電鉄の合併を手初めに、五島慶太はつぎつぎと鉄道会社の合併を進めていった。

十四年十月、一般株主への報告として、合併が極めて合理的なものであるという趣旨の報告書を提出している。

「支那事変が第三段階の南支にまで進展するに及びまして、金融、経済その他国内百般の制度に対する統制は一段と強化せられて参りました。(中略)しかしながら、両社はよくこの時艱(じかん)に耐えて、目黒蒲田電鉄は一割の配当を継続し、東京横浜電鉄は一分増の九分配当をなし得るの好成績を収めることが出来ましたのは、まことに御同慶に堪えざるところであります」(『五島慶太』羽間乙彦)

厳しい統制が敷かれていたこの時代に、一割の配当ができたのは、やはり五島の経営手腕の冴えによるものと言わざるをえまい。

五島は、その後も鉄道経営を拡大していった。昭和十六年九月に小田急の社長になり、同年十一月には京浜鉄道の社長、十九年五月に京王電軌の社長になっている。京王電軌は、最後まで合併に反対した。社長である井上篤太郎が、頑強に抵抗したのである。

東急東横店
写真=時事通信フォト
2019年12月3日、東急東横店(東京都渋谷区) - 写真=時事通信フォト

代々木八幡の井上の屋敷に、当時常務だった大川博は日参し、ついに合併を承諾させた。五島は運輸通信大臣だったが、わざわざ井上を訪れて、礼を述べたという。

内務官僚の唐沢俊樹は当時をこう回想している。イギリスでは、とっくの昔にロンドンの私鉄を三社に統合してしまった。東京もそうしようというので、交通事業調整法という法律を設けて、東京郊外の私鉄を三社に整理する方針をたてた。

五島は自分の領分を整理したけれど、残った二方面を担当した社は、一向にやらないのだ……。東急の存在感は抜きんでており、同業他社に嫉視されるのも無理はない状況であった。そして、その隆盛を誇り、はばかることがなかった。

「『大東急』は、バス、百貨店、田園都市業などの諸事業を兼営する膨大な電鉄会社であったが、そればかりでなく、この間においては静岡鉄道、江ノ島電鉄、神中鉄道、相模鉄道、箱根登山鉄道、バス、トラック、タクシー等数多くの会社を設立、あるいは買収し、傍系会社又は子会社などその数は八十数社に及んで、さながら一大『電鉄王国』東急コンツェルンを形成しておったのである」(『七十年の人生』五島慶太)

■東条英機内閣下の運輸大臣としての評価

昭和十八年十一月六日、五島の次男である進は、輸送指揮官として任務遂行中、機銃掃射を受けて戦死した。

「私も寝ておるとき、周りの者の顔付で予感はしておったものの、矢張り真実を伝えられた時にはがっかりした。進は体格から性質から、何から何まで非常に私に似ておって、私としても進に生き甲斐を感じておったくらいだったから、つい思わず涙を流してしまった。その時は全く人生というものに対して虚無的になっていたようである。仏教美術館でも建てて、自分の持っている古写経、仏像、絵画などを収めて、そこの番人でもして余生を送ろうかとさえ思った」(同前)

昭和十九年二月、五島は、東條内閣の運輸通信大臣になった。後年、東條首相について、五島はこう語っている。

東条英機
五島を大臣に抜擢した東条英機(写真=Fumeinab sakuseir-shau h/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

「東條という人は、とにかく単純でね。稚気、愛すべきもんです。やることは一生懸命で、裏がない。『木造船で橋をかけろ』というくらいで……。それから、鉄のない時分だもんですから、『木か竹でレールをつくれ』とかね」(『五島慶太』)

宮中に伺候したところ、石渡荘太郎と、内田信也が来ていた。三人揃って、親任式が行われた。東條内閣で書記官長を務めた星野直樹は、「閣僚」としての五島を高く買っている。

「閣議においては、余計なことは一つもいわず、必要な発言だけに止まった。また、政治的な動きは一切しなかった。戦局、ますます不利となったときも、東條首相の努力に無言の支持を与え、十九年夏、ついに首相が辞職を決定したときは、静かにこれに賛成、自分もそのまま官職を去って、再び本来の鉄道業に帰っていかれた」(同前)

昭和二十二年八月、五島は、運輸通信大臣就任その他の理由で、公職追放処分を受けた。追放解除に至るまで、五島は思う存分、茶を愉しんだ。

■公職追放が解けた五島が始めた意外な事業

つゆ晴れて見上げる窓の広さかな

二十六年八月六日、追放処分を解除された五島はこの一句を詠んだ。六十九歳であった。

早速、時事新報のインタビューに応じている。

「敗戦の結果として日本は四つの島に八千万の人口を抱えてやっていかねばならぬことになった。これではとてもやってゆけないなどという者が多いが、私はそうは思わないネ。/自由貿易が理想的に実行されるなら、領土などは問題ではない。その土地が誰のものか――なんていうことは問題じゃないではないか。考えてみたまえ。十九世紀から二十世紀初頭までは英国はあの小さな本国だけの領土で、商業によって世界を圧倒することが出来たではないか。国民の素質がよくてその国民が勤勉に努力しさえすれば領土など狭くても決して心配はない」(同前)

公職追放が解除された後、五島が最初に取り組んだのは映画だった。戦時中、娯楽に飢えていた国民大衆にとって映画は福音といってもいいほどの魅力があったのだ。

戦前から、五島は渋谷、宮益坂のニュース映画館を手始めに、五反田の工場跡地に劇場を建てるなど、都内に六つほど映画館をもっていたが、いずれも小規模なもので、すべて空襲で焼かれてしまった。

