甲子園ではライバルだったのに…斎藤佑樹と田中将大に圧倒的格差が生まれた根本原因
プレジデントオンライン / 2021年10月16日 10時15分
■斎藤佑樹と田中将大の大きな差が生まれたワケ
人生は登山に似ている。どんな山を登るか、それは人ぞれぞれだ。ひとつの人生の中にはいろいろな人生も含まれる。例えば野球人生といったものもある。
斎藤佑樹が野球人生を終える。甲子園の山の頂上を登り、東京六大学の山の天辺(てっぺん)を極めた。その後、プロ野球の高く険しい山を登ろうとしたが、3合目付近で挫折したまま、頂上を見ることなく下山することになった。
田中将大は2年夏の甲子園こそ山の頂きに立ったが、3年夏の甲子園決勝は斎藤と投げ合って惜しくも頂点を極められず、プロに入って日本一の座についた。その後、大リーグという世界最高峰に挑戦、天辺までは到達できなかったが記憶に残る投球を見せた。今年日本球界に戻ってきて、まだ山登りを続けている。
高校時代の2人はほとんど同じ山の頂にいたにもかかわらず、プロ野球での実績には大きな差が付いてしまった。お互いプロである以上、その差はプロとしての境遇と年俸で見るのが正しい。今シーズン、斎藤の年俸は推定で1250万円、日本ハムの2軍暮らしで一度も1軍のマウンドを踏めなかった。一方の田中は推定年俸9億円、楽天イーグルスの1軍で相応の働きを見せた。年俸でいえば、田中は斎藤の72人分の価値があるということになる。
これほどの差が生じたのは一体何が原因だったのだろうか。
■わずかな差しかなかった“夏の甲子園”
今から15年前の2006年夏の全国高校選手権大会。決勝戦は斎藤佑樹率いる早稲田実業高校と田中将大率いる駒沢大学附属苫小牧高校となった。斎藤は初回から投げ、田中は3回途中から投げ、1対1のまま延長15回まで両者譲らず、引き分け再試合となった。
再試合は9回に駒大苫小牧が1点差まで詰め寄るが、斎藤が最後のバッターとなった田中将大を空振り三振に仕留め、4対3で早実が悲願の初優勝を遂げた。この時点で両投手の差はほんのわずかだったと言っていいだろう。
斎藤は平均135キロの速球を軸にコントロールの良さを持ち味とする頭脳派投手。一方、田中は平均145キロの速球とスライダーを武器とするパワーで抑える肉体派投手。お互いの持ち味を存分に発揮して甲子園の頂点を競ったわけで、どちらも秋に行われるプロ野球ドラフト会議の目玉になるはずだった。ところが、斎藤は事前に早稲田大学進学を宣言、プロ入りしたのは田中だった。
日体大荏原高校から中央大学を経て読売巨人軍に入り、川上巨人V9に代打ホームランなどで活躍し、後に広島、ヤクルトに在籍した萩原康弘氏は言う。
「プロとアマのレベルはまったく違う。百戦錬磨でパワーも技術もある打者を抑えられるとすれば、投手はまず、打者に脅威を与える球をもっていなければならない。当たったら痛い球か、痛くもない球か。高校卒業時点で、田中の球は痛く思え、斎藤の球は痛いと思えない。よって、田中のプロ入りは当然。そして、斎藤の早稲田大学進学も賢明だったと思う」
アマの世界もプロの世界も知り尽くした萩原氏の言葉だけに真実である。田中の球は球速球質とも抜群で重く球威があり、しかも回転良く手元で伸びてホップした。斎藤の球は球速も人並みなら球威も乏しく、プロには打ちやすい球だったということだろう。
■大学野球に革命を起こすほどの人気と実力
しかし、斎藤がプロ野球から引退する今、斎藤が高校卒業と同時にプロ入りしていれば、もっともっと活躍できたのではという声もある。
実際、斎藤は1年春から東京六大学で活躍して早稲田大学を優勝に導き、全日本大学野球選手権でも33年ぶりの優勝を遂げた。秋もリーグ優勝を果たした。2年時は7勝を挙げてリーグ優勝に貢献。3年時はフォームを崩してリーグ優勝を逃すも、最終学年の4年時で復活。秋のリーグ戦は慶応大学と優勝を懸けた最終戦で8回途中までノーヒットノーランの好投を見せ、10対5で早稲田が優勝。神宮球場は興奮のるつぼと化し、「都の西北」が高らかに歌われた。
斎藤は夏の甲子園からハンカチで汗を拭くことから「ハンカチ王子」と呼ばれ、端正なルックスもあって人気沸騰。早稲田大学での活躍により、東京六大学がテレビ放映されるなど、大学野球に革命を起こすほどの人気と実力を誇った。当然、ドラフトでは超目玉、4球団が1位指名。交渉権を得た日本ハムに入団したのである。
