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オウム真理教、工藤会…悪と戦った警察庁長官が銃弾3発を浴びても犯人を憎まないワケ

プレジデントオンライン / 2021年10月14日 11時15分

オウム真理教の元代表松本智津夫死刑囚らの刑執行を報じる号外=2018年7月6日、東京都港区 - 写真=時事通信フォト

1994~1997年に警察庁長官を務めた國松孝次さんは、暴力団対策法を制定したほか、オウム真理教事件で指揮を執るなど重大犯罪に携わってきた。在任中は狙撃されて全治1年6カ月の重傷を負ったが、犯人を憎んではいないという。その訳を、ノンフィクション作家の野地秩嘉さんが聞いた――。

※本稿は、野地秩嘉『警察庁長官 知られざる警察トップの仕事と素顔』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

■市民生活への危険を未然に防ぐ法律を制定

【解説】暴力団対策法
1991年に施行された暴力団対策法の正式名称は「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」。

法律の条文は長い。

「暴力団員の行う暴力的要求行為について必要な規制を行い、及び暴力団の対立抗争等による市民生活に対する危険を防止するために必要な措置を講ずるとともに、暴力団員の活動による被害の予防等に資するための民間の公益的団体の活動を促進する措置等を講ずることにより、市民生活の安全と平穏の確保を図り、もって国民の自由と権利を保護することを目的とする」

この法律は國松孝次が刑事局長だった時に成立したものだ。

國松の警察人生で、世の中にもっとも影響を与えた行政施策でもある。その法律を現場で支持したひとりの刑事がいたが、彼はのちに自殺する。

【國松】刑事局長だった当時、暴力団対策法の制定に携わりました。その時、福岡県警の捜査四課長だった古賀利治君が力になってくれました。思い出の刑事です。

■組員のカップ麺や米まで押収する「ドーベルマン刑事」

【解説】古賀利治
「ドーベルマン刑事」と呼ばれた福岡県警の警察官。

以下、古賀のエピソードを『警察・検察VS.工藤会』「法と経済のジャーナル」(村山治)より引用する。

「暴力団にも冬の時代が来たと思い知らせる。債権取り立てなどで暴力団を利用する者も、共犯とみて逮捕することもある」と〔古賀は〕公言し、微罪でも逮捕し、暴力団事務所で見つけたインスタントラーメンや米などまで「抗争資材」として押収した。刑法以外の法律も適用して徹底的に組員を摘発する手法は「福岡方式」として全国の警察から高い評価を得た。

一方で、手続きより結果を重視するスタイルには当時でも、賛否両論があった。福岡地検時代に古賀氏と交流のあった元検事は「摘発件数は増えたが、無罪も増えた。どうして、乱暴な捜査をするのか古賀さんに尋ねたら、『九州のやくざは、退職警官を襲う。だから現役時代に徹底的に痛めつけて、そういう気が起きないようにするのだ』と話していた」という。

(中略)古賀氏は福岡県警南署長時代の94年12月28日、署長官舎のトイレで首つり自殺した。〔彼ではなく〕同署員が覚せい剤事件に絡んで事件関係者の家宅捜索令状請求に白紙調書を使っていた疑いが強まり、県警が虚偽公文書作成、同行使などの疑いで〔署員を〕捜査していた。古賀氏は「監督者として責任を感じた」という内容の遺書を残していた。(村山治『警察・検察VS.工藤会』「法と経済のジャーナル」)

■「今まで通りでいい」と反対意見も出ていた

なお、工藤会に対して体を張った捜査をしたのは古賀刑事ひとりではない。福岡県警は一丸となった。たとえば事務所の家宅捜索をすると捜査員の妻や子女の写真が広げてあったりした。県警の捜査員たちはそれを見て憤激したのである。

【國松】暴力団対策法を作る時、僕は古賀君に電話して、いろいろ相談をしていたんだ。彼は現場では有名な刑事だったからね。

あの時、現場の刑事たちは「今まで通りでいいじゃないか」とも考えていたようでした。行政法ですから、指定をして、中止命令を出す法律です。現場にとっては事務ばかりが増えてしまうと危惧していたところもあった。

彼らはこう言っていた。

「今まで通り悪いことしたらその場で捕まえればいいじゃないか。中止命令とか、わけのわからんことなんかやらんでいい」

現場の刑事はある意味では保守的ですから、新しいことよりも、これまでのやり方でいきたい、と。実は警察庁のなかからも反対意見が聞こえてきていました。

夜道でサイレンを鳴らしたパトカー
写真=iStock.com/alexey_ds
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/alexey_ds

だが、暴力団が公然と大きな看板を出して、僕らの名刺よりも倍も大きい名刺を持って市民を威嚇しているというのはおかしい。アメリカのマフィアでも事務所を誇示したり、大きな名刺なんか持たないわけです。どう考えてもおかしい、何とかしなければいかん。やっぱり暴力団対策法ってものを作らんといかんじゃないかと思ったのですが、現場の経験が少ないので、どうも、今ひとつ自信がなかった。