戦後すぐ、昭和二十一年一月、五島は東横百貨店の三階、四階に、映画館と小劇場を六つオープンさせた。客はひっきりなしに訪れ、連日満員という盛況だった。

「他人が作った物を上映しているだけではつまらない」

二十四年、五島は映画配給会社の東京映画配給(現東映)を設立した。いかにも五島らしい、発想だ。映画制作に乗り出すにあたって、五島は得意の手を使った。日活と松竹がもっていた大映の株を取得したのである。

渋谷東映
1953年渋谷駅前にオープンした「渋谷東映」。1955年撮影(写真=キネマ旬報社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

「ラッパ」と呼ばれていた、業界の名物男、大映社長の永田雅一も、五島の軍門に降るしかなかった。太秦の大映第二撮影所が東急グループの東横映画に貸し出された。東横映画は毎月一本の映画を制作し、大映の配給ルートにのせた。大映は、一六ミリフィルムの地方興行権を東横映画に付与した。五島は、短期間に撮影所、配給ルート、興行権を握ったのである。

■「パラマウント映画」ならぬ「ハラワント映画」と揶揄され

しかし興行は、五島の合理主義が通用する世界ではなかった。片岡千恵蔵の出演作は、かなりヒットしたにもかかわらず、配給価格を抑えられて大きな赤字を出す始末だった。東映は、半年もしないうちに行きづまった。負債総額は十一億にのぼった。

入場税は滞納され、給与は遅配、さらには街の金融機関から八千万円借り入れていた。不渡り寸前の手形が百二十三枚。一枚が不渡りになれば、即座に倒産という状況だ。

業界では東映を「パラマウント映画」をもじって「ハラワント映画」と呼んだ。

五島は、東急電鉄の専務の大川博を呼んだ。大川は中央大学法学部から鉄道院(鉄道省の前身)に入り、五島の知遇を得て、東急に入社し、五島の腹心になった人物である。

「この苦境を凌ぐには、君の手腕をもってしかない。東映の社長をやってくれ」

大川は固辞したが、五島は許さなかった。五島は撮影所のスタッフを前に演説した。

「このぐらいの赤字は、船一艘を沈めたと思えばたいしたことではない。みんなは一所懸命になって働いてくれ。この撮影所が天下一になるまでは、五島慶太、再びこの門をくぐらないであろう」(『東急外史』)

撮影所の海千山千の古強者が、どよめいた。マキノ光雄――「映画の父」として知られるマキノ省三の次男――が立った。

「いまは親会社からの借金で生きているが、やがてガッポリ稼いで、最後の借金を返す時には、私が使者に立つ。いまに二頭立ての馬車で金を東急本社に届けてやる」(同前)

五島は住友銀行に融資を申し込んだ。初めて息子の昇を交渉の場に帯同した。住友銀行頭取、鈴木剛は、昇の顔を見ながら言った。

「東映がうまくいかなければ、この借金は孫子の代まで残りますよ……」

住友銀行は、東映に対する個人保証を要求したのである。

五島昇は、こう述懐している。

「東映再建が失敗すれば当然、五島家は破産する。私は借金の大きさに身震いしたが、父はその話を淡々と聞くだけだった。全く動じない父の背中に、『事業家のオニ』を見た思いだった」(『私の履歴書 経済人26』)

■東映を業界トップに押し上げた映画の名前

東映は、時代劇で息を吹き返した。

福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)
福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)

占領中、時代劇は「封建思想を肯定している」として、制作は事実上禁じられていたが、昭和二十六年、講和条約が締結されて、再び制作されるようになった。

東映にとって幸だったのは、大映の永田社長が「活劇よりも芸術映画を撮る」という方針を打ち出したことである。

大映では、溝口健二監督が、『西鶴一代女』、『雨月物語』などでヴェネツィア映画祭などでの国際的な賞を次々と受賞した。永田は興奮したが、長い間、大映を支えてきたスターたち――片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太朗――は、待遇を不満として、東映に移籍してしまった。

昭和二十七年には市川右太衛門の『江戸恋双六』がヒットし、以降、月一本のペースで時代劇が制作されるようになった。京都撮影所制作課長の岡田茂は、こう述懐している。

今井正監督
ひめゆりの塔でブルーリボン賞を受賞した今井正監督(写真=朝日新聞社出版『アサヒカメラ』4月号(1953)より 撮影=秋山庄太郎/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

「苦しい状況の時に一致団結するのが活動屋魂。とにかく皆、よく働いた。早撮りの名人と言われた監督の渡辺邦男にも来てもらってね。彼は十日間で千恵蔵の映画を一本撮ってくれる。これは、助かったな」(『映画百年』)

渡辺は「天皇」と仇名されていた。昭和二十八年一月に、『ひめゆりの塔』が封切られた。

今井正監督、津島恵子、香川京子ら若手女優を起用して、日本映画始まって以来の高い配給収入が得られた。『ひめゆり』のおかげで、東映は借入金を返済し、全国に百七十の専属館、千七百の上映館を持つ、業界トップに躍り出たのだった。

「大川によって東映は救われた。同様の意味で、彼は東急の大恩人である」と、五島としては、最大の賛辞をもって、大川に報いた。

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福田 和也(ふくだ・かずや)
作家
1960(昭和35)年東京生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。同大学院修士課程修了。慶應義塾大学環境情報学部教授。『日本の家郷』『教養としての歴史 日本の近代(上・下)』『人間の器量』『死ぬことを学ぶ』『昭和天皇』『〈新版〉総理の値打ち』等、著書多数。

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(作家 福田 和也)

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