斎藤のこの大学時代の大活躍と「ドライチ」でのプロ入りを萩原康弘氏はどう見ているのだろう。萩原氏は斎藤が早稲田にいたときの監督、應武篤良氏とも親交が深い。
「斎藤は大学で力をつけてからプロ入りと考えていたのかもしれない。本人としては大学で実績を上げて随分と成長したと感じていただろう。しかし斎藤の球が高校時代に比べ球威が上がったようには思えなかったし、大学で野球をしているのは高校時代にドラフトにのらなかった選手ばかり。凄(すご)い選手は田中をはじめ、皆プロ入りしている。従って大学で活躍したからといってプロで通用するとは限らない。大学といっても所詮アマチュアの世界。プロとの実力差はかなりある」
そうはいえ、斎藤は4球団から1位指名を受けている。実際に日本ハムが獲得したが、スカウト顧問だった山田正雄は次のように言っている。
「うちとしては斎藤の人気が欲しかった。札幌ドームに本拠地を移したばかりで、北海道のファンをより一層獲得する必要があった。そのためには斎藤のスター性は魅力だった」
実際、斎藤は開幕前のキャンプから大人気。ユニフォームやグッズなどが売れ、その総額は20億円とも言われた。さらに日本ハムという食品会社は料理を作る主婦層に人気が必要。斎藤には女性ファンも多く、斎藤によって野球を知り、日本ハムファンになった女性も多かったのだ。
■プロ入り当初の華々しい活躍
2011年、プロ1年目の斎藤は初先発、打たれながらも勝ち星を得た。シーズン途中で脇腹の故障で戦列を離れたりしたが、最終的に6勝6敗。活躍したとは言いがたいがまずまずの成績だった。
では、2007年に楽天イーグルスに入団した田中将大のプロ1年目はというと、夏には150キロ以上の剛速球も投げ、プロの打者相手にしても三振をどんどん奪う。11勝7敗で新人王を獲得。毒舌の野村克也監督をして「うちのエース」と言わしめた。プロ2年目は9勝を挙げ、3年目は15勝を挙げる。年末の契約更改で年俸は1億8000万円となった。4年目は故障もあり11勝にとどまったが、田中の高額年俸は変わらず、斎藤は大学4年で華々しい成績を残すもアマチュア故に年俸は0である。
それでも斎藤がそのままプロに行かなければ、2人は比べられることはなかっただろう。田中は高卒投手として「怪物」松坂大輔を凌(しの)ぐ勢いでプロ入り4年間を過ごし、斎藤は早稲田大学のエースとして大学日本一にして4年間を過ごした。片やプロとして、片やアマとして、両者とも華々しい活躍を見せた、で終わっていたのだ。
ところが、斎藤は大学を卒業してプロに転向した。2011年、斎藤は田中と同じ土俵に立つことになった。日本ハムとの契約金は1億円だったが、年俸1500万円(推定)。当時の最高額だったが、実力だけでなく人気も加味された額だったろう。
先にも述べたように斎藤はこのプロデビュー年に6勝6敗。一方、田中はこの年、19勝5敗で最多勝利、最優秀防御率、最優秀投手、最多完投など、ダルビッシュを抜くパ・リーグ・ナンバーワンの投手に成長した。
2012年、斎藤は5勝8敗、防御率3.98。田中は10勝4敗、防御率1.87。滅多(めった)に点を取られず奪三振もリーグ最多、12月末の契約更改で3年12億円+出来高払いという破格の投手となった。
斎藤は言っている。
「自分と田中投手との差はとても大きい。しかし、いつかは追いつき、追い抜かしたい」
まだまだライバルだと思っていたのだ。
■プロ転向の落とし穴…大学野球で培った自信が裏目に
しかし、田中は翌2013年、豪腕を振るい続け、開幕から負けなしの24連勝、楽天をパ・リーグ覇者にし、日本シリーズでは巨人を倒して球団初の日本一を成し遂げ、胴上げ投手となった。最多勝、最優秀防御率、勝率第1位など、日本プロ野球最高の投手となったのである。
一方の斎藤は年明けの1月に右肩関節唇損傷で2軍スタート、2軍でも打ち込まれ、数少ない1軍では1勝2敗と惨憺たる成績で終わった。
名将・西本幸雄氏はプロ入りした斎藤を見て「あの投げ方はあかん。右足が突っ立ち、腕も棒のようだ」と直すことを監督やコーチに伝えたとされ、広岡達朗氏も同様の指摘をしている。つまり、今の投げ方では大学では通用しても、プロでは無理。速い球を投げることができず、続ければ肩や肘も痛めるというわけだ。しかし、斎藤はコーチや広岡氏のフォーム改造のアドバイスを拒否したとされる。