■「やくざの額にぺたっと切手を貼るんですよ」

また、反対意見はもうひとつあったのです。暴力団事務所から看板を外してしまうと、マフィアみたいに地下に潜って摘発しにくくなるというものだった。

そこで、ベテラン刑事の福岡の古賀君に電話して相談したところ、「ぜひ作るべきだ」と。

「局長、気にすることありません、ぜひ、やってください。そんなもの、やくざなんて放っておいたって潜りますよ。今はそういう時代なんです。暴力団対策法をやってください。看板かけるようなみっともない真似はやめさせて、暴力団の外見的な勢力を小さくしていく努力をしなければなりません。そうでないと、やくざはいつまでたっても大手を振って歩きますから」

彼は、こうも言っていた。

「局長、やくざの額にぺたっと切手を貼るんですよ。こいつがやくざだとはっきりさせることが非常に大切なんです。暴力団対策法ができたから潜るとかね、それがなかったから潜らないなんてことはありません。早くしないとダメです。特に知能暴力が増えていくから、早めに額に印を貼らないとダメです」

彼はよくわかっていたんだ。僕は優秀な刑事の感覚だなと思ったから、暴力団対策法を作ることに自信を持つことができた。

■遵法精神に欠けると批判されたが…

【國松】彼は暴力団担当としては全国的に知られていた男だった。工藤会と、切った張ったで有名でね。ある時、彼は工藤会の事務所に行って飾ってある提灯(ちょうちん)を「これは抗争資材だ」と全部、持ってきたんだ。

やくざの提灯を勝手に持ってくるなんてのは遵法精神に欠けると批判されたが、確かにその通りではある。しかし、そのくらいの気構えがなければ、やくざと対決なんかできないよ。その後、彼は工藤会に「提灯を取りに来い」って言った。そうしたら、取りに来たっていうからね。

彼は自殺をするんだが、どうだろう。いや、よくわからないが、惜しい。私は今でも彼のご家族と年賀状のやり取りだけはしています。せめてもの供養です。福岡には立派な刑事がいたことをみなさんには覚えておいていただきたい。

工藤会はもうずいぶんと弱体化しました。それは、樋口(樋口眞人、2013~15年、福岡県警本部長)君が彼らしいやり方で工藤会を徹底的に取り締まったからです。樋口君は暴力団の活動を抑止する上で有効だったのが、暴力団対策法の制定だったと言っている。

私の判断の基礎になったのは警察に入ってから受けた教育だった。現場仕事に追われながらも、酒の席では先輩たちから、「役人道」とも言える、後々まで心に残るような話を聴き、それによって、自分の仕事の原理原則についての心構えができていったんじゃないだろうか。

■仕事の流れにあらがって旗を立てること

「警察官たるものは何をするべきなのか」といった青臭い議論は今は誰も言わなくなったね。しかし、繁雑な日常に振り回され、過った判断をしてしまいそうになる時に、支えになったのは仕事の本質に立ち返る書生論だったと僕は思う。

今は警察だけではなくどんな職場であっても、実務重視、目の前の仕事を片付けろとなっている。そして、現場の実情に通じた人が高い評価を受けるようになっている。それはもちろん重要でしょう。それがなければ社会は回っていかない。

しかし、仕事はどんどん流れていくものです。そして、流れについていくだけでは見失うものがある。その流れにあらがって旗を立てることです。

どんなふうに自分の仕事で人の役に立ち、社会を良くしていけるのか。若いうちから青臭い議論をしておくことですよ。警察は青臭い組織でいいと私は思っている。正義とはそういうものじゃないかな。

警察庁長官として私が警察官に訴えたいと思ったのはそういうことで、長官だけが唱えることのできるテーゼみたいなものです。

■過去の経験から着手が遅れたオウム真理教事件

【國松】1994年6月の松本サリン事件までオウム真理教が起こした事件はすべて地方で起きており、捜査の陣容が整いにくかった。また、警察は戦前に宗教団体を弾圧した過去があり、それに対する批判が根強かったのも、オウム真理教事件に着手するのを躊躇(ちゅうちょ)させた一因としてあるかもしれない。

一方で、坂本弁護士一家殺害事件(89年)を調べていた神奈川県警は94年秋には旧上九一色(かみくいしき)村(山梨県)のサティアン(オウム真理教の施設)周辺の残土を調べ、猛毒サリンを生成した残滓(ざんし)を検出していたんです。

95年2月には公証役場事務長監禁致死事件が東京で起こり、警視庁が捜査権を得たことで陣容が整った。オウムの一斉捜査をやろうとしたが、その矢先の3月20日、地下鉄サリン事件が起きてしまった。

霞ヶ関駅のプラットホーム
写真=iStock.com/beest
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/beest

■優秀な医者や技術者はなぜ麻原のいいなりになったのか

警察は一生懸命やったのだが結果的に後手に回ってしまい、被害者と遺族にはほんとに申し訳ないという気持ちを持っています。それはいつまでも変わりません。

上九一色村で彼らを逮捕し、公判を経て、13人が死刑になりました(注)。一連の事件で13人が死刑になったのは、かつてない集団犯罪で、戦後最大の事件と言っていい。

※オウム真理教元代表・麻原彰晃、本名・松本智津夫元死刑囚ら7人は2018年7月6日、ほか6人は26日に刑が執行された。

大学や大学院を出た医者、理工系の技術者が麻原のいいなりになってしまったのは、社会のなかで自分たちが報われない、活躍する場がないと勝手に閉塞感を持っていたようにも感じます。

今後のことを思えば同じような組織犯罪が二度と起こらないようにするのが何より大切でしょう。幹部の証言など裁判記録を精査し、優秀な若者が麻原に洗脳されていったいきさつを明らかにして、対策を立てる。それは警察のやることではないという人もいるかも知らんが、世の中の治安を護(まも)るにはそこまでやらないといけないでしょう。

■背後から撃たれ、全治1年6カ月の重傷を負う

【解説】長官狙撃事件
1995年3月30日、午前8時31分頃、國松が出勤のため荒川区南千住にあった自宅マンションを出たところ、付近で待ち伏せていた男が銃を4回発砲。國松はそのうち3発腹部に受けた。すぐに日本医科大学付属病院高度救急救命センターに搬送され、一命はとりとめたが、全治1年6カ月の重傷を負った。

だが、驚異的な回復力で2カ月半後には公務に復帰している。

男は自転車でJR南千住駅方面に逃走するのが通行人に目撃されている。なお、國松は狙撃されたことに自責の念を持っている。

【國松】朝、出勤するので午前8時半頃にマンションを出たところ、後ろから、4発連続で撃たれたわけです。その後の記憶はなく、病室で意識を取り戻した。私はあの時はもう死を覚悟していましたから、病院の集中治療室に警察庁次長(関口祐弘)を呼んで長官の後任人事を進めるよう頼んだんです。

■誰がやったかを詮索するのは無意味だ

だが、彼から「長官、辞めるなんて言ってる場合じゃありません」と怒られた。

ほんとに医師たちのおかげです。そのため、のちに救急ヘリの仕事に携わることになるのだけれど、九死に一生を得た。

もしあの時、警察庁長官が射殺されていたら、国家の威信にも傷がついた。私の命を救ってくれた先生方は、国を救ってくれたのだと思います。

狙撃事件は時効となりました。未解決で終わったのは残念だ。ただ、時効になった以上、誰がやったかを詮索するのはもう無意味なんです。

オウム真理教の関係者にせよ、犯人を名乗って出てきた男にしても、犯行をうかがわせるものはそれなりにあるのだろうが、どちらとも言えないとしか、僕には話しようがないんだ。

■警察官にとっての「敵」とは個人ではない

——警察庁長官だけが判断し、決裁する仕事ですか?

【國松】そんなものはありません。警察は、組織で仕事をしています。長官の目の前に現れる仕事は、つねに幾人かの判断の積み重ねが付いてきて、それが終わった後のものです。そのなかから何らかの「チョイス」をするのが仕事です。

野地秩嘉『警察庁長官 知られざる警察トップの仕事と素顔』(朝日新書)
野地秩嘉『警察庁長官 知られざる警察トップの仕事と素顔』(朝日新書)

そうした「チョイス」のなかに、その長官の「個性」が出ることはあるかも知れませんね。

長官時代、私が感じていたのは、「相談する人がいない」ということでした。長官が決めれば、それは、警察としての最終判断になる。

最後となると、意外に相談できる人はいないものです。

私が、唯一、相談に行った(もちろん、たまにですが)のは、後藤田さんのところだった。それも「政治家後藤田」ではなく、「先輩後藤田」です。

私はそのことを「おみくじ」を引きに行くと言っていました。

解説
彼は狙撃犯に対する憎しみは持っていない。誰が自分を殺そうとしたかという個人レベルでの話ではないからだ。犯人として撃った個人を特定し、逮捕し、罪に服させるのが警察官としての仕事であり、個人を敵として憎んでいるわけではない。思うに、警察官が感じる「敵」とは個人ではなく、正義に対する大きな脅威ではないだろうか。

そして、彼が長官として幸せだったのはおみくじを引きに行く時の相手が後藤田正晴という名長官だったことだろう。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。noteで「トヨタ物語―ウーブンシティへの道」を連載中(2020年の11月連載分まで無料)

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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