「自分には大学4年間でやってきた自信があります」
それは「ハンカチ王子」のプライドであり本心。どんなときも笑顔の斎藤の本当の顔でもあっただろう。
■柔軟に変化を遂げ、勝ちにこだわる田中
楽天を日本一にした田中はオフに大リーグを希望、翌2014年1月、名門ニューヨークヤンキースと総額170億円7年契約という巨額の契約金で移籍した。初登板で初勝利という順調な滑り出しで前半だけで12勝を挙げ、ニューヨーカーを熱狂させたが、7月に右肘靱帯(じんたい)部分断裂で治療とリハビリの日々を送り、勝ち星は1つ増えただけの13だった。
翌2015年も右肘は良くならず、打たれながらも要所を押さえて12勝7敗。その後も右肘は完治することなく、変化球を駆使して抑えるが打ち込まれることも多々あった。2020年の契約満期までに、田中は7年の大リーグ生活で通算78勝46敗。防御率3.74。本来の剛速球は影を潜めたが、さまざまな変化球を覚え、打者の心理を突く投球術で安定した成績を残した。
田中は言う。
「本格派も軟投派もない。要は抑えることができるかどうか。それがチームの信頼を得られることになる。エースの条件と言ってもいい。僕はそれを目指した」
そのことは2021年、8年ぶりに日本球界に戻っても同じだった。楽天での成績こそ4勝7敗だったが、防御率は2.90。打たれない投球を実践することができた。
萩原氏が言う。
「投手は速い球や鋭く落ちる変化球が投げられればいいわけではない。要は点を取られずに抑えることができるか。野球は9人でやるもの。皆で守って点を取られなければ勝てる。つまり、勝てる投手が良い投手。投手の仕事は打者を抑えること」
■「斎藤はプロになってからもアマチュアの選手だった」
斎藤の2021年は前年秋に判明した右肘の靱帯断裂により、ほとんど投げられず、2年連続1軍の登板なしで引退となった。もはや打者を抑える抑えられないといったレベルにも至らなかった。
斎藤は引退表明で次のように言った。
「いろいろな思い出がありますが、一番はファイターズというチームで11年間、最高の仲間とプレーできたことです」
この「最高の仲間と野球ができた」という発言は早稲田大学4年秋のリーグ優勝時にも言っている。しかしこれはプロ選手というより、アマチュア選手の発言だろう。プロであれば仲間と楽しくではなく、仲間からの信頼を得て金を稼ぐことが目的なのだから。
斎藤には己が描く投手としての美学があり、それを全うしたかった選手なのだろう。あくまで高校大学での投球イメージをプロになっても頑(かたく)なに追い求めていた。投球フォームを大きく変えることはなく1軍復帰を願い続けた。一方、田中は勝つことにこだわり、肘を痛めてからは投球術を変えて泥臭く戦った。打者を抑えることに投手生命を懸けてきたから、大投手になれ、今も投手を続けられている。
そうした意味では、田中は心底プロの野球選手であり、斎藤はプロになってからもアマチュアの選手だったといっていい。そこに2人の大きな差が生まれたといえよう。
斎藤の野球人生は終わったが、人生そのものはまだまだ終わっていない。「マーくん、佑ちゃん」と呼び合う2人の人生の山登りは、そう遠くないうちに新たな展開を迎えるだろう。
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『書斎のゴルフ』元編集長、スポーツライター
1956年東京生まれ。スポーツライター。武蔵丘短期大学客員教授。1998年に創刊した『書斎のゴルフ』で編集長を務める(2020年に休刊)。倉本昌弘、岡本綾子などの名選手や、有名コーチたちとの親交が深い。著書に『中部銀次郎 ゴルフの要諦』(日経ビジネス人文庫)、『トップアマだけが知っているゴルフ上達の本当のところ』(日経プレミアシリーズ)、訳書に『ゴルフレッスンの神様 ハーヴィー・ペニックのレッド・ブック』(日経ビジネス人文庫)など多数。
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(『書斎のゴルフ』元編集長、スポーツライター 本條 強)
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